月のない夜




11

 兄と並んで笑う美紀子の姿はやはり美しく、少なくとも表面上はこれ以上はないというくらい幸福そうに見えた。
 冷房の効いた披露宴会場で早くも頭痛を覚えながら、それでも和は兄と美紀子の二人から目を逸らせなかった。美紀子にとっては二度目の結婚ということもあり、身内と兄の会社のごく僅かな人数だけを招いたささやかな式だった。そのことについて母は少なからず不満に思っているようだったが、大勢の人間の中にいると苦痛を感じる和は大仰な式でなくて良かったと思った。一生に何度もないことだからといって派手にしなければならないという決まりはない。
 前で兄の会社の上司らしき中年の男がスピーチをしている。頭痛に気をとられてあまり聞いていなかったが仲人なのかもしれない。昭君は優秀な青年で、云々、と慣れた態度で話しているのが遠い世界の出来事のように思えた。
 兄を見る。彼は白いタキシードを着て始終優しげな微笑を浮かべていた。一瞬、和に向かってふっと目を細めたように見えた。気のせいだったかもしれない。和はすぐに視線を逸らせ、あまり口をつけていなかったビールを一口飲んだ。隣に座った叔父はすでに酔っ払って赤い顔をしている。
 結婚式は苦手だと思う。
 決まりきった手順をただ決められた通り進めていく、その格式ばった堅苦しさに息がつまる。誰もが笑顔で祝いの言葉を述べ、新郎新婦を褒め称え、ひやかして、さもこれからの未来が希望に満ち溢れたものであるかのように装う。滑稽というより悲しかった。大人は誰も本気でそんなこと信じてやしないのに、そんなこと我が身を振り返ればわかるはずなのに、それでも笑顔で祝福する。それを当たり前だと思っていることが、どこか不自然で悲しいと思った。
(幸せになれるのかな……)
 兄は、美紀子はこの結婚で本当に幸せになれるのだろうか。 なれればいいと思った。自分もやはり、他の皆と同じようにそう思い、和は笑った。だから結婚式なんて嫌なんだと。
(頭が痛い)
 この会場は冷房が効きすぎている。目を閉じても止まない頭痛に吐き気がしそうだった。
 手洗いに行く振りで席を立ち、会場を出た。廊下に出るとその温かさにほっとした。そして廊下の隅に置かれてあったソファに腰を下ろしてポケットから煙草を取り出すと、火を点けた。
 そのまましばらくそこで時間を潰した。別に自分ひとりがいなくなっても誰も何とも思わないだろう。何人かは気づくかもしれないが、だからといって探しにきたりもしない。このまま披露宴が終わるまでここにいて、終わったら兄に簡単な挨拶だけして名古屋に帰ろうと思いをめぐらせた。明日はまた仕事だし、長居するわけにはいかない。したくもない。
 幸せそうな顔をした兄の姿を思い出すと、気分がよけい悪くなった。
「……和?」
 不意に聞こえてきた声に驚いて顔を上げると、白い礼服姿の兄がいつの間にか目の前に立っていて、さらに仰天した。
「な、何やってんだよ」
「お前こそどうしたんだ。急にいなくなるから気分でも悪くなったのかと思って心配した。大丈夫なのか?」
「……見たらわかるだろ。煙草吸ってただけ」
「だったらいいんだ」
 何の気負いもない顔で兄が笑った。そのまま和の隣に腰を下ろすと、突然「悪かったな」と言った。
「冷房きついだろ。お前苦手なのにな。もう中に戻らなくていいよ」
「……大丈夫だよ」
 戻るつもりはなかった。けれど面と向かって言われるとそれも悪いような気がして、思わずそう口にすると兄は「無理するな」と笑った。
「そんな楽しいものじゃないしな。何だったら帰ってもいい。明日も仕事だろう? 父さんたちには俺から言っておくから」
「……悪いよ」
「いいんだ。美紀子さんだって怒らないよ」
 兄の口から出た美紀子の名前に心がざわめいた。平気だと思った。もう彼らの姿を見てもまったく平気にしていられると思ったのに、いざ目の前にするとそうではなかったことを思い知らされる。そんなふうに思い切ってしまえるほど、まだ自分は成長してなんかいなかった。
「そんなことより兄貴こそ早く戻れよ。今日の主役が何やってんだ」
「新婦のお色直しのついでに出てきたんだ。一人でいたって寂しいし。まだしばらくかかるから大丈夫だ」
 兄の声も、表情も、いつにも増して静かだと和は感じた。もともと物静かで何を考えているかわからないほど感情を乱さない男だったが、今日の彼はいつもよりさらに落ち着いて見える。
「兄貴……これで本当によかったのか?」
 問いかけたのはわからなかったからだった。兄の静けさが彼の幸福感を表しているのか、それともあきらめなのかが判断がつかなかった。
 けれど兄は笑って和の頭に手を置いただけで、何も答えようとはしなかった。
 しばらくそのまま二人で他愛無い話をして、やがて「そろそろ行くよ」と兄が立ち上がった。
「お前はもう帰れ。中で青い顔してるのは見たくない。今日は来てくれてありがとう。嬉しかった」
 兄の言葉と向けられた笑顔に胸が痛くなった。待ってくれ、そう言いそうになって、慌てて口を噤んだ。引き止めても言える言葉なんて何もない。今更何を言ってもどうしようもない。
 去っていく背中に向かって口の中だけで呟いた。大好きだった、ずっと、ずっと好きだった。
 忘れられるだろうか。わからない。
 どうしようもなく心細い気持ちになって、和は杉田に会いたいと思った。


 ただ早く声を聞きたいという思いだけでかけた電話はスリーコールで繋がった。
 携帯電話だから誰からかかってきたのかわかる。杉田は和の名前を呼んで、「もうこっちに帰ってるのか?」と訊いてきた。
「今駅についたとこ」
 杉田の声を聞いただけで力が抜けるのを感じた。あやふやだった現実感が戻ってくる。そうしたら急に、今が日曜の夕方だということを思い出した。日曜日。当然杉田は家族と一緒だろう。突然かかってきた電話をいったい彼の妻はどう思うだろうと考えたら、冷水を浴びせかけられるような気持ちになった。
「ごめん、ちょっと声聞きたかっただけだから。もう切るよ」
『今から行く』
 突然言われた言葉に驚いた。
「え?」
『お前の部屋に行くよ』
「な、何で? 来なくていいよ。そんなつもり……」
 和が終わりまで言う前に、電話が切れた。和は呆然と携帯電話を見つめたが、どうしていいのかわからなかった。
 どうして杉田が自分のところに来ると言ったのかわからない。そんなに心配させるような声を出してしまったのだろうか。だとしたら自分は最低だと思った。絶対杉田と家族の仲を悪くさせるようなことだけはしないと決めていたのに、自分がしているのは結局こんなことだ。
 このまま帰らないでいようかと思った。扉が閉じていたら杉田はあきらめて帰るかもしれない。そうしたらまだ少しはましかもしれない。
 ああ、でもできない。和はベンチの上で頭を抱えた。
 彼に会いたい。会えるのに、来ると言ってくれたのに、会わずに待ちぼうけさせるなんてできない。そんなことできるわけがない。 何で来るんだよ、と八つ当たりで思った。それでも嬉しいと思っている自分が心底嫌でたまらなかった。


 帰りたいような帰りたくないような自分でも上手く処理できない思いを抱えながらアパートに帰り着き、階段を上って二階に出たとき、自分の部屋の前で壁にもたれかかるようにして立っていた杉田の姿に一瞬、足が止まって声が出なくなった。
 先に声を出したのは杉田のほうだった。彼はふと視線を上げて和に気づくと、「お帰り」と静かな声で言って笑った。
「……ただいま」
 金曜の夜に会った。それからまだたったの二日しか経っていないのに、もっとずっと長い間会わないでいたような気がする。
 一瞬の戸惑いから立ち直り、努めて感情を表さないように杉田のすぐそばまで歩いていくと、和は彼をまっすぐに見つめた。黒いTシャツに色褪せたジーンズ。普段あまり目にできないそうした格好は新鮮で、今すぐにでも手を伸ばして抱きしめたいと思った。実際にこうやって会ってしまうと、彼の家族に悪いとかそういう気持ちは一瞬で吹き飛んだ。
 杉田は和の頭をちょっと抱き寄せるような仕草をした後で、「締め出されたかと思った」と、冗談を言うような口調で言って小さく笑った。
「俺のほうが先に着くなんて思ってなかったからさ。駅に着いたって名古屋駅のことだったのか? 俺、お前が俺に会いたくなくて帰ってこないのかと思った」
「……なんでそんなこと思うんですか」
「だって来るなって言ったからさ」
「それは……だって、杉田さんの奥さんとか、娘さんがいるのに来てくれなんて言えないから……」
「でも俺は最初から来るつもりだったんだよ」
 どこか寂しそうな表情を浮かべた後で、杉田は部屋の扉を開けるように和を促した。たしかにいつまでも外でこんな話をしているわけにもいかないから、鞄から取り出した鍵で扉を開け、部屋の中に入った。
 そして入った途端に後ろから抱きしめられた。
「俺は今日、お前から電話があったら絶対来ようと決めてたよ。だから家族にも出かけるかもしれないって言っておいた」
「杉田さん」
 腹に回された杉田の両手を掴んで強く握る。後ろから抱きしめるのはずるいと思った。自分だって彼のことを抱きしめたいのにこれではできない。キスだってできない。抗議するように杉田の手を叩くと彼の腕の力が弱くなり、その隙に振り返って唇を寄せた。
 玄関先で、靴も脱がずに貪るようなキスをした。夕方になっても少しも下がらない気温の中、密着した互いの熱で身体中が燃えるように熱い。それでも離れようとは思わなかった。それどころかそれ以上の熱さを求めるように身体を寄せ合って長いキスを続けた。
 しばらくして唇が離れると、和は杉田の肩に頭を埋めるようにしてもたれかかった。
「――なんで電話があったら来ようって思ったんですか」
 杉田は子供をあやすようにゆっくりと和の頭を撫でながら、しばらく黙ったままでいた。
「さあ……お前が泣いてるんじゃないかと思ったからかもしれない」
 やがて彼が呟いた言葉に和は驚いて顔を上げた。すぐ近く、少し首を伸ばせば唇が触れそうな距離に彼の顔がある。キスしたいと本能のままに思い、実際にそうしてから、杉田の言葉の意味を考えた。
 どうして杉田は自分が泣いているなどと思ったのだろう。杉田には兄が結婚するから実家に帰るとしか言っていない。たったそれだけなのに、なぜそんなことを思ったのだろう。
「アイスコーヒーでも入れるよ」
 どうしてなのかと杉田に訊くことはなぜかできなかった。かわりに名残惜しさを感じながらも身体を離し、部屋の中に彼を招き入れた。玄関先で抱き合って何度もキスするなんて今まで付き合った誰ともしたことはなかった。それほど性急に相手を求めたことは一度もなかった。
 アイスコーヒーを入れて振り返ると、小さなベッドの上に座って杉田はじっと和のほうを見つめていた。視線が合って戸惑う。唐突にまた、彼としたいと思った。抱き合って彼のすべてを知りたい。キスだけでなく、もっと先のことをしたい。
 テーブルの上にコーヒーを置いて、杉田の身体をそっと抱きしめると、彼も同じように背中に腕を回して抱き寄せてくれた。しかしそのままベッドの上に倒れこみ、唇を重ねると戸惑うような抵抗を感じた。それを無視して舌を絡め、Tシャツの裾から手を差し込んで背中を撫でると急に、彼の手が和の腕を掴み、それ以上の動きを止めさせた。
 いつもこうだ。いつも彼はこれ以上何もさせてくれない。
「杉田さん。セックスしよう」
 泣きそうな思いで言ったのに、杉田は悲しそうな顔をして首を振った。
「駄目だ」
「嫌だ。する。しよう。俺もう我慢できない……」
「長谷川、駄目だよ。やめてくれ」
 どうして駄目なのかわからなかった。はじめは男相手にたたないからかと思った。けれど何度もキスをした後、密着した体から彼が反応しているのがわかってから、なぜ駄目なのか本当にわからなくなった。キスは良くてセックスが駄目な理由がわからない。家族に対する罪悪感が違うのか? けれどどちらも同じだと杉田は言った。嘘をついているようには見えなかった。
「俺、病気なんてない。一年以上誰ともしてない。男同士でするのは初めてだけど、気持ちよくさせてあげるよ。約束する」
「やめろ、そういうことじゃない」
「じゃあどういうことなんだよ。するつもりがないなら何で来たの? 何で俺と一緒にいるの? 好きならセックスしたいって思うの、相手が男でも女でも同じだよ」
 言いながら唇を合わせた。杉田は戸惑いながらも、キスだけなら受け入れてくれる。けれどキスだけではもう駄目だと思った。今日はどうしても彼としたい。来るなと言ったのに来たのは彼のせいだ。 膝で股間を刺激すると、半分たち上がっていた彼のものが反応するのがわかった。
「長谷川」
 焦ったような声を無視して身体を密着させた。自分の反応しているものを押しつけてせがむ。お互いに感じているのにこのまま離れるなんてできない。絶対できない。
「長谷川……!」
「杉田さん、俺、あなたのことが好きだ。ごめん、夢だと思って忘れていいから、一回だけでいいから……」
 どうしてもしたい。
 杉田の顔が痛みを堪えるように歪む。好きなのにどうしてこんな顔ばかりさせてしまうんだろうと思うと悲しくなる。好きな人を幸せにすることさえできず、ただ困らせてばかりで、だからいつもだれとも上手くいかないのかもしれない。
「ごめんなさい、俺のこと嫌わないで……」
 縋りつくように肩に頭を押しつけて、杉田の背中に腕を回した。
 杉田の、長い長いため息が聞こえた。
「長谷川……」
 泣きそうな声だ。そう思った次の瞬間に強く抱きしめられて、身体が反転した。
 ベッドに押し付けられて唇が重なる。杉田の手が和のシャツの裾から滑り込んできて素肌に触れた。もう片方の腕がもどかしげにスラックスのベルトを外す。服を脱がされながら、和は夢を見ているような気持ちになっていた。それくらい杉田がその気になってくれたのが嬉しかった。
「杉田さん」
 夢中になって和も彼の服に手をかけた。すぐにお互いすべて脱ぎさって、裸で抱き合った。かつて一度だけ、ホテルで同じように抱き合ったことがある。けれどそのときはまだ恋人同士ではなくて、戯れにかこつけて擬似セックスをしてみただけだった。
 でも今度は違う。
 互いの身体をすみずみまで探り、いろいろなところにキスをした。時間が経つのも忘れて、お互いを強く求め合った。まるで夢の中にいるように興奮してわけがわからなくなってくる。やがてゆっくりと杉田が自分の中に入ってきたときも、痛みなのか恍惚なのかわからない気持ちで、ただひどく身体が熱いと思いながら息を吐き出して、杉田の背中に腕を回した。
 まるで初めてセックスをしているみたいだと思った。
 それくらい身体がおかしい。相手が男だから? 違う、そうじゃない。
 本当に好きな相手とするセックスは、こんなにも頭がおかしくなる……。
 抱き合ったまま、和は笑った。一回だけで終わりになんてできるわけがないと思った。
「長谷川……」
 杉田の、何かを堪えるような声が胸を締め付けるように響いた。
 和は彼の頭を抱きしめて、「大丈夫だよ」と呟いた。
 彼が泣いているのではないかと思った。だから彼を守りたいと思った。
「大丈夫だよ……杉田さん」


 服を着た後も身体中に残るだるさと離れがたい思いとでしばらく、ベッドに寝転がって抱き合っていた。
 触れるだけのキスを何度もくり返した。深いキスをするとまたその気になってしまうのがお互いにわかっていたからそれはしなかった。いくら家族に言って出てきたとはいっても、家に帰らないわけにはいかない。もうそろそろ杉田を帰さなければいけないのは和もわかっていたが、それでも離れたくないという思いは強く、自分から言い出すことはできそうもなかった。
「長谷川、俺、最近女房と喧嘩しなくなったんだ」
 不意に耳元で杉田がそんなことを言い出して、和は閉じていた目を開ける。
 杉田は目を閉じたまま、静かに落ち着いた声で続けた。
「皮肉だよな。お前とこういうふうに会うようになってから、俺は本当に家族のことを考えてやれるようになった。今までは浮気さえせずにちゃんと働いていれば自分は正しいんだと思ってたよ。全然女房の気持ちを考えてやらなかった。けど、最近になって、ようやく本当に家族を大切にするのがどういうことかわかるようになった……」
 何だろう、何を言っているんだろう、と和は思った。
 杉田の顔は穏やかだ。なのに和の心の中はざわざわ騒いでいる。
「――それ、やっぱり俺とはやめるっていうこと? それを言いたくて、わざわざ会いに来てくれたんですか……?」
 そして最後の思い出にしてくれるつもりで寝たのだろうか。
 そう考えると急にそれが真実であるように思えてきた。
 いつも頑なに拒んでいた杉田が、今日になって自分の気持ちに応えてくれたのはもう最後だと思ったからなのだ。家族と一緒にいる時間にわざわざここへ来てくれたのも、もうこれで終わりにしようと思ったから。
「――嫌だ……」
 和は杉田にすがりついた。
「ごめんなさい、俺、嫌だ……まだ、まだもう少し一緒にいたい。そばにいたい……」
「長谷川」
 杉田が和の頭を抱きしめた。「違う、そういうつもりで言ったんじゃない。そうじゃないよ」
 その声にほっと安堵する。けれど顔を上げて彼を見ると、杉田は先ほどまでの安らかな顔が嘘のように辛そうな表情で和を見つめていた。
「杉田さん……」
 和はどうしたら彼にこんな顔をさせないですむのかわからなかった。彼を困らせたくない。けれど杉田のことを好きでいること自体が彼を困らせることなのだとしたら、いったいどうしていいのかわからない。今はまだあきらめることなんてできないのに。
「長谷川」
 杉田が和の身体を強く抱きしめた。
「俺は、こんなに誰かと好きになったことはないよ。お前が初めてだ。お前だけだよ。でも、お前はそうじゃないよな」
「え……?」
「お前の一番はお前の兄貴なんだろう。今までも、これからも」
 突然の言葉に和は目を見開いて、咄嗟に返す言葉が出なかった。
「……どうして……」
「前、ここに初めて泊まった時、お前、兄貴って呼びながら俺の背中に抱きついてきたの覚えてるか? あのときから、俺はうすうす思ってた。それに、お前は兄さんのこと話すときだけ微妙に様子がおかしかったよ。だからわかった。ああ、こいつが一番好きなのは自分の兄貴なんだなってさ……」
 杉田の声は淡々としていて、怒りも嫉妬も感じられなかった。けれど和はどうしようもなく焦って、「違う」と言い訳のように叫んだ。
「俺、違うよ。そうじゃない」
「長谷川」
「俺、杉田さんのことが……」
「長谷川!」
 杉田が大きく叫んで和の身体を抱きしめた。和は何も言えなくなって唇を噛み締める。
「頼むから、そうだと言ってくれ。お前が一番好きなのは俺じゃない。俺のためにそう言ってくれ」
 杉田の言葉の意味がわからなかった。縋るようなその響きにどうしていいかわからなくなる。杉田は聞いているほうが辛くなる、絞り出すような声で続けた。
「そうじゃないと……俺は、たとえ家族を捨ててでもお前を選びそうになる。誰を傷つけても、お前と一緒にいたいと思ってしまう。だけどそんなのは駄目なんだ。俺はきっと、そういう自分を許せない……」
「杉田さん」
「お前が好きだよ。誰より好きだ。でも家族を捨てられない……どうしてもできない。だから、兄貴が一番だと言ってくれ」
 胸が痛くてたまらなかった。これは杉田の痛みだと思った。ただ好きだから好きだと言える自分とは彼は違う。彼には守るべき家族がいて、浮気を浮気と割り切ることができるほど不誠実でもなくて、だから苦しんでいる。優しすぎて家族のことも和のことも切り捨てられないから、こんなに辛そうな顔をする。
「兄貴のことが好きだよ。きっと、ずっと……一番好きだ」
 和は浮かされるように呟いて杉田の唇にキスをした。彼もそれに応えて、しばらくそのままキスだけに夢中になって他のすべてを忘れる。好きだ、愛していると言うだけですべてが終わるならいいのにと思った。そんな気持ちだけで終われるなら誰も苦しまず、このまま抱き合っていられるのに。
「長谷川……俺はきっと自分からはお前のこと離せない。やめようと、今ならまだやめられるって何度も自分に言い聞かせたのに、駄目なんだ。抱かずにいれば後戻りできるって思ってたのに、結局我慢できなかった。……だから、いつかお前から俺を切ってくれ。俺はそのとき惨めに足掻くことだけはしないと約束する」
 今から終わりの話をする杉田にやりきれなくなって和は彼の胸を叩いた。夢がいつか覚めるのなんてわかっている。ずっと付き合っていけると思っていた相手に突然別れを切り出されることにも慣れてしまった。
 それでもそばにいるその瞬間だけは、それがずっと続くと思っていたいのは間違っているだろうか。終わることなんて考えず、そばにいることに満足して、抱き合っていたいと思うのは。望むのはただその瞬間だけなのに。
「愛してるよ」
 どうしようもなくて笑うしかなかった。笑いながら何度も「愛してる」とくり返して唇を重ねた。
 それでも誰より好きな相手とこうしてわずかな間でも一緒にいられるのは、きっと幸せなんだろうと思った。


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あとがき / 完結です。いやあ長かったですね。「音のない雨」「風のない空」(と、電脳の彼方に消えてしまった第3部)に続いて、この話が番外編でシリーズの最後になります。もともと5人のメインキャラのうち相手がいなかった和に相手を作ってあげようと思って書いた話なのですが、いろいろな意味で無謀なる初挑戦でもあるので、ある意味思い出深い話です。ここまで読んでくださった皆様、どうもありがとうございました。