2 正直言って今日は会社に行きたくなかった。 月曜の朝、このまま寝過ごして休んでしまおうかとの誘惑に半ばのりそうになりながら、それでも目覚し時計を止めて起き上がると、長谷川和は大きくため息をついた。時計の針は八時を指している。 顔を洗って服を着替え、朝食は食べずにアパートの部屋を出た。会社へ向かって自転車をこいでいる間にも気分は重く、会社が近づくにつれてさらに憂鬱な気分が高まってきたが、どうしようもないことはわかっていた。過去がやり直せるならともなく、そうでない以上、やってしまったものは仕方がない。 「おはよう長谷川くん」 入り口のところで同じ課の植野ゆかりといっしょになった。一年先輩だが、大学で二年留年している和よりも年齢は一つ下で、杉田も言っていたように和に好意を持っていてくれるらしいことは態度からわかった。明るくて誰にでも愛想のよいゆかりはたいていの人間に好かれていたが、和はどうしても彼女を恋愛対象として見ることができずにいた。 だからゆかりの気持ちには気づいていない振りをして無難に挨拶を返した。 「おはようございます」 「金曜はどうもお世話になりましたー。あの後どっか行ったの?」 思い出したくない話題を持ち出されて、すぐに返事ができなかった。しかしゆかりはその沈黙を気にする様子もなく、続けて言った。 「私たち中村さんとか六人で二次会行ったんだよ。長谷川くんにも来て欲しかったのに、声かけようと思ったらもういないんだもん」 それはぞろぞろ集団で動くのが嫌いな杉田に誘われてついていったせいだ。杉田は笑顔で「家族が待ってるから」と二次会の誘いを断った後で、和ひとりをつれていきつけの飲み屋へ行ったのだった。断った相手に出会ったらどうするつもりなのかと尋ねたら、別にどうもしない、と笑いながら答えられてしまった。 杉田はいい男だ。和はゆかりにわからないように横を向いてそっとため息をついた。背が高く、顔立ちも男らしく整っているし、性格も嫌いな相手に対しては多少辛辣なところもあるが、たいていの場合さっぱりとしてあとくされがない。面倒見が良く仕事の面でも優秀で、あと一、二年のうちに係長になるのは確実だと言われていた。 男としても先輩としても、杉田はいい男だった。優しい彼に自分が甘えているのはある程度自覚している。しかし金曜の夜に自分がしたことはいくらなんでも……。 酔っていたから、ですませられることだろうか。せめて酔っていた間のことを覚えていなければまだましなのに、記憶だけはやたら鮮明にあるからたちがわるい。一人で家に帰るのが寂しいだとかなんだとか子供のような我がままを言って杉田を困らせ、家まで送らせた挙句、一人だけさっさと眠り込んでしまったのだ。 翌朝激しい頭痛とともに目を覚ましたとき、当然杉田の姿はなかった。玄関の扉は閉まっていて、鍵がすぐそばに落ちていたから、杉田が几帳面にも戸締りをして部屋を出た後、鍵だけ郵便口から中に戻してくれたのがわかった。 「長谷川くん?」 黙り込んだまま何も言おうとしない和にゆかりが心配そうな声をかけてきたが、和は曖昧に笑って誤魔化した。 どんな顔で杉田に会えばいいのかわからない。 彼は怒っているだろうか? 当然怒っているだろう。自分だったら怒る。そう思うと無意識にまたため息が出た。今まではなぜか自分のことを気にかけていろいろとよくしてくれたが、いい加減愛想も尽きるだろう。 「あ、杉田さん、おはようございます」 ゆかりの言葉にぎくりとした。 「ああ、おはよう」 杉田の声だ。思いがけず近くで聞こえた声に驚いて、とてもではないが振り返ることができなかった。 できることならこのままどこか別のところへ行ってしまいたい。しかしあまりに不自然だし、そんなことをしても一時的な解決にしかならないこともわかっている。 内心でため息をつきながらも意を決して振り返ろうとしたら、それより早く、杉田が和の右肩を叩いて「うっす、お前土曜二日酔いにならなかった?」と笑いを滲ませた声で話しかけてきた。 「えっ……」 「かなり酔ってたからな。あんまり強くない奴だと思ってたけど、酒癖悪いのは知らなかったよ」 「え、長谷川くんそんなに酔ってた? 気づかなかったなあ」 二人だけで飲みに行ったことは知らないゆかりが、一次会のことだと思って不思議そうに首を傾げる。 「酔ってた酔ってた。見た目変わらないからあんまりわかんないけどさ、言ってることが滅茶苦茶なんだよ。な?」 「な、って言われても……」 どう返事をしてよいかわからずに和は言いよどんだ。これは嫌味なんだろうかと訝りながら杉田を見たが、彼の様子からは別段怒っているような気配は感じられず、いつもどおり、飄々として見えた。 「えー、そうなんだ。もっと近くの席だったらよかったなあ」 なぜか残念そうにゆかりが言った。彼女には悪いが、一次会では実際それほど酔っていなかった。たとえ席が近くても自分の酒乱ぶりなどわからないだろう。 いや、そもそも別に酒癖はそんなに悪くは……と思いかけて、やめた。悪くないなら杉田に絡んだりしなかったはずだ。思い出すと恥ずかしくなり、杉田の顔をまともに見られなくなった。 そのとき始業を告げる音楽が流れてきたので、ゆかりは「またあとで話聞かせてくださいね」と言って自分の席に向かった。和も彼女に倣って杉田のそばを離れようとしたが、「あの夜さあ」と話しかけられて立ち止まらないわけにはいかなかった。 「お前のおかげで終電乗り過ごしたんだぞ。タクシー代がよけいにかかっちまっただろうが。どうしてくれる?」 「……すみません、その分払いますから」 「かわりに昼飯奢るってのはどう? 駅前に新しい店できたの知ってるか?」 杉田は意外に美食家で、どんなものでも食べるが評価がうるさい。近隣にある料理屋については非常によく知っていて、新しくできた店には必ず一週間は通ってメニューと味を確かめるらしい。 和はためらいながら杉田の顔を見つめたが、やはりそこには怒りの気配は微塵もなかった。楽しそうに口元を僅かに上げ、「尚っていう和食料理屋なんだけどさ」と続ける。どうやら彼が金曜のことをそれほど気にしていないらしいことに、ようやく和はほっと息をついた。 「わかりました。でもあんまり高いのはやめてくださいよ」 「わかってるよ、ボーナス前なんだしさ。ま、ボーナスでたら高級料理奢ってもらおうかな」 「なんでそんなに俺が奢るんですか」 「何だよ。せっかく俺がコンパの設定してやったのにお礼もしないつもりか?」 「……は?」 「忘れたとか言うなよ。年上の女紹介してくれって言ってただろう。昨日声かけたらオーケーだってさ。今週の金曜だ、他の予定入れるなよ」 確かに自分はそう言った。しかし杉田の行動の早さに驚いて和はすぐに返事ができなかった。それに、あの話は半ば冗談のようなつもりだったのだが、今更やめますなどとは言えるはずもない。 和はうなずいて、「どうもありがとうございます……」と頭を下げた。内心は複雑だった。 「気をつけないと食われるぞ」 杉田は笑いながら和の肩を叩いて、その場を離れた。和はしばらくその場に立ったまま、年上の彼女について考えてみようとしたが、具体的に何一つ思い浮かぶものがない。ほんの一年と半年くらい前には確かに付き合っていた彼女がいたはずなのに、なぜか今は誰かと付き合っている自分を想像するのが難しくなっていることに気づき、少し戸惑った。 ひょっとしてこの若さでもう枯れちまったんだろうかと馬鹿なことを考えて、顔をしかめた。 |
| あとがき / 何度も書いていますが私サラリーマンって好きなんですよ。でも一般企業で働いたことがないのでいったいどういう仕事をするものなのかなかなかわからないところが難しいです。どこかで情報収集せねば。 |