月のない夜






 杉田の大学時代の同級生は遠藤佐織という名前のきれいな女で、今は広告会社でデザイナーをしているという話だった。
 約束した金曜の夜、駅前の繁華街から少し逸れた通りにある静かな雰囲気の店で、佐織は杉田を見るなり大笑いして、「あんたのスーツ姿って初めて見るけど、似合ってんのか似合ってないのかわかんないわ」とおよそ挨拶らしくないことを言った。
 杉田は苦笑するように肩をすくめ、口に出しては何も反論しなかった。かわりに「元気そうでなにより」と皮肉げな口調で返して「変わらないな」と笑った。
 和はそんな二人のやりとりを黙って眺め、それから佐織の前にいる三人の女たちに目を止めた。彼女の知り合いのようだが、杉田と面識はないらしい。こちらを窺って値踏みしているようなのが気にかかる。一瞬だけ不快に思ったが、自分も同じようなものだと思い返して腹立ちを抑えた。
「遠藤、こっちが電話で言ってた長谷川」
 突然名前を呼ばれて和が視線を佐織に戻すと、彼女はふーんと言いながら立ち上がり、すぐ近くまで寄ってきて、上から下までまじまじと彼を見つめた。それから「かわいい子じゃなーい」と笑った。明らかな値踏みの視線が、彼女の場合、それほど嫌ではなかった。変にこそこそしていないからかもしれない。
「私遠藤佐織よ。よろしくね」
「長谷川です。こちらこそ、よろしくお願いします」
「まー礼儀正しい子ね。かわいいわ。いい子いい子してあげたいわ」
「お前もう飲んでんのか、この酒乱女。少しは待てよ」
 呆れたように杉田が言い、和に向かって手を伸ばしかけていた佐織を遮った。佐織を押しのけるようにして和の前に立つ。邪魔された彼女はむっとした顔をして恨みがましく杉田を見上げた。
「やぁね、まだ一滴も飲んでないわよ。それより邪魔しないでよ。長谷川くーん、年上の彼女欲しいんでしょ? はーいはい、私立候補するー」
「後にしろよ。そっちの彼女たちもまだ紹介してもらってないし」
 手を挙げる佐織を抑えながら、杉田は席に座ったままの三人の女に向かって愛想よく笑いかけた。「君たち遠藤の友達?」
「後輩です。いつも会社でお世話になってるんです」
 そのうちの一人が控えめな口調で彼女たちの関係を説明した。後輩ということは、佐織よりいくらか若いということだろう。ひょっとして和より年下もいるのかもしれない。けれど正直なところ、見た目で正確な年齢を推し量るのは困難だった。
「ちょっと、いつまで立ったままでいるつもり? 座りましょうよ、とりあえず。長谷川君は私の隣ー決定」
 佐織が和の腕を引いて強引に椅子に座らせた。杉田は必然的に空いていた和の隣に腰を下ろす。
 席についてからも、佐織は和の腕を離そうとせずに腕を組んだままでいた。頭をもたせかけるように寄りかかってくる彼女の積極性に多少の戸惑いを感じつつも、実際のところ、不思議なほど嫌ではなかった。こういう触れ合いに飢えていたことを思い知らされるようだった。
 温かい佐織の身体に、なにか安心感のようなものさえ覚える。イコール恋愛感情でないことはさすがにわかっていたが、今は別にそれでもかまわなかった。
 佐織たちは杉田と和が来る前からすでに酒盛りを始めていたようで、六人がけのテーブルにはビールや簡単な料理が所狭しと並べられていた。
「はーい、まずは軽くかんぱーい。――ねえ長谷川君、こんなかわいいのに本当に彼女いないの? お姉さん信じらんないなあ」
 からかうような佐織の言葉に和は苦笑しながら首を振った。
「知り合いになる機会がなくて」
「会社にはいい子いないの? あーわかった、杉田が手ェつけてる子ばっかなんでしょ。先輩のおさがりはいやだもんねー」
 さらりと佐織が言ったとんでもない台詞に、杉田ががっくりと頭を下げるのが見えた。
「おっ前、……信じられねえ……」
「何よう、この遊び人。彼女いるくせに大学時代に遊びまわってたのはどこの誰よ」
「遊びまわってなんかねえよ。いい加減なこと言うなよ」
「えー? そう? そういう風に見えたのに」
「あのね、俺は浮気なんてしたことないんです。それが自慢なんです」
「うわ、つまんない男ぉー。そんなの自慢にするなんてさいてー」
「言ってろ」
 うんざりしたように言うと、杉田はコップにいっぱいに注がれたビールを一気飲みした。二人で飲むときのくせで、和はそのコップに新たにビールを注ぎ足そうとして、佐織に止められた。
「やーだ長谷川君。そんなことしないでよぉ。ほらほら美奈ちゃん、このつまんない男に今日だけはお酌してあげてちょうだい! きっと普段は奥さん以外の女にかまわれることなんてないんでしょうから」
 杉田は一瞬佐織を睨みつけたが、美奈ちゃんと呼ばれた女の子に笑顔でビールを勧められ、まんざらでもなさそうににこにこしながらそれを受けた。しかしそれが本当に嬉しかったからなのか、それともその場の雰囲気に合わせているだけなのかはよくわからなかった。
「杉田さんって結婚されてるんですか?」
 美奈ちゃんの問いに杉田が頷くと、彼女はあきらかにがっかりしたような顔になった。
「そうなんですかー。でもそうですよね、かっこいいですもん」
 内心で和はその意見に同意したが、佐織だけは飲んでいたビールを吐き出さんばかりの勢いでげらげら笑い出した。
「かっこいい! そうね、そうそう、かっこいいもんね!」
「……いい加減怒るぞ」
「誉めてんのよ」
 杉田はため息をついて頭を抱えた。普段見られない彼の姿に和はちょっと意外な面を見た気がした。いつも堂々としていて仕事の出来る杉田は自分にとっての目標だが、あまりにそつがなさすぎて時々コンプレックスを感じることがある。その彼のこういう人間らしい面を見られるのは悪くないと思った。
 その後もたいてい佐織が主導権を握って会話を進め、後の人間は笑いながらそれを聞いていることが多かったが、彼女の開けっぴろげな性格のためか、和にとっては大学時代によく付き合わされたコンパよりも楽しく感じられた。先週の反省もあってあまり酒には手をつけなかったが、佐織もしつこく勧めてこなかったので助かった。しかし見ていると彼女はどうやら杉田と同じタイプらしく、浴びるように飲んでいるのにいっこうに表情や言動に酔いが表れることがなかった。
 運ばれてきたビールの四分の三は杉田と佐織の二人だけで空けていたようなものなのに、その二人だけが少しも赤い顔をせずに素面同然でいるのは不条理な気がした。杉田は自分だけ酔えないことをいつも不満に思っているようだが、和にしてみれば贅沢な不満だ。酔いつぶれるのは男としてみっともない。この間の経験でいやというほどそれがわかった。
 九時を少し過ぎたところで、杉田が腕時計をちらりと見て、立ち上がった。
「俺、もう帰るわ。子供が待ってるかもしれないし」
「うわ! なんて家庭的な台詞! お父様!」
「お前って酔わないくせに何でそう酔っ払いみたいな絡み方すんの?」
 呆れたように苦笑いして言うと、「じゃあな、追加は自分で払えよ」と片手を振って背を向けた。
「あ、俺ももう帰ります」
 その後ろ姿を呼び止めるように和が立ち上がると、杉田が意外そうに振り返り、佐織は「えー!」と大きな非難の声をあげた。
「どうして長谷川君まで帰っちゃうのー!? 二次会! 二次会行きましょうよ!」
「すみません、なんかもう酔っちゃったみたいで。吐いたりしてみっともないとこ見せたくないから、今日は失礼させてください」
「えー。そんなの全っ然気にしなくていいのに……」
 佐織はぼやいたが、無理やりに引き止めようとはせず、仕方ないわねえ、とため息をついて手を振った。「バイバイ、気が向いたら電話してね」
 和も笑って手を上げた。この年まで独身でいるのが不思議なほどいい女だと思った。今までに付き合った相手は皆どちらかといえば大人しいタイプで、佐織とはまったく違うが、彼女は魅力的だった。
「何で一緒に帰るんだよ」
 店を出たとたん、杉田が訝しげに眉を顰めて問いかけてきた。
「いい雰囲気だったから、あとは俺がいなくても大丈夫だろうと思って出たんだぞ。お前がいなかったら意味ないだろうが」
「杉田さん、あれ、もういいです。すみません」
 凍えるような夜気に身を縮ませながら、和は少しだけ頭を下げた。通りにはこれから一杯やって帰ろうとしているようなサラリーマンや、すでにいくらか出来上がっているらしい赤い顔をした男たちがちらほらと見える。先週は酔いのためにほとんど寒さは感じなかったけれど、今日はやはり外気の冷たさに凍えるような感じがする。
「気にいらなかったのか?」
「そうじゃないです。けど、無理やりに彼女を作ろうと思ってもやっぱり駄目だろうなと思って……俺、先週けっこう酔ってたからあんなこと言いましたけど、自分でも、本気で彼女が欲しいのかどうかわからないんです。……すみません」
「謝ることはないけどさ……」
 よく理解できないという顔をして、杉田は首を傾げた。和は苦笑いする。
 本当は、彼女が欲しいと思ったのは一人でいるとまずいと思ったからだった。一人でいるとどうしても考えてしまうことがある。けれどそれは考えてもどうしようもないことだし、考えてはいけないことだった。これ以上深みにはまるのは駄目だ。どうしても。
 すでに婚約している兄のことばかり考えても、何一つ得られるものはない。
 しかしだからといって、自分の正直な気持ちを偽って誰かと付き合ってもきっとろくなことにはならない。いくら佐織がいい女でも、今の自分には彼女を心から好きになれる自信がなかった。本当に好きで、そばにいたいと心から願う相手がいるのに、他の人間のことを考えられるはずがない。
 杉田がため息をついて、時計に目をやった。
「まだ早いし……もう一軒行くか?」
「え?」
「一人で家にいるのは嫌なんだろ? もうちょっと付き合ってやるよ」
「けど子供さんが待ってるんじゃ……」
「今から帰ってももう寝てるよ」
 杉田は何でもないような口調でそう言ったが、和はどう返事をしていいのかわからなかった。たしかに帰っても一人で何もすることはないが、かといって自分の暇潰しのために杉田をつきあわせるのは気がひける。いつも誘われれば何も考えずについていっているが、彼自身もよく言っているように彼には家族がいるのだ。
「気にするなよ。俺が遅いほうが女房も気楽かもしれないだろ」
「そんなことは……」
「いいんだって。お前が付き合わないなら俺は一人で行くぞ」
 それから本当に一人でさっさと歩き始めてしまう。和はためらいながらもその後を追い、隣に並んだ。
 目を上げてちらっと杉田の顔を見ると、その横顔は別段いつもと変わりなく、彼の内心を窺い知ることはできなかった。
 ひょっとして家族と上手くいっていないのだろうか、と思い、すぐにそれは自分が立ち入る問題ではないと思い直して小さく首を振った。そんな風にプライベートを推測されることを彼は嫌がるだろう。もちろん誰だって嫌に決まっている。自分だって兄のことには誰にも触れられたくない。
 だからよけいなことは考えないようにして、足元だけを見つめながら歩いた。満月に近い月の明かりで、いつもよりずっと明るい夜だと気づいたのは、しばらくたってからだった。


 酔いが回ったとき、頭の半分は冷静に覚めて周囲を見ているのに、もう半分のわけのわからなくなっているほうを止めることがなぜだかできない。冷静なほうはただ目覚めて記憶しているだけだ。忌々しい。いっそこれがなければ随分と気分的に楽なのに、どうしてだか自分はそうなのだ。
 佐織たちと一緒にいたときはセーブできていたのに、杉田と二人で飲み始めると駄目だった。彼が強く勧めてくるわけではない。むしろあまり飲むなと注意さえしてくれるのに、それを無視してまで飲んでしまう。自分でもどうしてだかわからなかった。
「杉田さんと奥さんの馴れ初めを聞かせてください」
 酔っ払った勢いのようにそんな馬鹿げた質問が口から出た。言ってから後悔したが、取り消すより早く杉田が「聞いてもつまんねえと思うけどな」と苦笑交じりに話し始めてしまったので、撤回する機会を失った。
「高校二年の時の同級生だったんだよ。付き合ってくれって言われたから付き合った。それだけ」
「それだけ?」
「それだけだよ。お前からすりゃ変かもしれないが、俺にとっては初めて付き合った相手だった。中学のころも告白されたことはあるけどさ、その頃はまだ部活やなんかに使う時間のほうが大切だったし、あんまり女に興味はなかった。特に同級生とかな」
 年上のお姉さんは好きだったけどさ、と言って杉田は笑った。和は頷いた。
「けど高校に入ると、いきなりまわりがそういうことに騒ぎ始めるだろ。誰と誰が付き合ってるとか、そういう。それで俺もそろそろ彼女がほしいなと思ってたときに告白されたからさ、付き合ったわけ。まあ美人だったし、頭もよかったし。友達には羨ましがられたけどな。正直、まあ……」
 そこでちょっと言葉を止めて、杉田は息を吐き出した。「誰でもあの時告白されたら付き合ってたろうな」
 彼の言葉は自嘲気味だったが、その気持ちは自分にも覚えがあるものだけに和は至極納得できる思いで聞いた。少なくとも一目で恋に落ちたなどと言われるよりは、誰でもよかったと言われたほうがよほど理解できる。それでも長く一緒にいればそれなりの特別の思いが生じてくるものだし、それを恋と呼んでも嘘にはならない。
「プロポーズは杉田さんが?」
「いや……。ちょうどその頃にあいつの友達が結婚して、それに触発されたっていうか、煽られたみたいだな。七年も付き合うといい加減一緒にいるのが当たり前みたいになってきてたし、今さら他の相手と付き合おうって気もなかったから、俺もいいよって言った。特に感慨はなかった。自然だった」
 コップに目を落としたまま、杉田はあまり感情のこもらない平坦な声で話した。それから急に和のほうを見て「つまらないだろ」と笑いながら言った。和は一瞬迷った後、正直に頷き、「つまらない話でしたね」と答えた。とたんに杉田が顔をしかめる。
「おっまえ、ヤな奴ー。人がせっかく恥を忍んで話してやったのに……」
「恥ずかしい話なんて全然してないじゃないですか。熱烈な恋愛の経緯とかならともかく、ただの淡白な経過報告みたいだったじゃないですか。つまんないですよ」
「何で俺が怒られるんだよ」
 杉田は呆れたようだった。少し笑う。いっそ「生意気だ」と怒ってくれればいいのに、どこまでも甘い杉田になぜだか無性に腹が立って、和は舌打ちした。
「杉田さんは人を本気で好きになったことがないんだ。そういうことですよね。妥協で付き合って、だらだら一緒にいて、何となく結婚して、いい旦那、いいお父さんの振りしてさ。好きだからじゃない、面倒だからでしょ。家庭を持つのが当たり前だからそうしてるだけで、したいからしてるんじゃないですよね」
 杉田を怒らせてみたかった。彼は決して優柔不断ではなく、好き嫌いも激しいから、嫌いな相手に対しては時に辛辣に冷たくなる。それでも和に対して今までそういう態度を示したことはなく、和にはいつも励ましや笑顔をくれた。そのことにずっと甘えてきた。
 けれどもう駄目だ。自分はひどいことを言った。心の中で後悔しながらも謝ることもできず、コップを握りしめたまま和は唇を噛み締めた。時々、彼の優しさに苛々する。かまってくれて、さりげなく面倒を見てくれるその優しさに、いつも頼ってばかりいる自分を自己嫌悪する。いっそこれきり突き放してくれたらいい。後悔しながらもそう思っていることも本当で、和は自分がいったい杉田にどうしてほしいのかわからなくなってしまった。
 杉田はしばらく何も言わず、黙ってビールを飲んでいた。すぐに怒るかと思っていた和の予想に反し、彼はいつもと変わらぬ平然とした顔のまま、ただ、黙っていた。
「……怒らないんですか」
 沈黙に耐え切れなくなったのは和のほうだった。
「俺、酔っ払いに本気で怒る趣味ないんだよ」
「杉田さん……!」
「怒ってほしいのか? 変わってるな」
 ふっと息を吐き出すように微笑んで、杉田は手を伸ばして子供にするように和の頭をくしゃくしゃとした。思いがけない行動に硬直して和が目を見開き、杉田を見ると、彼は頭を撫でていた手で今度は和の肩を叩いた。
「それにお前の言ったこと、当たってるしな。俺はたしかに面倒だったのかもしれないよ」
 なぜ彼は怒らないのだろう。わからなかった。
 和は俯いて、コップの中のビールを一気に飲み干した。自分でさらに注ぎ直し、それも一気にのどの奥へ流し込む。
「おい、いい加減にしとけよ」
 杉田の忠告も耳に入らなかった。なんでだろう。なぜ彼は怒らないのだろう。
 何を言われても動じない杉田が羨ましかった。彼はきっと一人でいるのが寂しいと言って誰かに縋ったりしたことはないだろう。一人で生きていける男だ。なぜ一人きりの自分がそうではなくて、家族がいる彼がそうなのだろう。かわってくれればいいと思った。そうすれば酔って人に絡んだりみっともないことをしなくてすむのに。
「長谷川」
 杉田の呼びかける声が強くなる。しまいに彼は和の手からコップを奪い取って、言うことを聞かない子供を叱るような険しい表情をした。
「飲みすぎだよ」
「うるさいな」
「もう帰るぞ、立て」
「うるさいって言ってるでしょう。放っといてくださいよ。放っといてくれ……」
 テーブルの上で和は拳を握り締めた。家に帰りたくなかった。酔っ払ってわけがわからなくなっている自分を、もう片方の冷静な自分は軽蔑しながらもどうすることもできないでいた。自分が惨めでたまらなかった。親切にしてくれる先輩に感謝するでもなく失礼なことばかり言っている自分の情けなさがどうしようもなく嫌なのに、出てくるのは投げやりな言葉ばかりだ。杉田は呆れているだろう。けれど結局、和の腕をとって引きずりあげてくれたのは杉田の力強い腕だった。
「馬鹿、そんな顔するなよ」
 和は慌てて袖で顔を拭った。杉田は見ない振りをしてそっぽを向いたが、その手は和の腕を掴んだままだった。
 ほとんど引きずられるようにして店を出て、そのまま杉田について歩いた。ふと目を上げると丸い月はまだ空の高いところに留まっていて、冷たい夜を明るく照らしている。ところどころに伸びる白い雲の筋が、風に吹かれて少しずつ動いているのがわかった。
 そんなふうに空を見上げながら歩いていたらつまずきかけて、杉田の小さなため息が聞こえた。和は恥ずかしさで赤くなったが、杉田に掴まれたままの腕の温かさが不思議なほど心地よくて、その手を振りほどくことはできなかった。


 アパートに帰り着いたときには結局十二時近くになっていて、杉田は和がポケットから部屋の鍵を出すのを確かめてから、「じゃあな」と軽く和の肩を叩いて背を向けた。
「杉田さん!」
 慌てて後ろ姿に声をかけると、杉田は振り返って首をかしげた。それから思いついたように笑う。
「一人だと寝られないのか?」
 一瞬どうしようか迷ったが、和はすぐに頷いた。このまま杉田に帰って欲しくはなかった。「寂しいんです」引き止めるためだけにそう言うと、案の定、杉田は困ったような顔をしてそばに戻ってきた。
「いつもは一人で大丈夫なんだろ?」
「酔ってる日は……駄目なんです。どうしていいかわからなくなる」
 相手にかける迷惑も自分のプライドも何もかもどうでもよくなって、ただその場の感情だけが強くなってしまう。本能的に人恋しい気持ちになる。
 しばらくの沈黙のあと、杉田はため息をついて髪をかきあげた。
「子守りになった気分だな」
「すみません……」
「いいよ。風邪ひくから早く鍵開けろよ」
 杉田を部屋に入れるのは先週末に続いて二度目だった。二週続けてとんでもない迷惑をかけていることを思うといたたまれなさで激しく自己嫌悪に陥りそうだったので、和はだんだん強くなり始めている冷静な自分の思考を無視するように努めた。
「杉田さん」
 突っ立ったまま所在無さげに狭い室内を見回していた杉田は和の呼びかけに目を上げた。
「俺、明日車で送りますから。今日は泊まっていってください。……狭いけど」
 送らせた挙句に真夜中にタクシーで家に帰すなんて最低だ、そう思ったから言ったのに、杉田は露骨に顔をしかめて和を見つめた。
「どこで寝ろって?」
「……ベッド、ですよ」
 杉田の視線が安物のパイプベッドに向けられて、同じように視線をやった和は二人で寝ればいいじゃないかと簡単に考えていたことがどうやら難しいらしいことに気づいてためらった。小さなベッドに男二人で寝るのはどう考えても窮屈だ。
「俺は……床でいいですから」
「馬鹿」
 短い言葉で杉田はその提案を一蹴した。大股でベッドのそばまでやってくると、大きさを確かめるようにベッドに触れてみて、小さく唸った。それからあきらめたような吐息を漏らす。
「まあ、いいか……。野宿すると思えば寝れないことはないだろう」
「……すみません」
「お前寝相はいいほう?」
 和が「たぶん……」と頷くと、杉田は「じゃあ俺壁際な。落ちるの嫌だし」と言って笑った。彼の笑顔に許されたようなほっとした気持ちになって、和も笑った。突き放してくれたらいいと思ったのに、今でも頭のどこかでそう思っているのに、嫌われたくないのも本当だった。たとえば一緒に飲んでいた相手が同期の友人だったら、決して泊まっていってくれとは言わなかっただろう。
 コートと上着を脱ぎ、ネクタイを外して杉田はベッドの上に寝転がった。同じように服を脱いでから、和も電気を消してその隣に潜り込んだ。しかし予想していたこととはいえ、近すぎる距離に急速に気恥ずかしさが襲ってくる。杉田も同じ思いだったのか、寝返りをうって和に背を向けた。それでもすぐそばに相手の体温を感じるほど近いのは変わりようがない。
 恋人以外の相手とこんなに近い距離で眠るのは初めてだった。ひょっとしたら幼い頃、両親や兄と一緒に眠っていたころがあるのかもしれないが、もう覚えてはいなかった。少し手を伸ばせば簡単に届きそうな杉田の大きな背中から目が離せない。白いワイシャツが寒そうに見えて、すぐに寒いと感じているのは自分のほうだと思った。酔いもほとんど覚めかけているから寒さを感じる。
 暗闇で相手が背中を向けているのをいいことに、身体を寄せて額をその背に押しつけた。戸惑うように杉田が身じろぎして振り向こうとする気配が感じられたが、和は離れなかった。人の身体は温かい。佐織に腕を組まれたときも感じたそのことを改めて思い、和はふっと息をついた。「兄貴……」
 自分が声に出してそう呟いたのか、頭の中で考えただけだったのかはわからなかった。
 温かい身体がそばにあることに安心して、そのまま、何も考えずに眠ってしまった。


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あとがき / ちょっと長いですね。なんでこうだらだら長く書いてしまうのでしょうか。自分が読む立場だったら絶対短い話と思っているのに(殴)