4 次の日の朝、目が覚めて身体を起こそうとしたら激しい頭痛が襲ってきて和は頭を押さえた。二日酔いだ。身体を起こせなくてそのままベッドの上に戻る。仕方ないから二度寝しようと目を閉じかけたところで、急に思い出した。 頭痛も忘れて飛び起きると案の定、ひどい痛みに目の前がちかちかした。 「って――…」 頭を押さえて唸っていると、すぐ近くから声が聞こえてきた。 「二日酔いか? なったことないからよくわからんが、辛いなら寝てろよ、無理するな」 子供をあやすような優しい口調に思わず目を上げる。和が目を覚ます前から起きていたらしく、杉田はベッドの端に腰かけて面白そうに和の顔を覗き込んでいた。 「……替わってほしいですよ」 「替われるもんならな」 杉田は笑って手を伸ばし、指先で和の前髪をかきあげてくれた。何気なく触れたその指先にどきりとしたが、表情には出さないように気をつけた。昨夜彼の背中に抱きついたことを杉田はどう思っているのだろう。 見たところ、杉田の様子に普段と変わるところはなかった。きっと酔っ払いの戯れだと思ったのだろう。それならそれでよかった。実際そのようなものだし、変にとられてよそよそしくされるのは嫌だった。 「……杉田さん」 「何だよ」 「昼過ぎくらいになったら二日酔い、治ると思うから……俺送っていきますから、だから、一人で帰らないでください」 そう言ってしまってから、杉田の表情を見るのが怖くて目を閉じた。自分が随分わがままなことを言っている自覚はあった。妻も小さな子供もいる男を無理やり泊めて、夜が明けてもまだ引き止めようとしている。杉田のためだけを思うならわざわざ車で送るより、タクシー代を渡して帰ってもらったほうがいいに決まっている。 けれど引き止めたのは、もう少しだけそばにいてほしかったからだ。 「ああ、待っててやるよ」 苦笑まじりの杉田の声に安心する。 彼といると不思議なほど落ち着くのはなぜだろうと思う。嫉妬やコンプレックスを感じるのに、それでもそんな気持ちよりずっと強くそばにいて安心するのは。 杉田が布団を引き上げてくれて、自分の存在を示すように少しだけ和の耳に触れ、すぐに離れた。そんな何気ない、けれど誰に対しても示すわけではない優しさに胸が突かれるような思いがする。結局求めていたのは自分だけに与えられる好意や優しさというものだったのだと、改めてそう思い、和は内心の動揺を悟られないように背中を丸めて布団の中に潜り込んだ。 誰にでも与えるわけではない。しかし杉田にとっての一番は家族のことに決まっているというそのことが、なぜだかたまらなく寂しいと思った。 次に目が覚めて枕もとの時計を見たときには、もう正午が近くなっていた。 そっと身体を起こしてもさほど頭痛はしない。ほっとしてベッドから立ち上がった和は杉田の姿を探そうとして、すぐに台所から物音がしているのに気づいて目をやった。 「なに……してるんですか」 近づいて背後から声をかけると、杉田は驚きもせずにちょっと振り向いて、笑った。 「目ぇ覚めた? 見ての通り昼飯作ってやってんの。お前料理全然してねえだろう。冷蔵庫が空っぽだったからびっくりした」 たしかに料理などしていない。朝食は食べないし、昼は外食、夜はコンビニ弁当というのがいつものパターンになっている。 和はチャーハンを炒めている杉田の手際のよさを感心しながらしばらく見つめ、それからようやく自分が客に何をさせているのか気づいて、慌てた。 「す、杉田さん、そんなのいいですから……」 「ああ、そうだ。かってに風呂借りたからな、ついでに服も。風呂は返さないけど服は洗って今度返すよ、無断で悪いな」 「え、いや、そんなの全然……」 見るとたしかに昨夜着ていた白のワイシャツから紺のトレーナーになっている。見慣れているはずの服なのに他人が着ているのを見ると印象が変わることに驚いた。特に杉田は今までスーツ姿しか見たことがなかったから、こういう私服姿を見るのは新鮮だった。 「もうちょっとかかるからお前もシャワー浴びてきたら?」 どうしようかとためらって、結局杉田の言葉に甘えてそうさせてもらうことにした。昨夜はそのまま眠ってしまったから身体中に焼き鳥や煙草の匂いが染み付いているような気がする。 冷えた浴室で熱いシャワーを浴びるとようやく目が覚めていくようだった。こうしていると昨夜の出来事が夢の中のことのように思える。しかし部屋の中にはまだ杉田がいるのだという事実に、いやおうなくそれが夢ではなかったことを思い知らされて少し落ち込んだ。 先輩にわがままを言って引き止め、昼食まで作らせている。 改めて言葉にすると恥ずかしさのあまり盛大なため息が出た。風呂から出たくないなと一瞬考えて、すぐにその馬鹿らしさにまたため息をついた。杉田がいつもと同じように接してくれるのだけが唯一の救いだが、それでも内心ではどう思っているのかわからない。優しい男だから不愉快でもあまり表情に出さないのかもしれない。いや、だが嫌なときは嫌だとはっきり言うか……。 シャワーを終えて髪を乾かした頃に昼食も出来上がり、二人で向かい合ってチャーハンとサラダ、スープの昼食をとった。 「杉田さん料理上手ですね……」 こんなことまでできるのかという半ばあきらめのこもった声で唸ると、杉田は「そうだろう」と自慢げに笑った。 「家でもけっこう作ってるからな。これでもいいお父さんなんだぜ」 「ええ……わかります」 「いい旦那とは言いがたいけどな」 冗談を言うような口調だった。和が目を上げて見つめると、杉田はちょっと顔をしかめて、自分の言ってしまったことを後悔しているように見えた。 「……杉田さん」 「悪い。気にするな」 「俺、杉田さんにはすごいお世話になってます。感謝してます。だからもし、何か役に立てることあったら……言ってください。いつでもいいですから」 口で言うのは簡単だ。しかし実際に自分が杉田のためにしてやれることなどほとんどないのだろう。 思わずため息を漏らすと、杉田は「そうだな」と静かに笑った。 「だったら時々避難場所にさせてもらうかな」 それから少し声を低めて、 「あのな、本当のこと言うとな、女房の奴俺が浮気してるって思ってるらしいんだよ」 と言った。 和は意外な思いでそれを聞き、眉を寄せた。杉田の私生活をすべて知っているわけではないが、彼がそんなことをするはずがないのは短い付き合いの自分でもわかる。彼は常識人だし、そもそも面倒を抱えてまで浮気をするほど情熱的なタイプでもない。長く一緒にいる彼の妻がそれをわからないはずはないと思った。 「どうしてそんなこと思うんですか?」 「最近帰りが遅いからだろうな。しょっちゅう飲みに行ってたし。まだ口に出して言われたわけじゃないけどさ、浮気だろうって思ってんのわかるんだよな」 自分で作った昼食を口に運びながら杉田は苦笑した。 帰りが遅いからという理由だけで浮気を疑うなんておかしい、そう反論しようとして和は開きかけた口を閉じた。杉田が一緒に飲みに行く相手がほとんど自分であることに気づいたからだ。そしてもう一つ、杉田を昨日泊めたということが、その浮気疑惑を一層深めることになったのではないかということに。 「俺……すみません。そんなこと全然……」 「馬鹿。お前のせいじゃないよ。俺の普段の行いが悪いから信じさせられないんだよ」 「だけど……」 「何だよ。避難場所になってくれるんじゃないの? よけい疑われんのわかってるけどさ、正直あんまり家にいたくないんだよ」 冗談めかした彼の言葉の中にどこか疲れたような響きが込められている気がして、和は何と言ったらいいかわからなくなった。杉田のことを思うなら彼の家庭生活を乱すようなことはするべきではない。つまり彼と一緒に飲みにいったり、昨夜のように無理やり引きとめることは絶対にしてはいけないことだ。 でも杉田は家にいたくないと言う。正直なことを言えば、和は彼がそばにいてくれると安心する。利害は一致しているのに、駄目なのだろうか、一緒にいてはいけないのだろうか。 浮気じゃない。それでもそう疑われるようなことをするのはやはりいけないことなのだろうか。 「お前がそんな顔するな」 杉田の声は少し低めで、張り上げなくても通るいい声だった。 その気になればたいていの相手を落とせそうな男だから、よけいに心配になるのかもしれない。どれだけわかっているつもりでも知らない面はきっとあるに違いないと思うから、不安になるのかもしれない。 奥さんの気持ちもわかるなと思った。それでも杉田とあまり話せなくなるのは嫌だと自分勝手なことを思った。 本人が家にいたくないと言っているんだから……いいじゃないか、それで。 胸の中にもやもやしたものが浮かんでいる。会ったこともない杉田の妻に嫉妬している自分を自覚した。そして自分の独占欲の強さを改めて感じる。好意を持った相手には誰より自分のことを大切に思ってほしいと思う。たいていの場合それは思うだけで、不可能だとわかっているから無理やりその思いを心の奥に沈めるが、今すぐにこの気持ちを沈めるのは難しかった。杉田と家族が上手くいっていないのならなおさら。 「何でお前にこんなこと言ってんだろうな、俺」 自嘲気味に杉田が苦笑いする。 彼の特別になれたらなと和は思った。今まで付き合った女の子たちはきっと一度は自分のことを一番大切に思ってくれていた。その間だけは、幸せだった。幸せだったんだと思い出す。だからそんなふうに。それほど長い間でなくてかまわないから。 杉田に一番大切に思われたいと、拭いきれない後ろめたさを感じながら思った。少し胸が痛かった。 |
| あとがき / けっこう以前に書いた話なのでどういうつもりで書いたのか忘れてしまいました(逃げ)。 |