6 親睦旅行一日目の朝は晴天で、天気予報によればこの週末は日本全国でよく晴れた日になるということだった。 男たちは行きの新幹線の中からもう酒盛りを始めている。和も強引にビール缶を握らされ、断りきれずに口をつけた。隣の席に座っていた杉田が「あんまり飲みすぎるなよ」と言ったが、好きで飲んでいるわけでもない。肩をすくめて返事にかえた。 「お前博多行ったことある?」 「いえ、初めてです」 「俺大学の卒業旅行で行ったよ。あー、けどもう十年くらい前になるのか。ついこの間みたいに気がするのになぁ」 シートに頭を押しつけて、こうやって人は年を取っていくんだよなと顔をしかめている杉田がおかしくて笑ってしまった。 「笑ってろ。お前もすぐそう思うようになるんだよ」 「そういう意味じゃないですよ。杉田さん今でも十分若いのにって思っただけです」 「若くねぇよ。もう年だ」 「杉田さんより年上の人が聞いたら怒りますよ。まだ三十一じゃないですか。男は三十代が一番いい時だって言いますよ」 「だってさ……」 杉田は何か言いかけたが、ちょっと眉を顰めたかと思うと結局口をつぐんだ。話題を逸らすように和の手元からビールの缶を奪い取ると、ごくごくと一気に飲み干した。 彼がどれだけ飲んでも顔色一つ変えないことを知っている同僚たちによって彼の座席にはビール缶が五、六本進呈されているのだから、わざわざ人のに手をつけなくてもいいのに、と和は呆気にとられたが、「お前は酒飲むと性質が悪いから」と杉田は涼しい顔で言った。 「だから代わりに飲んでやったんだろ」 「性質悪いって……最近はそれほど飲んでないじゃないですか」 「だからよけい旅行とかではタガが外れそうで怖いんだよ。勧められるからってほいほい飲んでたら明日もたないぞ」 「……大きなお世話ですよ」 聞こえないように呟いたつもりだったのに、杉田にはちゃんと聞こえていたらしい。無言で和の耳を引っ張った。 「長谷川くん、お菓子食べる?」 後ろの席に座っていたゆかりが、ひょいと上からポッキーの袋を差し出してきた。 「え、いや、俺は……」 「もらうもらう。これ全部いいの? いやー、優しいね。長谷川と分けて食べるから」 和が返事をするより早く杉田が受け取ってしまった。食べたいなら杉田が一人で食べればいいと思ったが、嬉しそうにニコニコしているゆかりを見ると無下にいらないと言うのもためらわれるような気がした。 ほら、と杉田に差し出されてしかたなく何本か受け取る。遠足かこれはと内心で思ったが、なるべく表情には出さないようにした。大人だって旅行のときはいつもと違う気分になるし、そうならなければ親睦旅行とはいえないのかもしれない。 名古屋から博多までは三時間以上かかる。夜更かしをするせいでいつも寝不足だからちょうどいいと思い、和はさっさと背もたれに身体を預けて目を閉じた。親睦を深めねばならないとはいっても、隣の席の杉田とはいつも話しているからかまわないだろうと思った。杉田のほうも「もう寝るのか」と呆れたような声を出しただけで、起きろとは言わなかった。 半ば眠りに落ちかけている意識の中で、こうして新幹線に乗るとまるで実家に帰っているような気がするなと思った。兄に恋人を紹介されたときから実家には帰っていない。たぶん次に帰るのは結婚式だろう。 いわゆる観光スポットである酒倉やら門司港やらを足早に巡った後でホテルに荷物を置き、夜の宴会場へ向かったのが六時、お開きになったのが十時過ぎだった。 新幹線の中から昼食、移動のバスの中と飲み続けていたくせに、夕食の席でも社員たちは散々飲んで騒いでいた。いったいどれだけ飲んだら気がすむのかと和は半ば呆れた気分で思ったが、周りがそれだけ飲んでいる中自分だけ飲まないわけにもいかない。夕食でも相当飲まされて、終わる頃には足元が覚束なくなっていた。 「次行くぞ次―」 係長の浜本が陽気に声を張り上げ、何人かの社員がその後ろに続く。 「長谷川も来い。まだ飲み足りないだろう。若いんだからさ」 「いや、ちょっと俺は……」 「こういうときくらい羽目外したっていいだろうが。潰れたら置いてくけどな」 笑いながら浜本が手招きする。正直断りたかったが、上司の誘いでもあるし、普段のつきあいもあまりよいほうとはいえなかったから、たしかにこういうときくらいは付き合っておくべきなのかもしれない。酒量のわりに妙に冷静な頭でそう考えて、その後についていこうとした。 しかし後ろから肩をつかまれて、振り返ると杉田が立っていた。 「係長、こいつもう駄目ですよ。ふらふらしてる。植野さんも帰るって言っているから一緒にホテルまで送ります」 「植野さんも帰るのかー? そりゃ寂しいな。うるおいが減るよ」 「係長、それセクハラ」 杉田が笑ってそう言うと、浜本も笑って「あ、そりゃ訴えられるな」と頭をかいた。 「まったくつきあい悪いやつらだな。まあ若いもんは若いもんだけで飲んだほうがいいんだろう」 浜本はそれほど気分を害した様子もなく「送り狼になるんじゃないぞ」と冷やかしの言葉を残して行ってしまった。こういうときでも付き合わないくせに嫌われもしないのが杉田の得なところだ。普段の仕事で培っている信頼関係があるからあえて飲みの席で語り合う必要などないのかもしれない。 羨ましいというより、ただ上手いなと思った。人をあしらうのが上手い。 「長谷川君、大丈夫?」 少し赤い顔をした植野ゆかりが心配そうに顔を覗き込んでくるのが正直うっとうしいと思った。彼女に心配されるほど飲んではいないつもりだった。それともそれほどふらふらしているのだろうか。自分ではよくわからない。 「大丈夫、ですよ」 「本当? でも顔赤い」 和は笑い出した。飲んだのだから当たり前だ。 「杉田さんみたいに底なしじゃないですから」 「人を化け物みたいに言うな。それよりちょっとラーメンでも食っていくか? 有名なとこチェックしてあるんだよ」 「いきます! 博多にきたらラーメン食べないと!」 杉田の提案にゆかりが嬉しそうに手を叩く。親しげな二人の様子に何となく嫌な気分になって、「俺は別に腹減ってないですから」と一人で帰ろうとすると、また腕をつかまれて引き戻された。 「バカ。付き合え。お前がいないと俺本当に送り狼になりそうだ」 「………」 なればいいじゃないかと口に出しそうになり、かろうじて自制した。ゆかりだってそれを望んでいるんじゃないかとも思ったが、言わなかった。自分はいったい何に対して腹を立てているんだろうと思った。 杉田に連れられていった店はたしかに有名なところらしく、十時過ぎでも店内は飲み会帰りらしき男女でいっぱいだった。いくらか待って席につき、食べたラーメンは美味かったが、酔いのせいもあってかどこがそれほど他のラーメンと違うのかはよくわからなかった。さらに自他ともに認める食通の杉田が「思っていたのとちょっと違うかな」と首を傾げたのも、果たしてよい意味でなのか悪い意味でなのかもわからない。 「金払ってくから先に外出てろ」 食べ終わって席を立ち、杉田にそう言われたからゆかりとふたりで一足先に店の外に出た。二月の初めともなると寒さも当たり前になるが、だからといって慣れるわけでもない。夜風に首を竦めながらゆかりを見ると、彼女は和を見上げてちょっと困ったような顔をしていた。 「寒いんですか?」 よく見るとゆかりは薄めのコートを着ているだけでひどく寒そうに見えた。華奢で細いからよけいにそう見えるのかもしれない。 「マフラー貸しましょうか……」 「長谷川君」 ゆかりが少し声を張り上げた。和はマフラーを外そうとしていた手を止めて彼女を見た。会社以外で見る彼女はいつにも増して華やかでかわいらしかった。送り狼になりそうだと言った杉田の気持ちもあながち冗談ではなかったのかもしれない。 そういえば、杉田が出てこないなと思って店の入り口を見たが、まだ彼が出てくる気配はなかった。ただ清算をするだけなのになぜまだ終わらないのだろう。 「長谷川君、あのね、私ね……」 ゆかりが何か言おうとしている。ああひょっとして、と和は思った。こんなふうに男と女が二人でいるときに女がためらいながら口に出すことといえば、たいてい恋愛がらみのことに決まっている。 俺にかな、それとも杉田に伝えてほしいというのかなとぼんやり考えているうちに、ゆかりが少しだけ震えるような声で呟いた。「私、長谷川君が好きなの。私と付き合ってくれないかな…」 それはそうだ、当然そうだ、杉田は結婚しているんだから。 今更ながらそのことを思い出して和は納得した。もしも杉田が独身だったらゆかりの言った言葉は違うものだったかもしれない。けれど実際彼は既婚者なのだからそんな仮定に意味はなかった。 「……すみません、けど」 口から出た言葉はほとんど無意識だった。 「俺、好きな人、別にいるから。植野さんの気持ちはすごく嬉しいけど、付き合えない。すみません……」 本当は嬉しいのかどうかわからなかった。ゆかりのことは嫌いではない。けれど特別な感情を抱いたことは一度もない。好かれている風なのは知っていたが、そのとき感じたのは嬉しさより、困惑のほうが多かった。彼女を好きになることはないだろうとわかっていたから、思いを寄せられてもどうしようもなかった。 「そっか……わかった、うん。こっちこそいきなりごめんね、ありがとう」 ゆかりは照れたようにえへへと笑った。無理やり浮かべたようなその笑顔に、初めて和は彼女が本当に自分のことを好きだったのかもしれないと思った。杉田の次でも何でもなく、ただ純粋に自分のことを好きでいてくれたのかもしれない。 「植野さん……」 「ごめんね。……あ、そうだ、杉田さんね、たぶん私たちが二人っきりになれるようにしてくれたんだと思う。旅行に来る前に相談したから。だから待ってても来ないと思う。先にホテルに帰ったほうがいいよ……」 強張った笑顔は泣きそうに見えた。よけいなことをしてくれた杉田に対して正直腹が立つ思いだったが、ゆかりをこのまま残していくわけにはいかない。杉田を探して文句を言うより彼女を送るほうが先だ。 「じゃあホテルまで一緒に帰りましょうか」 「……うん」 二人でホテルまでの短い距離を歩き始めた。 こんなふうに告白されて断ることは初めてではない。けれど断るときはいつもひどい罪悪感がして、それに慣れることはなかった。寒さや暑さに慣れないように罪悪感にも慣れず、こんな思いをするくらいなら誰も自分のことなんか好きになってくれなければいいのにと思う。 いや、誰も、ではなく、自分が大切に思う人間以外は。 夜は昼間よりずっと風が強くて、吐く息は白く凍って流れていく。和が手を伸ばしてゆかりの指を握ると、彼女ははっと驚いたように顔を上げたが、振りほどこうとはしなかった。だから手をつないだまま少し歩いた。 好きになれたらよかったのにと思った。彼女のようにかわいくて独身の女の子を、自分を好きでいてくれる相手をちゃんと好きになれたらよかった。 けれどそれは、今更もうどうしようもないことだった。 |
| あとがき / この話は実は11まであります。やっと半分を過ぎた計算ですね。長いな……。 |