8 四月に入って寒さは幾分和らいできたとはいえ、街で見かける人々の大半がまだコートを着て、寒そうに首を竦めながら歩いている。 天気のよい日の昼間はそれでも大分暖かく、柔らかな空気と開き始めた花々の香りに足を止めることが多くなった。朝晩の冷え込みが嘘のようにもう春なのだと強く感じる。通りがかりの公園でふと立ち止まった後、すぐに歩き出しながら和は「春だなぁ」と声に出して呟いてみた。自分の声なのにまるで他人のもののように聞こえた。 和の勤める会社では、この四月に三人の新入社員を迎えた。和と同じ営業課にも一人、新卒の女の子が配属された。髪の長い真面目そうな女の子で、控えめに笑った顔がかわいらしかった。彼女には和の時と同じように杉田が仕事を教えることになり、二人でいる姿をよく見かけるようになった。 公園も街中も、土曜の昼間だけあってカップルの姿が多く見られる。そういう姿を見るともなしに流しながら、和は春なのに一人でいる我が身を少しだけ寂しく思った。これから暖かくなるにつれて人恋しさは薄れるはずだ、そう思いながらも、どこか胸の中に穴が空いたような思いは変わらなかった。 待ち合わせの喫茶店に入ると、相手はすでに来て待っていた。遠藤佐織は一度会ったきりの和の顔をちゃんと覚えていたらしく、手を振ってにっこりと笑った。和も手を上げてそれに答える。 「お久しぶりです」 「本当ね。長谷川君がちっとも電話くれないからお姉さん寂しかったわ」 冗談めかして笑う。佐織と初めて会ったのは十二月の終わりごろだったから、もう四ヶ月近く経つことになる。杉田の設定してくれたコンパで出会い、互いに電話番号を交換したものの、どちらからもかけないまま時間がたった。番号の交換自体、そもそも社交辞令のようなものだというのはどちらもわかっていた。だからかけなかった。 なのにこんなに経ってから佐織に電話をもらったことは意外だった。年度始めは残業続きで平日には会えそうもなかったから、無理を言って土曜日にしてもらった。 注文を聞きにきたウエイトレスにコーヒーを頼む。佐織はもう先に注文していたようで、テーブルにはレモンティーが乗っていた。 「それで、話っていうのは?」 問いかけると、佐織は何でもないような口調で「杉田のこと」と言った。電話で話があるから会いたいと言われたとき、やはり真っ先に思ったことは当たっていた。こんなに時間がたってからデートの誘いでもないだろうし、彼女と自分との接点といったら杉田のことくらいしか思い浮かばない。 二月初めの親睦旅行以来、杉田の態度は明らかに変わった。他の社員たちがいる前では別に何も変わらない。以前と同じように和に話しかけるし、冗談も言う。しかしそれ以外にはまったく和に関わってこようとしなくなった。以前は仕事帰りに何度も一緒に飲みに行ったのに、それがなくなった。二人の時に話しかけようとしてもさりげなく距離を置く。そもそも二人きりになるのを避けているようで、滅多に彼と二人になることはなかった。 後悔した。こんなことになるくらいだったらあんなことしなければよかった。優しくしてくれるだけで満足していればよかった。あんなふうに触れなければ以前のままいられたのに。それでも取り返しようはなかった。今更どうにもできない。 「長谷川君、杉田と喧嘩でもした?」 「え……?」 「あのね、このあいだまた一緒に飲もうと思って久しぶりに杉田に電話したの。オッケーだったんだけど、せっかくだから長谷川君も誘ってよって言ったらさ、急に黙り込んじゃって。それから二人で会ったりしてるのか、って聞かれちゃった。何よ、気になる?って冷やかしてやったらね、あいついきなり電話切ったのよ。信じられる? 話の途中なのによ!」 そのときのことを思い出したらしく、不愉快を滲ませた口調で言って佐織はテーブルを叩いた。レモンティーのカップが音を立てる。 「腹立ったんだけどさ、あいつがそんなことするのって珍しいでしょ。だからどうしたのかと思って。長谷川君、何か知らない? 長谷川君なら知ってるんじゃないかと思ったんだけど……」 「さあ……」 自分の名前を聞いただけで電話を切るほど嫌われてしまったのだろうか。そう思うと、もう笑うしかないような気分になった。しかしそんなことを佐織に言えるわけがない。言葉を濁して首を傾げてみせると、佐織は「やっぱり知らないか」と呟いて髪をかきあげた。 「そうね。ごめんね、わざわざ呼び出したりしちゃって。電話でもよかったんだけど、長谷川君の顔見たかったし。たまには若い男の子と一緒にお茶飲むのもいいかなと思って」 相変わらずきれいな顔で微笑んでそんなことを言われると、社交辞令だとわかっていても少しだけ嬉しくなった。もともと彼女は和の好みの範疇に入る。年上だし、しっかりしていて後腐れがなさそうだ。本気で口説こうかなと考えて……すぐにやめた。自分の寂しさを紛らわすために人を利用しようとするから駄目なのだと思った。杉田に嫌われるのも当然だ。 「遠藤さん、本当に杉田さんと仲がいいんですね」 「私? うーんまあ、そうね。あいついい奴だからね。友達としては最高かも」 「恋人としては? 杉田さんのこと好きだと思ったことありませんか」 和は男女間の友情をあまり信じていない。失礼な質問かもしれないと思いながら尋ねると、佐織は別段気を悪くした風もなく、「うーん、どうかなあ」と首を傾げた。 「いい男だとは思うわよ。でも知り合ったときから彼女いたしね。それを知ってて相手に惚れることとかしないのよ。まずこいつは駄目ってセーブがかかるからね。安全装置みたいなやつ。他の人は知らないけど、私はそう」 そんな風に言い切れる佐織が羨ましいと思った。特定の相手がいるから最初から好きにならない。そういう風にできたらよかった。杉田が結婚していることなんてずっと前から知っていたのに。 「私はね、杉田もそういうタイプだと思う。あいつ浮気って絶対しそうにないでしょ。たぶん、それだけ奥さんを愛してるってことじゃないと思うのよ。単に頭で、決まった相手のいる自分が他の誰かと親しくするわけにはいかないって思ってるだけ。それは正しいことなんだけど、そんなわかりきったことを、それでも破ってしまうくらいに感情が昂ぶったことがないってことよ。私と同じで、本気で人を好きになったことがないの」 佐織が言っていることは以前、和が杉田に対してぶつけた言葉と同じだった。ただ絡みたくて言っただけの言葉だったのに、ひょっとしたら本当のことだったのかもしれない。 杉田は理性的だ。だから妻以外の相手、しかも男とあんなことをしてしまったことが許せないのだろう。 「長谷川君は?」 急に問いかけられて戸惑った。 「え?」 「長谷川君は本気で誰かを好きになったことがある? 相手がいる人でも、自分のものにしたいって思うくらい好きになったことある?」 和は押し黙った。 ある。ずっと好きだった。自分でも気づかなかったけれど、ずっとずっと好きだった。 けれど言わなかった。好きだと言えば彼はどうしたのだろうか。優しい男だからひょっとして受け入れてくれただろうか。わからない。自分は何も言わなかった。もっと早く自分の気持ちに気づいていたら言えたのに。彼が美紀子を選ぶ前なら、きっと言えたのに。 「本気で好きになれたらっていつも思うけど、でもちょっと怖い気もするわ。思いが叶っても、叶わなくても、やっぱり辛い気がするもの」 和の答えを待たずに佐織はそう言って小さく微笑んだ。彼女は杉田に似ている。冷静に自分の気持ちを口に出すところや、淡白なところ。一緒にいて感じる雰囲気が近い。だから少しだけ寂しくなる。 「長谷川君、杉田と仲良くしてやってね。あいつ長谷川君のことかなり好きだと思うから」 突然の思いがけない言葉に驚いて佐織を見た。 「そんなことないですよ」 「あるわよ。この間のときわかったもの。あいつって誰とでも上手くやってそうだけど、本当は一人でいるの好きなのよ。なのに長谷川君とはよく飲みに行くんでしょ? 珍しいわよ」 「……そうなんですか?」 「そうよ」 にっこりと微笑んでから、佐織は「じゃあもう帰るわ。あんまり時間取らせても悪いし」と立ち上がった。 彼女の言葉が本当なら嬉しいと思った。けれどどちらにしても、あんなことがあった今となってはもう意味のないことだ。いくら気に入ってくれていたとしても、今は変わっているに違いない。 もうちょっとここにいる、と佐織を見送ってから、和はひとりでぼんやりと空になったコーヒーカップを見つめた。 自分はいったい杉田のことをどう思っているのだろう、と初めてそんなことを考えた。好きだ。それは間違いない。先輩としても男としてもいい男だ。優しくされたりかまわれたりするのは嬉しかったし、同期の誰よりも彼と親しくなりたかった。 ならばそれは恋愛感情だったのだろうか。今まであまり意識したことはなかった。恋愛感情だから、あんなふうに彼に触れたいと思ったのか。 そうなのかもしれない。キスをしたい。抱きしめたい。そう思った。好きだと告白されてもゆかりには少しも感じなかった欲望を杉田に対しては感じた。たとえ酔っていたにしても、そのせいだけじゃない。彼だから触れたかった。 (ああ……なんだ) 少しは成長したじゃないかと思った。今度はこんなに早く気がついた。でも気がついてどうする。出会ったときから杉田には決まった相手がいるのに。守るべき家族がいるのに。 両手で顔を覆い、かたく目を閉じた。 それでも、彼のことが好きだと思った。 |
| あとがき / 長くなると段々後書きに書くことがなくなってきます。というかこの話に対して書くことが……。 |