9 新人の中井絢子と一緒にいる杉田の姿を見かけたとき、言おうと決意していた言葉が一瞬咽の奥にひっかかって、それを口にする勇気がなくなりそうになった。 二人は楽しそうに話をしながら和のいるほうに向かって歩いてきて、すれ違う瞬間、杉田は少しだけ目を上げて和を見たが、気づかなかったように何も言わずに通り過ぎた。たったそれだけのことでおかしいくらい胸が痛い。 「杉田さん」 後ろから声をかけると、彼は立ち止まり、怪訝そうに振り返った。聞こえなかったふりをするには大きすぎる声だったからかもしれない。絢子も同様に立ち止まって杉田と和の顔を見比べている。 「長谷川?」 「今日、仕事終わったらちょっと時間とれないですか。話があるんです」 「今日?」 杉田は眉を顰めた。「今日は駄目だ。接待があるから……」 「待ってます。俺、ずっと会社にいますから」 「何時になるかわからないんだ。明日じゃ駄目なのか?」 「今日がいいんです。お願いします」 明日になればもう言えなくなるかもしれないと思った。せっかく自分の気持ちを整理して、前のときのような後悔を二度としたくないと思ったから、ちゃんと言おうと決意したのだ。どんな結果になってもいい。言わずに後悔することだけはもうやめようと。 杉田は困ったような顔をした。こんなふうに近くで彼の顔を見るのは久しぶりだ。 「本当に遅くなるかもしれないんだ。悪いけど……」 「いいです。どれだけ遅くなっても。だからお願いします」 頭を下げると、杉田は絢子や周りの目を気にするように視線をさまよわせ、それから諦めたようにため息をついた。 「わかった」 短くそれだけ言うと、じゃあな、と絢子と一緒に歩いていってしまう。その後ろ姿をしばらく見送ってから、和も歩き出した。今晩杉田と一緒にいられる。その約束だけで、今は十分だと思った。望まないことは慣れている。いや、本当に欲しいものは望んでもずっと得られないものだったから、叶えられるなどとは思わずに、それでも望むことに慣れている。 夜も九時を過ぎると残っていた社員たちも減り始め、十時を回る頃には自分一人になってしまったことに幾分か安堵するような思いを抱えながら、和は溜まっていた書類整理で時間を潰していた。ここしばらく残業続きだったから時折眠気が襲ってきたが、その度に顔を洗ったりコーヒーを飲んだりして頭を覚ました。杉田が来てくれたときに居眠りをしていたのでは最低だ。そう思ったから、わずかの間でも眠るわけにはいかなかった。 さすがに目が疲れたなと思いながら時計を見ると、十一時が近くなっていた。取引先との接待だからもうしばらくかかるかもしれない。ひょっとして日付が変わるだろうかと考えて、少し後悔する。そんな遅い時間にわざわざ会社に戻ってきてくれと頼んだのはひどい迷惑だったと今更ながら気づいたからだった。 杉田の言う通り、明日にすればよかったのだ。別に彼は和の話を聞く気がなくて今日は駄目だと言ったわけではない。本当は話したくなくても、面と向かって頼めば無視したりしない。だから彼が断ったのは本当に不都合だったからなのに、今日を逃せばもう言えなくなるような気がして、無理を言った自分が情けなかった。自分の都合で杉田に迷惑をかけた。今までずっと面倒ばかりかけつづけてきたくせに、この期に及んでまだそんなことをしている。 「………」 仕事を放り出して席を立ち、窓辺に近づいた。 窓から見える光景からは、さすがに車の数は少なくなっていた。一日中眠らないような大都市とは違い、このあたりは真夜中には本当に真っ暗になり、目に付くのはただ自動販売機や街灯、そしてごく稀に二十四時間営業のコンビニエンスストアの明かりだけだった。 このまま、杉田は来ないかもしれないと思った。酒を飲んでいるから車の運転などできないし、タクシーを使ってわざわざ駅ではなく会社に帰るなど、正気で考えればどうしたっておかしなことだった。 明日になったら言えるだろうか。明日でも、ちゃんと本当の気持ちを言えるだろうか。 けれど本当は、言ってはいけないことなのかもしれない。杉田は優しいから、言えばきっと気にする。どうせ駄目なら何も言わないほうが、彼によけいな負担をかけずにすむのかもしれない。 言ってすっきりするのは自分だけだ。何一つ彼のためにはならない。 あれだけ親切にしてもらったのに、最後まで自分は彼に迷惑をかけるつもりなのだろうか。 「振られてあきらめられるなら今あきらめたって同じだろう」 声に出して言った。 どうせあきらめるなら。何も言わずにいるほうがきっと。 和はその場にしゃがみ込んで顔を覆った。あきらめろ、自分に何度も何度も言い聞かせた。兄のことだってあきらめたじゃないか。今度だってあきらめられる。何も始まってさえいないのだから、あきらめるのなんて簡単だ。そして今度こそ、もっと別の、もっと誰も困ったりしない、もっと普通の相手を好きになるように努力しよう。 今日だけだ、今日だけ。今日限りでもう、杉田のことはあきらめる。だから彼が来なければいい。そのまま家に帰って、彼の大切な家族と一緒に眠ればいい。 なのにそのとき、こちらに向かって走ってくるような靴音がして、思わず立ち上がって振り返ると、杉田の姿が見えた。 「悪い、接待が長引いて……! 早く引き上げようと思ったけど、二次会まで付き合わされて……悪かった」 息を切らしながら申し訳なさそうに言う杉田の顔を見ると、和はどうしていいかわからなくなった。 あきらめようと思った。もし彼が来なかったら。 でも来てくれたらどうするかなど考えていなかった。 「長谷川? どうした、お前顔色悪いぞ。大丈夫か、疲れが溜まってるんじゃないのか」 気遣うような彼の言葉に思わず目を逸らした。「そんなことは杉田さんに関係ないです」咄嗟に漏れた言葉に自分で驚いた。嫌になるくらい拒絶的な声だった。まるで自分が疲れているのは杉田のせいだとでも言うように尖った声だった。 「長谷川……もし、仕事で何か困ってることがあるんだったら……」 「相談に乗ってくれるんですか? 俺のことずっと避けてたのに?」 和の言葉に杉田は答えなかった。「避けてたことは認めるんだ」と呟くと、杉田は顔を上げ、「ああ」と短く答えた。 そのまま、しばらくどちらも口を開かなかった。こんなことが言いたいんじゃないんだと、和は自分が心底嫌いになりそうだった。杉田を責めたいわけじゃない。避けられて当然のことを自分はしたのだ。彼は何も悪くない。 「……ごめんなさい。もう、帰ってください。わがまま言ってすみませんでした」 唇を噛み締めて頭を下げた。彼は約束どおり来てくれた。それだけでもう十分だ。他に望めることは何もない。 もうちょっと、時間が経ったら彼にもっときちんと謝って、今までありがとうございましたと言おう。今はとても言えない。これ以上彼と一緒にいたらよけいなことまで言ってしまう。 「けど話があるって……」 「もういいんです。本当に、すみませんでした。でも来てくれて嬉しかったです。ごめんなさい、ありがとうございました」 「遅れたから怒ってるのか? 悪かったよ。謝るから……」 和は首を振った。 「怒ってません。やっぱり言わないほうがいいことに気がついただけです。本当に怒ってなんかないです。早く帰ってください。家族が待ってるでしょう」 早く帰れ。 心の中でそう願った。これ以上そばにいないでくれ。こんな夜中に、二人しかいなくて、いつまで平静でいられるか自信がない。せっかく何も言わずにあきらめようと決意したのだから、それを揺るがすようなことはしないでくれ。 なのにその願いとは逆に、杉田は和のそばに近づいてきた。 「……お前がそんな顔してるのに、放って帰れるかよ、馬鹿」 ためらいがちにそろそろと伸ばされた手が自分の髪に触れるのを、和は身じろぎもせずに黙って見ていた。どうして彼はこんなことをするんだろうと思ったら悲しくなった。自分の気持ちなど少しも知らないで、これだけのことにどれほど心が騒ぐか考えもせず。 頭を振って杉田の手を払った。杉田は少しだけ傷ついた表情を浮かべたように見えたが、本当のところはよくわからなかった。 「優しくしないでください。俺を避けてたくせに、今更優しくなんてしないでください。今までどおり無視したらいいじゃないですか。俺がどんな顔してたって、無視して普通にしてたらいいじゃないですか」 完全な八つ当たりだった。 和は杉田の顔をまともに見ることができなくなった。口を開けば杉田を責めるようなことばかり言ってしまう自分が嫌でたまらなかった。 「……もう帰ってください。お願いですから……」 これ以上一緒にいると自分が惨めになるだけだった。杉田にこれ以上の醜態を晒す前に、早く帰って欲しかった。 けれど杉田はやはりその場を動こうとはしなかった。沈黙が長く続き、やがて杉田は深い息をついた。 「俺は、お前が傷つくなんて考えてなかった。悪かった……」 「――杉田さんは俺が平気だと思ったんですか? あんなふうに無視されても?」 「無視するつもりじゃなかった。ただ距離を置こうと思っただけだ。いつも誘ってたのは俺からだったから……誘わなければ、それで関係は終わりになると思った。お前と一緒にいたいのは俺のほうだったから、俺さえ何もしなければ疎遠になると思ったんだ」 杉田の言葉に嘘があるとは思えなかった。たしかに彼は表立って和を無視していたわけではなく、ただ今までのように頻繁に話しかけてきたり飲みに誘ったりしなくなっただけだ。それを無視されたと感じたのは今までが親しすぎたからで、ただの同僚としてならば当たり前の関係に戻っただけだった。 「……俺のこと、嫌いになったからですか? ……あんなことしたから?」 「違う」 杉田の顔は辛そうだった。彼の目は和を見ていなかった。いつも人と話すとき、まっすぐ相手の目を見て話す男なのに、今はそうではなかった。 「お前が悪いわけじゃない。嫌いになったわけでもない。旅行の時のことは……関係ない」 「じゃあどうしてですか。俺、理由もわからずに避けられるのは嫌だ。嫌いになったから、でもいいんです。本当のことを知りたいんです」 和の言葉に、杉田は俯いて唇を噛み締めた。そしてしばらく何かを考えるように黙り込んでから、次に口を開いたとき、彼の声はどこかあきらめを含んだものになっていた。 「前に、女房が俺の浮気を疑ってるっていう話をしたよな」 いきなり話題が変わったことに戸惑いながらも、和は頷いた。たしか以前、無理やり杉田を引き止めて家に泊まってもらった翌日に、杉田がそんな話をしていた覚えがある。彼が浮気をしそうにないことくらいわかりそうなものなのに、と和は思い、内心で杉田のために憤慨したのを覚えている。 「旅行から帰った日の夜に、面と向かって訊かれたよ。浮気してるんじゃないかって。あの話をしたときだったらな、俺はそんなわけないだろうって言えたよ。俺がそんなことするはずがない。俺を信じろって言えた。……けどあの夜、俺は言えなかった。泣きそうな顔してる女房に対して、俺は何も言えなかった。どういうことかわかるか?」 杉田は顔を上げ、そう問いかけながら和に笑いかけた。痛々しい笑顔だと思った。 ――どういうことかわかるか? わからなかった。杉田が何も言えなかったのは、自分が浮気をしていると思ったからだろうか。 それはひょっとして、旅行の晩にしたことのせいで? 「そんな! だけど、あれは酔ってたし、ふざけただけじゃないですか! あんなの浮気なんかじゃ……!」 「俺は酔ってなかったよ」 杉田の声は静かだった。相変わらず笑顔を浮かべたまま、彼は静かに言葉を続けた。 「お前は酔ってふざけただけだ。そんなのわかってるよ。でも俺は酔ってなんかいなかったし、自分が何やってるかわかってて、……お前にキスしたし、抱きしめたよ。後悔するのわかっててそうした。お前に触れたいと思った」 杉田の告白に、和は言葉が出なかった。言われたことが信じられなかった。 触れたいと思ってくれた? 自分がそう思ったように、彼も思ってくれたのだろうか。 「どういうことかわかるだろ。……だから俺は女房に何も言えなかった。あいつは泣き出して、俺は謝った。あいつは絶対許さないって言った。俺は……」 杉田は首を振った。 「俺は謝るだけだった。今すぐ相手と別れろと言われても、付き合ってもいないのに別れるなんてできるはずがない。どんな相手か訊かれても答えられない。離婚は絶対してやらないって言われたよ。俺はほっとした。離婚するつもりなんてないからな。俺はあいつを裏切ったんだから、許してもらえないのは当然だ。仕方ない。でもお前のことは……」 そこで杉田はふと夢から覚めたような顔をした。 「もうわかっただろ。わかったら、……俺が言ったこと全部忘れてくれ。俺はお前にもう近づいたりしない。気持ち悪い思いは絶対させないから、安心していい」 感情を無理やり切り捨てたような声だった。 どうしてそんな話になるんだろうと和は思った。ついさっきは夢を見ているかと思うほど胸が高鳴ったのに、それから数分の後には打ちのめされたような気分になっている。 「……どうしてですか」 しぼりだした声は掠れていた。 「忘れられるわけがない。どうして忘れないといけないんですか。俺、気持ち悪いなんて思いません。俺だってふざけてあんなことしたわけじゃない。杉田さんのこと、好きだと思ったから……」 「長谷川!」 杉田が大声を張り上げて和の言葉を遮った。 「言うなよ。言うな。何も言わずに忘れてくれ」 「どうして! そんなこと言うなら最初から期待をもたせるようなこと言わないでください。俺、あきらめようと思ってたのに……どうせ無理だからあきらめようって思ったのに……けど、そんなこと聞いたらあきらめられない。俺は杉田さんが好きだ。……すごく好きだ」 「……長谷川……」 杉田は辛そうな表情で首を振った。 「俺は……お前に何もしてやれない。俺には家族がいるんだよ。お前が寂しいとき、俺はきっとそばにいてやれない。お前はもっと、お前のことだけ考えてくれる奴と付き合った方がいい」 「誰でもいいんだったら俺はもっと早くに誰かと付き合ってた。でも好きな人と一緒じゃなきゃ意味がないよ。そんなの当たり前じゃないですか」 「俺は駄目だ。別の相手を探せ」 「俺は杉田さんがいい」 一歩足を踏み出すと、杉田は後ろに引いた。あくまで距離をとろうとする杉田に腹が立って、素早く杉田の腕を掴むと、両手で強く握りしめた。 「俺は杉田さんがいい」 「……駄目だ」 「何もしてくれなくていいよ。少しだけ……一月に一回でもいい。一時間でも。少しだけ俺のそばにいてください。そのときだけは、俺のことを見てください。俺はそれだけでいい」 「そんなのは駄目だ」 「何で。難しいこと言ってないよ。俺、杉田さんと一緒にいたいよ。奥さんと別れてくれなんて絶対言わない。ちょっとだけ、俺に杉田さんの時間をください。本当に、ちょっとだけ」 握りしめた手を離したくなかった。なんとも思われていないならあきらめようと思った。けれどそうではなくて、彼も自分のことを少しは思ってくれているとわかったのに、あきらめることなんてできない。もうできない。 杉田の手に唇を寄せると、彼は「よせ」と短く言ったが、その手を振りほどこうとはしなかった。手のひらに口付けて、頬を寄せる。あきらめられないと強く思った。この手の温かさも優しさも知っているのに、あきらめられない。 「長谷川、俺を困らせないでくれ……」 「嫌だ。好きだよ。好きだ。一緒にいたい」 「長谷川……」 杉田はどうしていいかわからないというように顔を歪めた。彼の心が揺れているのがわかった。俺はずるいと思いながらも、和は杉田に一番効果的な言葉は何かを知っていたし、それを言うことをためらわなかった。 「寂しいんです、杉田さん。俺、杉田さんがいてくれないと、駄目なんだ……」 杉田は唇を噛んだ。和がそっと顔を寄せると、彼は一瞬身を強張らせたが、顔を背けようとはしなかった。唇が触れてもそのままで、腕を離して背中を抱きしめると、少ししてから同じように手を伸ばして抱きしめてくれた。 それから互いに夢中になってキスをした。初めて口づけたあの夜と同じように、深くて長いキスをした。 息があがるまでキスを続けて、やがて唇が離れると、和は杉田に向かって笑いかけた。杉田は笑わず、ただ泣きそうな顔をして、和の肩に顔を埋め、「……お前が好きだ」と呟いた。 彼に家族がいることも、同性であることも、何もかもどうでもいいと思った。 |
| あとがき / 告白編。というか。私不倫なんて書いたの初めてです、よく考えてみると(がーん)。 |