秋の風色





 糸のような雨が朝から降り続いていた。
 じっと見つめていると雨の流れが残像のように目に焼きついて、今降っている雨なのか、本当はもう止んでしまっているのかわからなくなる。瞬きをしても消えない残像とわずかに耳を打つ静かな音に、やっぱりまだ降り続いているのだと知った。そして時折近くを通りすぎる色とりどりの傘の色に。目が合うと不審げに逸らされる視線。
 しゃがみこんで抱えた膝を引き寄せた。
 高級マンションの玄関近く、ガラス張りの扉から見えない位置で雨に打たれる体の感覚は視覚よりもさらにあてにならなくなっている。夏だからと思って当たり前に着た半袖のTシャツはぐっしょりと体に張りついていた。
 時折目に入る雨の滴を肩で拭って頭を振る。マンションに帰る住人が管理人に通報する前に、と思った。
 その前にあの人が帰ってきてくれたら、と。
 覚えていなくてかまわない。俺が覚えているから。
 一目見たらきっとわかる。ただ一目、もう一度会いたいだけだから。
 肩を抱くように身を縮めたら自分が消えてしまえるような気がしていた。あの時、僕は消えてしまいたかった。思い通りに描けない指はいらなかった。見たものをそのまま捉えられない目もいらなかった。しゃくりあげることしかできない咽喉も、雑音しか聞こえない耳も何も、いらないと思った。僕はあの手が欲しかった。ただあの人の指が欲しかった。
「――…」
 雨の気配に不意に混じったかすかな花の香りに目を上げた。
 明るい色のスーツを着た女の人がすぐ近くに立ってこちらを見下ろしていた。その後ろにもう一人、背の高い男の人が両手に大きな荷物を抱えて立っている。その人もきちんとした紺色のスーツを着て髪を整え、まるで結婚式帰りの人のように見えた。
「雨、やんでるから傘は貸せないけど」
 言ったのは女の人だった。僕は自分に言われているのだとはじめわからなかった。ぼんやり見上げているとその人はちょっと眉を上げてニッと笑い、連れらしい男の人を振り返った。
「タオルを貸せって? お前覚えてて言ってるの、それとも誰にでもそう言うの」
 男の人が足を踏み出して僕のすぐ前に立った。両手に抱えていた荷物を片手に持ちなおし、僕の頭に触れると、ぎゅっと髪を握ってすぐに離した。滴を払うように手を振りながら笑った。
「濡れ鼠。お前こんなとこで何やってるんだ」
 夏生、と彼に名前を呼ばれたとき風が吹いたような気がした。


「あのさぁ、恵って私のこと好きだったんだって。知ってた?」
 千賀子さんがきれいに結わえた髪をうっとうしげにほどきながら振り返る。伊原さんはリビングに広げた荷物を片付けながら短く「ああ」と答えた。
「知ってたよ」
「ちょっと、何で教えてくれなかったの? 言ってくれたらつきあったのにって言ったら恵、泣きそうな顔してほんとですか、って言ってたわ」
「嬉しかったんだろ」
「私は全然嬉しくないわよ。結婚式のときにそんなこと言われてどうすんの。今更つきあえないけど、もったいないじゃない。私高校も大学もフリーだったのに」
「知らないよ」
 ネクタイを緩めて伊原さんが笑った。千賀子さんは口をへの字に曲げて伊原さんを見ると、急にふっと肩の力を抜いて頭を振った。長い髪がさらりと背中に流れる様がきれいだと思った。
「伊原もさぁ、私のこと好きなら早めに言っといてよ。私の結婚式のときに後悔しても知らないわよ」
 緩めたネクタイを首にかけたまま、伊原さんは心外なことを聞いたとばかりに目を上げた。
「俺はお前のことを好きなのか?」
「あんたのことなんてわからないわよ。好きなの?」
「さあ? 考えたことなかったな」
 何よそれ、と千賀子さんが面白そうに笑った。不意にまた花の香りがして、ようやくそれが彼女の香水の匂いなのだとわかった。作り物の花の香り。だからこんなに香る。
「まあ後悔しないうちに考えてよ。私のこと好きかどうか」
「告白してもふられるんなら考えるだけ無駄だから先に聞いとくけど、お前俺のこと好きなのか」
「好きよ」
 さらりと千賀子さんが言った。「ずっと好きよ。私、人の気持ちはわからないけど、自分のことは知ってる」
 へえ、と、ちょっと笑うように伊原さんが言ってふと俺のほうを見た。バスルームから出てきたままぼうっと突っ立っていた俺のそばに歩いてくると、頭から被ったタオルを掴んでごしごしと髪を拭いてくれた。
「育ったな。あんなちっちゃかったのに」
 立ち上がって並ぶと、伊原さんは俺とそんなに背が違わなかった。もっとずっと大きいと思っていたのにいつのまにか、自分がこんなにも背が伸びていたのだと初めて気づかされたようだった。
「ちゃんと乾かしな、風邪ひくぞ」
 窓開けてもいい、と伊原さんが俺に聞いた。頷いた。彼が窓際に立って大きく窓を開け放すと、雨の匂いを残した風が吹きこんできて髪を揺らした。サアッと、風が部屋の中を吹きぬけていく。
「雨完全に上がったな。風が冷たくなった」
 秋の匂いがする、と伊原さんが目を細める。そのまましばらく窓のそばから離れなかった。彼の肩越しに外の景色を望み、灰色の雲ばかりだった空がいつのまにか青く晴れ渡っていたのに驚かされた。霧が晴れるように短い時間でこんなにも姿を変える。九月の始め。まだ暑いと思っていた風はたしかにもう秋の気配を孕み始めて澄んでいる。
 高校二年のとき部活で出した展覧会に入賞して以来、僕の名前は一人歩きするようになった。都内の美大から特待生としての入学を打診され、思い出したのはただこの窓から見る景色のことだった。
 あの春、叔父のところで過ごすはずだった一週間を過ごした場所を僕はいつまでも忘れることができなかった。静かで美しいものを生み出す指は静かで風通しのよい部屋で暮らす人だけが持ち得るものだった。雑誌や周囲の人々にいくら誉められても信じられなかった。もっとずっと美しい絵を知っている。もっとずっと懐かしく、静かな絵を。僕が欲しいのは、心から焦がれるものは。
「体が香水くさい。やだなぁ」
 千賀子さんの声に振り返る。作り物の花の香りをそれでも僕はきれいだと思ったので。
 風に混じる本物の花の香りのように思えたので。
「………」
 作り物の景色を、自分が何より求めていることを知ってその不健全さにおかしさがこみ上げてきた。匂いもない、音もない、触れられもしない景色。それは幻と変わらない。でも自分だけの目ではなく、多くの人に見てもらえるところが違う。人の心を震わせることができるところが違う。
 それは四年前にあの展示場で彼の絵を見たときのように。
 部屋の中を風が通り抜ける。彼が振り返って千賀子さんにだか、僕にだかわからない微笑を向けた。


 この居心地のいい部屋。秋の風の匂い。


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あとがき / 時系列的にも書いた順でも一番最後の話。この話のキャラは書きやすかったのでまたいつか別の話を書いてみたいと思っています。絵画の勉強したいなあ。