風の匂いが変わる。 季節が移るとき、一番はじめに気づくのは風の匂いの変化で、その次に空の高さや、昼夜の長さ、鳥や虫たちの声、肌に感じる空気の重さが、遅れ馳せながら新たな季節の到来を告げる。緩やかにしかし確実に、古い季節を押しのけてやってくる。 「栗坂夏生」 いっぱいに開け放した窓から吹きこんでくる風に、ブラインドが揺れてカタカタと音を立てた。鏡の前でネクタイを整えていた瀬川は唐突に振り返り、顎をしゃくってテーブルの上に広げられた雑誌のページを示した。 「若き新星現る――籐花展初出品にして金賞受賞。若さをダイナミックに表した大胆な表現と力強さが特徴。瞬く間に日本絵画界の若手ホープに駆け上がった期待の新人。――お前、どう思う?」 低い声の問いかけに伊原は再び雑誌に目を落とし、ページ一枚まるまる使って映し出された栗坂夏生の作品『花火』を見た。黒く塗りつぶされた背景に、目を奪うほど色鮮やかな花がいっぱいに散らされている。特定の輪郭に収まりきらない色彩が画面全体に飛び散り、夜を照らしているような世界。光と闇がぶつかりあう強烈な印象。 「実際に見たらもっとすごいよ。大胆と言われるが、本質は繊細だ。迷いもある。なのに力強い。確かに今こんな絵を描く人間は他にいないだろう」 瀬川ははっと短く息を吐くように笑った。 「親父が今ご執心だよ。売れるものには目がないからな。だがまあ、栗坂は売れるよ。本物だ」 「ここで彼の絵を扱うのか」 「目下交渉中。概ね問題なく進んでいるらしい」 オーナーの息子は他人事のように感情のこもらない声で言い、タイの結び方が気に入らなかったらしく、舌打ちしながら引き抜いた。すぐに再挑戦を始める。 アートギャラリー瀬川は、ここら辺りでは割合に名の知れた画廊で、有名作家と無名だが有望な新人作家を同じくらい抱える抜け目のない経営で定評があった。有名作家が飽きられる頃には大切に育てた若手がその後を継いでくれるという寸法で、もちろん大成する前に駄目になる新人も大勢いるが、他の画廊に比べてその割合は低かった。予め本当に有望な新人しか扱わないという経営理念が徹底しているからだ。 伊原は腕組みをして雑誌のページを見つめたまま、わずかに首を傾けた。自然に笑みが浮かんだのはふと、少年のあどけない瞳を思い出したからだった。絵を教えて下さいと言ったあの日、彼はまだ中学生だった。 「そういえば、入選おめでとう。母がえらく喜んでた」 鏡のほうを向いたまま、気のない声で友人が言った。興味がないと言わんばかりの声に形ばかりの礼を言う必要も感じられず、伊原は返事をしなかった。 ここ数年、主に瀬川の母親の口添えによって、この画廊で作品を扱ってもらえるようになった。息子の友人だからという考えは家族に冷淡な息子同様、そもそも彼女の頭にはないらしく、その意味では別段瀬川に感謝するいわれも何もない。 「親父にお前を推す理由がたったからな。作家を顔で選んでるなんてことを言われずにすむ」 ぎゅっとネクタイをしめ、満足したように笑ってようやく瀬川は鏡の前を離れた。伊原の座っている向かいの椅子を引いて腰を下ろした。 父親の後を継がず、大手広告会社に就職した瀬川は土曜日の今日も昼から取引先との打ち合わせがあるという。出かけるにはまだ少し早いらしく、瀬川夫人がやってくるまでの伊原の相手をしてくれている。 「だが使えるものは使うべきだろうな。俺がもしお前の絵をアピールするならもっと作者をクローズアップする。顔は悪いよりいいほうがいい。断然」 「誉められてるんだったらどうも」 「栗坂夏生を見たことがあるか? このあいだ会ったよ。話はしてないけどな。あいつも容姿は悪くない」 伊原は夏生の小犬のような目を思い出した。彼はいつも、思わずこちらがたじろぐほどの真っ直ぐな強い視線を向けてくる。自分に自信がない様子で、どこかおどおどとしたところがあるのにどうしてだかいつも視線だけは力強い。目が離せなくなる。 瀬川は身を乗り出して雑誌に手を伸ばし、引き寄せた。 「小さい写真だな。十九のはずだが、もう少し幼く見える。あどけない顔立ちだ。背だけは高い。描く絵のわりにおとなしそうな感じだった」 『花火』の隣のページに、小さな夏生の写真と簡単な彼の受賞の言葉が載っていた。 ――受賞できるなんて思っていませんでしたから、戸惑っています。どうして選ばれたのかわかりません。嬉しいのかどうかも、よくわからない。 馬鹿正直に答えたらしいそんな言葉。この上なく夏生らしいと思うと同時に、どうしてこんなにも不器用なのかと思う。自分を取り繕うということを知らない。どこまでも純粋で傷つきやすい。 ブラインドがまたカタカタと音を立てる。風の音だ。秋の始まりを告げるようなわずかばかりの肌寒さを宿した風が、部屋を抜けて廊下へと吹き過ぎてゆく。 瀬川の芸術家のような細長い指が雑誌のページをめくり、夏生の数ページ後に小さく掲載されている伊原の作品と夏生の作品を行ったり来たりした。 藤花展三度目の出品にして初めての入選作は、『雨』というタイトルの、人物画だった。伊原が好んで描いてきたのはどこにでもあるような風景で、人物画というのは彼にしてはひどく珍しいものだったが、その作品が評価されたというのはある意味皮肉なことでもあった。 「栗坂夏生の作品を表現する上で一番よく使われる言葉は何だと思う?」 瀬川の問いかけを聞いてとっさに浮かんだ言葉を伊原はそのまま口にした。「情熱」 瀬川は薄く笑い、頷いた。 「そう。情熱、あるいは熱情。栗坂が注目を浴び出したのは高校の頃の全日本学生絵画展への入賞からだが、それ以来ずっと彼の作品を評するとき必ず使われる言葉がそれだ。だがその情熱の先にあるものに触れている記事は驚くほど少ない。何に対する情熱だかわかるか?」 瀬川の何に対しても無関心そうな表情の中に見え隠れする真摯さに、いつも伊原は気がついていた。この男の芸術を見る目は確かで、国内外、また古今を問わずたいていの画家についての詳細なデータが頭の中に詰まっているらしいのが彼の口にする言葉の端々から伺われた。彼の持つ優れた鑑定眼はしかし、今のところは彼の中だけに留まっていてあまり活用されていない。 栗坂夏生の情熱。彼の絵を目にするたび、押し寄せてくる思いがあるのだが、それを言葉にするのは難しかった。肩をすくめた伊原に瀬川は雑誌を突きつけ、冷たくさえ聞こえる彼独特の口調で続けた。 「失われたもの、あるいははじめから持っていないものを求める情熱だ。いつもあいつの絵に感じるのは飢えるような喪失感だ。おそらくどれだけ評価されても彼は求めることをやめない。求める最善のものから遠く隔たっているのを彼は知っている。そしてそれを求める心こそが、何より彼を自分の求めるものから遠ざけていることも」 「何が言いたいんだ?」 伊原は首を傾げて友人の顔を眺めた。久しぶりに会ったと思ったら栗坂夏生の話ばかりだ。こういうときはたいてい、瀬川自身が夏生の作品に感銘を受けていると決まっている。素直に気に入ったと言えない厄介な性格は少なくとも大学の頃から少しも変わっていない。 「俺は、栗坂が求めてるのはお前の絵に近いと思うよ。正反対なのにな、そう思う」 まったく驚くほどに目の利く男だと伊原はおかしくなった。 以前、夏生自身の口から、僕はあなたのような絵が描きたいのだと聞かされたことがある。思いつめたような眼差しで伊原の作品を見つめながら、熱に浮かされたように、どこか切羽詰ったように、少年は声を絞り出した。 (お前にはお前の世界があるよ) その世界に焦がれ愛する人もたくさんいる。 そう、たとえば目の前にいるこの男のように、と伊原は考え、笑った。 すると突然瀬川は立ち上がり、投げ捨てるように言った。 「お前の絵は完成されている。きれいに、静かに、もうその一枚だけですべて完結している。中には栗坂のようにそういう世界をどうしようもなく恋焦がれる人間もいるさ。けど、お前はいつまでそんなおきれいなままでいるつもりなんだ? もっと飢えてみろ。何かを求めて叫んでみろ。俺はお前の血を吐くような絵を見てみたいよ」 何かが彼を怒らせたのだとわかった。手元の腕時計に目を落とし、すぐに平静を取り戻した声で、瀬川は「じゃあもう行くから」と告げた。 「ああ」 「それと、交渉が上手くいけば親父が今度栗坂の個展を企画している。お袋はお前の個展を一緒にしたいと思っているらしい。――せいぜい食われないようにしろ」 それを一番始めに言え、と伊原は思い、肩をすくめた。 性格の歪んだ友人は振り返りもせずに片手を軽く上げると、鞄を掴んで画廊を出ていった。 一際強い風が吹いて雑誌のページをめくり上げる。栗坂夏生の『花火』。彼の情熱。 風に目を細めて、伊原は短く息を吐き出した。 |
| あとがき / 秋その2と適当な仮題がついていた話。最近ちょっと涼しくなってきましたね。でもこの話を書いたのは5月だったりします。季節感も何もあったもんじゃありません。 |