秋が音を立てる





 目が覚めて時計を見たらいつもよりずっと早い時間だった。
 身体を起こし、瞬きをくり返していたら霧が晴れるようにすっと頭が醒めた。手を伸ばしてカーテンをめくるとまだ薄暗い。寒いな、と思った。タイマーをセットして眠ったときには暖かかった部屋は、いつもの起床時間の十五分前に再び空調が動き出すようにしてある。だから当然今は寒い。
 起き上がって電気をつけ、服を着替えた。十一月に入ってから気温はどんどん低くなっている。日の落ちる時間は日々早くなり、逆に日の昇る時間は遅くなった。昼間はそれでも日差しがある分いくらか暖かく感じる日もあるが、朝晩はもう冬かと思うほどに冷える。黒のセーターを着て上にコートを羽織った。暑さも寒さも普通に苦手だ。
 部屋を出て廊下を渡り、エレベーターで一階まで降りる。部屋を出たときに感じた外気の冷たさがエレベーターに乗ってもなお残っていた。小さく身震いする。静かに開いた扉を抜けてエントランスから外に出ると、先ほど感じた寒さが戻ってくる。それと、どこかから花の香りが鼻先を掠めた。
 思わず足を止めた。かすかなその香りは凛とした空気と混ざって肺の中にしみとおるようだった。息を大きく吸い込む。夜明け前の青く沈んだ朝の街に、見渡す限り人の姿は他になかった。もともと閑静な高級マンション街で、たいていのマンションではペットを買うことが禁じられているから犬の散歩に出歩く人の姿もない。ただ静かだった。
 特に目的もなくしばらく朝の空気を楽しみながらあたりを歩き回り、気がついたら少し離れた緑地公園まで来ていた。見かけたベンチに腰を下ろして空を仰ぐ。いつのまにか空はうっすらと白く明るくなり、夜明けが間近だった。息を吐き出すとわずかに白い。コートのポケットに両手の指を突っ込んで目を閉じた。せっかく目が覚めて出てきたんだ。夜明けくらい見てから帰ろう。そう思った。ここしばらく、何やかやと忙しくて、夜も遅いから必然的に朝も遅くなった。目が覚めるといつも随分遅い朝で、秋の太陽でさえとっくに登り、街は自分だけを取り残して回転を始めていた。
 この間、刷り上ったばかりのポスターを見せて「どうだ」と瀬川が訊いてきた。
「どうだと言われても……嫌だと言ったら今から直しがきくのか」
「きくわけがない。これは完成版だからな」
 そんなことだろうと思った。完成前には一度も見せずにいきなり「どうだ」とは。
 この冬に開かれる二人展のポスターには、二人の対比を際立たせるように二つの絵と、画家本人の写真とが対角線上に写っていた。半ば強引にスタジオに連れていかれてわけもわからないままカメラマンに写真を撮られたのが三週間前。伊原はポスターの右上で目を伏せて薄く笑っていた。写真の中の自分はいつも自分ではないような気がするが、プロの手にかかるとよけいにそれが強い。誰だよと思いながら左下の夏生に目を移すと、撮影中拷問を受けているように悲壮な顔でがちがちに緊張していた男は、そんなこと微塵も感じさせない真っ直ぐな眼差しで正面を見つめていた。普段の彼の気弱さが完全に抜け落ちて、ただ若さと強すぎる眼差しが印象的だった。藤花展で金賞をとった『花火』が彼の後ろに、同じく藤花展で入賞した『雨』が伊原の後ろにあった。笑えるくらい時期外れの絵なのに、不思議なほどに冬の匂いのするポスターだった。
「よく撮れてるな」
 伊原の言葉に瀬川は満足そうに笑った。
 いつもなら公私混同はしないとアートギャラリー瀬川とは距離を置いているのに、どうしてだか今回の二人展だけは完全に関わることに決めたらしい。一度そう決めるととことん徹底してやるのがこの男の性格で、だから今回、場所取りからポスター作成、果ては作品展示のレイアウトまですべて瀬川の会社が請け負うことになった。広告会社の営業だと言っていたくせに、デザイン部にもかなり足を突っ込んでいるらしく、彼の会社というより、実質上瀬川一人で取りしきっているようなものだ。
 一度も会社勤めをしたことのない伊原は半ば感心しながら友人の働き振りを見ていた。意見ははっきり言うし絵には詳しいし、芸術センスも高くて凝り性だから彼の仕事にはケチのつけようがなかった。
 二人展の開催は十二月二十日から三十日まで。都内の有名デパートの六階という場所はおよそ若手画家にとって望み得る限り最高の舞台だった。いつかはと心の中で望んでいたものがいつのまにかさあどうぞと目の前に差し出された。それはあまりに早く、あっけなく、努力で掴み取ったチャンスというよりむしろ。
 勝手に転がり込んできた運のようで。
 今一つ、実感がわかないのが本当だった。具体的に日時が決まっても、ポスターを見せられても、どこか他人事のように頭が冷めている。こんなことが実現したらもっと嬉しいものだと思っていたのに、嬉しいという感情はどこからも湧いてこなかった。
 ポケットから手を出して膝の上で組み合わせ、背を丸めた。
 一人きりでこうしているとすべてが夢だと思えてくる。自分はいつまでも親のすねかじりを続けている恵まれた見習画家で、小さな展覧会に時々入賞しはするが知名度はゼロに近く、友人の親の好意で中堅アートギャラリーに絵を置いてもらっている程度。周りの友人たちが会社で少しずつ昇進したり結婚したりする中で、取り残されたように一人、学生時代と何も変わらないでいる。自分だけ時が止まってしまったように。その焦燥感。
 だけど嫌じゃなかった。学生時代と同じに笑う恋人がそばにいたし、大学のとき一番親しかった男は今でも彼の親友だった。この二人が変わらずそばにいてくれればそれでよかった。他の誰がどれほど変わっても。前へ前へと進んでいっても。
 けれど一人だけ。
 あいつはいったいどう感じているんだろうと思った。栗坂夏生。生真面目過ぎる、繊細な少年。本当はもう青年と呼ぶべきなのかもしれないが、出会った頃の印象がいつまでも彼を幼く見せる。気弱そうな態度と強い眼差しとのギャップが彼を不思議に印象に残る男にしていた。
 彼は嬉しいんだろうか。
 それともまだ実感が湧いていないのか。彼はどう思っているのだろう。
 そんなことが、この頃やけに気になる。
 指を握り締めて、開く。目を上げると木々の隙間から見える光が赤く眩しく夜明けを告げていた。青く空が澄み始める。静かに引き締まった空気を揺り起こすように朝が来る。圧倒的に、傲然と、どこまでも美しく。
 戸惑っているんだ、と、口に出して呟くと力が抜けていくような気がした。
 ただ戸惑っている。夏生が与えてくれたチャンス。彼がいなければきっと個展などまだまだ手が届かなかったに違いない。そのことが伊原を苛立たせ、戸惑わせる。どうしようもない無力感に駆られる。自分は何もしていない、何も変わっていないのに。
 変わっていく予感がした。何かが自分の中で、そして周囲もめまぐるしく動き始める。
 早く目覚めろと、見えない目覚し時計が鳴っている。そう思って伊原は笑った。
 冬はもうすぐそこだった。


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あとがき / このタイトルが妙にどこかで聞いたことがある気がするので、無断パクリだったらお許しください。何だか佳境のようなそうでないような話。