一人の男と向かい合って座り、愛想の良い笑顔を浮かべながら内心、どうして俺がこんなことをしなければならないのかと、瀬川雅司は今の自分の状況に対して大いなる疑問を抱いていた。 それは疑問というより正直なところ怒りに近く、ともすれば取り繕った外面に表れてしまいそうな感情を必死に押し殺す努力を必要とした。仕事柄、そうした努力には慣れているとはいっても拭い切れない違和感だけは残った。すなわち、どうして俺が、という。 目の前の男は、瀬川の内心の苛立ちに気づいているのかいないのか、最初に挨拶した後はずっと、俯きがちにどこかを見つめている。その服装や醸し出す雰囲気から、彼がおしゃべりなタイプでないのはすぐにわかった。おとなしそうで、人見知りが激しいのか先ほどからほとんど口を開いていない。そのくせ瀬川のことを無視しているというよりは、彼の一挙一動に身構えているように見える。瀬川が額に落ちかかってきた前髪をかきあげようと手を上げただけでも、一瞬びくっと身動ぎした。まるで怯えている猫のようだと思った。 「突然呼び出してしまって驚いたでしょう。ここの道はすぐにわかりましたか」 年齢も違うし、もっと砕けた口調のほうがいいのかとも考えたが、栗坂夏生は必要以上に誰かに親しむことを恐れているように見えたから、距離を置くことにした。 栗坂は曖昧にうなずいた。 「ええ、少しだけ、迷いましたけど……」 アートギャラリー瀬川は駅前の大通りからはやや外れた通りに面している。誰もが存在を知っているというわけではないが、美術関係者には概ねよく知られており、車の騒音の少ない静かな場所はたいていの場合好評だった。 瀬川はにこりと笑った。目つきがきつすぎると会社の先輩に言われてつけ始めた伊達眼鏡は、いい意味で仕事とプライベートを隔てるひとつの目安になっていた。今この場で自分より七つも若い男と向き合っていなければならないのもひとつの仕事なのだと自分に言い聞かせる。 さもないと、体よく面倒なことを押し付けられた怒りを相手にぶつけてしまいそうだった。 そもそもの事の起こりはつい一昨日の晩のことで、いつものように遅く帰宅した瀬川に珍しく神妙な面持ちで父親が話しかけてきた。 お前あさっては休みだろうと、父親は言った。そのとおりだったから瀬川は頷いた。土曜でも出勤を余儀なくされることはあるが、たいてい休みだ。 『栗坂夏生と会ってくれないか』 言われたことの意味がよくわからなかった。 『何のために?』 『契約だ、もちろん。彼の作品を今後専属的にうちで扱いたい。そしてその手始めに個展をやりたい』 『どうして俺が? それは親父の仕事だろう』 『失敗したくないんだ』 いつも傲然と胸を張っている父親がそのときばかりは肩をすくめて言った。 『失敗して栗坂を失うのは痛い。どうしても欲しい。だが電話で何度か話をしたが、あまり乗り気な感じじゃなかった。正直、俺はあの年頃の子の考えることがよくわからん。お前なら年も近いし、そもそも高校の頃から彼の作品を推してたじゃないか。きっとお前なら上手くやれると思うんだよ』 勝手な言い分だった。自分では失敗しそうだからとまったく無関係な息子に交渉をまかせようとするなどとは事業主のプライドも何もあったものではない。だいたい年が近いと言ったって七つも下の子供の考えることなんて今更瀬川にもわからない。断ろう。考える必要もなくそう思った。血のつながりはこの際何も意味は持たなかった。 『頼むよ。お前の審美眼を頼りにしてるんだ。栗坂君も、それから明子のお気に入りの伊原君ももともとと言えばお前が見つけてきたんだろう。私は正直、二人とも最初はそれほどいいとは思わなかった。だがどちらも今回見事に藤花展に入賞だ。今後はもっと売れるようになるだろう。だから他の画廊と契約する前にうちのものにしたいんだ』 そういうふうに頼りにされるのは迷惑だった。けれど不意に、何かの間違いのようにそのときふっと、栗坂夏生の『花火』という作品が頭の中を過ぎった。籐花展の金賞を見事射止めた作品だ。栗坂はまだ十九歳の若者で、授賞式で一度だけ見かけた彼は自分の手にした栄光に心底戸惑っているように見えた。 彼の内面にわずかでも触れてみたい気がしたのが誤りだった。瀬川が黙り込んだのをいいことに父親は勝手に話をまとめ、すべての責任を息子に押し付けた。 それが今、瀬川が栗坂夏生と向き合って気詰まりな沈黙と戦っている理由だった。 「父から話は聞かれているでしょうが、僕たちはできれば君の作品をこの画廊で扱わせてもらいたいと思っています。今までの絵や、これから君が描いていく絵を。どうでしょう、そのことについて率直な意見を伺いたいのですが」 父から聞いた話によると、栗坂は契約に応じることを渋っているらしい。その理由を尋ねても今一つ要領を得ず、よくわからないと父親は言った。具体的な数字を持ち出しても反応は薄く、粘って金額を吊り上げようとか、そういった意図ではないようだと金にうるさいあの父親でさえそう思ったらしい。ということはその点については確かだということだろう。 だが念のための確認に、言った。 「金額等の条件に何かご不満がありますか。言ってくだされば前向きに対応させていただく用意はありますが」 「いえ……お金とか、そういうのはいいんです。僕はよくわからないし……」 社会人にもなっていない栗坂の口調は困惑に満ちていた。相変わらず視線は下のほうを向いたまま、瀬川を見ようとはしない。神経質そうな顔立ちは若く、芸術家らしいといえばそれらしいが、どちらかというとまだ子供なのだという気がした。 「では契約してくださると?」 「いえ……、僕は、別に自分の絵を売りたいわけじゃなくて……何ていうか、ただ描きたいから描いているっていうか。それをお金を出して買ってもらおうとか、あんまり……」 栗坂は上手い言葉が見つからないというように言い澱んだ。 やっぱりガキだと、一瞬で瀬川は彼の逡巡を理解した。要するに、プロになるという自覚が足りないのだ。藤花展で金賞をとるということがどういうことだかまるでわかっていない。何年もその栄光を目指して数多くの人間が血の滲むような努力をしていることを知らない。 だから平気な顔で「描きたいから描いている」などと言える。子供のように自分のことだけで生きている。 「栗坂くん。僕らは、君の絵をなるべくたくさんの人に見てほしいと思っている」 瀬川の言葉に栗坂はわずかに目を上げた。 「君が好きで描いているというのはいいよ。でもね、君の絵には人を動かす力がある。望んでも誰もが得られるわけじゃない力だ。そういう力を持つ人間は、たとえ本人が望まなくても、その力を使う義務があるんじゃないかな。君の絵に感動する人、手元に置いてずっと見ていたいと思う人がたくさん出てくるだろう。その人たちのために、君の絵を紹介したい。多くの人に見てもらいたい」 栗坂の目がはっとしたように見開かれ、はじめて真正面からその目と向き合う形になった瀬川は内心、その視線の強さにわずかに怯んだ。迷いなく、ひとつのものだけを真っ直ぐに見つめる強い眼差し。おとなしそうな外見とはアンバランスな視線に、彼の描く絵の力強さがそのまま表れていた。 「僕の絵にも……そんな力がありますか? 人の心を揺さぶるような?」 瀬川は一瞬の動揺を押し殺して頷いた。「あると、僕は思っている。他にも大勢の人がそう思っている。だから君は金賞なんだ。賞をとるということは多くの人に評価されるということなんだよ」 栗坂のあどけない顔が紅潮した。良い傾向だった。 彼の心がかなり傾いているのを見て取って、瀬川は微笑んだ。あと一押しだ。 「どうかな。君が嫌でなければ、僕たちにその手伝いをさせてくれないか。もちろん、今すぐに返事をとは言わない。ゆっくり考えてくれればいい。きっと他の画廊からも声がかかってるだろうから、比べて選んでもらってもいい」 もちろん、一番条件のいいところを選ぶのは彼の権利だった。強引に契約をとりつけてもわだかまりを残したままでは結局長いつき合いはできない。 しかし思いがけず、栗坂はすぐに首を振った。 「いいえ。僕は契約を結ぶならここでお願いしたいです。他からも何度か連絡をもらいましたけど、金賞受賞前から声をかけてくれてたのはここだけですから……」 よい作家を得るために必要なのは、皆がその価値に気づく前からこまめにコンタクトをとっておくことだ。正式な契約は完全に売れる見込みが立ってからでも、何かあればいつでも相談に乗る、程度の言葉は惜しみなくかけておいたほうがいい。 父親に栗坂夏生を勧めたのは自分だが、彼は理解できないまでもきちんとすることはしていたらしい。 「契約をお願いしてもいいですか。細かい条件は僕はよくわからないから、そちらで決めてくださったらけっこうです。瀬川さんにお任せします」 瀬川は一瞬返答に窮した。上手くいったのはいいのだが、この場合、瀬川さんにお任せしますというのはひょっとして自分に任せるということなのだろうかと思ったのだった。それともアートギャラリー瀬川に任せるという意味だと楽観的にとってもいいのだろうか。 栗坂はわずかに緊張の緩んだような穏やかな顔をしていた。猫というより、犬のようだと思った。誤解ならいいのだが、彼は幼く、人見知りのくせに、あるいはそれゆえに、特定の誰かとの結びつきを大切にするように思えた。 「……わかりました。ありがとう」 なかばやけになり、栗坂夏生に対してだけは完全に自分が矢面に立つことを覚悟した。ひとりだけなら何とか仕事と両立でも支えていけるだろうと計算した。もとはといえば確かに自分が父親に勧めた男でもあったから、受け入れるのは比較的抵抗がなかった。そして何より、彼の絵には共感するところが多い。売れる売れないという点は抜きにしても、確かに多くの人に見てもらいたい絵ではあった。 「ギャラリーの絵を見せてもらってもいいですか」 未成年の彼と契約するには当然両親の承諾も必要となる。そのため正式な契約は後日ということで、交渉を終えた後、栗坂がおずおずといった様子で切り出した。 瀬川はうなずき、彼を展示室へ案内した。外から見えるギャラリーとは別に、特別展等をするための展示室があった。普段はここで取り扱っているすべての作家の作品が置いてあり、得意客や新規の客にお気に入りを見つけてもらう。 「そういえば、言い忘れてたけど、君さえよければ今度個展を開きたいとも思ってるんだよ。ああ、でも個展といっても君だけのじゃなくてね、もう一人、別の作家の個展も一緒にしようかと。二人展みたいな感じかな。まあ、君が嫌じゃなければだけど」 もう口調を取り繕う気はまったくなくなっていた。栗坂のほうも気にした様子はなく、ただ個展と聞いて不安げな表情を浮かべた。彼が荷重に感じるのも無理はない。高校生の頃からそれなりの実績は残しているから作品数自体は問題ないだろうが、それらをすべて集めて他者の目にさらされるという経験がない人間にとって、個展が不安でないはずがない。 だから二人展というのはある意味彼のためにもいいのではないかと思う。ただ、あくまで彼にとっては、だが。 「もう一人っていうのは……」 栗坂は当然の疑問を口にした。瀬川は展示室の端から二番目の絵に視線を流し、ほら、とその絵を指差した。 「あの絵の作家だよ。君の絵とは正反対だろう」 栗坂の視線がその絵に向かう。彼がどんな反応をするのか興味があった。 ごく個人的な予想としては、栗坂の強烈な個性を持つ画風とはあまりに違う、言うなればただ美しいだけとしか見えない画風に対し、彼は興味がないのではないかということ。あるいはまったく逆に、彼がその絵の中で息苦しいほど求めているものはひょっとして、ああいう絵なのではないかという直感。 まったく異なる二つの予想に対し、栗坂夏生の実際の反応は、後者だった。 彼はその絵を目にするなり瀬川が驚くほどの素早さですぐ近くまで駆け寄り、かじりつくようにその小さな絵を見つめた。 「……本当に?」 本当に、伊原さんと僕が、と呟いて、栗坂は口を噤んだ。その反応からするとどうも伊原と知り合いであるらしい。伊原の野郎、栗坂夏生と知り合いだなんて一言も言わなかったじゃないかと心の中で瀬川は毒づいた。だからあの男は嫌なんだ。 内心の怒りを押し隠し、瀬川はただ黙って栗坂の細い後ろ姿を見ていた。伊原の描く絵は小さな作品が多く、ここにある絵もそれほど大きなものではないが、栗坂は信じられないほど長い間、身動ぎもせずにその絵を見つめていた。きっとその強い眼差しで、まるで崇めるように。 潰されるなよと、瀬川は思った。友人としてではなく、ただただ個人的に。 細い背中から苦々しく目を逸らしながら。 |
| あとがき / 秋その3という仮題が……。花風の続き。さらに続きがあるべきだろうとは思いつつ、まだ書いていません。書く前に秋が終わってしまいそうです。 |