足のない踊り子





 彼女は何も喋らない。
 金色の波打つ髪は背の半ばほどまで伸び、目は灰色を帯びた緑色で、抜けるように白い肌と華奢な腕を持った少女は、ここにきて一度も言葉を発したことがない。
 いつも何かを憂えるように椅子に腰かけ、窓の外を眺めている。
 晴れ渡った空にはわずかの曇りもなく、少女の瞳にも陰はない。ただ椅子に腰かけたまま、放っておけば一日中でも動かずに空を見ている。
 右足の、膝から下がない以外にはどこにも欠けたところのない少女が、かつて踊り子だったことを、この小さな国のほとんどの住人は知らない。


 マリィ、とその金髪の少女は呼ばれていた。喋らない彼女の代わりに彼女を見つけた詩人がつけた名前で、本人も嫌そうな素振りを見せなかったため、それがここでの彼女の名になった。
「マリィ、今日は森に咲いていた花を描いてきたんです。本当は本物をあなたにも見てほしいんだけど、とりあえず絵を見てもらって気に入ったらと思って」
 ヘンリー・エレファンはうっすらと赤く染まった顔に笑みを浮かべ、つい先刻完成したばかりの小さな絵を少女に向かって差しだした。背の高いエレファンが、草に足を取られて転ばなければ見つけられなかったくらい小さな赤い花。一輪だけ、何かの間違いのように木の影にひっそりと咲いていた。
 受け取ったマリィは静かにその絵を見つめると、すっと目を細めて微笑んだ。エレファンは目に見えて嬉しげな顔になり、「気に入ってもらえましたか?」と言う。
「だったら今から本物を見にいきませんか。まだ日は高いし、そんなに離れていないから十分見にいけますよ。ねえ、そうしましょう」
 勢い良く立ち上がったエレファンに、マリィは微笑んだまま首を横に振る。
「どうしてですか? 信用できないかもしれないけど、ドクターの車椅子はちゃんと機能するんですよ。珍しく、普通にちゃんと車椅子として動くんです。僕が試してみたから確かなんだけど――」
 部屋のすみに置かれた仰々しい車椅子には目もやらず、マリィは表情を変えずにまた首を振った。
「そういう意味じゃなくて? 外に出るのが嫌なんですか?」
 今度は彼女は答えない。それを肯定と受け取って、エレファンはそうですか、と残念そうに呟いた。
「じゃあ、また今度誘いますね。あ、この絵はあなたへのプレゼントです。その辺に置いておきますからもらってくださいね」
 にっこりと笑うと、「じゃあまた」と手を振ってマリィの家を出る。森の入り口近くにある彼女の家は彼の家からさほど近くない。けれど彼は毎日ここへ通ってきて、いつもその手には自分の描いた小さな絵を持っていて、帰りは手ぶらで帰っていく。


「あれはねえ、もう一種のいやがらせじゃないかと思うんだ、僕は」
 腕を組み、うんうんうなずきながら一人で納得したように、ドクター・ステインはしみじみと呟いた。
「いやがらせ?」
 夕焼けの美しさに惹かれるようにしてふらふらと外を歩き回っていたばっかりにステインにつかまってしまったデイヴィス・クレアは、眉を寄せてあまり楽しくもなさそうに問い返す。
「そうそう。だって毎日だよ。毎日自分の絵を持って彼女の家に行っては、プレゼントと称して彼女が断らないのをいいことにそれを置いてくるんだよ! これは立派ないやがらせじゃないか」
「エレファン君の絵は素人の僕の目から見ても素晴らしいですよ」
「それは僕もわかっている。でもね、素晴らしいものは小出しにしてこそ価値があるんだ。何十枚も積まれるととたんに色褪せて見えるものさ。しかもさほど広くもない部屋のなかに何十枚も置いてくるとは、僕だったらとっくに売り払うか焼き払うかしているね。マリィは我慢強い」
「焼き払う……」
 素晴らしいことは認めていながらその口で焼き払う、と言う。売り払うと焼き払うではどちらがましなのだろうと考えかけて、クレアはその無意味さにあわてて思考を打ち切った。
「それはともかく、あなたはいったい何をしてるんです?」
「何を? それはどんな答えを求めてるんだ? 息をしているとでも答えれば?」
「違います」
 クレアは冷ややかに否定した。
 そして一言一言区切るように、
「通りすがりの人間をつかまえて、エレファン君の恋心を告げて回って、あなたはいったい何が楽しいんですかと聞いてるんです」
と、言った。
 この根性の曲がった医者が自分以外にもこの話をしているのはマーフィから聞いて知っている。彼女も噂話の好きな性質だから嬉しそうな顔をしてクレアにそれを教えにきたのだが、噂を伝達する側と作り出す側では罪の重さが違う。
「何が楽しい、だって? それはもちろん、あの年中頭に花が咲いたような男が恋をしているという事実が楽しいに決まっている。そして僕はその楽しさをみんなに分けてあげようとこうして国中を回っているわけなんだ」
 その返答にクレアは深いため息をついた。
 ステインとエレファンはドクターとその助手、という関係であるとともに、縁戚関係もあるらしいという話を以前に聞いた。わずかでも血のつながった相手によくもこんなに失礼なことが言えるものだ、と思う。呆れるというより、いっそ感心するようにクレアはステインの顔を見た。
 ステインは上機嫌に笑いながらクレアの肩を叩き、「ま、そういうわけで君もエレファン君の恋を暖かく見守ってあげてくれたまえ」などと言うと、実に軽やかな足取りで帰っていった。
 ふと気がつくともう夕日はほとんど山の後ろに隠れていて、夜が始まろうとしている。
 もう少し夕焼けを楽しみたかったのに、と心の中でステインを恨みながら、クレアは自分も家に帰るために歩きだした。



 彼はくる日もくる日も、何かに浮かされたような顔でオルゴールの螺子を巻く。
 最初は早く、次第に緩やかに、音楽に合わせて人形が回る。片足を高く上げて回る陶器の人形は踊り子だ。真っ白な肌に真っ白なドレス、靴は薔薇の花を溶かしたような薄紅。
 彼の目は、うっとりとその動きを見つめている。
 愛しているから、と彼は言う。愛しているから、いい子にしておいで。僕以外の誰も君に触れることはできない。世界中の誰より僕が君を愛している。だから幸せになれるよ。きっと僕らは誰よりも幸せになれる。
 ――エレーヌ。
 僕の手を取って。君を連れだしてあげるから。その舞台、君を奪おうとする何千の観客から、君を救いだしてあげるよ。
 微笑みながら、彼は人形に手を触れる。髪を撫でる。小さな身体が壊れないようにそっと胸に抱く。
 とっくに動きを止めた人形は、彼の目に映る自分を見ている。彼女はひっそりと首をかしげ、不思議に思う。エレーヌ。

 ――あら、わたしはいつからそんな名前になったのかしら。以前はもっと違う名前だったのじゃないかしら。



 きのうの夕暮時の散歩を邪魔されたクレアは、翌日の早朝、しきりなおしとばかりに森の中を散歩していて、またもや例の人物に行きあった。
 最悪だ、と思わず頭を抱えたくなる。
 もっとも今回は正確には「会った」のではなく、見かけただけだ。相手はまだ気づいていないようで、回れ右をして帰ることも今ならばできる。けれどクレアがそうしなかったのは、例の人物が呼び止めている少年にクレアも会いたいと思っていたからだった。
 一緒に住んでいた頃からいつもふらふらしてばかりいたその同居人とは、最近あまり会う時間がなく、正直そろそろ顔が見たいと思っていた。とはいえ、何もあの男と一緒にいるところを見つけなくてもよかった。
 その場から去ることができず、かといって声をかけるのもためらわれて、クレアはその場に立ったまま二人の様子を眺めた。離れているため声は聞こえない。
(ヒュー?)
 人の会話を立ち聞きするのは礼儀正しくないとわかっている。それでも少年詩人の横顔がどことなく不機嫌そうなのが気になって、クレアは気づかれないようにそっと二人のそばに近寄った。
「マリィとあまり親しくしないほうがいいんじゃないかな」とつまらなそうにヒューは言った。
「ほう。なぜ?」
 クレアが意外に思ったヒューの言葉に動じたふうもなく、普通にしていてもどこか笑いを含ませたような独特の口調でドクター・ステインは問いかけた。
「だって、足がないからさ」
「歩けないから?」
「そうじゃないよ。この国で体が欠けてるのはさ、本人がそう望むからなんだよ。望まないことに理由はないかもしれないけど、何かを望むには理由がいるだろ? だから、やめておいたほうがいいとおいらは思うのさ」
 トレードマークの大きな帽子を深くかぶりなおして、ヒューはそれで話は終わりとばかりにステインのとなりを通り過ぎようとする。
「それではエレファン君は彼女に会わないほうがよかったのかな?」
 問いかけにヒューは目を上げ、肩ごしにちらりと笑って答えを返した。「それはドクターの助手が決めることだよ」
 それきり振り返らずにどこかへ歩いていってしまう。
 いつもと違うヒューの様子に眉を寄せてその理由を考えていたクレアは、ヒューのあとを追うのをすっかり忘れていた。さらに悪いことに姿を隠すのも忘れていた彼は、いきなり名を呼ばれてぎょっとした。
「やあ? クレア君じゃないか!」
「………!」
 そうして彼は、朝っぱらから話好きのドクターの相手を延々務めさせられるはめになったのだった。


 ヘンリー・エレファンがマリィのもとに通うようになってから、一ヵ月と少しばかりが過ぎていた。エレファンが毎日持ってくる『プレゼント』は次第に小さな部屋の広い空間を占めるようになり、もはや誰が見ても邪魔なものにしか見えなくなってきている。
「うーん、そろそろ古いものは処分したほうがいいかなあ」
 マリィの部屋で自分の作品を見ながら、間延びした声でエレファンは呟いた。幼い頃から画家を目指していた彼は、自分の腕にそれなりの自信を持ち、愛してもいたが、他人にそれを押しつける気はなかった。それでもマリィに絵を贈るのは自分にあげられるものがそれだけなのと、絵を見て微笑んでくれるマリィの顔を見るのが好きだからだ。
「どうして?」
 窓際の椅子に腰かけたまま、マリィは不思議そうに問いかけた。
「え?」
「そんなに綺麗な絵ばかりなのに、もったいないわ」
 だって部屋が狭くなるから…、と答えかけて、エレファンはほうけたように口を半開きにして黙り込んだ。
 マリィの声を初めて聞いた。
 十六、七の若々しい外見にふさわしい透き通った声で、けれど年に似合わないほど落ち着いて聞こえた。
「……言葉が?」
「わたしは人と喋ってはいけないの。でもあなたは神様みたいな人だから、いいのじゃないかと思ったの。きっと彼も許してくれるわ」
 微笑みながら少女が言う。神様みたいな人、の意味がわからず、それ以上に「彼」が誰なのかわからずエレファンが首を傾げたが、マリィは笑いながら唐突に「花が見たいわ」と呟いた。
「あの花……赤くて小さな、あなたの描いてくれたあの花が見たいの。ねえ、とってきてくれる?」


 この国でただ一人の医者兼科学者、ドクター・ステインの家は森の奥にある。
 持ち主の趣味を反映せずにシンプルな家の外見どおり、シンプルな内装の部屋で昼食をご馳走になりながら、クレアは幼児の落書きのような絵が描かれた自分の部屋を思い浮かべた。ふと釈然としない気持ちに駆られる。
 その気持ちを知るはずもないステインは今日も上機嫌で、今や彼の日課となったエレファンの恋愛話を嬉々として続けていた。ドクターも他人の恋愛話も苦手なクレアはもちろん嫌だったのだが、断る理由が思いつかずにもごもご口篭もっているとかってに連れてこられてしまうのだ。
 自分でも言っていたとおりステインはエレファンの恋を完全に面白がっていて、その喜びを誰かと分かち合いたくてたまらないらしい。その相手に選ばれたのが不幸なことにどうやらクレアであるらしいのだった。
「ドクター!」
 玄関の扉が開く音と同時に大声が聞こえて、走っているような足音が近付いてきた。
「ドクター! 僕はどうしたらいいと思いますか!?」
 切羽詰まった様子でそう叫んだエレファンは、部屋のなかにステインだけでなく、クレアもいるのに気がつくと、あわてたように姿勢を正した。
「あ、クレアさん。こんにちは。お食事中に騒いでしまってどうもすみません」
 叫びながら駆け込んできた人間とは思えないほど丁寧なあいさつをし、エレファンはにっこりと笑った。クレアも会釈で答える。
 ドクター・ステインは苦手だが、クレアはこの青年のことは嫌いではなかった。背だけは高いが、とても自分と同い年とは信じられない子供っぽい無邪気さが羨ましいと思えることさえある。
「用件は? エレファン君」
「あ、そうです。相談があるんです。ドクター、実はマリィに花を持ってきてほしいと言われたんですが、花を切って持っていってもいいんでしょうか。せっかく咲いている花を切るなんてひどい、と思われたりしないでしょうか」
 真面目な顔で発せられた問いかけに、ステインは眉をひそめていかにも呆れたというふうに鼻を鳴らした。
「いったい何を言ってるんだ君は。本人が持って来いと言っているのに何を悩むことがあるんだ」
 切れ切れ、切って持っていきたまえ、と当たり前のように彼は言い切った。
「……マリィは喋れないと聞いた気がするんだが……」
 クレアの小さな呟きは聞こえなかったらしく、エレファンは首を傾げて「本当に?」と確認するようにステインに問いかけた。
「本当に切っても嫌われないでしょうか」
「じゃあ聞くが、君はせっかく生きているのにかわいそう、といって肉を食べないのか。せっかく生えているのにかわいそう、といって野菜を食べないのか。食べるだろう。それと同じだ。こう言うと物を食べるのは自分たちが生きる上で絶対必要だが、花を切るのは必要なことではないとの反論が出るかもしれない。そういうときにはこう言ってやれ。あなたが食べてるのは本当に必要最低限の量なのか。いや、そもそも牛や豚を犠牲にしてまであなたが生きる意味はどこにあるんだ?とね。必要だ有益だなどという議論はいりゃあしないんだ。要は自分がしたいことをするというだけの話なんだからね」
 一息に聞かれていないことまで喋って満足したのか、ステインは急に優しげな目になって、「まあ何にせよ早く持っていってあげることだ」と言った。
 クレアとしては非常に驚いたことに、エレファンはその暴言とも言える言葉に対して晴れやかな顔で礼を言った。納得したらしい。それから素早く向きを変えると、足早にその部屋を出ていってしまった。
「……ドクター・ステイン」
「おや、ところでマリィはいつの間に喋れるようになったんだろうね」
 今頃気づいて首を捻る。クレアは馬鹿馬鹿しくなって言おうとしていた言葉を飲み込んだ。エレファンの恋が実るかどうか彼にはわからないが、もし実らないとしたらそれは決して少なくない割合でドクターのせいではないだろうか、とクレアはかなり本気でそう思った。


 毎日毎日彼は綺麗に包まれた花束を買ってきて彼女の前に捧げる。
 どうだい、きれいだろう。君のために買ったんだ、と彼は言う。
 生命を断ち切るようにぷっつりと切り取られた花は美しかったけれど、彼女は不思議でたまらなかった。
 いつからこうなのかしら。いったいどうしてこうなのかしら。
 切られた花は長く生きられないからかわいそうだと、だから花屋の前を通るのはいつも少しつらいんだとそう言っていたのは彼だったはずなのに。
 私が私でなくなったように、あの人もあの人ではなくなったのかもしれないわ、と彼女は思った。
 エレーヌ、僕だけのものでいておくれ。他の誰とも話したりしないで、僕だけを見つめていておくれ。
 そう言ってうっとりと自分を見つめた彼の瞳を思い出し、彼女はうっすらと笑う。
 ――ねえ私、あなたがあなたのままでいてくれたら、それだけでよかったのよ。


 鉢植えの一輪の花を膝のうえに乗せて、マリィは小さな声で歌を口ずさんでいた。
 窓の外を眺めながら、大好きな人の帰りを待つように静かに微笑んで歌う。
 ――エレーヌはとても歌がうまいんだよ。
 嬉しそうに笑いながら彼は言っていた。エレーヌは、あの美しい彼女は歌も踊りもとてもうまいんだよ。
「マリィ」
 森の中でそう呼ばれたとき、とても懐かしい名だと思った。
 振り向いた先にいたのは変な帽子をかぶった少年で、優しくも厳しくもない、ただとても懐かしいと思う声でもう一度名前を呼んだ。
「マリィ」
 ――ここでは私、マリィでいいのね。
 エレーヌは彼の愛した彼女の名前。階段から突き落とされ、一生踊れなくなってしまったかわいそうな踊り子の。
「ねえ。美しいものを愛する人の心は、少しだけどこか歪んでいるのね」
 硬いベッドのうえに座り込んだ少年詩人は答えずに、目だけ上げてマリィを見つめた。
「美しいものを生みだす人は神様みたい。神様を愛しすぎると目が眩んでしまうんだわ。つかむことなんてできない光をつかもうとして、真っ暗な闇のなかに落ちてしまうの。光なんてないのよ。本当はもうどこにもないの。だって神様は、きっと自分を愛してくれる人がお好きじゃないんだもの」
 マリィは赤い花のはなびらをそろそろと撫でる。
「あの人は神様みたい。あなたもそうね。私、あの人の絵のほうがこの花よりも好きよ。生きてる気がするの。本物より生きている気がするんだもの」
 それきりマリィは黙り込み、また視線をそっと窓の外に移した。膝のうえの鉢植えにはすっかり興味をなくしてしまったように見向きもしない。
「だからおいらはいやだったんだ」
 ぽつりとヒューが言った。
「君を見たとき嫌な予感がしてたんだ。いつか行ってしまうような気がしてた」
「ありがとう」
 マリィはにっこりと微笑んだ。
「ここへ呼んでくれてありがとう。でも帰らなきゃ。あの人が待ってるもの。私あの人のところに帰らなきゃ」
 ヒューはガリガリと頭を掻いた。ベッドのうえであぐらをかいたまま、途方に暮れた子供のような顔で「何でかわからないなあ」と呟いた。
「私にはわかるわ。あの人には私が必要なの。必要とされるって幸せなことなのよ。私は幸せだからあの人のそばにいるの」
 ふわふわと笑いながらマリィが言う。
「一つだけお願いがあるの。私はもう行ってしまうけれど、エレファンさんに伝えてくれる? もしも私が人間に生まれていて、それであの人が幸せだったらね、私、きっとあなたのこと好きになったって」



 その日、おそらく初めてこの国を訪れたときから二度目に、クレアは自分から進んでドクター・ステインの家を訪れた。いつもならすぐに出てくる助手は出てこず、しばらく待たされたあとでドクター本人が姿を現した。
「おや珍しい。どういう風の吹き回しかな」
 ステインはいつもと変わらぬ飄々とした顔で言って、「これは雨が降るかなあ」と失礼な言葉を続けた。自分がクレアに嫌われていることくらいはわかっているらしい。
「エレファン君はどうしてますか」
 ステインに用があったわけではない。ただエレファンのことが心配だっただけだ。二日前、好きだったらしいマリィが突然いなくなってしまって、彼が落ち込んでいるのではないかと思ったのだ。
「元気だよ」
「………」
「信じてないのかね。ふむ、じゃあ本人に会って確かめれば…と言いたいところだが、あいにく買物に出てて留守なんでね。お茶くらい入れるがあがっていくかな?」
 ステインとお茶を飲むなど考えるだに嫌だった。けれどせっかく来たのにエレファンに会わないで帰るのも嫌で、少し迷ったあと、クレアはいかにも嫌そうな顔でうなずいた。
「エレファン君は一日泣いていたけどねえ、今は本当に元気なんだ。まあ彼のいいところは能天気で悩みがないところだけだから、いつまでも悩まれたら一緒に暮らしている僕はさぞ嫌な気分になるだろうけどね」
 ステインの入れた紅茶は甘すぎてクレアの好みには合わなかった。砂糖を入れる前に一言尋ねてほしかったと思ったが、入れてもらう側としてはぜいたくは言えない。しかしステインの性格を考えると、わざと嫌がらせをしている可能性も十分ありえそうな気もした。
「元気なら、よかった」
 一口飲んだだけの紅茶を置いて、クレアは言った。「それならよかった」
「もうかなり前の話だけど、彼の母親が言ってたんだ」
 突然ステインがそんなことを言いだしたので、クレアは目を上げた。
「『悲しいことがあったら大声で泣く。嬉しいことがあったら顔中で笑う。感情を隠さない強い子に私はこの子を育てるつもり』と彼女は言っていた。自分はつらいことがあっても歯を食いしばって耐えるような人だったからよけいそう思ったんだろう」
 感情を隠さない強い人間に。言われてみれば確かにそうかもしれないと思った。エレファンの無神経なまでの悩みのなさはすべてを曝け出すからだ。感情を抱え込まず、全部打ち明けてしまうから悩みがない。
 ステインは首を傾げて――最近気がついたのだが、これは真面目に話すときの彼の癖だった――言った。
「その言葉どおりにそういう息子を育てたというところだけは、僕は姉をとても尊敬している」



 川の畔にしゃがみこんで、エレファンは流れていく雲を眺めていた。買物袋は隣に置き、頬に手を当ててぼうっとマリィのことを考える。
 幸せそうに見えるのに、同時に悲しそうな表情をしているのが印象的だった。歩けない彼女にこの国の色々なところを見てもらいたかったけれど、マリィは椅子に座っているのが好きで、どれだけ誘ってもにこにこ笑うばかりで決して首を縦には振らなかった。
 好きだったのになあ、と思う。彼女のことを考えると嬉しくて、幸せな気分になった。こんな感情を抱いたのは初めてだった。一緒にいると楽しい、嬉しいと思う相手はたくさんいたけれど、その人のことを考えて泣きたくなるのは初めてだった。
 かわいそうだったのかもしれない。好きだと思うのは慰めてあげたいと思う気持ちと同じなのかもしれない。
「やあ、ドクターの助手」
 振り向いた土手の上に詩人が立っていた。
 彼は身軽な動きでエレファンのそばまで歩いてくると、しゃがんだままのエレファンを見下ろして笑った。
「マリィはあんたのことを神様みたいだって言ってたよ」
「あ、僕もそれ不思議に思ってたんだけど」
「絵がうまいから」
 ヒューはすとんとエレファンの隣に腰を下ろした。
「きれいなものを生みだす人は神様なんだって。そう言ってたよ」
 ヒューの言葉にエレファンは笑った。そうかぁ、と言って、ヒューと同じように足を伸ばして草の上に座る。そのまま両手を広げて大の字に寝そべった。
「さびしいってこういうのかなあ。今まではずっと、いてほしいと思った人はそばにいてくれたんだ。さびしい気持ちを僕は知らなかった。でもこういうのかなあ」
 眩しい午後の日差しをさえぎるように手のひらで顔をおおって、エレファンは少しだけ泣いた。マリィがいなくなってしまったと聞いたとき、ほとんど一日中泣いたけれど、それだからといって涙が枯れるわけでもなく、また泣いた。
 ヒューはエレファンの隣で膝を抱えた。なんて異質なんだろうと思った。隣で泣くこの青年は、陽気に乾いたこの国でなんて異質なんだろう。
 泣き方を知らない住人たち。
 誰の目も気にせずに泣けるただ一人の人間。
 たぶんだからマリィは彼を選ばなかったのだし、彼のことがとても好きだったのだ。
 ヒューは目を閉じて、マリィが最後に口ずさんでいた歌をうたった。
 川の流れる音が聞こえる。


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あとがき / 過去小説UP第1弾。これは記録によると2000年の8月に書いたものです。「ある異邦人の話」の番外編というかなんというか、細かいところを気にすると矛盾があるような気がしないでもない話です。何しろ2年前なので書いたときの気持ちも忘れかけていますが、途中ですごく嫌になって最後のほうは書き逃げのように書いて終わらせたような気が……。今読み返してみるとそれなりに思い入れだけは深い話です。そういえば私はドクターステイン主役の話が書きたかったのではないかと思い出しました。