国王の花嫁(後編)





「どうして私がメルセスみたいな成り上がり国に嫁がなきゃならないの!?」
 メルセス国王との婚姻話が持ちあがった折、花嫁候補に選ばれた当の本人の第一声はこれであった。
 アレイン・フェリア・グィネンバルト・シュスというのが彼女の正式な名前であり、その意味はシュス王国のグィネンバルト家のアレイン・フェリア王女ということである。
 シュスは北のブレア王国と同程度の小国ではあるが長い歴史のある国で、その建国の古さでは大陸内でも一、二位を争う。それがゆえに国民や、とりわけ王族の矜持は高く、領土の小ささを棚に上げて他国を成り上がり国呼ばわりするのは日常茶飯事である。メルセスはすでに建国から四百年近くを数える大国であるが、それでも三千年の歴史を持つシュスから見れば生まれたばかりのようなものだ。
 したがってアレイン姫からすれば、冒頭の台詞はごく当然のものであり、自らと同じく矜持に溢れる父王がなぜこのような結婚話を持ってくるのかまったくわからなかった。
 しかし好戦的で知られるシュス民族にしては例外的なほど穏やかな父親はやんわりと娘をたしなめ、メルセスという大国と縁戚関係を持つことの重要さを滾々と説いた。アレイン姫も十八という適齢期を迎えていることでもあり、メルセス国王も二十五という若さである。何も一回りも二回りも離れた男に嫁げと無茶を言っているわけでもない。
 そういうわけでアレイン姫としては大変に不本意ながらも、王たる父親の言葉には逆らえず、なかなか返事を寄越さないメルセス国王との婚姻を確実なものにするため、何人かの供とともにメルセスへと赴くことになったのである。


 隣国であり、豊かな商業都市でもあるメルセスへは公式行事への参加やひそかなお忍び旅行で何度も訪れたことがある。
 見なれた国境地帯を抜けて、アレイン姫を乗せた馬車は一路メルセス王都クェルティンへと向かった。進むごとに建物が増え、人が増え、はっきりと賑わいを増していく王都への道。古い歴史のほかはとりたてて何も誇るところのないシュスとはまるで違う大都市に圧倒されたのはもう随分前のことだ。幼いころはただその華麗さ、明るさに憧れ、一生この国に住みたいとまで思ったこともある。
 しかし成長し、シュスやメルセスの歴史を知るうちに芽生えてきたのは愛国心で、その気持ちと反比例するようにメルセスへの反感が高まっていった。新興国家でありながら大陸の中心でもっとも気候が良いという恵まれた地の利を持ち、初期に出た何人かの商才に長けた国王の力で大陸一の商業国にのし上がった成り上がり国。
 また、メルセス王は歴代戦を嫌う軟弱者が多く、軍事力より商業の育成にひたすら力を注いできた。その結果、メルセスはほとんど領土も人民も痛めることなく、その商業力を背景にした外交によって自国の平和と繁栄を維持してきた。シュスはそれとは対照的にもっぱら軍事力に力を注ぎ、その力によって自国の独立を守ってきた国だ。恵まれた国土も特産物も持たない小国にはメルセスのような道は選べなかった。それなのにおうおうにしてメルセス国民はまるでシュスを戦好きの野蛮人のように言う。それがアレイン姫には許せなかった。
「姫、まもなく王宮に着きますぞ」
 外から呼びかける声にアレイン姫はふっと物思いから引き戻された。
「ええ」
 頷き、馬車の窓からメルセスの壮麗な白亜の宮殿が遠くに見えてきたのをその目で確認する。ブレアでしか採れないという希少で高価な鉱石で作り上げられた見事な宮殿。成り上がりの極みのようなそのえげつない華麗さ。
 ひとつ大きなため息をついて、アレイン姫はまっすぐに白亜の宮殿を見つめた。


 アレイン姫一行がまずはじめに案内されたのは、メルセス王国外務省にある一室であった。
 突然の訪問に出迎えの用意ができず申し訳ない云々と、額の汗を拭いながら初老の男が言うのを聞きながら、 姫はふわあと欠伸をした。
 そして男の声を遮るように、
『私はシュス語しか喋れないの』
と一言一言をはっきりと言ってやった。多少なりともシュス語の知識があれば簡単に聞き取れたはずだ。しかし案の上その男はきょとんとした顔をして、近くにいた男に今アレイン姫がなんと言ったのかと問いかけた。男もわからないと首を振る。
「姫」
 お付きの武官が困ったようにアレイン姫を呼んだが彼女は知らん顔をした。自国語が大陸公用語となっているからといって、他の国の言葉を学ぶ努力すらしないその傲慢さがいやなのだ。仮にも外務省に努める者が隣国の言葉さえ知らないとはどういうことなのか。
「姫は中にいらっしゃるのか」
 そのとき、大きな足音を響かせながら一人の若者が姿を見せた。初老の男はほっとしたように一歩下がり、その若者は当然のようにアレイン姫のすぐ前まで歩いてくると、
「ようこそメルセスへ。道中何事もありませんでしたか。お疲れでしたら今すぐお休み頂ける部屋を用意いたしますが」
 爽やかな笑顔とともに言った。やはりメルセス語であった。
『私メルセス語はわからないわ』
 皮肉な笑顔を浮かべてまた言うと、相手は先ほどと同じようにきょとんとした表情を浮かべた。
 しかしすぐにもとの笑顔に戻ると、言った。
『それは失礼。たしか以前来られたときには美しいメルセス語を話されていたように思ったので』
 それは訛りのないきれいなシュス語だった。アレイン姫は目を見張り、改めてその若者を見つめた。濃い金色の髪に透き通る空のような青い瞳。すらりと背が高く、端正な甘い顔立ちで、育ちの良さがうかがわれる優雅さを自然に身に纏っているような青年だった。
『以前会ったことがある?』
『一度。陛下の即位の儀に来られていましたね? 私もその場におりましたので』
『お名前は?』
『グラス・イーグリーと申します』
 アレイン姫はさらに目を見張った。イーグリーと言えばメルセスに二つしかない公爵家のひとつではないか。そういえば先日メルセスの公爵が代替わりをしたと聞いたが、まさか新公爵はこんなに若かったのか。
(でも新公爵は女性だと聞いたけれど……)
 目の前の青年を見る限り女性だとはとても信じられない。思わずまじまじと凝視していると、その視線に気づいてイーグリー公爵がにこりと笑った。アレイン姫は赤面して目を伏せる。
『ひとまず道中のお疲れをおとりください。お部屋に案内させましょう』
 凛とした公爵の声に、姫はただ頷いた。


「結婚? フェイン結婚するんだ? おめでとう」
 その話を聞いたとき、当事者であるはずのメルセス国王が一番はじめに言ったのはその言葉だった。
「だれが私の話をしているんですか。陛下のご結婚に決まっているでしょう」
 内心の怒りを抑えつつ言ったフェイン・バルトリース第二秘書の言葉に、クーリエ国王はきょとんとして、それから「誰と?」と至極当然の疑問を口にした。
「ですからそれを決めていただきたいのです。ここに候補のご令嬢方の資料がございますので」
「えー、これ読まないといけないの? やだよ面倒くさい」
 読もうとする努力さえしないまま、クーリエ国王は両手を上げて椅子にもたれかかった。すべてにおいて面倒くさがりな弟と彼が違う点は、自分に興味のあることにだけは一生懸命ということである。要するに、興味のあること以外はまったく弟と同じ面倒くさがりなのだ。
「結婚を面倒くさいで片付けることは許されません! 健康なお世継ぎを残されるのが王たる者の努めです!」
「いーよー、いざとなったら養子でもとれば」
「我が国の法律では未婚の者は養子をとれません!」
「じゃあ法律改正。今度スー公爵に言っとく」
「陛下!!」
 ぶちきれたフェインが机をバンバンと叩くと、国王は一瞬びくっと身を引いたが、すぐにへらへら笑って言った。
「まあまあ。まあまあ。いいじゃん別に。フェインが結婚するわけじゃないんだから」
「私の結婚よりよほど大事なことです! いったいいつになったら陛下はご自分の立場というものを理解してくださるのですか!」
「じゃあ王位なんてクラウスに譲るからさー……」
「………!!!」
 その言葉はフェインの逆鱗に触れた。彼はさほど大きくない目をこれ以上はないというほど見開くと、いきなりくるりと回れ右をした。
「フェイン?」
 国王の言葉に、フェインは一度だけ振り返ると、「でしたらどうぞご勝手に」と今まで聞いたどの言葉よりも優しく言うと、そのまま部屋を出ていった。
 フェインが退職願を出したとクーリエ国王が聞かされたのは、その日の夜のことだった。


 クラウス第一秘書は面倒なことが嫌いである。
 だからその日、彼は朝からずっとそれを無視しようと努めてきた。目に映るものを見えない振りをするのは彼の得意技だ。自分に実害がない限り、彼はたいていのことを無視できる。
 しかしそもそも「努力して」無視しようとしていたことがすでに、それが無理であることを証明しているようなものだ。遅れ馳せながらそのことに気がつくと、彼は一番労力を使わない方法を選んだ。すなわち立ちあがり、
「急病につき今日は政務を休ませていただきます」
と伏し目がちに宣言してとっととその部屋を出ようとしたのである。
「わーん、クラウス行かないでくれよーひどいよー」
 しかしそれはクラウスの逃亡を許してはくれなかった。部屋のすみで丸くなってべそべそしていたクーリエ国王は、弟の足にすがりついて泣きついたのである。
「お放しください」
 蹴り剥がそうとしたが、国王はしっかりしがみついて離れようとはしなかった。
「フェインがーフェインに見捨てられたー」
「当然でしょう」
「どーしよーこのまま帰ってきてくれなかったら。ねーどうしたらいいと思う?」
 知るか馬鹿、と言いたいのをぎりぎりのところでクラウスはこらえた。言っても素直にこの国王が手を離してくれるとは思えなかったからである。幸か不幸か第二秘書は後任を見つけないとやめられない制度になっている。ということはフェインが後任を見つけるまで正式には辞任できないということだ。
 フェインがいきなりやめると言い出したいきさつは馬鹿兄が聞きもしないのにべらべら喋りまくったから知っている。もともと国王のいい加減な態度に嫌気が差していたのだろうが、直接的な原因は結婚が面倒だから王位を弟に譲ると口走ったことだ。
 もし真剣にフェインに戻って欲しいと思うならば、その反省の意を示すためもっとも手っ取り早い方法はおのずと知れている。
「戻って欲しいならさっさと結婚相手を決めることです」
 フェインがこの馬鹿げた問題にどれだけ時間を割いたのか知っている。自分の仕事を減らすためにマーサを王妃にしたいと願っていたことも知っているが、それはフェインの立場を思えば無理のないことだ。
「結婚相手?」
 普段よりいっそう幼児化している国王が鼻をすすり上げながらクラウスを見上げる。
「まずはシュスのアレイン姫にお会いください」
 素っ気無く、彼はそう言った。


「国王の急病」により、面会の時を引き伸ばされていたアレイン姫は、しかしさほど不機嫌になってはいなかった。理由は自分でも認めたくないが、国王の代わりにつきっきりで外務省大臣たるグラス・イーグリー公爵が相手をしてくれていたからである。
 国ではなかなか見られないほどの恵まれた容姿を持ち、シュス語も堪能で、あらゆる方面の知識とユーモアを持った公爵と話をするのは楽しかった。女性を喜ばせるこつを心得ているようで、さりげない気遣いや優しい言葉に、相手も女性だとわかっていても胸が高鳴るのをどうすることもできなかった。
「姫は恋をしたことがおありですか」
 朝食を済ませた後、私室に戻っての歓談の際に、不意に公爵が問いかけた。
「いいえ。公爵はあるの?」
「ありますよ。今とても好きな人がいます」
 やわらかく笑ったその顔にしばし見惚れる。
「へえ……どんな人?」
「年下で、幼馴染ですがつい最近までは弟のようにしか思っていませんでした。しかし私も姫のように結婚を考えざるを得ない状況に追いこまれまして、そのとき唐突に彼がその相手でもかまわないということに気がついたのです。そして誰かと必ず結婚せねばならないのなら相手は彼がいいと思っている自分に」
 それは恋だと思うんですよ、と言って口の端で笑った公爵はとても幸せそうに見えた。相手はあまり乗り気でないようだから結婚はいつになるかわからないのだと言ったときでさえ、公爵からは悲壮感は微塵も感じられなかった。
「そんなふうに好きな人がいるのは羨ましいわ」
「ええ。姫も良い相手を見つけてください」
「だめよ。だって父様たちは皆私がクーリエ陛下と結婚するのを望んでいるんだもの」
「意に添わぬご結婚はなさらぬほうがいいですよ。もし陛下をお好きになれるのならばよいですが」
 大国の公爵とも思えぬ私的な意見に、アレイン姫は苦笑しながらも嬉しく思った。王族の女など政略結婚の道具と思われても仕方がないのに、自分の意思に従うべきだと言ってくれることが嬉しかった。同じ女だからよけいにそう思うのかもしれない。
 そのとき扉をノックする音が聞こえた。
「アレイン姫、クーリエ国王陛下がお会いになりたいとのことです」
 姫はイーグリー公爵と顔を見合わせる。公爵が頷いて立ちあがり、優雅なしぐさで手を差し出すと、アレイン姫はためらいなくその手をとった。


 堅苦しいのは嫌いだということで、アレイン姫が案内されたのは玉座のある王の間ではなく、普段国王が政務を執る王政執務室という部屋だった。
 部屋の前まで案内してくれたグラス・イーグリー公爵は、部屋の前で姫に中を示すと、「あとは陛下とお二人でよくお話しください」と一礼して去ってしまった。てっきり中までついてきてくれるものと思っていた姫は急に心細く感じたが、すぐにそんな弱気になるなと自分に言い聞かせた。
 メルセスという大国の王。けれどだからと言って自分が恐縮しなければいけない理由はない。
 メルセス国第十二代国王、クーリエ・クランハイム。何度か見かけたことはあるが直接言葉を交わしたことはない。残っている印象はただ凡庸の一言で、人のよさそうな顔立ちで、強烈な個性も自我も持ち合わせていない傀儡のような若い王だと思ったのを覚えている。
 扉を開けると、広い室内に青年が一人、ぽつんと椅子に腰掛けていたのと目が合った。
「クーリエ陛下……?」
 記憶にある顔。けれど印象がまるで違うことに思わず確認せずにいられなかった。
 国王は心なしか赤い目でアレイン姫を見つめると、首を傾けて少し笑った。
「こんにちは」
 二十五歳のはずなのにもっと若く見えるのは線が細いからだろうか。それともどうしてだか悲しげな表情をしているから弱々しく見えるのか。
「シュスのアレイン姫ですか。はじめまして」
「………」
 国王は姫のことを覚えていなかった。たしかに彼の国王就任の儀にやってきていた他国の使者は数え切れないほどいたし、そのすべてを覚えていろというほうが無理なことだ。イーグリー公爵が姫の顔を覚えていたことのほうがよほど不思議なくらいなのだ。
「はじめまして」
 しかたなく、姫も同じようにそう挨拶した。彼に会う前はシュス語で話してやろうと思っていたが、本人に会って気が変わった。彼はきっとシュス語は喋れないだろう。しかしそのことを責める気にもなれないほど目の前にいる青年は頼りなく見えた。イーグリー公爵のほうがよほど男らしい。
「座りませんか。クラウスの席でよければ」
 ソファも何もない部屋で、普段は部下が仕事をしているのだろう無骨な椅子を勧められた。一瞬ためらったあと、小さなため息をついて素直にその席に座る。するとクーリエ国王もやってきて姫のすぐ隣の席に座った。
「どうしてそんな悲しそうな顔をしていらっしゃるのですか」
 耐えられなくなってそう尋ねると、国王は一瞬きょとんとした顔をして自分の頬を手でさすり、「悲しそうな顔をしてますか」と自分でも不思議そうに呟いた。
 それから急にはーっとため息をつく。
「フェインが辞めるって言い出したんです。僕が結婚なんて面倒くさいから王位を弟に譲ると言ったのが許せなかったらしくって」
「………」
 フェインとはたしかメルセスの第二秘書の名前だったような気がする。
 それは怒るだろう、と姫は内心でフェイン第二秘書に同情したが、国王はさめざめとさらに続けた。
「だって結婚とかあんまり考えたことないんだよ。フェインもクラウスもグラスもパルディクもマーサも皆同じくらい好きなんだ。その人だけがいればいいとか全然思えないんだ。僕はずっとみんなにそばにしてほしいんだ。それじゃ駄目なのかなあ」
「………」
 駄目に決まっている。仮にも一国の王が、しかも二十五にもなる男が、いまだにこんな子供のような絵空事を本気で口にするなんて信じられない。
 そう思ったが、どう見てもクーリエ国王は本気のようだったし、それにどうしてだかこんなふざけたことを言う男に対して怒りは湧いてこなかった。七つも年上だということは十分わかっているのに、まるで年下の弟を見ているような気持ちになる。
「でも僕が結婚しないとフェインは戻ってきてくれないっていうんだ。どうしたらいいのかなあ」
「陛下は結婚したくないのですか?」
「わからない。姫は僕と結婚したいですか」
 単刀直入過ぎる問いかけに苦笑した。
「会ったばかりだからわからないわ。でも思っていたより嫌いじゃないみたい」
 正直もっとつまらない凡庸な男かと思っていたのだが、実際の国王は予想より変わった人物だった。初対面だと思っている相手に対しても臆するところもなくすんなりと懐に入ってくるような人懐こさが、不思議に不快ではなかった。心は少年のまま身体だけが大きくなったようだ。
「でも……そうね、結婚相手というよりお友達になりたいわ。私たちの結婚は似合わない気がする」
 彼のことを好きにはなれるだろうが、愛することができるかといえばそれはおそらくノーだろうとごく正直にそう思った。
「そうですか」
 拒絶の言葉に傷ついた様子もなく、国王は頷いただけだった。
「姫が断ったのならフェインは怒らないかな? 帰ってきてくれるでしょうか」
「フェイン様のことが必要なのだと陛下がおっしゃれば、きっと」
 元気付けるつもりで言うと、国王は嬉しそうな顔でにこっと笑った。子供のような笑顔。見ているだけで何となく自分まで嬉しいような気持になって笑い返すと、クーリエ国王は姫の手をとって「ありがとう」と言った。
「フェインに謝ってきます。それからまたいろいろ話をしましょう」
「ええ……そうね」
 世間話をしにきたわけではなかったが、まあいいか、と思った。なんだかよくわからないが、まあいいか。
 そのとき軽いノックの音とともに扉が開き、一人の女性が姿を見せた。
「クーリエ? 中にいる?」
 彼女はしかし、中にいるのが国王だけではないことに気がつくと大きく目を見張り、「ごめんなさい」と口元を押さえた。
「大変な失礼を。陛下お一人だと思ったものですから。お許しください」
「…………」
 やわらかそうな栗色の髪。ゆるく波打つ様がとても美しいと思った。
 瞳の色は深い森のような緑。陶器のように真っ白な肌。鈴のように凛と響く声。
 それらすべてにアレイン姫は打ちのめされた。まさに彼女の理想がそこにいた。
「お、お……」
「お?」
「お姉さま――――!!!」
 そしていきなり彼女のもとへ走り、抱きついた。抱きつかれたほうは当然ながらぎょっとして固まった。
「……生き別れの妹?」
「違うに決まっているでしょう」
 国王の間の抜けた問いかけに我に帰り、マーサ・アンファシルジアは自分に抱き着いているアレイン姫の身体をそっと引き離した。
「姫? どうされたのですか。ご気分でも?」
「いいえ。正気ですわ! 私お姉さまのような方を探していたんです。私のお姉さまになってください! お姉さま!」
「…………」
 アレイン姫はマーサの言葉も待たずに再びひしっと彼女に抱きついた。マーサは困惑顔を国王に向けたが、国王は首を傾げながら成り行きを見ているだけである。そもそも彼が何かの役に立ったためしがないことを思い出し、マーサは小さくため息をついた。しかたなくアレイン姫の背中を撫でてやりながら、
「陛下。フェイン殿が先ほど私のところに来て陛下をよろしくお願いしますとおっしゃったわ。フェイン殿に何をしたの? 自分はもう陛下のお世話はできないからってとても悲壮な顔をなさっていたわよ」
「フェインが!?」
「今はまだ私の家にいるわ。引きとめているから。早く行って謝りなさい。辞めてほしくないでしょう?」
 ぶんぶんと国王は頷き、すぐさま王政執務室から走り去った。アレイン姫に挨拶の言葉もなかったが、彼女も国王が部屋を出たことなどどうでもいい様子でマーサに抱きついたままだった。
 国王が開けっ放しにしていった扉とアレイン姫の頭を交互に眺め、マーサはどうして自分はこういうわけのわからない役回りになるんだろうとなかばあきらめながら思った。困った幼馴染に困ったお姫さま。
 それにしても許せないのは中にアレイン姫がいることを一言も言わなかったクラウスだ。国王はどこにいるかと尋ねたマーサに、彼はただ「王政執務室に」といつもの素っ気無さで答えただけだった。確かに一人でいるとも言わなかったが、それにしても普通は一言言うだろう。言わなかったのは十中八九言葉を増やすのが面倒だったからだ。
(いつか覚えてなさいよ)
 マーサは内心でクラウス第一秘書への復讐を誓った。このようにして彼は日々いろいろな人間の恨みを溜め込んでいる。まさに何もしなかったというそのことによって。


 後日談。
 アレイン姫は国へ帰らず、そのままメルセスへ居座った。名目は留学であるが、メルセスの高官貴族たちはみな彼女が国王の花嫁となるためにメルセスに留まっているのだと考えた。そのため娘を王妃にと思っていた貴族たちはみな落胆の色を隠せないながらも国王の婚約を祝福し、娘のための新たな花婿探しを始めた。
 しかし国王にごく近い一握りの人間はそれが真実ではないことを知っていた。姫はずっとマーサのところに入り浸っているらしい。
「陛下。真剣にご結婚を考えられる気はないのですか」
 今日もため息をつきながらフェイン・バルトリース第二秘書が問いかけると、国王は涼しい顔で「まだ早いよ」と笑った。
「本当に誰かを好きになったらちゃんと結婚するから」
 クーリエ国王は非常に問題の多い王ではあるが、感情表現は極めて素直で子供のようだ。その彼にストレートに「帰ってきてほしいんだ、もう国王を辞めるなんて言わないから」と謝罪され、それでもいやだと言えるほどフェインは冷血な人間にはなれなかった。
「陛下……」
 のん気な顔でひなたぼっこをしている国王を眺めつつ、ちらりと横目でその弟を見る。クラウス第一秘書は無表情に書類をめくっては判子を押している。真面目に働いているように見えるが、その目が半分しか開いていないことがよく見ればわかる。
 フェインは手に持った書類をぎりぎりと握り締めた。そしてどうして自分はあの時もっときっぱりと国王の謝罪を跳ね除けることができなかったのだろうかと、毎日悔やんでいることを改めて悔やんだのだった。


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あとがき / 国王の結婚はいつになるのでしょうか。25にもなってこんな男がいたら間違いなくモテないだろうなあ。