月と楽園1 ネバーランドと少年のこと





 松崎流比子は、この春中学に入学した。
 三歳の時に両親が離婚して以来ずっと母と兄と三人で暮らしている。父のことはほとんど覚えていない。ただ、母とよく言い争いをしていたような記憶だけがわずかに残っている。
 たった一人で夕食を食べながら、流比子は夕方会った奇妙な少年のことを考えていた。
(ネバーランドに、なんて、まるでピーター・パンみたい)
 あの後少年は、唖然として何も言えずにいた流比子の沈黙を勝手に肯定と受けとめたらしく、「夜に迎えにいくから窓を開けておいて」とだけ言い置いてどこかへ走り去っていってしまった。
(迎えにいくって、家も知らないくせに)
 流比子はカーテンを閉じたダイニングの大きな窓に視線をやった。少年の言葉を本気にしているわけではない。なのに、なぜか彼のうれしそうな声が耳に残って離れない。
 どこの子かな、少し年下みたいだったけど、などと考えているうちに一人きりの夕食が終わった。
 皿を下げようと席を立ったちょうどそのとき、家の外で自転車が止まる音がして、そのすぐ後に玄関の扉が開いた。「おかえり、お兄ちゃん」
 部活から帰ってきた四つ年上の兄はいつもどおり疲れた顔をしていて、流比子を見ると少しだけ頭を動かして頷いた。
「ただいま」
 重力に逆らう元気もないようにドスンと椅子に腰を下ろす。野球部に所属する兄は、夏の県大会のための連日にわたる朝と放課後の練習で最近ひどく疲れているようだった。
 その兄のために、流比子はまた一人分だけ夕食を用意した。
「二階で試験勉強してるね」
 後片づけは兄の分と一緒にすることに決めて、それだけ言うと逃げるように自分の部屋に引っ込んだ。


 夜、入浴も終えて部屋で宿題の続きをしながら、時折流比子は開け放した窓の向こうに目をやった。
 わずかに吹き込んでくる風はあるものの、七月の初めだけあって少し蒸し暑い。昼間降った雨で気温が下がったように感じていたが、夜になると暑さが戻ってきたようだった。
「………」
 シャープペンシルを指先でいじりながら目の前の教科書に集中しようとしたが、無理だった。
 中学に入って最初の期末試験は明日からだというのにちっとも勉強に身が入らない。ペンを机の上に転がして、流比子は小さくため息をついた。
「ため息は幸せを逃がすって知ってる?」
 不意に面白がるような声が聞こえてきて心臓が飛び出そうになった。
「やあ」
 窓枠に足をかけた少年が片手をあげて人懐こく笑う。
「あ、あなた……!」
 流比子はぎょっとした。ここは二階だというのにどうやって登ったのだろう。問いただそうとしたら、夕方会ったときとまったく同じ服装をした少年は、しーっと口元に指をあてた。
「静かに。だれかに見られたくないんだ。だから君も静かにしてくれなきゃ困るんだよ。わかった?」
 その勝手な言い分に腹をたてるよりも何よりも、まさか本当に来るとは思わなかった彼がやってきたことにびっくりして、流比子はそれ以上言葉が出なかった。
 そうしている間にも少年はさっさと部屋の中に入り込んできて、椅子に腰かけたままの流比子に向かって手を差し伸べる。
「約束どおり迎えにきたよ。さあ行こう、ぼくらのネバーランドへ!」
 勢いよくそう言われても、流比子はその手をとることができなかった。
 差し出された手のひらと少年の顔とを交互に見比べて唇を噛む。
 満面の笑顔を浮かべていた少年は、いつまでたっても彼の手をとろうとしない流比子に不思議そうな顔をした。
「どうしたの? 行こうよ、君を迎えにきたんだよ。約束したじゃないか」
「約束なんて……」
 していない。彼が一人で喋って一人で誤解しただけだ。
「行きたくないのかい?」
「だって、私あなたのこと何も知らないのに。なのについて行けるわけがないじゃない」
 どこのだれかもわからない不思議な少年。ついて行けるはずがなかった。けれど約束した、と信じきって笑う少年に強く拒否することもできないで、ぼそぼそと言い訳のようにそう言うのが精一杯だった。
 すると少年はまた笑顔になって、「じゃあこれから知ればいい!」と大声で言った。だれにも見られたくないと言っていたのは彼のほうなのにと思いながらも流比子は下にいる兄に聞こえてしまうのではないかと一人で慌てたが、兄がやってくる気配はなく、ほっと胸を撫で下ろした。
「ちょっと、もう少し静かに……」
「ぼくの名前はピーター・パン。君の名前は?」
「ピーター・パン!?」
 静かにしろと言うつもりだったのに、少年の自己紹介に今度は流比子が大声をあげていた。
 慌てて口を押さえ、それでも驚きを隠しきれずに少年を見る。
「ピーター・パンって……」
「ピーターでいいよ。ピートでも何でもいいけどね。それより君の名前は?」
「る、流比子。松崎流比子……」
 問われるままに答えながらも、何がどうなっているのかわけがわからず流比子は混乱していた。
 ピーター・パン。お伽話の主人公の名前だ。ネバーランドの住人。永遠に大人にならない少年。
 その話が大好きで、何度も本を読み返したけれど――。
「ルイコ。変わった名前だな。うん。でもいい名だね」
 一人で納得したように頷いて、ピーター・パンは再び流比子に向かって右手を差し出した。
「行こうよ。夜のうちじゃないと空を渡れない。人に見られたら駄目なんだ」
「空……?」
「空を飛んでいくんだ」
 こともなげに言われた言葉に流比子は絶句する。冗談かと思って相手の顔を見つめたが、その顔はまったくもって普通の表情だった。
「そ、らなんて……飛べないわ、私」
「平気だよ。飛ばせてあげるって言ったろう?」
 ピーター・パンは微笑みを浮かべたままで頷く。
 そうしていきなりポケットの中から濃い緑色の布きれのようなものを取り出した。何かと思って見ていると、彼はそれを広げてぱんぱんときれいに形を整え始め、それを見てようやく流比子はそれが帽子であることに気がついた。
「ティンク、出てこいティンカー・ベル」
 次の瞬間、ぱあっと光が弾けたような気がして流比子は目をつぶった。
 目の奥を光の残像が駆け抜けていく。しばらくたってそろそろと目を開けると、ピーター・パンにまとわりつくようにふわふわと浮かんでいる光の玉が見えた。
 淡い金色の光。
 手のひらくらいの大きさで、やがて目が慣れてくるとそれがどうやら人の形をしているのがわかった。
(妖精!?)
「――こんなところで何してるのよピーター・パン! まったく全然懲りないんだからっ!!」
 出てくるなりぎゃーぎゃーと喚き始めた妖精に流比子は目を丸くした。慣れているのかピーター・パンは片方の手を振って、
「いいから妖精の粉を出してくれ」
 と頼むというよりはまるで命令するように言った。
「いやよ。だれが出すもんですか」
 ふん、とティンカー・ベルはそっぽを向く。それからふいに流比子に視線を向けると、敵意をむき出しにしてぎっと睨みつけてきた。
 初対面で睨まれる覚えもなく、流比子はただ戸惑った。ピーター・パンはむっとしたように手を差し出す。
「いいから出せよ。ぼくの言うことがきけないのか」
「い・や・よ。イヤだったらヤ。絶対出してあげない」
「ふん。いいよ、お前がそういうつもりならしかたない。ルイコが行けないならぼくもここにいるから。ルイコと一緒にここのうちの子になるんだ」
「え、ちょっと……」
 いきなり思ってもいなかったことを言われて流比子はびっくりした。
 ここのうちの子になる、と一人でそんなにあっさり決められても困る。けれどティンカー・ベルはその言葉を本気にとったらしく、大きく目を見開いて絶句した。
「――バカバカ、ピーターのバカ! もう知らない! 好きにすればいいじゃないの!!」
 叫びながらティンカー・ベルは何か袋のようなものをピーター・パンの顔めがけて投げつけ、自分はやってきたときと同じように帽子の中に飛び込んだ。
 あまりの出来事に流比子は呆気に取られて声が出ない。しかし目的のものを手に入れたピーター・パンは何事もなかったように微笑んで、流比子にウインクしてみせた。
「さあ、これで準備オーケーさ」
 やっぱり行きたくない、などとはとても言えるはずがなかった。


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あとがき / 基本的に私は少年が好きなので(12歳前後)この年頃の男の子がメインの話がやたらに多いです。でもそれ以上に27歳前後の男の人も好きなので、そのあたりのメインも多いです。18歳くらいはなぜかぽっかり穴があいています(笑)