「私、家に帰るわ」 いつものようにピーター・パンがとってきてくれた木の実で食事をとりながら、流比子はふっと顔を上げてピーター・パンを見つめると、一言そう切り出した。 何の前触れもなく告げられた言葉にピーター・パンは一瞬きょとんとして首を傾げる。 「帰る?」 「うん」 「だって、賭けはぼくの勝ちだったじゃないか。君はずっとここにいるって、だから――」 困惑して急に落ち着きをなくしたピーター・パンとは対照的に、流比子はいつもの気弱な様子が嘘のように落ち着いていた。ピーター・パンを真っすぐ見つめたままで静かに言った。 「賭けなんて関係ないのよ。窓が開いてなくたって、誰も待ってなくたっていいの。帰ったら家に入れてはくれるだろうし、あっちには私の居場所があるから。だからもう帰るの。ピーター・パンと一緒にはいられない」 「居場所って、居場所ならここにもあるじゃないか! どうして!」ピーター・パンは癇癪を起こした子供のように大声で叫んだ。 「どうしてみんなぼくを置いていくんだ!」 「ごめんね。でもピーター・パン、あなたはどうせ忘れてしまうでしょう。今がどんなにつらくっても、あなたは私のことなんてすぐに忘れてしまう。だから何て思われたっていいの。ごめんね」 ピーター・パンは大きく目を見開いて流比子を見つめた。彼女は少しも悪怯れたところのないさっぱりした表情で真っすぐ顔を上げている。 (あなたはどうせ忘れてしまう) 水を浴びせかけられたような気がした。好きで忘れるわけじゃない。忘れることをこんなにも恐れているのに、そして流比子はそれを知っていてくれていると思っていたのに、どうしてこんなひどいことを言えるのだろう。彼女だけは他の女の子たちと違うと思ったのに、やっぱり同じだったのだろうか。 流比子の顔を見ていられなくて、ピーター・パンは音を立てて椅子から立ち上がるとそのまま家を飛び出した。裏切られた悲しみと記憶を失うかもしれない恐怖とで、涙さえ出てこなかった。 もうどれくらいだかわからないほど昔――照りつける強い日差しに目眩がしたその日が暑い日だったということだけは覚えている――ひとりの男が死んだ。 普段は物静かなくせに、酒の入ったときだけ陽気におしゃべりになるその男の名はジェームズ・フックといった。聡明な迷いのない瞳をしていて、明確にピーター・パンを憎んでいた。彼の憎しみの原因はその失われた右腕のためだった。無邪気な顔をした少年に切り落とされた腕は、夜になるとうずきだすとフックはいつも言っていた。――だから、おれは酒を飲むのさ。そうしてあのガキを殺す夢を見る。いい夢だ。そうとも、おれはいつかあいつを殺してやる。 彼の声はいつも夢を語っているように聞こえた。決して現実にならないことを彼自身知っているようだった。ピーター・パンのことを考えていないときの彼は温和で人好きのする男で、手下たちにも好かれていた。その彼を自分は殺した。 理由は――理由は何だったろうか。妹が、そう、妹が帰ってしまって、ピーター・パンが――フックの前に現れた。 (もう少しで、ぼくは全部忘れてしまうんだ) ふわふわ空中に浮かびながら、あくびまじりに海のどこかを見つめてピーター・パンが言った。 (ぼくはもううんざりなんだ。君だってそうだろう) そうだなあと、フックはおもしろそうに笑った。暑い日で、日射病にでもなったのか目眩がして世界が歪んでいたのであまり鮮明には覚えていないが、ピーター・パンは笑わなかった。いつも陽気だった彼は無表情にフックを見下ろし、対照的にフックは愉快げに肩を揺らして笑っていた。 じゃあな、ピーター――。 この世界にきたばかりでさまよっていた自分を助けてくれたのはフックだった。彼には多大な恩があり、また一人の人間としても尊敬していた。 だから理由は、今になってもやはりよくわからない。 その部屋にはピーター・パンの姿は見えず、ただ少女が両手で顔を覆って泣いているだけだった。昔のことを思い出していたせいかその姿に妹の姿が重なってどきりとする。しかしすぐにその考えを自分で否定した。 ――いや、違う。彼女はもっと大人だった。もっと強くしたたかで、もうほとんど女になりかけた少女だった。あと半年先だったらきっとピーター・パンにも選ばれはしなかったほど。 「ルイコ」入ってきたのに気付かなかったのか、名前を読んだとき初めて彼女は驚いたように顔を上げた。よほど長い間泣いていたらしく泣き疲れたような真っ赤な顔をしている。 泣き顔を隠すように流比子はまた顔を覆った。 「私ひどいこと言ったの。ピーター・パンにひどいこと言ったわ。でも私ここにはいられない。ピーター・パンを助けてあげられない」 泣きながらそれでもはっきりと彼女は言った。ああ違うなあとフックは思った。妹と、ピーター・パンが今まで選んできた少女たちと流比子は違う。彼女は外見以上に心が幼くて――そして何より、母性が強くないのだった。 ピーター・パンが少女に求めていたのは、意識していたにせよ、無意識だったにせよ、母親だった。彼は自分を包み込んでくれるあたたかさを求めていた。けれど流比子にはその強さも過剰な保護欲もない。彼女はよりピーター・パンに近い。彼女はただ母と兄に愛されたいだけだ。家族を語る何気ない言葉からもうかがわれるほど、母親の優しさを必要としているのだ。 彼女はピーター・パンと同等だから、彼を救えないことを知っている。彼のために自分は何もできないことを知っている。 「あいつを助けることは誰にもできない。あいつの苦しみも嘆きもあいつだけのもんだ。そしておまえの気持ちもおまえだけのものだ。誰も侵せない。だから君は帰ればいいんだ。それでいいんだよ。――そうだろう? ティンク」 「ティンク?」 船長の呼びかけと同時に部屋の片隅にぱっと光が灯った。ティンカー・ベルはてっきりピーター・パンと一緒にいるのだとばかり思っていた流比子は大きく目を見開いてその妖精を見つめる。 ティンカー・ベルはものも言わずにそばまで飛んでくると、小さな袋を流比子に向かって投げつけた。 「これ――」 「あんたなんて嫌いよ、大嫌い。あんたが帰るとピーターは泣くわ。でもそう、あんたの言ったとおり彼はすぐ忘れてしまう。わたしが死んだって忘れちゃうわよ。だけどそれでもいいのよ。悲しまれるより、忘れられても彼が笑ってるほうがいいんだもの! バカ!」 ティンカー・ベルはピーター・パンの言葉に逆らってでも流比子を帰そうとしてくれているのだった。しかしそれは決して流比子のためではなく、ピーター・パンにすべてを忘れてほしいからだ。彼の悲しむ顔をもう見ていたくないと彼女が望むからだった。たとえ、それが彼の意志に反することであっても。 ようやく手に入れた妖精の粉をしばらく見つめ、ぎゅっと握り締めると、流比子は顔を上げた。 「私、ピーター・パンに会いたい」と彼女は言った。「帰る前に、私ピーター・パンに会いたいわ。お別れを言いたいから」 彼は森の中央にある大木の幹に寝そべって、眠っているように見えた。 「ピーター・パン――」 妖精の粉の力で浮かび上がった流比子はすぐそばでその顔を見つめ、そっと手を伸ばした。その指先が触れるか触れないかというところでピーター・パンが身じろぎし、ゆっくりと瞳を開ける。彼の顔をこんなにも間近で見たことはなかったから気づかなかったけれど、その瞳の色は反射の仕方によっては緑にも青にも見えた。深く鮮やかな色。 流比子の伸ばした指先にゆるゆるとピーター・パンの手が触れた。包み込むように引き寄せて、その深い色の瞳で流比子の顔を真っすぐに見つめた。 「おかしいなあ」といつもよりずっと小さな声で呟くように言って、ピーター・パンが笑った。 「君はぼくにずいぶんひどいことをしてると思うんだけど、何だかもう、どうでもよくなった。いいよ、君は帰るといい。寂しくなるけど……ぼくはすぐに忘れてしまうから、うん、君もたぶん、ぼくのことを忘れてしまうだろうけど――」 「私は忘れないわ。あなたのことも、フック船長のことも、ティンカー・ベルのことも、全部ずっと覚えているわ」 忘れようとしても忘れることなどできるはずがない。ピーター・パンがどれだけ嫌がっても記憶を失ってしまうように、流比子はどれだけ忘れたくても忘れることはできない。 兄の言っていた意味がようやくわかった、と思った。父親のことを覚えているのが羨ましいと言った流比子に、そんなことはないとつまらなそうに言った兄。彼は父との別れを知っているから。彼にとって父親の思い出はすべて別れの時に帰っていくのかもしれない。流比子にとってこのネバーランドの思い出がすべてピーター・パンの悲しげな泣き顔に帰っていくのと同じように。 「ルイコ」 ピーター・パンが身体を起こして、流比子との距離が近くなる。触れ合ったままの指先から彼の熱を感じた。こんなにあたたかいのに――彼はここにこうして生きているのに、なぜこんなにも遠く感じるのだろう。 「ねえ、君のものを何かぼくにくれないか。君のことを思い出せるようなものを。ぼくも何か、何か持ってるといいんだけど……」 急にそわそわと自分の身体を見回しはじめたピーター・パンの姿に思わず笑ってしまった。けれど自分のことを考えて途方に暮れる。彼にあげられるものなど持っていただろうか。首飾りも時計も何も持っていない。あげられるものなんて。 「――だったら、指ぬきを、あげる」 絵本を思い出して頬にキスをした。ピーター・パンはきょとんとして、「指ぬき?」と驚いたようにくり返した。 「大好きな人にだけあげるの。とっても大事なものなのよ」 「じゃあぼくもルイコにあげる」 かすめるように唇が触れた。唇に。 びっくりして身をひこうとしたら、強く抱き締められた。この小さな身体のどこにこんな力があったのかと思うほどの力強さで、一瞬、抱き締めて、すぐに身体を離した。 「バイバイルイコ。ぼくのことを覚えていて。うん、もしよければね」 泣きそうになるのを必死に堪えて何度もうなずいた。ピーター・パンが笑って頭を撫でてくれる。全部覚えておこうと流比子は思った。ピーター・パンの涙も、ティンカー・ベルの光も、フック船長の海も、このネバーランドのすべてを、ずっとずっと覚えておこう。 (ドアが閉ざされていたら、何度も叩いて前へ行くの) これからはそうやって生きていく。どれだけ傷ついても生きていく。あの、自分のいるべき世界で。 「さよなら、ピーター・パン」 さよなら、ネバーランド。 (ずっと忘れない大好きな国――) 丸太の上によっと飛び乗って、ピーター・パンは器用にバランスをとりながら飛び跳ねるように歩いていく。 「おまえはかわいそうな奴だなあ」隣を歩いていたフック船長がしみじみと呟き、ピーター・パンはふと足を止めて船長の顔を見下ろした。 「かわいそう? ぼくが? どうしてさ。ぼくはこんなに幸せなのに。どんなつらいことがあったってみんなみんな忘れるようにできてんだ。忘れるって最高さ!」 「そうだなあ。むしろ不幸せなのはこのおれか。忘れることができないんだからさ」 「なんだ、そうなのかい? かわいそうなフック船長!」 からかうようにふふっと笑ってピーター・パンはまた歩きだした。彼のすぐそばを小さな光が飛んでいる。ティンカー・ベルという名の、けれどまだ少女のことを何も知らない妖精。あれからまもなく動かなくなってしまったティンカー・ベルの墓は船長が作った。ピーター・パンがその死に気づいたのかどうかはわからない。彼にとってそばにいる妖精はだれでも「ティンカー・ベル」だ。 「――……」 途切れた丸太から飛びおりると、ピーター・パンは涼しさを含んだ風に目を細めて大きく伸びをした。 季節は秋に移ろうとしていた。 |
| あとがき / やー、最終回ですね。今まで読んでくださってどうもありがとうございます。次はもっと短編を書きます(笑) |