青くて広い海の上。 波はゆるやかに揺れるだけ、晴れ渡った空には白い雲がたなびき、飛ぶ鳥がいくつかの小さな黒い影をつくっている。 いつもと変わらない穏やかな空気に眠気を誘われながら双眼鏡を覗き込んでいた見張り役の男は、あまりの平和さにあくびをかみ殺すのが精一杯だった。居眠りしているところを見つかろうものならどんな目にあわされるかわからない。といって襲ってくる眠気はいかんともしがたい力を持って彼を眠りの世界に誘おうとしている。 ああ、いっそのこと何か事件でも起こらねえかな、と縁起でもないことを考えたところで、ふと空をよぎる黒い影に気がついた。 はじめは大きな鳥かと思ったがそうではないらしい。もっと大きくて、鳥というよりはむしろ……。 バッシャーン!!! 大きな音をたててそれはまっさかさまに海の上に落下した。男の乗っている船から数十メートルしか離れていない地点。 今見たものが信じられずに男はしばらくぼうっとしていたが、やがて双眼鏡から目を離すと慌てて叫んだ。 「おっかしらあっ! 大変ですぜっ、空から人が降ってきた!!」 船のデッキの上にいずれも屈強な体格をした男たちが数十人ばかり、輪を描くようにして集まっていた。 その中心に横たえられているのはまだ幼い少女。十をいくらか超えたくらいだろうか。全身びしょぬれで、気を失っているのかぴくりとも動かない。 「この子がいきなり空から降ってきたと、お前はそう言うんだな」 男たちの中で一番偉そうな格好をした、唇をへの字に曲げた男が威圧的に言うと、見張りをしていた男はおどおどしながらもこっくりとうなずいた。 「そうですお頭。俺びっくりしちまって……」 男は何事もなかったようにつかつかと少女の前まで歩いてゆくと、ひざを折ってその前にかがみこんだ。 「うむうむ。……これはまたかわいい女の子だな」 先ほどまでのいかめしさはどこへやら、にへらっとしまりのない顔をした彼に男たちはそろってため息をついた。 しかしそんなため息など聞こえていないらしい男は少女の口元に指先を近づけ、息をしているかどうか確かめる。呼吸はしていなかった。脈をとると、これはなんとか動いていた。まだ生きている。 男はうきうきと言った。 「よし、人口呼吸だ」 背中に腕を回して少女のからだを抱き起こし、ゆっくりと顔を寄せていく。 ああ、かわいそうなお嬢ちゃん、と並み居る男たちが心の中で手を合わせたとき。 突然少女が大きく咳き込んだ。彼女を抱えていた男は驚いたが、そのまま咳き込む少女の背中を撫でてやる。少女はしばらく咳をしてから、ようやくおさまったのか、うっすらと目を開けた。 「……?! きゃ―――!!!」 少女――突然空を飛べなくなって海に落下してしまった松崎流比子は、絶叫した。 目を開けると見知らぬひげ面の男の顔がすぐそばにあったのだから、それはしごく当然の反応だった。しかしいきなり悲鳴をあげられた男のほうはひどく情けなさそうな顔をした。 「おいおい、ひどいなあお嬢ちゃん。何もそんな声をあげることはないだろう」 落胆したように呟くその声も流比子には聞こえていなかった。彼女はわけもわからず手を振り回してなんとか男のそばから離れようと暴れた。 男はため息をついて彼女のからだを離してやった。 「まあ、無理もねえ。海に落ちてこわかったんだろう。もう平気だからな。心配しなくていいぞ」 何か誤解している男は小さく笑い、安心させるようにそのごつい手を流比子の頭の上に置いた。 大きな手で撫でられて、流比子はその優しさと温かさにはっとする。見上げた男の顔は恐そうだったけれど、流比子と目が合うとふっと目元を綻ばせた。 (あ……) 流比子は「海に落ちて」という男の言葉を反芻し、今の状況からして彼らが自分を助けてくれたのだということに気づいて赤面した。 (どうしよう。助けてくれた人に悲鳴あげるなんて……) 「あ、あの……」 流比子は背の高い男に向かっておずおずと声をかけた。 「ごめんなさい。あの、助けてくださって、ありがとうございました」 いまさら遅いかもしれないというためらいはあったけれど、かといって謝らないでいるのもいやだった。頭を深く下げて謝罪と感謝の言葉を告げる。頭を下げたはずみに髪から水滴がしたたった。からだじゅうがびしょぬれで気持ち悪い、と感じたすぐ後に、笑い声といっしょに男の手が伸びてきて、流比子の濡れた髪をかき回した。 「いいってことさ。気にすんなよかわいいお嬢ちゃん。すぐにタオルを持ってきてやるからな」 そう言うなり「タオルと何でもいいから着るものをもってこい」と辺りにいた男に命じる。他の男たちも流比子が元気そうなのを知ると三々五々に散らばっていく。二人きりで残されて何気なく相手の顔を見上げると、思いのほか優しい目が自分を見下ろしていて、流比子は慌ててまた目を伏せた。 「なあお嬢ちゃん。名前はなんていうんだい」 男の低い声が問いかける。 「流比子……松崎、流比子」 「ルイコ。変わった名前だ。俺はジェームズ・フック。フック船長と呼ばれている」 そう言ってフック船長は胸を張った。しかしその名を聞いて流比子は心臓が飛び出るかと思うほど驚いた。 「フック船長!? じゃあ海賊!?」 「おっと、そりゃ誤解だよ。たしかに海賊として名を馳せたこともあるが、今はご覧のとおり善良な一船長さ」 両手を広げて首を振る。とても信じられないような態度に流比子が困惑していると、フックのほうが尋ねてきた。 「なあ、ところでお嬢ちゃん。何だって海になんか落っこちたんだい。普通に陸の上を歩いてたんじゃあ落ちないだろう」 問いかけられてはっとした。 (そうだ、ピーター・パン!) 自分のかなり前を飛んでいた彼はいったいどうしたのだろう。なぜ突然飛べなくなってしまったのかわからないが、もし同じことが彼にも起こっているのだとしたら。 彼も海のどこかに落ちているかもしれない。あるいは最悪の場合陸地に? 流比子はいやな想像に顔を青くした。どうしよう。どうしたらいいだろう。海に落ちているのならフックに頼んで探してもらうのが一番いいような気がする。けれどフック船長といえばピーター・パンのことを嫌っているはずだ。彼の名前を出してしまうととても探してはもらえないだろうと思った。 「――あの、ちょっとお聞きしたいんですが、ピーター・パンを知っていますか?」 「ピーター・パン?」 その名前を聞いたとたん、フックの眉がぴくりと跳ねた。 「ピーター・パンか! あの哀れなヤツ!」と、彼は大声で叫んだ。流比子は目をぱちくりさせる。 「哀れ? どうして」 「大人になれないからさ。わかるか? ヤツは酒が飲めない! 永遠に! なんてこった!」 それを聞いて流比子は唇を尖らせた。 「そんなものどうだっていいじゃないですか。子供のままでいるって素敵なことよ。素晴らしいことよ。ピーター・パンはそうでなくちゃ」 船長は目を細め、「それよそれ、まさにそれ」と独り言のように呟いた。 「その考えがヤツを子供のままにしてるってこと、どうしてわかりゃしないんだろうな? ヤツは子供のままでいなけりゃいけねえ。というのもな、ここが夢の世界だからさ」 そうしてにやりと笑い、カツカツと高い靴音を響かせながら大きく手を広げて周囲を歩きはじめる。 「ここは夢の国。そうさ、ヤツは夢と憧れの象徴。大人どもの叶わなかった夢と、ガキの願望のな。俺は欲望と享楽だ。ピーター・パン――哀れなヤツ! キレイな感情なんてえものは、いつだってどこか歪んじまってるものさ」 フックの言っていることの意味が流比子にはまるでわからなかった。夢と憧れ。確かにそうだ。ピーター・パンにはそんな言葉がよく似合う。自分勝手で人を混乱させて自分だけ涼しい顔をしているけれど、それでも彼は夢を見させてくれる。その自由な生き方こそがなにものにも変えられない彼の魅力だ。 「ピーター・パンは哀れなんかじゃないわ。……あの、それで彼が今どこにいるか知っていますか」 「知らんね」 フックは首を振った。流比子はがっかりして「そうですか」とうつむいた。ピーター・パン。彼はどうしてしまったのだろう。無事ならいいが、しかしならばなぜ自分を助けにきてくれないのだろうと恨んでしまいそうになる。 とその時。 「おーい、船長! ここいらで女の子を見なかった?」 (ピーター・パン!) のんきな少年の声が空から降ってきた。 「この子だろう」 フックの大きな手が流比子の肩に触れる。流比子は空を見上げ、きれいな姿勢で飛んでくるピーター・パンを精一杯睨みつけた。けれど彼は悪びれた様子もなく、満面の笑顔を浮かべて言った。 「ルイコ。やあ、いったいどこに行ったのかと思ったよ」 「ピーター・パンが置いていったんじゃないの! 私、海に落ちてたいへんだったのよ。何でいきなり飛べなくなっちゃったの――」 「妖精の粉の力が切れたんだね。ちょっとかける量が少なかったかなあ」 「でもピーター・パンは飛んでるじゃない」 ふわふわ浮いているピーター・パンを見上げて流比子が言った。 「だってぼくは妖精の粉で飛んでないから。ずっと飛べるさ。いつでも、どこにでも」 彼は両手を大きく広げて自慢げに笑う。その屈託のない少年らしい顔を見ていると文句を言う気も失せて、流比子は小さくため息を吐いた。 (ピーター・パン。そういえば物語のなかの彼も、かなりいい加減な人だったわ) 「おまえは変わらねえなあ、ピーター。いつ見ても自分勝手なヤツだ。なあオイ、お嬢ちゃん。こんなヤツについていくよりここにいたほうがよくねえかい? 俺なら歓迎するんだがなあ」 突然口を挟んできたフックに思ってもいなかった言葉をかけられ、流比子はぎょっとして目を見開いた。それを見てフックは悲しげな表情になる。 「……何もそんないやそうな顔をしなくてもいいだろうに」 「ははは、流比子は船長と一緒はいやだってさ!」 ピーター・パンが手を叩いて囃し立てる。流比子はかあっと顔を赤くした。 「そ、そんなんじゃ……」 「まあいいさ。このガキに腹が立ったらいつでも遊びにくるといい。歓迎しよう」 フックは流比子の頭に大きな手を置いて、恐ろしげな顔に似合わぬ優しい声で言った。その感覚に思いがけず戸惑って流比子はフックを見上げる。大きな身体。大人の男の人。顔なんてまるで覚えていないのに、それでも。 「ぼくらの家へ行こうよ」 差し出された手にはっとして、流比子は自分の考えを振り切るようにその手をとった。とたんに身体が宙に浮いたと思ったら、ピーター・パンに抱き上げられていたのだった。 「ちょ、ちょ、ちょっと待って!」 「いまはあいにく妖精の粉がない。ティンクも出てきてくれないだろうし。ちょっと重いけど、まあ頑張るよ」 「し、失礼ねっ」 「何が?」 わけがわからないというふうに首を傾げる。自分では失礼なことを言っているという自覚はないのだ。 「な、何がって……」 「しっかりつかまってないとまた落ちちゃっても知らないよ。今度は陸の上かもしれないし」 ピーター・パンの口調にはまるで悪気というものは感じられない。しかしそれゆえにたちが悪いこともある。 ちらりと船上のフックのほうに視線をやると、彼はそっぽを向いていた。よく見れば肩が小刻みに揺れている。笑っているらしい。流比子はむっとしたが、ピーター・パンがいきなり高く飛び上がったので文句を言う暇もなかった。 「も、もっと低く飛んでよ。こわいじゃない!」 「だって高いほうが気持ちがいいんだ。こわくないよ」 「私がこわいのよ!」 叫びながらふっと下を見ると、気が遠くなるほどフック船長の船が小さく見えた。流比子は小さな悲鳴を上げてピーター・パンにしがみつく。 「重いなあ」 失礼な言葉を気に留めている余裕もない。ただ振り落とされることがないように、必死でしがみついていることしかできない。 がくん、と高度が落ちた。自分のために低く飛んでくれる気になったのかと流比子が喜んだのも束の間、彼はなんだか疲れたような顔をして、 「やっぱり重い。ルイコ、泳いであの陸までいけないかな?」 と、とんでもないことを言った。 「行けるわけないでしょっ」 ピーター・パンの指差した陸地は、ほんの小さな空の染みにしか見えないもので、流比子はひょっとしてフック船長のところにいたほうがよかったのではないかと、かなり本気で思い始めていた。 |
| あとがき / フック船長登場……というか……。そういえばピーターパン2をまだ見ていないんですよ。そもそもピーターパンの原作もまともに読んでいないんですよ……。 |