よろよろと飛ぶピーター・パンに連れられてやっとのことでやってきたのは、深い森のなかだった。 背の高い木々で囲まれているのに、不思議に暗くはない不思議な森だった。木々は青々とした葉をつけていっぱいにその枝を天に向かって伸ばしている。太陽のあまり差し込まないはずの地上にも、小さな花があちこちに咲いていた。 「ここだよ、ルイコ。ぼくとティンクの家。今日からはキミの家でもある」 そう言って降ろされたのは、その辺りでもいちばん大きいと思われる木の上に建てられた小さな家だった。太い丸太を組み合せて作られた胴体部に、細い枯れ木が並べられた屋根。お世辞にも見栄えがいいとも丈夫そうとも言えなかったが、初めて見る木の上の家に、不安も忘れて流比子は歓声をあげた。 「すごい!」 「だろう。ぼくが作ったんだ」 胸を張るピーター・パンの声も半分くらいしか聞こえない。流比子は丸太に手を触れてしきりにすごい、すごいをくり返した。 しかしそのうちに、あることに気づいて一気に不安になった。 「ねえ……はしごはないの?」 「はしご?」 「この家から下におりるはしごよ。だって、ずっとここにいるわけにもいかないでしょう?」 「飛んでいけば?」 あっけらかんとしたピーター・パンの返答に、流比子は自分の不安が的中したことを知った。 「私、飛べないんだけど……」 「あ、そうだったっけ。じゃあすべり下りたら?」 「できないわよそんなこと! だいたい下りられたとしても絶対登れないわ!」 たとえ木登りが得意だったとしても、この木の高さは木登りのできる範囲を超えている。流比子の大声に顔をしかめて、ピーター・パンは「面倒だなあ」とため息をついた。 「わかったよ。今度はしごも作る。それでいいんだろう」 「今度じゃなくて今! 作ってよ!」 普段あまり怒鳴り声をあげたことなどないのに、ピーター・パンと話していると怒鳴り声しか出てこない。ピーター・パンは呆れたように両手を広げ、「今ね、はいはい」と気に触る言い方で返事をした。 流比子にはもう、後悔の二文字しか浮かんでこなかった。 ピーター・パンがどこからか拾ってきたあやしげな木の実で夕食をすませた流比子は、椅子に腰掛けて頬杖をつき、物思いに沈んでいた。 目の前には宙に浮かんだまま眠りこけているピーター・パンの姿がある。どうしてそんな器用なことができるのか疑問ではあるが、こと彼に関しては何ができても不思議ではないような気もする。知り合ってまださほど経っていないのに、もうすでにあきらめのようなそんな気持ちが生まれている。そのとき、流比子は突然はっとした。 家を出たのは、たしか夜だった。月に照らされた明るい夜を飛んで、ピーター・パンと二人この国へ来たのだ。なのにここで海に落ちたとき、空には太陽があった。時間がそれほど経っているとは思えないのに、まるで夜から昼に落ちてきたように太陽のある時間にやってきた。 (違う世界に来たんだ、私……) 少年が空を飛ぶ世界。その彼は無邪気な顔をして目の前でふわふわ眠っている。 流比子をここへひっぱりこんだ張本人のくせに、何の不安も悩みもないような健やかな顔ですうすう寝息をたてている。 腹立たしいと思うのに、そう思うはずなのに、流比子は自分でもよくわからない気持ちでピーター・パンを見つめた。自分と同じか、少し年下に思える。突然現れてよくわからないことを言って、そのくせ流比子がいてもいなくても変わらないような態度で自分勝手に飛び回っていた。木の実を食べるなり眠ってしまうのも当たり前だ。あれだけ動き回って疲れないほうがおかしい。 遊び疲れて眠っているだけ。ただのこどもだ。不安なはずなのに安心する。その顔を見ているだけで、まるで忘れていた気持ちを全部思い出したように頭の中が冴えてくる。 ピーター・パン。大人にならないこども。永遠に大人にならない。 (絵本のなかのピーター・パンは、最後どうなっちゃうんだったかしら) ウェンディは自分の世界に帰ってしまう。それでピーター・パンは――。 ピーター・パンを見ているうちに自分も眠くなってきて、流比子は思わずあくびをした。 (ウェンディのこどもを、迎えにくる……) 翌朝、流比子は突然の痛みで目を覚ました。 いたっ、と小さく叫んで目を開ける。何が起こったのかと考えるまもなく耳のすぐそばで声がした。 「はやく出ていきなさいよ! ばーか!」 「ティンカー・ベル!?」 「本当にきたのね、図々しいったら。ピーター・パンも全然懲りないんだから、バカな人」 もう一度ぐいと流比子の髪を引っ張ってから妖精はさっと飛び上がった。流比子は自分がなぜそんなことをされるのかわからず、ただ頭を押さえてティンカー・ベルの姿を目で追った。小さな妖精は少し距離をあけると光の玉にしか見えなくなる。 「私のことが嫌いなの?」 きれいな妖精にひどいことをされるのが悲しくて問いかけると、ティンカー・ベルはキーキーと何かを言った。けれど遠いので何を言っているのかわからなかった。本当にすぐ近くでしゃべってくれるのでなければ、その小さな声を聞き取ることはできないのだ。 流比子が首を傾げて途方に暮れていると、光は流比子の耳元まで飛んできて、こう言った。 「あっきれちゃうわ。嫌いに決まってるでしょ!」 「どうして」 「バーカ、バーカ」 それでは答えになっていない。流比子はさすがにむっとしかけたが、ある一つの可能性に気づいてティンカー・ベルを見る。 「ピーター・パンと一緒にいるから? 彼と仲良くする人間はみんな嫌いなの?」 「ピーター・パンを泣かせる女は、よ! あんたは何にもわかってない!」 それだけ叫ぶと矢のような速さでどこかへ飛び去っていってしまう。 ――ピーター・パンを泣かせる? 私は泣かせたりしていない、と思って流比子はわけがわからなくなった。だいたいあのピーター・パンが泣いたりすることがあるのだろうか? そちらのほうがよほど疑問だ。彼に泣き顔なんて似合わない。 「ルイコ、外へ行こう!」 あいさつもなく部屋の扉が開き、当のピーター・パンが入ってくる。彼は女の子の部屋だろうとどこだろうとおかまいなしだ。文句を言うべきか一瞬悩んで、結局流比子は言わないことにした。彼はまだ子供だし、自分自身別に腹も立たなかったからだった。 「どこへ行くの?」 「外だよ」 「外のどこ?」 「決めてない。気が向くままさ」 奔放なのか考えなしなのかわからない。流比子は尋ねたことを後悔した。 ピーター・パンは流比子の浮かない顔にふわふわ浮いたまま首をかしげ、「行きたくないの?」と聞いてきた。 「家に閉じこもってるのが好きなの? 変わってるなあ」 「そ、そんなこと言ってないわよ」 「じゃあ行こう」 彼の頭の中には肯定か否定の二つしかない。それは当たり前のことだけれど、もう少し誘い方ってものがあるじゃない、と流比子は思った。もっとも彼にそんなことを求めても無駄だということは、この短い付き合いのなかでも十分すぎるほどわかっていた。 誘われるままに立ち上がり、差し出された手をとった。昨日から同じ服を着ていることが一瞬気にかかったが、すぐにどうでもいいことだとその考えを追い払った。 ピーター・パンと一緒にいる、その夢のような時間に、つまらないことを考えているのはもったいない。 |
| あとがき / ピーター・パンはかなり書きやすいので好きです。自分勝手な人ほど書きやすいのはなぜなのか。 |