木々の葉が揺れて立てる音、空高く舞い上がった鳥の声、静かな森の中ではそんなものさえ不思議なくらい大きく響く。 空を見上げれば青く澄み切って晴れているのに、森の中は薄暗い。木漏れ日がところどころに光の線をつくって、そこだけが春のように明るく暖かく見える。 ひとりで森の中をぶらぶら歩いていた流比子は、何かの拍子に足を取られて「あっ」と思った。思ったときにはもうどうしようもなく、そのままずてんと転んだ。転んだまま、流比子はしばらく起き上がらなかった。 (バカ) じわじわと涙がにじんできて、慌てて瞬きをする。こんなところで一人きりで泣くのはいやだった。今彼女は腹を立てているのであって、相手に自分の怒りを伝えたいのであって、決して自分を憐れみたいわけではないからだ。 (ピーター・パンのバカ) 流比子がここへ来てから一週間が過ぎようとしていた。 最初こそは何をするにも流比子を誘い、気にかけてくれていたピーター・パンも、三日目を過ぎる頃にはすっかり自分勝手の塊になっていて、流比子のことをあまりかまわなくなった。彼はしじゅう浮かんでいて、どこへ行くときも飛んでいたから、飛べない流比子のことが邪魔になったのかもしれない。 今日だって来るときは一緒に来たのに、ピーター・パンは一人だけ珍しい青い鳥のあとを追ってどこかへ飛んでいってしまった。流比子が声をかけても聞こえなかったらしく、結果彼女は置き去りにされる形になった。 森の中では方角がまるでわからない。ただでさえよく知らない土地で、しかも森の中で、流比子は途方に暮れた。とにかく家に戻ろうと歩き回ってみたけれど、自分が果たして正しい道を進んでいるのか、それともより森の奥へ入り込んでしまっているのかすらわからなかった。 遠くのほうからは獣の鳴き声のようなものが聞こえるし、辺りは薄暗いしで、流比子の不安は極限にまで高まっていた。そんなときに転んだものだから、怖さと情けなさ、こんなところに置き去りにしたピーター・パンへの怒りで頭の中がいっぱいになって、とても立ち上がることはできなかった。 (ばか……) ふいに、自分はいったいこんなところで何をしているんだろう、と流比子は思った。ピーター・パンに誘われたからここに来た。もちろんそれだけではないけれど、自分で来たいと思ったから来たのだけれど、でもこんなふうに放っておかれるのならここにいる意味はない。望んでいたのはもっと違うことだった。絵本のなかのウエンディのように、ピーター・パンといっしょにわくわくするような冒険をして、いつもの日常とはまったく違う日々を過ごしてみたかったのだ。 こんなんじゃない。こんなふうに一人で森のなかで泣くために来たんじゃない。 帰ろう、と思った。帰ろう。流比子が帰りたいと言ってもきっとピーター・パンはほとんど気にしないで「ああそう」と言うだろう。そうして帰してくれる。来たときと同じように、ティンカー・ベルの妖精の粉を貸してくれるはずだ。 (ピーター・パン) その屈託のない笑顔に、自信に満ちた声にどうしようもなく惹かれる。どちらも自分にはないものだから。 けれど同時に、自分が決して彼のようにはなれないことがわかっているから、嫉妬する。羨ましくて仕方がない。彼のように何の悩みもなく笑って生きられたらどんなにかいいのに、そう思って、涙が出そうになる。そうしたらきっと、母や兄ともっとうまくつきあっていけるのに。 (帰ろう) 流比子は決めて、起き上がった。服についた土を払う。膝の頭が少し赤くなっていたものの怪我はなく、痛みもなかったのは幸いだった。 帰ると決めた、そのほっとするような悲しいような気持ちを抱えて、流比子は再び足を踏みだした。 「ルイコ」 突然名前を呼ばれたのはそのときだった。 ピーター・パンかと一瞬思ったが、声が違う。彼のような幼い声ではなくて、もっとしっかりした、低音の大人の男の人の声。 (おとうさん?) 「ルイコだろう? 俺のことを覚えてるかい」 振り返って見た顔には、しかし覚えがなかった。相手は明らかに流比子のことを知っているふうなのに、彼女には見覚えがない。 背が高く、がっしりした体つきをした男だった。黒髪で瞳の色も暗い。流比子にはその男の正確な年齢は判断がつかなかったが、二十代の終わりから三十代のはじめ――少なくても自分の父親よりは若いだろうと思って、なぜかがっかりした気持ちになった。 「あの……」 「一週間前に一度会ったろう。船の上で。本当に忘れちまったのかい」 「船の上?」 といったらフック船長の船しか思い浮かばない。では彼はあの船の乗組員なのだろうか。 「すみません、私……」 フック船長のことしか覚えていない、と言おうとして、やめた。ぎょっとして目の前の男の顔を凝視する。髭がない。あのおそろしげな顎髭も口髭もないからまるで印象が違うけれど、もしあの船長から髭をとったらきっと――きっとこんな顔になる。 「フック船長!?」 「や、覚えていてくれて嬉しいねえ」 船長はにやにや笑いながら顎を撫でる。流比子は茫然と目を見開いて船長を見つめたまま、しばらく口が聞けなかった。とっくに四十は超えているだろうと思っていた船長が、たかが髭をそっただけでこんなにも若返るのが信じられなかった。 「む。俺があんまりいい男なんで驚いているのかな、お嬢ちゃん。まあ無理もねえ、自分でも鏡を見て見惚れてしまったものな」 本気が冗談かわからない船長の言葉に、ようやく流比子は我に返った。 「ど、どうして髭そったんですか」 「別に。飽きたからな」 見た目が変わると声まで若々しく聞こえるのはどうしてだろう。そしてフック船長が思っていたよりも若いらしいことにショックを覚えているのはなぜなのだろう。 船長は流比子のすぐ前まで歩いてくると、前に会ったときと同じように、その大きなごつい手を流比子の頭の上に乗せた。 その温かな重さに、やっとのことでこらえていた涙が再び浮かんでくるのを感じた。瞬きをする。一人で泣くのはいやだったけれど、フック船長の前で泣くのもいやだった。うるさい子供だと思われて、嫌われるのがいやだった。 「どうした。何が悲しい」 高い位置から落ちてくる船長の声は優しかった。その声に促されるように流比子はとうとう泣きだして、自分でも何が悲しいのかよくわからないと思いながらも、すぐに泣きやむことはできなかった。 「そうか、帰るのか」 流比子の話を聞き終えた船長は、あまり感情の見えない声でそう呟いた。 「うん……」 ここにいても仕方がないから、という言葉を流比子は飲み込む。 「お兄ちゃんや、お母さんも、心配してると思うし……」 「そうだな。もう一週間にもなるからな。実を言うと、そろそろ嬢ちゃんがそう言いだすんじゃないかと思って来たんだ。俺のカンもまんざらじゃねえみたいだな」 あっけらかんと言って笑いながら、癖なのか、船長は髭のない顎を撫でる。 「まあ他の女の子たちはもっと早かった。嬢ちゃんはよくもったほうだ」 「え?」 他の女の子? 船長の言葉に流比子は目をあげる。 「他の女の子って……」 「嬢ちゃんの前にあの野郎がここへ連れてきた女の子たちさ。癖みたいなもんだ。あいつはあっちの世界にふらふら遊びにいっちゃあ気に入った女の子を連れてくる。そのくせほったらかしにして愛想を尽かされ、女の子はもとの家に戻ってあいつはとり残される。そのくり返し。癖というより習性だな。バカの一つ覚えだ、懲りもせず」 その言葉に流比子はショックを受けた。自分だけだと思っていた。ピーター・パンにこの世界に連れてきてもらえたのは自分だけだと思っていた。なのにほかにもたくさん同じような立場の少女がいたなんて。 自分で連れてきたくせにほったらかしにしておく理由がわかった、と思った。代わりなんていくらでもいるからだ。飽きたらいくらでも別の女の子を誘って連れてくればいいだけだからだ。一旦はおさまっていた涙がまたこみあげてきそうになって、流比子は必死に唇をかみしめた。 「あいつもかわいそうなヤツなんだがな」 ぽつりと独り言のように呟かれた船長の言葉は流比子にはわからなかった。ピーター・パンのどこがかわいそうなのかわからない。好き勝手に生きて人を傷つける。いや、傷つけるつもりなんて彼にはないのだろうけれど、彼はただ好奇心旺盛でその心のままにしたいことをしているだけなのだろうけれど。 (かわいそうなんかじゃないわ) それでも責めることもできない。ピーター・パンはそうだ。流比子が子供の頃から知っている彼は、物語のはじめから終わりまで自分勝手で、まさに今のままの姿だった。それでも好きだった。彼の自由さに、奔放な明るさに惹かれてやまなかった。今と同じように。 「あの、今までにきた女の子は、どうやってもとの世界に帰ったんですか?」 やはりティンカー・ベルから妖精の粉を借りてだろうかと考えながら問いかける。 「ああ、そうだな……。はじめのほうはピーターが送って帰ったよ。ホームシックになって泣く女の子の世話は奴もごめんだったんだろう。だが最近はもうしない。ティンクが奴に内緒で妖精の粉を渡す。ここ数回はずっとそうだ」 「内緒で……?」 なぜ内緒にしなければならないのだろう。ピーター・パンにしてみれば厄介払いができて嬉しいはずなのに。送ってくれないのはいいとしても、わざわざ内緒にする理由はわからない。 「そうか、ああちくしょう」 突然忌々しげに船長が大声をだしたので、流比子はびくっとして体を縮めた。 怒られたのかと思ったが、どうやら違うらしく、船長は自分の髪をかき回してため息を吐いた。 「今回は厄介なことになるかもしれん。まいったな」 そして流比子のほうを振り向くと、 「嬢ちゃん。一つだけ言っておく。あの野郎が何を言っても気を強く持て。耳を貸すな。本当に帰りたいなら奴の言葉を聞くんじゃない。いいか?」 「え……」 「あいつを憐れむな。その必要はない。嬢ちゃんは家に帰ることだけを考えてりゃいい。帰ってすぐティンカー・ベルに頼むんだ。もちろんあいつのいないところでな」 わけのわからないことを言うだけ言うと、船長はそれきり流比子が何を聞いても答えてくれなくなった。彼は黙ったまま流比子の前に立って歩きだし、ピーター・パンの木の上の家まで送ってくれた。その家を見てようやく、流比子は自分が道に迷っていたことを思い出した。 「あ、……ありがとうございました」 「礼なんかいらねえ。俺の言ったことを忘れないでくれ。元気でな、嬢ちゃん」 最後の別れとばかりに頭を撫でてくれた大きな手の感触はやはりあたたかで、流比子は心の中でお父さん、と小さく呟いた。 ピーター・パンはまだ家に帰ってはいなかった。 流比子は船長に言われたとおり、そっとティンカー・ベルを呼んでみた。彼女はたいていいつもピーター・パンと一緒にいるのだが、まれに別行動をとることもある。たとえばピーター・パンと流比子が一緒に出掛けるときは、ティンカー・ベルは行かないことが多かった。 今日も出掛けるときは、ティンカー・ベルはいっしょではなかった。だからひょっとするとこの家のなかにいるかもしれないと思ったのだが、返事はなかった。いないのか、それとも相手が流比子だから無視しているだけなのかはわからない。 あきらめて、流比子は椅子に腰を下ろして船長から聞いた話を思い出してみる。 ピーター・パンが今までに連れてきた少女たちの話。家を恋しがってもとの場所に戻っていった彼女たち。 ピーター・パンはそれをどんな気持ちで見送ったのだろう。最近では――自分の前はいったいいつだったのだろうと考えて少し胸が痛くなる――彼に何も告げないで少女は帰っていくと船長は言ったが、あいさつもなく姿を消されるのはどんな気持ちなのだろう。 「きっとどうでもいいに決まってるわ。だって、他の人間のことを気にかけるような人じゃないもの。誰がいても帰っても、どうだっていいんだわ、きっと」 「あら、あんたやっと帰る気になったの」 独り言のつもりだった呟きに突然別の声が割り込んでくる。流比子の耳をかすめて小さな妖精が飛んでいった。流比子は思わず立ち上がって「ティンカー・ベル!」と声を上げた。 「なによ。大きな声」 眉をひそめて不快げにティンカー・ベルは言った。それでも声が届くくらいそばにいてくれるのは流比子の話を聞く気があるからだ。 「帰るんでしょう? そろそろ言いだす頃だと思っていたわよ。ちょっと長かったけれどね。それなら妖精の粉を貸してあげる」 あっさりと目的の物を手に入れられそうな気配に、流比子は拍子抜けする気分になった。いつもは流比子と顔をあわせるのもいやだとばかりに離れて口もきかないのに、帰るとわかったとたんにこれだ。 「……ティンクはどうしてそんなに私が嫌いなの」 ピーター・パンに近づくからだ。そうわかっていても思わずつぶやきが漏れた。流比子はティンカー・ベルのことがけっしてきらいではなかった。いつもとてもきれいだと思っているのに。 「フン、わたし前に言ったじゃないの。あんたはピーターを泣かせる。だから嫌いなの。みんな同じよ。あっちから来る女なんてみんな大嫌い」 「どうして私がピーター・パンを泣かせるの……?」 放っておかれて泣きたいのはむしろ自分のほうなのに。 「フック船長も……ピーター・パンには帰ることを言うなって……それはピーター・パンが悲しむからなの?」 「フック船長! 彼に会ったの!」ティンカー・ベルの表情が一瞬だけ柔らかくなったような気がして、流比子は戸惑った。 「そう、ならいいわ。教えてあげる。ピーターはね、忘れたくないの。記憶をなくすのがとってもいやなのよ。だからあんたが帰るといったら泣くでしょう。それは忘れてしまうことだもの」 「え?」 流比子にはわけがわからなかった。彼女が家に戻ることとピーター・パンの記憶と、いったい何の関係があるというのだろう。 ティンカー・ベルは物分かりの悪い流比子に苛々したように続けた。 「ああもう! やになっちゃう。あの人は忘れちゃうのよ。つらいことや悲しいことを全部忘れちゃうの。なぜ? それは彼らしくないからよ。そしてつらさと悲しさが人を成長させるから。彼は大人になっちゃいけないの。そう、あんただってそれを知ってるはずだわ。大人にならないためには忘れるしかないの。だけどあんたがいると彼は思い出すのよ。前にここに来た連中のこと、自分が捨てられたことを思い出すの。なんでなのか知らないけど、でも彼は思い出し、悲しいくせにそれを忘れるのを恐れる。だからピーターはあんたを帰したがらないし、わたしは帰ってほしい。忘れてほしいのよ。悲しいことなんて全部忘れてほしいの。これでわかったでしょ!」 まくしたてられた言葉はたしかに耳に届いたけれど、それがどういう意味なのかと理解する前に、背後で勢いよく開かれた扉から午後の強い日差しが飛び込んできた。 「ルイコ! なんで一人で帰っちゃったんだ? ぼくはずっと探してたのに!」 子供っぽく拗ねた声。流比子は思わずピーター・パンのほうが自分を置いていったのだということを忘れて謝った。 「ご、ごめんなさい。道がわからなくなって、それで……」 「道がわからなく? よく帰ってこられたね」 「それは船長が、送ってくれて……」 「フック? 陸にきてたのか。ぼくは会わなかったなあ」 怒っていたのが嘘のような無邪気な顔で言って、ピーター・パンは小首を傾げた。 「彼はきみに何かを言った?」 「え? ……ううん、別に、特には何も」 「そう。だったらいいんだ」 にっこりと笑う。どきん、と胸が痛くなる。まるで汚れのない太陽のような笑顔。この笑顔が成長することは考えられない。大人になったピーター・パンなんて考えられない。 ――その考えがやつを子供のままにしてるってこと、どうしてわかりゃしないんだろうな? ふいに初めて会ったときに聞いたフック船長の言葉が頭をよぎった。 「ルイコ?」 ぼんやりしていた流比子にピーター・パンが声をかける。流比子ははっと顔をあげ、視界の隅で、ティンカー・ベルが光りながらどこかへ飛んでいってしまうのを見た。 妖精の粉をもらいそこねたことに気づいたが、まだあとでピーター・パンがいないときに向こうから接触してくるだろうと思った。ティンカー・ベルは流比子に帰ってもらいたがっている。フック船長も? 彼は流比子が帰りたいならば帰ったほうがいいと言っただけだ。ピーター・パンが何を言っても耳を貸すなと言っただけ。 「ピーター・パン……」 「ルイコ。今度また森にいこう。今度ははぐれないように手をつないでいったらいいよね。そうだ! またティンクに妖精の粉を借りよう。ルイコが飛べないからはぐれるんだからさ」 彼は何も知らない。流比子がもう家に帰ろうとしていること。泣いているところなんて想像もできない明るい顔で笑っている彼が、泣くほど悲しむことなんて本当にあるのだろうか。 流比子がいなくなってしまうことを、そんなに悲しんでくれるのだろうか。 「ね、そうしよう? ルイコ」 ピーター・パンの楽しげな声を頭の片隅で聞きながら、はじめからこんなところにこなければよかったと、流比子はもう何度目かわからない後悔のため息をついた。 |
| あとがき / やっと半分きました。長いような短いような。すでにクライマックスのような(笑) |