翌日は朝から雨だった。 お世辞にも丈夫とは言えない屋根を打ちつける強い雨音で流比子は目を覚まし、身体を起こして不思議な気持ちで雨が降っていることを知った。この場所に来て以来初めての雨だ。いつから降っていたのだろう。 「ルイコ、起きてる?」 いつものように突然にピーター・パンが部屋のなかに入ってくる。 彼は浮かない顔で流比子を見ると、「雨が降ってる」とうんざりした様子で言って肩をすくめた。 「めったに降らないのに。雨は嫌いなんだ。どこにも行けないだろう? せっかく流比子とまた森に行こうと思ってたのになあ」 「また明日行けばいいじゃない」 明日があるかどうかわからない、と思いながらも、がっかりしているピーター・パンに元気を出してもらいたくて、流比子は無理やり笑みを浮かべて言った。 「そうだけど」 「私は雨、そんなに嫌いじゃないわ。すこし寂しい感じがするけど、静かで落ち着くもの」 「落ち着く? ぼくは落ち着かない。じめじめしてていやだよ。狭いところにじっとしてると息がつまりそうになる」 襟元を広げる仕草をして、ピーター・パンは不快げに眉を寄せた。彼の性格ならたしかにそうかもしれないと流比子は妙に納得したが、だからといってどうしてあげたらよいのだろうか。ベッドに座ったままピーター・パンを見上げると、彼はいかにも落ち着きなくきょろきょろと視線をさまよわせていた。 「……要するに退屈なの?」 「そうだよ。なにかすることはない? 楽しいこと。ぼくは部屋の中ですることってなんにも思いつかないんだ」 「じゃあ、話をしない? 私、よく考えたらピーター・パンのことって何にも知らないんだもの」 特に深い意味もなく言った言葉だった。話なんかしたってつまらないと言われたら仕方がないと思ったが、ピーター・パンは「話?」と一瞬不思議そうな顔をしたものの、すぐに「いいよ、何の話をする?」と言って笑った。その笑顔一つで流比子は外の雨の音も忘れそうになる。 「あのね、私フック船長の話を聞きたい」 ピーター・パンとは違った意味で、とても気にかかる人間の名前を口にした。 「フック?」 「そう。いつからここにいるのかとか、いっつも何をしてるのかとか、どういう性格なのかとか……」 「いつから?」ピーター・パンは怪訝そうな顔をした。 「いつからなんて、覚えてないよ。ずっといるんじゃないかなあ。ああ……ちがうかな? どこかから来たんだったのかもしれない。はじめて会った日があったかも。でも覚えてない。覚えてないくらい……むかし」 ピーター・パンの目がふっと細まって、じっと流比子を見つめた。彼と流比子はほとんど背の高さが変わらない、ともすれば流比子のほうが高いくらいだったけれど、今ベッドの上に腰かけている流比子に対してピーター・パンは立ったままだ。見下ろされる視線に威圧感を感じて流比子は急に自分が悪いことを尋ねてしまったような気になった。 「フック船長って、なんとなく私のお父さんに似てるの。だから、気になって」 聞かれてもいない言い訳の言葉で取り繕おうとする。ピーター・パンの視線は怖い。真っすぐすぎてそらすことができなくなる。 「おとうさん? ルイコのおとうさんってどんな人?」 興味をひかれたらしく、ピーター・パンの口調が明るくなった。流比子はほっとした。けれど父親のことを聞かれたのは問題だった。 「お父さんは、早くにいなくなっちゃったの。私はまだ小さかったから本当は全然覚えてないの。でも三つ上にお兄ちゃんがいるんだけど、お兄ちゃんはけっこう覚えているみたいで、ときどきお父さんの話をしてくれるわ。すごく優しかったって言ってた。おっきくて、よく頭を撫でてくれたって」 父親の記憶が自分にはないのに兄にだけあるのが無性にくやしいときがあった。父の思い出と呼べるものを何も持っていないのがさみしかった。まるで自分には最初から父親なんていなかったような、とり残されたような孤独感を味わって、記憶だけでも持っている兄がとても羨ましかった。 ――僕は流比子のほうが羨ましいよ。もういないんだからさ、どうせなら何にも覚えてないほうがよかった。 幼い頃、正直に兄が羨ましいと言ったとき、彼はつまらなそうな顔をしてそんなことを言った。それが本心からのものなのか、うるさい妹を持て余して言っただけなのかはわからなかったが、お兄ちゃんは冷たい、とそのとき強く思ったのを覚えている。 「お兄ちゃんは野球部に入ってるの。頭が良くて運動もできるし、できがよくて、私とは大違い。お母さんは本当はお兄ちゃんだけいればいいんだと思うわ。私なんて別に、いてもいなくても変わらないんだと思う」 ピーター・パン相手になぜこんなことを言っているのかわからなかった。言いながら自分が情けなくなってきて、流比子は言い終わる前からもう後悔していた。 「ルイコはおにいさんとおかあさんが嫌いなの?」 ピーター・パンに尋ねられて強く首を振った。 「嫌いなんかじゃないわ。好きよ。家族だもん。嫌いになんかなれない」 「家族だから?」 「うん。家族って特別なものでしょ。生まれたときからずっと一緒にいるんだもん。無条件でそこにいることを許してくれるのは家族だけだもん」 「ふーん」 ピーター・パンは首を傾げた。彼は続いてさも不思議そうな様子で続けた。 「家族ってそんなにいいもの? ぼくにはわからないなあ。だってルイコのおかあさんはルイコのこといらないんだろ? その場所にいることを許してはくれるかもしれないけど、望んではくれないんだろ?」 ひどいことを言われたような気がした。面と向かってどうしてこんなことを言えるのかわからなかった。 でも本当だと思った。母は自分の存在を望んではくれない。生まれたときは喜んでくれたかもしれない。でも今は違う。母には兄さえいればいいのだ。 「……――」 何か言おうと思って、唐突に気がついた。ピーター・パンに家族はいるのだろうか。わからない。少なくても今一緒にいないことだけは確かだ。彼は流比子とティンカー・ベルと三人で、木の上の小さな家に住んでいる。流比子がここに来る前は、ティンカー・ベルとたった二人きりで。 「きっと二人ともルイコのことなんて待ってないよ。ルイコがここにずうっといたって、誰も心配なんかしてくれないよ。だからここにいなよ。ずっとずっと、ここで暮らせばいいんだよ」 残酷なことを言って無邪気に笑う。そのアンバランスさに胸を突かれる思いがする。 「でも、ピーター・パンだって私を必要とはしてくれないでしょう?」 言うまいと思っていたことが口をついて出た。 「だったら私家にいたほうがいいわ。ここにいたって何もすることがないんだもの。向こうにいたら、勉強とかいろいろすることがあるもの。毎日こんなふうに退屈に思いながら暮らさなくていいんだもん」 ピーター・パンの無邪気さがつらかった。自分がいてもいなくても変わらないのは、母にとってもピーター・パンにとっても同じなのだ。 家に帰りたい。ピーター・パンのことがとても好きだから、家に帰りたい。 「帰るの?」 ピーター・パンが尋ねた。流比子はうなずいた。そのとたん笑顔だったピーター・パンの顔が、一瞬のうちに凍りついたように固まった。 「駄目だ。帰さない」 「どう……」 「バカだなあ、ルイコ。フックに言われなかったの? ぼくには家に帰ることを言うなって、あいつはそう言わなかった?」 確かに言った。なぜなのかは納得できなかったけれど、フック船長は確かにそう言ったのだった。 ピーター・パンが手を伸ばす。殴られるのかと思って流比子が身を震わせると、彼はちょっと動きを止めて、それからゆっくりと流比子の頭を撫でた。フック船長とは比べものにならない小さな手。あたたかくも懐かしくもない、それでもとても優しい手だった。 「ごめんね。でも、君を帰したくないんだ。ずっとここにいてほしいんだ、ずうっと」 ピーター・パンが笑う。まるで壊れそうな笑顔だと、そう思った。 |
| あとがき / 雨の日は何となく寂しい感じがします。でも好きな人といっしょとかなら楽しいのかもしれない(羨)。全然内容とは関係ないのですが。 |