月と楽園7 帰らない人のこと





「ティンカー・ベル!」
 木の上の家を出て薄暗い森のなかへ飛び出しながら、ピーター・パンは苛立つ声で妖精を呼んだ。たいていいつもひっそりと彼に従っているティンカー・ベルは、すぐに姿を現してピーター・パンの肩にとまる。
「ティンク。ルイコに妖精の粉をあげたら駄目だ。前みたいにぼくに内緒で渡してみろ。絶対に許さないからな」
「な、内緒で渡したわけじゃないわ。わたしだまされたのよ。あの子たちが嘘ついてわたしから妖精の粉を取り上げちゃったんだもの」
「言い訳なんか聞きたくない。とにかく絶対だ。今度やったらぼくはおまえを一生許さない」
 いっちまえ、と乱暴な口調で言ってティンカー・ベルを睨みつける。ティンカー・ベルは彼の剣幕に泣きそうな顔をして、唇をぎゅっと噛み締めると、現れたときと同じように一瞬にして姿を消した。今までそばにあった気配も感じられなくなり、彼女が本当にどこかへ行ってしまったことがわかった。そして自分が本当に一人きりになれたことも。
 肩から力が抜ける。全身が鉛のように重い。ピーター・パンはよろよろと飛び続け、ようやくのことで目指す大木に辿り着いた。深い森の中央にある、この森で一番年老いた木。元気なときは瞬きを数回くり返すくらいの時間で来られるけれど、今日はとてもそんな力はわいてこなかった。時間をかけて辿り着いた老木の太い枝に腰を下ろして、ピーター・パンは深く息を吐き出した。
 朝から降り続いていた陰欝な雨は、今はもう止んでいる。
 だが雨の気配はまだ色濃く残り、湿った土の匂いと重い空気がまとわりついてくる。うっとうしくて頭を振っても消えない。消えない記憶のようにからだにしみ込んで心を重くさせる。
 思い出す。昔の自分のこと。何度も何度もあっちの世界に行って、そのたびに一人の少女を連れてきた。無理やりだったわけじゃない。彼女たちはうれしそうにして、進んでその手を差し出したのに。なのにどうして今ここにいないんだろう。みんな帰っていってしまったんだろう。
(ぼくを置いていってしまった)
 頭が重い。記憶が疼く。
 背中を大木の幹にもたせかけて、ピーター・パンは片手で目を蔽った。
 どうしてこんな悲しいことを、今まで忘れていたんだろう。
 忘れてしまう。何もかも忘れてしまう。少女がいなくなるたび記憶を失って、また新しい少女を連れてきて、そうしてようやく思い出す。同じことばかりを呆れるくらい何度も何度もくり返す。
(忘れたくなんかない)
 自分の記憶だ。他の誰のものでもない。悲しくてもつらくても、これは自分のものだ。失うことなど考えられない。
(戦いなんだ)
 誰にも二度と記憶を奪わせない。奪われるたびに、何度だって取り戻してきた。これは戦いなんだ。記憶がなくて、何もかも忘れてしまって、どうして生きているなんていえるだろう。だからこれは生きるための戦いだ。
 ティンカー・ベルとフックは敵だ。いつも自分の邪魔をする。彼らは自分から記憶を奪っていく奴らの仲間なんだ。
(ルイコは……)
 目を蔽っていた手を外し、その手のひらを、じっと眺めた。
 おとなしくて気の弱い少女。けれど彼女は泣かなかった。どうしても家に帰りたいと泣き喚いた今までの少女たちとは違う。
 不思議とティンカー・ベルやフック船長に対して抱いた憎しみが彼女に対してはわいてこなかった。かわりに胸の中を風が吹き抜けるような、ひどくうつろで優しい気持ちになる。
 与えては奪う、その残酷なくり返し。
(君も……?)
 もしそうなっても、彼女のことだけは憎まないだろう。
 彼は再び大木に頭を預けて目を閉じる。
 封じられていた記憶が時間を惜しむように一気に吹き出して、頭の中でさんざんに暴れ回っている。たくさんの声が聞こえる。遠い遠い声も、そっと自分を呼んでいる。二度とは戻れないあたたかな場所でうたわれる子守歌が聞こえる。
 記憶は遠い。優しくてあたたかい記憶ほど、どこまでも遠い。



「ルイコのバカ! あんたなんて嫌い! 大嫌い!」
 突然頭上から降ってきたティンカー・ベルの罵声に、流比子は目を大きくして彼女を見上げた。
「どうしてピーターに言ったのよ!? バカ! バカバカ! あんたのせいでわたしピーターに嫌われちゃったじゃないの!」
 光に包まれたその姿が眩しくてわからなかったけれど、まるで泣いているような声だと流比子は思った。
(私のせい?)
 不用意に自分が帰ろうとしていることをピーター・パンに告げたからだ。
 ティンカー・ベルに責められるまでもなく、流比子はそのことをとても後悔していた。ピーター・パンのあんな悲しげな顔を見るなんて思ってもいなかったのだ。彼はきっとあっさりした声で「ふうん」と言うだけだと思っていた。流比子がいてもいなくても彼にとってはまったく同じで、だから帰るときも引き止めてくれるなどとは思っていなかった。まさかあんな顔をするなんて。
 フック船長もティンカー・ベルも、ちゃんと教えてくれていたのに。ピーター・パンに言ってはいけないと、彼らはそう教えてくれたのに。
「ティンカー・ベル。私はどうしたらいいの?」
 自分も泣きそうになりながら尋ねると、ティンカー・ベルはきっと顔をあげ、流比子を罵倒した。
「どうしたらいい、ですって? どうしようもないわよ! わたしはピーターに逆らってまであんたに妖精の粉をあげられないわ。嫌われたくないの。あの人にだけは嫌われたくないのよ。だからあんたは帰れない。ここにいるしかないのよ。どんなに帰りたくたってね!」
 怒鳴りつけてぱっと消える。呼び止める暇すらなかった。
 ――ここにいるしかない?
 もう帰れない。ピーター・パンが帰さないと言ったから。
(ピーター・パン)
 決してここが嫌いなわけじゃない。ピーター・パンもティンカー・ベルも、フック船長も大好きだ。でも彼らは自分を必要としてくれない。必要ともされないで知らない世界で生きていけるほど強くはなかった。少なくとももとの世界には居場所がある。するべきことがある。ここには何もない。
 無性にフック船長に会いたかった。彼ならなんとかしてくれると思うからではなくて、ただ父親のような彼にとても会いたいだけだった。このままこの場所にいるくらいなら、どうせ家に帰れないなら、せめて彼の船にいたかった。ピーター・パンのあんな顔はもう見たくない。
「どっち……だったかな」
 彼の船のある海は、いったいどちらの方角だったろう。
 流比子は立ち上がって家の外に出た。ひとりきりで出歩いたことはほとんどない。それでもどうしても彼に会いたかった。


 森の中で、やはり道がわからなくなって流比子はあてもなくただ歩き続けた。高い木に登れば海が見えるかもしれないと思ったけれど、ピーター・パンのように身軽な身体も運動神経ももちあわせていない流比子にはやはり無理だった。太い木の幹に手をかけて、一歩も登らないうちに手が滑って手のひらが痛くなった。二度、三度と繰り返したが、やっぱりどうしても登れなくて、手のひらに血がにじみだしたのを見てあきらめた。
 こんなことをしているうちにもすぐに夕暮れが来てしまう。日の暮れた森の中をさまようなど考えるだけでも身が竦みそうだったが、後悔はしていなかった。ピーター・パンに会いたくないのだ。彼に会うのが怖かった。
(お母さん、お兄ちゃん)
 少しは心配してくれている?
 きっとしている。当たり前だ。ひょっとしたら警察に届け出ているかもしれない。
 なのにどうしても会いたい、と思わない自分はとてもひどい人間のような気がした。家に帰ってどこへ行っていたのか聞かれたり、怒られたりすることを考えると気が重い。
 また今までと同じ、ぎくしゃくした生活が続くのかと思うとため息が出そうになる。
 ぎくしゃくしているのは家族じゃなくて自分だ。そんなことわかっている。優秀な兄に嫉妬して母がかまってくれないのを寂しがって、ひとりでいじけているのは自分だ。自分だけが家族の調和を壊している。
 こんな自分は好かれなくても当たり前だ。誰にも必要とされなくても。自分自身ですら必要としていないのだから。
(ピーター・パン)
 必要としてくれるなら。彼が本当に、自分を必要としてくれるのなら。
(だったら、ここに、いたほうが……)
「どうしてお嬢ちゃんとは森の中で会うんだろうな?」
 考え事をしながらぼんやりと歩いていた流比子は、その声にはっとして顔を上げた。
「フック船長!」
「もう帰ったのか確かめようと思って来たんだが、まだだったんだな。どうした。どうしてこんなとこ一人で歩いてる? またピーター・パンに置いていかれたのか」
 彼に会いたかったはずなのに、いざ顔を見るとやはり会いたくなかったような気がして、流比子は唇を噛んだ。心配してほしいのに心配させたくない。弱い人間だと思われたくない。彼が本当の父親ならきっと自分が何を言っても嫌ったりしないけれど、そうではないから嫌われるのが怖い。迷惑をかけたくない。
「ピーターのやつにばれたのか?」
 頷くこともできなくてうつむいていたが、フック船長にはそれだけでわかったらしい。あるいはここで流比子に会ったときからもうわかっていたのかもしれない。彼は「そうか」と呟いて、流比子の肩を軽くたたいた。
「心配するな。嬢ちゃんはおれが帰してやる。ちゃんと帰してやるからな」
 力づけるような船長の言葉にも、流比子は後ろめたい気持ちで顔を上げることができなかった。家にどうしても帰りたいわけじゃな い。でもそんなことを言ったら嫌われてしまいそうで、ただ黙ってうつむいていることしかできなかった。


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あとがき / 今日久しぶりにカラオケに行って、ピーターパンの歌を歌おうと一瞬思いましたがやめました。すごく好きだったのですが覚えている自信がなかったので……。