月と楽園8 ピーター・パンの幻のこと





 ピーター・パンの家は子供のためのものだった。
 だから当然大人用の椅子なんてものはなく、フック船長は小さな椅子に居心地悪そうに腰を下ろして、長い足を無造作に放り出していた。
 ピーター・パンはいない。てっきりもう戻っていると思ったからここへ入るのは勇気がいったのだが、中に誰もいないのを見て流比子はほっとした。船長に言われてピーター・パンとちゃんと話し合うことになったものの、やはり彼に会うのは怖かったからだ。
「いったいどこ行っちまったんだ」
 窓にちらりと視線をやって、フック船長は目を細めた。
 もうすでに日は落ちて外は暗くなっている。ピーター・パンといえどもこの暗さの中を飛ぶのは危険だ。彼は夜行性ではないから夜目もきかないし、ティンカー・ベルがついているならまだしも、彼女は今部屋の片隅でぼんやりとした光を放っている。妖精の光は気分と重なる。彼女が落ち込んでいる理由はピーター・パンのこと以外に考えられなかった。
「面倒なガキだ。探しにいくか?」
 船長が独り言のように呟いた瞬間。
 すごい勢いで扉が開いて、当の本人が姿を現した。
「ルイコ! よかった、まだいてくれたんだ――」
 まるで彼女がいなくなっていることを覚悟していたかのようなその言葉に、そして自分を見たときのひどく安心したようなその顔に、流比子は思わず泣きそうになった。だから彼に会いたくなかったのに。
「――なんでフックがいる?」
 船長の存在に気がつくと、ピーター・パンはとたんに不機嫌な声になった。
「やれやれ。ご挨拶だな」
「ふ、フック船長は私が森で迷ってたのを助けてくれたの。それでここまで送ってくれて……」
「森で? どうして森になんか行ったの?」
 そんなことしたって帰れないのに、と最後は囁くような小声で呟いて、ピーター・パンは流比子を見た。
 答えられないで口ごもる。
「とにかく帰ってくれ。おまえの顔は見たくない」
 流比子から視線を外し、ピーター・パンはフック船長を睨みつけながら言う。
 船長は窮屈な椅子から立ち上がった。
「そう言うなら帰るけどな、ピーター。ルイコをちゃんともとの場所へ帰してやれ。おれはそれだけ言いにきた」
「いやだ」
 即答だった。
「おまえのものじゃない」
「いやだ。ルイコは好きでここにいるんだ。ここに来たいって言ったんだ。だから帰さない」
「バカが。今は帰りたいって言ってるんだ。おまえには引き止める権利はねえ」
「いやだと言ったら、いやだ。さっさと消えろ、こんちくしょう」
 罵声を浴びせられてもフック船長は平然とした顔をしていた。しばらく無言でピーター・パンを見ていたが、やがて頭をかきまわすと、泣きそうな表情で二人のやりとりを見ていた流比子に向かって笑いかけた。
「また来る。平気だな?」
 流比子は頷いた。これ以上二人が言い争っているのを見たくなかったからだ。それくらいならピーター・パンといたほうがいい。彼のあんな顔をまた見るくらいなら、この家から出ないでずっとここにいたほうがいい。
 ピーター・パンはそっぽをむいて、もうフック船長のほうは見ようとしなかった。


 暗い夜の中を飛んで帰ったせいで、ピーター・パンの身体にはあちこち小さな傷跡があった。木の枝などでぶつけたらしく、平気だよと彼は言ったが、流比子は消毒だけでもするべきだと思った。けれどここにはそういう道具は一切置いていない。仕方なく、水で傷口を洗うだけでもさせてもらうことにした。
「いいよ、そんなの」
「じっとして。私もたまには何かしたいの。何にも役に立てないから……」
 流比子が言うと、ピーター・パンは「そんなことないよ」と呟いたものの、黙って流比子に任せることにしたらしい。無造作に手足を投げ出した。
「今まで森の中にいたの?」
 フック船長とピーター・パンのあんなやりとりを見たばかりだというのに、自分でも意外なほど冷静に彼に話しかけることができた。
「うん……。眠ってたみたいだ。目が覚めたら、夜になってて、辺りが真っ暗で、びっくりした」
 ぽつりぽつりと呟くようなピーター・パンの声にはいつもの元気がなかった。
「夜はあんまり好きじゃなくて、早く帰りたくて、戻ったら家に明かりが見えたからほっとした。君の顔を見たとき、すごく――うれしかった」
 そう言う彼の声は少しも嬉しそうには聞こえない。うっすらと血のにじんでいる傷口を水を含ませた布切れで押さえながら、流比子は胸が痛くなった。
「ねえ、ルイコ。ここにいてくれよ。大事にするから、お願いだからここにいて。じゃないとぼくはまた忘れてしまう。また全部忘れちまう」
 ピーター・パンの手が流比子の肩をつかむ。視線があって、まるで親に必死に取りすがるようなその瞳に何を言えばいいのかわからなくなる。
「忘れるってことがどういうことなのか、君にはわからないのかなあ」
 何も答えようとしない流比子に、絶望的にピーター・パンは笑った。
「自分がいなくなるのがどういうことなのか、きっと君にはわからないんだろうなあ。わかってたら帰るなんてそんなひどいこと、言えるはずがないからね」
 ピーター・パンが流比子から手を離す。まだ怪我の処置も終わらないまま立ち上がった彼に、流比子は泣きたい気持ちで呼びかけた。
「わからない、私。どうして私が帰るとピーター・パンが記憶をなくすの? どうして?」
「それは、ぼくがぼくでなければいけないからだ。他の誰にもなれないからだ。けどぼくは、失うのはいやなんだ。記憶を失うのだけは、どうしてもいやなんだ」
 ピーター・パンの声は穏やかで、フック船長と話していたときのような激情はまったくなかった。そのぶんよけいに自分に対する怒りを感じて、流比子はひどく悲しくなる。
「おやすみ、ルイコ」
 流比子のほうは見ずにそう言って、彼は自分の部屋に引っ込んだ。


 翌日、また木の上の家にフック船長が訪ねてきた。
 その時もピーター・パンは不在で、ティンカー・ベルもおらず、流比子だけが船長を出迎えた。帰らないでくれと言うくせに、ピーター・パンはやはり今までと同じように流比子を置いて出かけてしまう。けれどそのことに寂しさを覚える反面、彼と一緒にいることに痛みを覚えるのも事実で、船長が来るまで流比子は一人でぼんやりと自分は何をしたいのだろうかと考えていた。
「どうしたもんだろうな。あれだけピーターが頑なだったらティンクも妖精の粉を貸しようがない。あいつは基本的にピーターの言うことには逆らえないんだ」
 フック船長のほうが本人より真剣に流比子が家に帰る方法を考えてくれている。そのことを申し訳なく思いながらも、流比子が今一番気になっているのはもっと別のことだった。
「フック船長、あの、どうしてピーター・パンは私がいなくなると記憶をなくすんですか? ティンカー・ベルは彼が大人にならないためだって言ってました。ピーター・パンは、自分が自分であるためだって言ってた……」
「そうだな、どっちもそうだろうな」
 船長は頭をかいて困ったような顔をした。
「今のピーターはピーターじゃない、そう思うだろう? ピーター・パンはもっと陽気で朗らかで、泣き言を言ったりしない。どんなことでも笑い飛ばす。自分勝手でいい加減で、誰にも本当には執着しない。そういう奴であるべきだと、そう思われている。誰に? ルイコたちの世界の人間に。だろう?」
「私たちの、世界……?」
「だからあいつはそうあらなければならない。ピーター・パンらしくな。そのためには記憶は邪魔なんだ。捨てられて本当に傷つかない奴なら何を覚えてたってかまわない。でもあいつはそうじゃない。傷つけられれば傷つくし、誰かと一緒にいる時間があれば一人でいる時間が寂しくなる。だから忘れなければいけない。傷つけられたこと、誰かと一緒にいたこと」
 ピーター・パンの彼らしくない傷ついた顔は見たくない。流比子は確かにそう思っていた。彼らしくない。まだ初めて会ったときから十日もたっていないのに、彼らしさなどいったいどれだけわかっているというのだろう。
「いつもはすぐ忘れるのさ。誰が死のうがどうしようが、すぐ忘れて終わり。嫌なことは全部忘れちまう。けどルイコがいると――あっちの世界から来た女の子と長く一緒にいると、あいつは忘れないようになる。それだけじゃなく、思い出す。今まで来た女の子のことや、他のいろいろなことを全部思い出す。そして彼女たちがいなくなればまた元通り、物忘れのひどいあいつにもどる。ピーター・パンらしいあいつにな」
 ピーター・パンはそのことを知っているから流比子が帰るのをあれほどまでに嫌がるのだと彼は言った。自分の記憶をなくすことを何より恐れている。流比子は記憶を失うのはどういうことなのか考えようとした。今までの経験や出会った人をすべて忘れること。家族と過ごした日々も、楽しかったこと、悲しいことも全部忘れてしまうこと。
 とても想像がつかなかった。何もかも忘れて目を開けた自分は、いったい何をもって自分だとわかるのだろう。
「異質だからなんだろうな」ぽつりと船長が呟いた。流比子ははっとして彼を見上げる。
「あっちの世界の女の子が来るとピーターがおかしくなるのはさ。あいつが子供のままでいるために、つらいことを思い出さないために、女の子は本来ここにいちゃいけない。知ってるかい? 今この世界にいる人間の女の子はルイコだけだ。ピーターが連れてきた子だけが唯一なのさ。この世界の秩序を守るために、女の子はここにいたら駄目なんだ。少年にとっての少女とは、いついかなるときも異質なもんさ」
「だったら私、いったいどうしたらいいんですか」
 流比子の表情を、家に帰れないかもしれないという不安から来ているものと誤解したらしい。船長は慌てて言った。
「いや、心配することはない。帰れるさ。きっと帰れる」
 流比子は首を振った。
「違うの。そうじゃなくて、そうことじゃなくて、私はピーター・パンに幸せになってもらいたいんです。でも、私がどうしたら彼が幸せなのかわからない……」
 ここにいてほしいと言って泣きそうな顔ですがる。ならばこのままここで過ごしていけばいいのかというと、そうすると彼はずっと思い出したままでいるだろう。つらいことをすべて忘れずに覚えていて、悲しんだり、落ち込んだりする。そして流比子がここにとどまるかぎり、彼女がいつか帰ってしまうのではないかと不安に怯えながら生きていかなければならなくなる。ずっとここにいると言っても信じないだろうと流比子は思った。彼はたぶん、見た目よりずっと疑り深くて、それは信じて裏切られたことがあまりに多すぎたからかもしれない。
 けれど流比子がここを出てもとの世界に帰りさえすれば、ピーター・パンは何も悩んだりしなくていい。どんなつらいことでも笑い飛ばして、陽気で彼らしい彼に戻る。何の悩みもない太陽のような少年に。
「どっちが幸せなんですか? ピーター・パンのためには、私はどうしたらいいの……?」
「ルイコ」
 フック船長はこれ以上はないというほど弱り切った顔をした。それでも彼は正直で、しばらくためらったあと、ため息混じりにこう言った。
「何があいつのためなのか、それはおれにはわからねえ。わかるのは、ルイコはもとのところへ帰るべきだということだ。ここは歪んでるんだって、初めて会ったとき言ったのを覚えてるか? キレイなものはなんだって歪んでるもんさって、言ったろ? おれはフックを殺しちまった。もう帰れない。けどウェンディははじめっからこの世界から失われた女の子だからな、おまえは帰れる」
「え……?」
 船長の言った言葉の意味を流比子は理解することができなかった。
 ――フックを、……何?
「また来てたのかフック。ルイコは帰さないって言ってるのに」
 突然飛び込んできたピーター・パンの声に、流比子は尋ねるきっかけを失った。慌てて戸口を振り向くと、ピーター・パンが入り口でむっと眉をひそめながらフック船長のほうを見ていた。
「会いにきたっていいだろうが。ここはルイコの家でもあるんだしな。それとも何ならおれが船のほうに引き取ろうか」
「おまえの船はうるさい。ルイコはうるさいのは嫌いだよ」
「ここは静かすぎるだろう。おまえはよく留守してるしな」
 船長の皮肉にピーター・パンはぱっと流比子を見て少しだけうろたえたように、
「ぼくがいないほうがルイコは気が楽だと思ったから! だから!」
「一緒にいて気詰まりだとわかってんなら帰してやったらどうだ。おまえのやってることは何なんだ。ガキが自分のことばっかりで、ルイコの気持ちなんかまったく考えてもない」
 船長のピーター・パンに対する言葉には容赦がない。かっと顔を赤くして船長を睨みつけるピーター・パンを見ていると、流比子は全部自分のせいなのだという思いで胸が締めつけられるようだった。ピーター・パンが悪いんじゃない。記憶を失うのは……それはきっと、本当に堪え難いことなのだと思うから。
「おまえなんかにぼくの気持ちがわかるもんか! 出ていけ!」ピーター・パンが叫んで、船長は肩をすくめた。そのまま無言で立ち上がる。
 そして流比子にだけわずかに笑いかけると、戸口に立っていたピーター・パンの存在をまったく無視するようにその隣を擦り抜けて出ていった。
 船長が出ていくやいなやこれ見よがしに大きな音を立てて扉を閉めたあと、ピーター・パンは流比子のほうを見た。取り繕うように笑う。けれどそれはあまり成功しているとは言いがたく、笑顔というにはあまりにも不鮮明で明るさのない、とてもぼんやりしたものだった。
「ルイコ」ピーター・パンは言った。流比子が彼を見つめると、彼は言うべきことを忘れてしまったというように長い間黙ったままでいて、やがて小さく呟いた。
「――ぼくは、いったい誰なんだろう?」


[TOP/BACK/NEXT]
あとがき / フック船長は陸に上がってばっかりです。船長のくせにいい加減だと船員たちの怒りを買いそうな気が。という以前にそもそもなぜ彼らは海で暮らしているのか、航海に出るわけでもないのに……。