月と楽園9 ティンカー・ベルと少年のこと





 夜の空を、ティンカー・ベルはひとりきりで飛んでいた。
 満天の星と輝く半月は空を明るく照らしてくれる。それでもそんなものでは晴らされないほどティンカー・ベルの心は重く沈んでいた。彼女はもうずっと飛び続けている。目的のところに辿り着くのはいったいいつになるのかなど、もはや考えるのもいやだった。この背中に生えた小さな羽だけではあまりにも長い距離を飛ぶのは不可能なのだ。ピーター・パンが行ったほうがずっと早くすむ。そんなことわかっているけれど、彼に頼まれたのだ。彼は自分では見たくないものだから、ティンカー・ベルに頼んで、内心で怯えながら答えを待っている。何が望んでいる答えなのかも曖昧なまま。
 ピーター・パンが一度でも通った道には彼の匂いが残っているから、あとを辿るのは不可能ではなかった。流比子以外の少女のもとへさえ行こうと思えば行けるだろう。
(だけどあんたたちなんかに用はないのよ)
 ピーター・パンを捨てていった人間に会いたいとも思わないし、彼女たちが今幸せだろうと不幸せだろうと、それはまったく何の意味もない。
(今夜中に戻れるのかしら?)
 ピーター・パンが待っているのに。早く帰ってあげないと、彼がひとりぼっちになってしまう。流比子がいたって彼は一人だ。流比子は彼のことを理解しないから、彼は彼女といたってちっとも楽になんかなれない。
 ティンカー・ベルの光が次第に弱まっていく。疲れすぎてだんだんと何を考えるのも億劫になってきた。流比子の家へ行って、彼女の部屋の窓が開いているかどうか確かめて、それでいったいどうなるのだろう。自分の過去を掘り起こしたっていいことなんて一つもないのに。思い出して、それでいったい何が変わるというのだろう。
(ピーター、ねえ、どうしたらまた前みたいに笑いかけてくれるの?)
 彼女にはもう、あまり時間がない。妖精は長くは生きられない。だからピーター・パンと一緒にいられる短い時間に、できるだけ彼の笑顔を見ていたい。たったそれだけ。
 ティンカー・ベルはよろよろと飛び続け、ようやく、探していた家の明かりを遠くに見つけた。


 夏の夜の風が開いた窓から室内に吹き込んでくる。いつものように窓辺に立って夜空を眺めながら、松崎準也はふと小さな光を見かけたような気がした。車のライトとは違う、もっと淡くてぼんやりとした光。しかしそれはすぐに見えなくなってしまったので、見間違いだったのだろうかと彼は思った。
「何度言ったらわかるの? 窓を開けっ放しにしておくのはやめて」
 背中に神経質な母親の声が聞こえる。準也は振り返り、流比子が帰ってくるまで、と落ち着いて答えた。その答えに母の顔が歪む。準也は笑おうかどうしようか一瞬迷ったあとで、結局無表情に近い顔のまま続けた。
「だって書き置きを見たろう、母さん。ピーター・パンと一緒にいくって書いてあったんだ。ウェンディみたいに。窓が閉まってたら流比子が帰れない」
「馬鹿馬鹿しい。あの子は家を出てったのよ。そんなにここがいやならどこへだって行けばいいわよ。好きにすればいいじゃないの」
 捜索届はとっくに出した。けれどまるで手がかりは見つからない。妹は突然消えてしまった。あの日、いつまでたっても階下に降りてこないのを不思議に思って部屋を覗くと、彼女はどこにもおらず、ただ開きっぱなしの窓と簡単な書き置きだけがあった。――ピーター・パンと一緒にネバーランドにいってくるから、心配しないでください。
 ネバーランド。ピーター・パン。永遠に大人にならない少年。
 永遠に大人にならないこども。
 母親はその意味を誤解して、決して考えたくない結論を意識したくないばっかりに流比子が家出したと決めつけて怒っている。彼女はここがいやで出ていって、別のどこかで幸せに生きている。そう信じようとしている。
「母さん。流比子は帰ってくるよ」
 慰めのつもりはなかった。ただ準也は妹がこんな嘘をつくとはどうしても信じられずに、彼女の書き置きを信じているだけだった。ピーター・パンと一緒に行った流比子はいつか帰ってくる。その時にこの部屋の窓が閉まっていることのないように、妹が泣いたりしないようにしたいだけだった。
「ピーター・パンの親は彼のために窓を開けておいてやらなかった。だから彼は永遠に子供のままでいなきゃならないんだ」
 閉ざされた窓はあとからいくら開かれたって駄目なのだ。彼が訪れたその時に開いているものでなければなんの意味もない。その時、彼にとって永久に扉は閉ざされ、彼は自由と孤独を手に入れた。失ったぬくもりの代わりに。
 準也は再び視線を戻して窓から空を見上げた。半月が涼しげに輝いている。乾いた風に吹かれて目を閉じると、目に焼きついた月の明かりがちかちかと暗闇の中で瞬いていた。


 夜明け前、船員たちのほとんどがまだ眠りについている中、フック船長はティンカー・ベルの訪問を受けた。
 本当ならば無視してそのまま寝ていたいところだったが、耳元をぶんぶん飛び回られてキーキー鳴かれては眠るどころではない。そしてそれ以上に、ティンカー・ベルの切羽詰まった様子が気になった。
 やむなく起き上がって明かりをつけ、船長はぼさぼさの髪をかきながら大きなあくびをした。
「窓が開いてたの!」ティンカー・ベルが叫んだ。
「なんだって?」
「だからルイコの部屋の窓が開いてたの! わたし、ピーターに頼まれて見にいったのよ。そうしたら開いてて……どうしよう、わたし。ピーターになんて伝えたらいいかわからない」
 ティンカー・ベルは混乱して今にも泣きだしそうだった。船長は眠そうに目を半開きにして、流比子の部屋の窓が開いていた、と頭の中でくり返した。
 ということは、流比子を待っている人がいるということだ。自らも帰りたがっていて、待っている人もいる彼女にもうピーター・パンは何も言えなくなる。引き止めることができなくなる。
 もし窓が閉じていたなら、ピーターはきっとこう言っていただろう。――君のことなんかもうだれも必要としてないんだ。君には帰る場所なんてないんだよ。だから、ずっとここにいればいい。
 そして、帰る場所を失った者どうしで慰めあうこともできたかもしれない。彼はそれを望んでいたのかもしれない。
「おまえが悩んでどうする。見たままを伝えればいいだろう」
 しかし彼の望みがどうあれ、それはすべてピーター・パン自身の問題だ。結局はすべて彼が決めるしかない。
 けれどティンカー・ベルはきっと顔を上げて、フック船長をにらみつけた。
「できないわよ! だってそうしたらピーターはきっと泣くもの。わたしあの人の泣き顔なんて見たくないんだもの。ルイコにはいなくなってほしいけど、だけど、ピーターが泣くのはダメ。絶対ダメ」
 やれやれ、と船長は思った。ティンカー・ベルはいつだってピーター・パンがいちばんだ。彼のためなら他のだれが傷ついてもかまわないと思っている。いったいどうやったらそこまで盲目的に愛せるのか、フック船長にはまるでわからなかったが、ティンカー・ベルの真剣さだけは確かだった。
 無性に煙草が吸いたい気分になって室内を見回してみたものの、ふと自分が数週間前から禁煙中だったことを思い出し、ため息をついた。今回の禁煙には掃除当番がかかっている。負けるわけにはいかない。
「ねえ船長……わたし、どうしたらいいと思う?」
 やれやれ、やっぱりこうなるのか。
 船長が余計なことを考えて面倒ごとを回避しようとしても、現実に目の前にある問題は何ら解決しないのだった。
 問いかけの形をとってはいても、ティンカー・ベルの答えがすでに決まっていることはわかっていた。ピーター・パンの泣き顔を見たくないというなら、窓は閉まっていたというほかはない。だからティンカー・ベルは答えを求めているのではなくて、ただ背中を押してほしいだけだった。自分の判断は正しくて、ピーター・パンを決して傷つけないものだと誰かに保証してほしいだけなのだ。
 そんな保証いったいどこの神様にだったらできるんだ? と内心でぼやきながら、フック船長はティンカー・ベルの不安げな表情を見つめた。祈るような顔だった。
 相手を間違えてるなと思いながらも、結局彼は答えた。
「窓は閉まっていたと言えばいい。それであいつは安心するんだろう」
「そうよね! わたし、行ってくる!」
 ぱっと顔を輝かせてティンカー・ベルはすぐさまその部屋をあとにした。その光の残像を見つめながら船長はティンカー・ベルと流比子の顔を思い浮かべ、心の中で流比子に謝った。
 ティンカー・ベルのピーター・パンに対する思いと流比子の家に帰りたいという思いを秤にかけて、前者のほうが強いと感じたから――そんなものは理由にならない。要するに目の前ですがるように見つめてくるティンカー・ベルの望みを拒絶できないだけだった。それがだれであろうと、悲しむ姿を目にするのがいやなだけだ。人ひとりの――この場合は妖精の、だ――涙さえ、肩に負うには重すぎる。
 変な時間に起こされたせいですっかり目が覚めてしまった。フック船長はベッドの端に腰かけたまま、しばらく顎をさすりながら虚空を睨みつけていたが、やがて再び眠気が襲ってきたのをよいことにそのまま横になった。
 だれも傷つかないように、というのは理想だ。本当はいつも誰かが傷ついている。久方ぶりに色々なことにうんざりして、こんな世の中くそくらえ、と半分眠りながら吐き捨てた。


 流比子はピーター・パンと一つの賭けをした。
 もしも流比子の部屋の窓が開いていたら妖精の粉を渡す、閉まっていれば流比子はずっとここで暮らす、という簡単な賭けだ。流比子はいいとも何とも言っていないのに、ピーター・パンが勝手にそう決めてしまった。
 夜明け前、空がうっすらと白みはじめるころ、ピーター・パンと流比子はふたりしてティンカー・ベルの帰りを待っていた。流比子は眠さに負けて何度か居眠りしてしまったけれど、ピーター・パンはいつ見てもあくび一つもらさずじっと窓の外を見つめていた。なぜ彼でなくてティンカー・ベルが行ったのだろう、とふと思ったが、尋ねることはできなかった。ただ単にティンカー・ベルのほうが飛ぶのが早いからかもしれない。
 流比子は自分の指先に視線を落とし、なぜ今こんなに落ち着いていられるのかと不思議に思った。これからの一生が決まってしまうほど大きな賭けなのに、少しも心が騒がない。気になるのはティンカー・ベルの持ちかえる結果より、目の前のピーター・パンの不安げな横顔のほうだった。
(窓は閉まってる、たぶん)
 少なくとも流比子が帰ってくると信じて開けておいてくれるはずはない。たしかにピーター・パンと一緒にネバーランドへ行くとは書いたけれど、まさか母と兄がそれを信じるとは思えなかった。流比子が家出したとでも思っているに違いない。
(窓なんか開いてない)
 だったら賭けはピーター・パンの勝ちだ。流比子は一生ここで暮らす。けれどそう考えても、まるで実感がわかなかった。窓が閉まっていることに確信はもてるのに、ここに留まる自分は想像できない。
(だって私がいても、ピーター・パンは幸せになれない)
 幸せでない彼のそばにいて自分も幸せになれるはずがない。正直な気持ち、今のピーター・パンと一緒にいるのはつらかった。ときおり流比子がちゃんとそこにいるかを確かめるように、あるいはどこにもいかないでくれと懇願するように視線を向けられるのがいやだった。そんな目で見られても応えられない。
 たとえ流比子がいてもピーター・パンはずっと淋しくて不安なのだろうと思った。いろいろな記憶が彼を苦しめてあんな表情をさせる。けれど流比子がいなくなりさえすれば、彼はすべてを忘れられる。またもとの明るい彼に戻ることができるのだ。ならばそちらのほうがいいのではないだろうか。流比子が帰ると知れば彼は泣くかもしれないけれど、きっとすぐに忘れてしまう。いままでそうしてきたように。
「ぼくは昔、ティンカー・ベルにここに連れてこられた」
 窓のほうを向いたまま、ピーター・パンが口を開いた。静まり返った部屋のなか、その声だけが空気を震わせて大きく響く。
「今の……今のティンクとは違う。違う妖精で、たぶん、もう死んでしまった。ぼくは覚えてない。ぼくは彼女に連れてこられてここに来たけど、一度だけ、家に戻ろうと思ったこともある」
 椅子のうえで片膝を抱き、両腕の間に顔を埋めるようにして少しだけ目を伏せる。彼の声は流比子がそこにいるのを忘れてしまったように、まるで独り言のように無感動に聞こえた。
「窓は閉じていた。母さんは赤ん坊を抱いていた。幸せそうに笑ってた。ぼくは窓を叩こうとして――やめた。窓は閉じていたんだ。ぼくは、もうどこにも帰れない」
 奇妙に平坦な声で、ピーター・パンはくり返した。「どこにも帰れない」
(どうして)
 どうして窓を開けておいてくれなかったのよ、と流比子は思った。そのせいでピーター・パンがこんなに苦しんでいるのに。その時窓が開いてさえいれば、彼はきっと家に戻って、普通に家族と幸せに暮らしていたはずなのに。
(――ピーター・パンだから?)
 そんな普通の幸せは彼には似合わないから?
 そう決められているから。彼は大人にならない。大人になれない。こどものままいつまでも楽しく暮らす、その姿に憧れる人間がいるかぎり、彼はずっとこどものままだ。家になんて帰れない。
(そんなのってあるの?)
 彼がこんなに帰りたがっているのに。こんなに、ひとりで寂しがっているのに。
 なのにそれをすべて忘れて楽しく暮らせとどうして言えるのだろう。だったらせめて思い出したりしなければいい。忘れるのではなく最初から痛みも悲しみも感じなければいいのに。
(ピーター・パンが泣いてる)
 涙もなにもない。静かにうつむいて、目を閉じる。それでも彼は泣いているんだと流比子は思った。
(神様――)
 信じてもいないものに願わずにはいられなかった。
 彼を救ってあげてください。彼を愛してあげて。こんな牢獄のような世界から彼を助けだしてください。
 胸がざわざわする。不安なのか恐いのかわからない。どうしようもなく胸が騒いで気分が悪くなる。
「ルイコ……?」
 心配げなピーター・パンの声がする。
「ルイコ、気分が悪いの? 大丈夫?」
 ひんやりとした指先が額に触れる感触がした。こんなふうに優しくされる資格なんてないと思った。彼を苦しめているのは自分なのに。のこのこと自分勝手な望みだけでこんなところについて来てしまった自分が彼の暮らしを乱しているのに。
 その時はじめて流比子は、ここが自分のいるべき世界ではないのだと強く感じた。ここに留まることがどうしても想像できなかったのも、ピーター・パンにこれほど惹かれるのも、すべて自分の居場所がここにはないからなのだった。
 窓の外に光が見えた。「ティンク――」ピーター・パンの耳元で、光がそっと、何かを囁き、流比子の耳にはその言葉は届かなかった。けれどそれがどんな結果であろうと、彼女の決意はもうすでに決まっていた。


[TOP/BACK/NEXT]
あとがき / いよいよ残すところあと1話。何の盛り上がりもないままにクライマックスです。そういえば私の小説で山場があったためしがないような……。