とりたてて好きな歌手が出るわけでもないのに大晦日には毎年欠かさず紅白歌合戦を見てしまうのは、身体に染み付いた習慣のようなものかもしれないと、ぼんやり思った。 もうあと四時間もしないうちに一年が暮れる。今年売れた歌手の聞きなれた歌がテレビ画面の中で響いて鼓膜を震わせる。女性ボーカルのハスキーな声が捨てられた女の気持ちを冗談めかして訴えている。ねぇどうして私を捨てたりするの。あなたのことなんて他の誰も愛してくれないんだから。愛せるのは私だけ。愛していいのも私だけ。戻ってくれるなら許してあげるわ。でも土下座して、私の靴を舐めてね。そうしたら許してあげる。また愛してあげるから。 (土下座して靴を舐める男なんて気色悪いだけじゃない?) そんな男とは頼まれたって付き合いたくない。女に媚びへつらう男なんて好きじゃない。 床に直接ぺたりと座りこんで、ソファの足にもたれかかるとあたたかいような気がした。床暖房。台もなく無造作に床に置かれたテレビを見るにはこちらのほうが疲れない。画面は女性ボーカルから男ばかりのグループにかわり、古いアメリカの名曲が今年カバーされて大ヒットした曲が流れ始める。懐かしい音楽。子供の頃に夢中になって聞いた曲が今でも色褪せずに自分の中にある、その奇跡。 消えていくもの、思い出として残るもの、思い出に風化することもなくいつもいきいきと存在し続けるもの。 「あっ、伊原の好きな子が出るよ。ねぇ、これだけ聴いたら?」 半開きの扉の向こうに声を張り上げた。そこには人がひとりひっそりと生息していて、トイレとお風呂と食事と洗面のときだけこっちに顔をのぞかせる。それ以外はずっとその部屋にこもりきりで、伊原茂という男はここ数日バカみたいに熱心に創作に取り組んでいる。 彼が何の絵を描いているのか知らないし、あまり興味もなかった。出来上がったものだけ見せてくれるならその過程なんて必要がない。けれどいつも半開きの扉から時々こっそり彼の姿を覗き見るのは好きで、普段とは違う真面目な顔と周りの空気から隔絶されたような冷たい背中がきれいだと思った。 絵の具の匂いのするその細くて長い指も、自分の世界に入り込むその薄い背中も、目の前のキャンバスしか見えていないその目も。 きれいだと思ったから好きになったのか、好きだからきれいだと思うのかわからない。 「――誰が出てるって?」 半開かずの間から声が聞こえる。「永野ミハルー」と答えて声を張り上げる。きれいな声だよ俺好きだな、そう言っていたかわいらしい女性アイドルがテレビの中でにこにこ笑っている。かわいい彼女。どこか高校時代の後輩に似ている。 「お前何見てんの? って、紅白? まさか紅白!?」 扉から焦ったような伊原の声、続いて何だか久しぶりに見るような顔が覗いて彼はひどくショックを受けているように見えた。おかしな男だと思った。 「紅白よ。日本レコード大賞は邪道よ」 「馬鹿、何で俺のこと呼んでくれないんだよ。俺紅白見ないと年が越せないんだよ」 そんなこと知るか。 伊原は打ちひしがれた顔のまま隣にやってきてすとんと床に腰を下ろし、絵の具のついた手で前髪をかきあげて目を細めた。細くて長くて神経質な指。そっと掴んで引き寄せても彼は何も言わなかった。 「大晦日も元旦も別にどうでもいいのかと思ってた」 「よくないよ。行事を大切にする気持ちって大切でしょ」 「私明日の朝実家に帰るから」 「いつ帰ってくる?」 「気になる?」 ふふっと笑った。出てこなかったら何も言わずに帰ろうと思ってたのに。 「気になるよ」 伊原の指が逆に私の指先を握りしめる。握りしめられる感触。ねぇ、この指で他の誰かを愛したことがある? 「伊原はいつ実家に帰るの」 「明日」 「いつ戻ってくる?」 「明日」 「じゃあ私は明後日にする。絵に打ち込んでちょうだいな」 耳の奥で聞いていた永野ミハルのきれいな声が聞こえなくなる。次は私が子供の頃からけっこう好きな男性歌手だったから伊原の手を振り解き、テレビに向かって正座した。隣で伊原が苦笑するのがわかったけれど気にしなかった。 情熱と執着は似ているようで違うもの。 ひとつのものを長く愛する、という執着。一瞬で湧きあがる情熱。熱はいつか冷めるもの。けれど冷めない熱があるのならそれはきっと。 「紅白見たら初詣に行こうね」 それで夜明けを一緒に見れたらいい。 もうじき一年が暮れ、新しい年が始まる。 伊原がソファの腰掛けに頭をのせて、ふわあと大きな欠伸をひとつした。 |
| あとがき / ちょうど1年前の新年に書いた短編。大晦日ですねえ、という感想しかありません。これを書いた時点でこの二人はこんなに恋人っぽくはなかった気もするのですが。 |