雨に濡れそぼったからだをぶるぶると振るわせ、降り続ける雨の滴を避けるように猫が軒下を駆けていくのが見えた。今週に入ってからの連日の雨で空気は湿気を帯びて重さを増し、青い空は厚い灰色の雲の向こうに隠れたまましばらく姿を見せていない。 朝も昼間も夕方も、空は同じ色で雨はやまない。時折勢いを増して叩きつけるように降るほかは、たいてい静かにひっそりと降っている。水溜りを跳ねていく車と色とりどりの傘とすっかり耳に馴染んだ雨の音と。 梅雨だから仕方ないと言えばそれまでなのかもしれないけれど。 ふと隣を歩く従弟の横顔を見上げると、雨が好きだと言った彼はその言葉どおり降り続く雨に嫌な顔一つせず、むしろ楽しそうにさえ見える穏やかな表情でまっすぐ前を向いていた。ここ数年で驚くほどに伸びた背は、今でもやはり彼には不似合いに見える。いつもどこか思いつめたような生真面目な顔とおおざっばな背の高さのアンバランスさが、身体ばかり大きくなった子供のように痛々しい。 かわいそうだと、いつも。 「ねえ夏生。今度の展覧会はどうするの。出す?」 「あぁ? やめとく、大きすぎるし」 学内でその名を知らない人間はいないと言われるくらいの有名人は、展覧会で賞をとることなんて何の意味もないというようにあっさりと切って捨てた。 「……ふぅん」 夏生が何を考え何を見ているのか、私はいつもわかっていると思っていた。小さな頃からそばにいて、まるで弟のように思っていたから全部を知っていると思っていた。 交差点でじゃあ、と夏生が軽く手を上げて背を向ける。その背中を見送りながら、私は行く先の信号が青だとわかっているのに前へ進めなかった。夏生がどこへ行くのか知っている。大学に入ってからずっと、週に一度は必ず彼はあの人のところへ行く。晴れでも雨でも変わらずに。私はその人の顔を知らないけれど、存在だけはもうずっと知っている。 夏生の一番大切な人は男の人で、私は彼にはたぶん一生かなわない。 出さないと言っていた展覧会に突然夏生が出品すると言い出して、その原因が彼に勧められたからだと聞いたとき、私はもう耐えられないと思った。 どうしていつもいつも彼のことばかり見て彼のことばかり考えるのかわからない。きっと軽い気持ちで言ったに違いない言葉で簡単に出品を決める、その単純さが許せない。 私は夏生に出品してほしいと思っていた。 大きな展覧会だし、これに入賞すれば彼の将来は今よりもっと確かなものになる。だから本当は出品してほしかった。でもあの人の言葉でそう決めるくらいなら自分の意志で出さないでほしかった。 「頑張れって言ってくれたから。だから」 普段あまり感情を表に出さない夏生が今まで見たことがないような顔で笑う。穏やかな優しい顔。優しいのはずっと、でもいつでもどこか臆病で周囲のあらゆるものに怯えているように見えた。大丈夫、何も怖くないよ。大丈夫。ずっと心の中で呼びかけていた声は彼にはたぶん届いていなかった。私は口に出すことができなかったから。だいじょうぶ。夏生、何もあなたをきずつけないよ。 「どこがそんなにいいのかわからない」 まっすぐ前を向いていた夏生は私の小声の呟きにえ、と小さく首を傾げて視線をこちらに向ける。 「伊原さんの絵のどこがそんなにいいのか私わからない」 立ち止まる。今日は雨はやんでいる。でも晴れているわけではなくて、ただ一時やんでいるだけだと教えるように空は暗く、雲は厚くて光は見えなかった。 「たしかに上手いけど地味だし、別にぱっと目を引くわけじゃないし。夏生の絵のほうがいいよ」 私はずっと夏生の絵が一番大好きだよ。だからもっと自信を持って。あなたが手に入れた名声は偶然なんかじゃない。実力なんだって信じて。 「晴見さん」 夏生の声は硬かった。臆病で優しい彼は私が今まで知らなかった怖い顔をしていた。あるいは彼はいつもと同じようにただ私を見ていただけで、私がひとりで怯えているだけなのかもしれなかった。 「僕の前で伊原さんの絵を悪く言うのはやめてほしい」 ため息を漏らすようにぽつりと夏生が言った。それだけ言って視線を落とし、しばらく夏生も私も何も言わず、動くこともできずに二人して突っ立っていた。夏生に私の言葉は届かない。そのことがとても私を惨めにさせる。私の言葉はいつだって彼に届かない。今までも、これからも。 私は無言で夏生の隣をすり抜けてその場から逃げ出した。夏生も何も言わず、追いかけてもこなかった。 雨が降り出した。まるで降っていなかったことが間違いのようにごく当たり前に降り出した雨は誰からも当たり前に受け入れられて、そこかしこでばらばらと傘が広がる。それでも中には庇うように鞄を抱えて走りだす人もいて、それを少しだけ羨ましいと思う。 じめじめしたまとわりつくような暑さから逃げ出したい。この雨が冷たいのなら全身ずぶ濡れになって立ち尽くしていたい。誰にも聞かれないのなら思い切り叫びたい。私を見て、私の声を聞いて。ずっと昔からそばにいたのに、どうして私のことを思ってくれないの。 けれど私は叫びだしも、傘を放って両手を広げることもしなかった。 私がしたのはただ、そこに住む住人の知り合いのような顔をしてマンションのエントランスをくぐり、エレベータで七階のボタンを押すことだった。乗客は私一人で、静かな音とともに変わっていく階数のランプを目で追いながらいったい何をしているんだろうと思った。 五階、六階、七階。音を立ててエレベータが停止して、ゆっくりと重たそうに扉が開く。目の前に伸びた長い廊下に一瞬、息を止めて、すぐに我に返って一歩前に踏み出した。ここまで来てこのまま帰るのだったら何も変わらない。私は叫び出すことができないけれど、何も知らないままでいたくはない。 このマンションの七階の。 風通しのいい、とても景色のよい部屋なのだと何度も聞いた。けれど部屋番号を聞いた覚えはなく、七階のどの部屋が彼の住む場所なのかわからなくてこんなところで途方に暮れた。 私は彼の顔さえ知らない。知っているのはただ名前と一枚の絵。夏生と行った展覧会に飾られていた彼の絵はきれいな風景画で、どこにでもありそうな町並みが丁寧に描かれていた。郊外の住宅地らしくどこかもの静かな佇まいの家々に、夜明けなのか夕方なのか、うっすらと赤みを帯びた空の光が落ちている。 「気分でも悪いんですか」 ふいに背後から声が聞こえてびっくりした。 振り返ると背の高い女の人が立っていて、私の顔を覗きこむようにした後で「顔色は悪くないけど」と首を傾げた。 「いいえ……大丈夫です」 「そう? 全然動かなかったから」 その人は人懐こい顔でにっこり笑うとじゃあ、と私の横をすり抜けて行こうとする。私は急にはっとして彼女を引き止めた。 「すみません、あの……この階に伊原さんって方の家があると聞いたんですが」 「伊原? あなた伊原の知り合い?」 「私がじゃないんですけど、夏生が……」 「ああ、夏生くんの知り合いなの。ごめんね、伊原今出かけてるわ。そのうち帰ると思うから部屋で待ってる?」 彼女は答えも聞かずにバッグから鍵を取り出すと、すぐ前の部屋のドアを開けた。 それから私に振り返り、どうぞ、というように部屋の中を指差した。 「でも、あの……私、伊原さんと直接面識ないですし、ちょっと、話をしたかっただけで」 本人がいない間に家に上がりこむほどの用があるわけではなかった。 ただ彼に会って、どういう人なのか知りたかっただけだ。夏生のことを傷つけない人かどうか知りたかっただけ。 なのに彼女は「せっかくだから上がっていってよ。私も一人だと寂しいし、お茶くらい付き合って」とまるで友人にでも言うように笑い、今度は口に出して「どうぞ」と部屋に招いた。 断る言葉が浮かばなかった。 建物の見かけどおりきれいでシンプルな部屋の中は、持ち主の性格なのかきれいに片付いていた。 「夏生くんの彼女?」 「ち、違います」 「じゃあお友達? 私はねえ、山崎千賀子。伊原と付き合ってるけど、恋人と友達の中間くらいよ、今のところ」 どういう関係なのかと思っていた私の気持ちが聞こえたように、山崎さんはふふふと笑いながらそう自己紹介をした。きれいな人だなとそのときはじめて私は気づいた。 「夏生くんの友達ならあなたも絵を描くの。伊原の絵に興味ある? だったらそっちの部屋、ああ、こっちよ。暇つぶしに見てたらいいわ」 私が何も言わないのに彼女はすべてわかっているように私の望むものを与えてくれる。女の人にしては低くてよく通るその声に不思議に安心して、私は案内されるままに知らない人のアトリエに勝手に足を踏み入れた。 まるで覗き見をするような後ろめたさと抑えきれない好奇心とで、私は自分が何をしているのかよくわからなくなっていた。 几帳面な性格なのか画材はすべて仕舞われていて、置き場がなくて積んでいるという感じの絵が数枚と、描きかけなのか白い布を被せて立てかけてある絵が一枚、あった。手を触れてはいけない気がしてじっとその白い布を眺めていると、山崎さんが「それ伊原が今描いてる絵。完成するまで見るなって言うのよ。でも別にあなたに言ったわけじゃないから、その布とって見てもいいわよ」と言った。 そんなことを言われても勝手に見られるはずがない。小さく首を振ると、山崎さんは絵のすぐ後ろに立って、ためらいもせずに布を剥ぎ取った。 「私は見ないけど、せっかく来たんだからどうぞ。あとでこれかけといてね」 突然に目の前に差し出されたその絵に、一瞬、私は息を呑んだ。 それは一人の女の人だった。風景画しか描かないんだと夏生が言った伊原さんが描いた人物画。水に濡れた女の人が髪をかきあげながら笑っている。濁った青色の風景で色使いは靄がかかったように暗いのに、なぜか明るい絵だった。彼女の笑顔が梅雨の間の晴れ間のように清新な。 こみ上げてきた感情に私はなすすべもなく立ち尽くした。 夏生の絵。あの孤独。彼はいつも一人でいた。私といるときも、友達といるときも彼は本当はいつも一人で、その孤独がかつては彼の絵を形作るすべてだった。広すぎる世界は臆病な彼にとっては恐ろしいもので、いつも自分を守るように閉じこもってただ目の前だけを見つめて絵を描いていた。その集中だけが彼のすべてだった。 だから夏生は自分の絵を嫌いなのだ。そうしてだから彼は、伊原さんの絵が好きなのだ。 伊原さんの絵は限りなく優しかった。ごく普通の町並み。ごく普通の風景。雨の中で笑うきれいな女の人。けれどそのどこにでもあるもののなかに優しさがある。それは見る人によって郷愁的であったり、夢想的であったり、あるいは至極現実的なもの。心の中に一瞬風の吹くような清涼な優しさ。その優しさに私は気づかなかった。けれど絵の中で笑う彼女に、私はもう何も否定することができなくなった。こんなふうにきれいに誰かを描ける人に、泣きたいくらい優しく誰かを描ける人に、私は。 窮屈に歪んだ夏生の絵がいつからか変わり始めて、それはきっと、伊原さんの影響だったのだとようやくわかった。 自分の狭い世界に沈む、強すぎるくらいの集中を向ける先が、ほんの少しずつ広がっていくのを私はずっと見ていたはずだった。でも気づかないふりをしていた。私は夏生を傷つけたくなくて、世界のあらゆるものから守りたかったけれど、彼は違っていた。世界はもっと優しく美しいのだと、だからしっかり目を開けて見ろと、小さな殻の中へ手を差し伸べてくれた人。言葉ではなくその絵で。夏生の一番愛しているもので。 聞こえてくる雨の音が大きくなって、取り残されていく自分に私は少し泣いた。けれど勢いよくドアが開いて山崎さんが「コーヒー入れたから飲んで。ところで私あなたの名前聞いてなかったの思いだした」と、このじめじめした天気の悪さに少しも影響されたところのない明るい声で言ったので、なぜだか笑ってしまった。 山崎さんはきょとんとして、それからつられたように肩を揺らして笑い出した。 ねえ、夏生。雨の日でも世界は明るいって知ってる? きっと知っているから、雨が好きだと言ったのね。 「私、今井晴見です。伊原さんの絵って素敵ですね。夏生が憧れるの、すごくよくわかる」 「そう、あの地味な絵が? きれいだけどつまらなくない?」 私が今まで思っていたのとまったく同じことを言う山崎さんに私はまたちょっと笑った。彼女は「おかしいのは私の審美眼?」と呟きながら、納得できないように唇を尖らせた。 きっと求めている人にしか見えないものがある。 求めて得られる人と、求めないで生きていける人のどちらが幸せなのか私は知らない。けれど伊原さんの絵は夏生にとっては何より美しいもので、山崎さんにとってはあまり意味がない。そのことが私を安心させる。誰もが称える絵なんていらない。 玄関で扉が開く音がした。それに気づいた山崎さんがふっと嬉しそうに笑う。 絵の中と同じようにきれいな笑顔だった。 |
| あとがき / 季節シリーズの続編(?)。実はこのシリーズはひそかに着々と書き続けていて、あと6作ほどすでに書いた話があったりします。途中までは何かの行事ごとにとか思っていたのにだんだん何でもありになっていっている……。シリーズ名をどうしようかが悩みどころです。 |