理由 1





 昨夜遅くまで飲んだせいで目覚し時計が鳴ってもすぐには目を覚ますことができず、その朝、俺はいつもより三十分以上も寝過ごしてから飛び起きた。枕元の時計の時刻を確かめて舌打ちする。とてもではないがのんきに朝食などとっている時間はない。冷たくなり始めた水で簡単に洗面だけを済ませてすばやく着替え、起床から十分でアパートを出た。
 電車に乗る前にコンタクトを忘れてきたことに気づいたが、今さら取りに帰れるはずもなかった。幸い鞄の中にはいつも予備に眼鏡を入れていたから、今日一日は眼鏡で我慢するしかないだろう。今では家でも滅多に使わない眼鏡は当然度も合っていないが仕方ない。コンタクトも眼鏡もなしで仕事をするのは不可能だ。
 今日は朝からついてない。二日酔い気味の頭を抱えながら始業時間ぎりぎりで出社すると、目敏い同僚の一人が声をかけてきた。
「友井さん、今日は眼鏡なんですね」
「ああ、寝過ごして時間なかったからな」
「なんかすごく真面目そうに見えますよ」
「俺はいつでも真面目だろうが」
 本気でそう言ったのに、福田は何がおかしいのかあははと笑った。どういう意味だよ。
「おはようございます、友井さん」
 隣の席から別の同僚が声をかけてくる。そちらへちらっとだけ視線を向けて「おはよう」と素っ気無く返事をした。同じ時間まで飲んでいたはずの男は、しかしまるで平気そうなすっきりとした顔をしている。
「友井さん、眼鏡似合いますね」
「真面目そうに見えるんだろ?」
「真面目っていうか……かっこいいと思いますよ」
 少しだけ首を傾げるようにして、冗談めかしてでもなくそんなことを言った楠原に、俺はどういう反応を返したらいいのかわからなかった。昨日までだったらさして気にもとめずに聞き流していた言葉が今朝はそういうわけにはいかない。どうしても昨夜の楠原の言葉を思い出してしまうからだ。
 昨夜、十時過ぎまで続いた課の飲み会の後、相談があると言われて俺は楠原と二人で別の店に行った。楠原は四つ年下の後輩で、特に親しくしていたわけではなかったが真面目で穏やかな性格は誰からも嫌われるようなものではなく、普通に同僚として付き合っていたから別に相談を持ちかけられるのが不快だとは思わなかった。
 ただその相談の中身というのが問題だった。てっきり仕事のことだろうと思っていた予想は大きく外れ、それは恋愛についての相談だった。しかも高校の頃からの親友にゲイだと告白されたがどう対応すればいいだろうかなどという、きわめてプライベートな、その上俺にはまったく関係のない、難問だった。
「理解したいと思うんですよ」
と楠原は言った。けっこう飲んでいるように見えるわりには話し方も顔色も素面に近く、対して俺はといえば一次会のときからちょっと普段以上に飲みすぎていると思っていたくらいで、正直楠原のそんなわけのわからない相談を真面目に考えられる状態ではなかった。
 理解したいならすればいいじゃないかとまず思い、それでもさすがに言葉には出さずにただ頷いた。楠原はそもそも他人のアドバイスなんか求めていなかったのか、ろくろく相槌も打たない相手に対して話し続けた。
「びっくりしたけど、気持ち悪いとかは全然思わなかったんです。本当です。でも俺はもっとちゃんと、そいつのこと理解してやりたい。言わなければずっと言わないまま過ごせたはずなのに、あえて俺に話してくれたのって、それだけですごく特別なことだと思うんです。だから俺も、上辺だけじゃなくて心からあいつのこと理解してやりたいなって」
 ゲイだと告白することでその男が楠原に何を求めていたのかなんて知らないが、それだけ真剣に考えてやっているだけでもう十分なんじゃないか? そいつと今までどおり親友でいてやればそれだけでいいんじゃないか?
 誰が考えてもそういう結論が出ると思うのに、当の楠原だけは考えが違っていた。
「それで、本当に理解してやるためにはどうすればいいのか考えて……俺、自分もゲイになってみればいいのかなって」
 どういう理屈なんだ、それは?
 酔った頭でもわかるくらいおかしなことを楠原は言った。そして俺が口を挟むよりも早く、続けてさらにわけのわからないことを口にした。
「それで、俺、男の中だったら友井さんがいいかなって……思って」
 ほとんど呟くように段々と小さくなる声で言い、今まで俯いてテーブルを見つめていた楠原が唐突に俺のほうに顔を向けた。
 薄暗い室内でまともに楠原の視線を受け止めてしまい、俺はうろたえた。
 ちょっと待てよ。何だよ、お前何言ってんの。
 まさかいきなり自分に矛先が回ってくるとは思わなかったからどう反応してよいのかわからない。
 男の中では友井さんがいいって、いったい何だよそりゃ。そんな無理やり男の中から選ばなくても素直に女を選べばいいじゃないか。だいたいゲイの親友を理解するためにどうしてお前までゲイになる必要があるんだよ。それがそもそも間違ってんだよ。
 言いたいことは山ほどあったが、結局俺がしたのは席から立ちあがって伝票をつかむことだった。
 明日も仕事があるんだから早く帰って寝ろとか何とか、楠原と視線を合わさずに捨て台詞のように言ったのをぼんやり覚えている。楠原は俺が立ち去るとき何も言わなかったし、少し心配したが後を追いかけてきたりもしなかった。
 きっと楠原も酔った勢いでおかしなことを口走っただけだったんだろう。無理やり自分にそう納得させて忘れるつもりだった。 なのに一日明けて楠原の顔を見ると、やっぱり完全に忘れてしまうことはできないものだと気がついた。何の他意もないかもしれない些細な一言が気になる。
 気にするほうがおかしい、無視すればいいと頭ではわかっているのに、何もなかったように楠原の顔を見て普通に笑うことはできそうもない。
 そのときちょうど始業時間を告げる音楽が鳴り出したことにほっとして、俺は楠原から目を逸らして自分の仕事を始めた。十月の上旬、経理部ではもうじき上半期の決算に入ると忙しくなるが、今のところはまだ大分余裕がある。その証拠に仕事が始まってもお喋りをやめようとしない同僚たちの話し声が続いている。
「実はこの週末に友達の結婚式があるんですよー。最近なんか多いんですよね、やになっちゃう」
「何がいやなの?」
「だってまだ二十三なんですよ? 結婚なんて早すぎると思いません?」
 入社一年目の福田が隣の席の藤井に話しかけている声がいやでも耳に入ってくる。
「まあねえ、ちょっと早いかもね」
「早いですよー。この年で一生の相手決めちゃうなんて信じられない。ねえ、楠原さんもそう思うでしょ?」
「え? 僕は……」
「楠原さんってたしか今二十五でしょ。今すぐ結婚しろって言われてできますか?」
「それは無理だよ。相手がいないから」
 苦笑気味に楠原が答えると、福田はえーっと大声をあげて驚きを示した。
「それってさびしいじゃないですか! 年取ったら誰も相手してくれなくなるんですから。今のうちに遊ばなくていつ遊ぶんですか」
 お前仕事中に言う台詞かよ。
 さすがに楠原も藤井も困ったように笑うだけで、何も言葉を返そうとはしなかった。化粧も言動も派手な福田は俺の苦手なタイプだ。同じ係だからいやでも話さないわけにはいかないが、できるならなるべく接点をもちたくない。
 と思っていたのに、ふっと福田と目が合ってしまい、やばいと思った予感どおりに福田は俺に話をふってきた。
「友井さんはどうなんですか。そういえば全然聞いたことないですけど彼女いるんですか?」
「内緒」
「えー、ずるーい。いいじゃないですか、教えてくださいよ。実はもう結婚決まってたりなんかしたら怒りますよ」
 何で俺がお前に怒られなきゃならないんだよ。
 どうして女ってのはこんなに詮索好きなんだろうな。人のことなんかどうでもいいだろうが、ほっとけ。
 答えずにいたら福田はなおも何か言おうとしたが、そのとき係長がごほんと咳払いをしたのでさすがの福田も口を噤んだ。 助かったと思いながらまた机の上の書類に意識を集中し、昼になる頃にはもう、そんな話をしたことさえほとんど忘れかけていた。


 いつも昼をいっしょに食いに行く同期の奴が二人とも休みをとっていたから、外に出るのも面倒でその日は社員食堂ですますことにした。
 久しぶりにきた食堂はやはり混んでおり、正直うんざりしながらも行列に並んで昼定食を受け取る。それから空いている席を探そうとあたりを見まわしているときに、急にすぐ後ろから名前を呼ばれた。
「友井さん」
「……楠原、びっくりさせるなよ」
「すみません。でも友井さんが食堂で食べるの珍しいですね。ご一緒してもかまいませんか」
「ああ」
 背の高い楠原に背後に立たれると妙な威圧感がある。飯一緒に食うのはいいけどな、そんな近づいて立つのはやめろよ。 空いている席を見つけ、俺たちは二人で向かい合って腰を下ろした。
「いつも食堂で食べてんのか」
「ええ。一番楽ですから」
「でも混んでるだろ」
「確かに混んでますけど、人が多いのは好きだから。楽しいですよ、社内の人の顔覚えられるし」
「そうか? 俺はあんまり人ごみ好きじゃないよ」
 昔から人の多いところは苦手で、だから買い物も行楽も自分から進んで行きたがるタイプではない。楠原もどちらかといえばおとなしいほうだからてっきり俺と同じかと思っていたら意外な言葉を聞いたので、少し驚いた。
「友井さん」
「なに」
「彼女いるんですか」
 俺は顔を上げて楠原を見た。決して冗談を言っている風でもなく、むしろ至極真面目に、どこか思いつめたようにさえ見える顔でこちらを見返している。俺は目を逸らした。
「お前には関係ないだろ」
「あります。彼女いるんですか。俺、すごく気になる」
「あのな、いい機会だから言うけど、お前やめろ、そういう態度」
 疲れるんだよ。楠原のことを嫌いではなく、福田なんかに比べれば好感を持っているだけにこんな態度をとられると疲れる。お前とはもっと普通に付き合いたいのにどうしてこんなわけのわからない態度をとるんだ。
「そういう態度……」
「わかってんだろ。友達のこと理解してやりたいなら別の相手を選べ。俺は駄目だ」
 俺が過剰に意識しているだけなのかもしれない。それでもただの気のせいですませるにはやっぱり無理があるような気がする。この際はっきり話をつけてすっきりしたい。そう思って楠原を見ると、楠原はすっと目を伏せて、「でも俺は友井さんじゃないと駄目です」と言った。
「おい」
「わかってます。俺、友井さんが迷惑なのちゃんとわかってる。だからもう少しだけ、時間をください。すぐにあきらめるのは難しいから」
 ちゃんとあきらめるから、と、ため息を吐き出すように楠原が言い、俺はそれ以上何も言えなくなった。
 まるで自分がひどいことをしているような気がするのがなぜかわからなかった。
 俺は悪くない。悪いのは、というよりおかしいのは楠原のほうだ。友達の性癖を理解したいという理由だけで男と付き合おうとする楠原がおかしいんだ。俺にはそんな酔狂に付き合ってやる趣味も義務も何もない。
 仕方がないので黙って定食を食った。だいたいあきらめるもなにも、こいつは俺に告白したわけじゃない。ただ「男の中だったら友井さんがいいかなと思って」と言っただけだ。よくよく考えたら失礼な話だった。
「友井さん。俺のこと……嫌いじゃないですよね?」
「ああ」
 しばらく黙り込んだ後、不安そうな表情のまま顔を上げて尋ねた楠原に俺は頷いた。嘘ではないから答えるのは楽だった。楠原は口元だけでかすかに微笑んで、ありがとうございます、と言った。
 別に礼を言われるようなことじゃない。
「なあ、楠原」
「はい」
「俺はお前に優しくしなかったぞ。最初に仕事教えてやったのも俺じゃない。今までずっと特に親しいわけでもなかったのに、何で俺なんだよ」
 俺が誰かと付き合うのはいつも、相手から何らかの好意を感じる場合だけだった。優しくされたり、明らかにほかの男に対するのとは違う態度をとられると、不意にその相手が気になりだした。自分に好意を持っているらしいというそのことが、その子をいやでも意識させた。
 だけど楠原は、というより今まで付き合った女たちもみんな、俺のどこがよくて好意を持ってくれたのかわからない。俺は誰にも特別に優しくしたりしなかった。もともと自然に人に優しくできるようにはできてない。
 楠原は首を傾げるようにして、さあ、と、まるで俺に答えを求めるように呟いた。
「ただどうしてだか、気になるから……」
 真正面から目が合って一瞬どきりとしたが、目を逸らすかわりにまっすぐに見つめると、楠原のほうが戸惑ったような表情になった。なんだか泣きそうな顔だと思った。
「出るか」
「あ……はい」
 立ちあがりざま、楠原の頭に軽く手を置いたのに深い意味はなかった。こいつがなんだか泣きそうな顔をしているから、元気出せよというくらいの軽い気持ちだった。
 なのに驚いたように楠原の目が見開かれ、それからその顔が嬉しそうに笑うのを見て俺は何か、自分がひどく間違ったことをしているような気分になった。こいつが喜ぶようなことを俺はしてない。そんなふうに笑ってもらえるほどのことをしたわけじゃない。
「友井さん」
 食器を片付け、食堂から出た後も俺のあとについてきながら楠原が名前を呼んだ。
「何だよ」
「あの……すみません、やっぱりどうしても気になるから教えてください。友井さん彼女いるんですか」
 そういえば結局そのことに答えていなかったことを思い出した。
 いると言えばいいんだと思った。どうせあきらめると楠原は言っているのだから同じことだが、いると言っておいたほうがさらに楠原の一時的な思い込みを覚ますのには効果があることをわかっていた。
 でも結局俺はほとんど無意識にぽろりと本音が漏れたみたいに、短く答えを返しただけだった。
「今はいない」


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あとがき / 何もコメントしたくないなぁ、というのが正直なところです。こんな理由で迫られたら殴ってやろうかと思いますな。実際。完結してないからどう転ぶかわからないです。今まで私が書いたのってハッピーエンドばっかりだと思っているのですが、たまにはアンハッピーエンドもいいかもしれない……ふ。