理由 2





 十一月に入るともうすっかり気温は低くなっていて、通勤途中に見える木々も大分色づき、強い風が吹けばすぐに散ってしまいそうなほど、冬が近くなっているのを感じさせた。
 年末が近づくにつれて社内は少しずつ慌しくなってきて、定時を過ぎても残る人間の姿が多くなった。いつも五時帰りの福田でさえ大分遅くまで残っていることもある。それでも今日は金曜日で、明日は休みという開放感からか、九時を過ぎて社内に残っている人間の数はいつもに比べて随分と少なかった。ちょっとした気分転換のつもりで立ちあがり、窓際に歩いていって眺めた銀杏の木はもう夜に紛れてその鮮やかな色はわからなかったが、少し出てきた風に揺れる葉はどことなく物悲しく見えた。
「友井さん、まだ残られるんですか」
 声をかけられて振り返ると楠原が立っていた。
「お前は? もう帰るのか」
「俺は……友井さんが帰るんだったら。残られるんならもうちょっといます」
 どこまで本気かわからない楠原の態度にもこの一ヶ月ですっかり慣れて、別に気にならないようになっていた。あきらめると言った言葉どおりもう俺のことをなんとも思っていないのか、それともまだ少しはそういう気持ちを持っているのかわからなかったが、ただ以前に比べると随分俺たちは親しくなっていた。少し年の離れた友人ができたみたいで、人とあまり深い付き合いをしない俺にしてはそれは珍しいことだった。
 俺は笑って、「飯でも食って帰るか」と言った。少し残っている仕事は明日にでもまた来て片付ければいい。
「はい。あの、よかったら行きたい店があるんですけど」
「いいよ。どこ?」
「『晶』っていう店で、ちょっと遠いんですけど」
「遠い? あー、じゃあ自転車どうするかな」
「俺送りますから。月曜の朝も家まで迎えに行きますから」
「馬鹿、そこまでしなくていい。いいよ、また明日にでも取りに来るわ」
 電車と自転車が俺の通勤手段だ。楠原は車。俺だって車の免許は持っているが、渋滞のなか車を使うより電車と自転車のほうが早い。
 まだ残っていた同僚たちにお先に、と声をかけて俺たちは二人で会社を出た。駐車場に停めてある車の数ももう数えるほどしかなく、楠原のシルバーメタリックのエスティマは駐車場の隅にぽつんと置かれてあった。
 会社の飲み会のときなんかに何度も乗せてもらったことがあるからすっかりこの車にも見なれてしまった。独り者のくせにどうしてこんな大きな車に乗るのかといつも思うが、結婚して家族ができたらちょうどよくなるのかもしれない。
「俺の家の近くだから、家に車置いてちょっと歩きますけど、いいですか」
「ああ。お前ん家って、どこだっけ、三宮?」
「当たり」
 楠原が少しだけ嬉しそうににこっと笑った。一見無愛想な顔が、そうして笑うとまるで子供のように親しみやすいものになる。
「お前ってあれだよな、そんなべらべら喋るほうじゃないけど愛想悪くないし、背も高いからモテそうなのに、何で彼女いないの」
 そもそもちゃんと彼女がいれば男と付き合ってみようなんて妙な考えは起こさなかったはずだ。そうだったら俺も変な告白を受けることもなく、よけいな気を使ったりしなくてすんだのに。
「別に……モテません」
「でも女の子と付き合ったことはあるんだろ」
「ありますけど、そんなにすごく好きだったわけじゃないし、何となく付き合って何となく別れたというか」
「ふうん。けっこう冷たいな、お前」
 別に責めるつもりでもなく、ただ思ったことを口にしただけの言葉に楠原は「そんな」と傷ついたような声をあげた。
「そんなこと……だって相手のほうもそんなに本気じゃなかったと思うし」
「それはお前がそう思うだけだろ。本気だったかもしれないじゃん」
「………」
 楠原は黙り込んだ。ちらりとその顔をうかがうと、楠原は何かむすっとした表情で睨みつけるように前方を見つめている。
「怒るなよ。責めてるわけじゃない」
「怒ってません」
 ホントかよ。だったらその顔は何なんだ。
「友井さん」
 赤信号に引っかかって停車したときに、楠原がふいにこちらを向いた。
「ああ?」
「俺、今まで誰かのことを本気で好きになったことなんてなかった。相手の気持ちは確かにわからなかったけど、だけどもし本気だったら、あんなふうに簡単に別れたりしなかったと思います」
「……まあ、気持ちは変わるからな」
 どれだけ好きでもずっと同じ気持ちを持ち続けていくことは難しい。別の誰かを好きになるかもしれないし、そうじゃなくても相手への思いが冷めていくことはある。
 俺も本当は楠原にいろいろ言えた義理じゃない。今まで何人かの女の子と付き合ったが誰とも長続きしなかった。切り出すのは相手のときもあれば俺のときもあったが、理由はたいていいつも同じだった。お互い口に出しては言わなかったけれど、飽きたのだ、要するに。そしてきっとはじめからどちらもそれほど本気ではなくて、単なる流れというか、馴れ合いのようなものだった。
「早く変わればいいのに」
 楠原がそう言ったとたん、信号が青になったのか車が走り始めた。何となく話題を失ってそれから俺も楠原も黙ったままでいた。車窓から見える夜の光景を見るともなしに眺めながら、そういえば最近残業続きであんまり寝てないなと思ったら、急速に眠気が襲ってきて大きくあくびをした。
 そのまま何十分か車を走らせ、着いたのはごくありふれた三階建てのアパートだった。新しくはないがそう古くもなく、俺の住んでいるところよりはちょっとましかなという程度だ。
「何階?」
「え?」
「お前の住んでる部屋。どこ?」
「あ……二階の、一番右、です」
 何でそんな焦ってるんだよ。よくわからない男だな。楠原が言った部屋は当然明かりが消えたまま暗い。
 車から降りて「ついてきてください」という楠原の後ろにしたがって夜の道を歩き出した。思わず身震いをしそうな寒さにコートの襟をかきあわせ、吐き出した息は白かった。通りは静かで俺たちのほかに人の姿もなく、犬の咆える声が遠くのほうで少し、聞こえた。
 普段知っている道しか通らないから見知らぬ通りは落ち着かない。でも楠原にとってはよく見知った場所で、何の迷いもない足取りで目的の店に向かって進んでいく。路上駐車の車があちこちに停めてある。
 目的の店に入った途端、外との気温の違いにほっと息をついた。暖かい。抑えた照明は柔らかく、狭い店内にサラリーマンらしき男の姿が数人あった。
「いらっしゃいませ」
 男の店員のよく通る大声に楠原はにっこりと笑みを返して、「カウンターでいいですか?」と俺に尋ねてきた。別にどこでもよかったので頷き、二人で並んで一番隅のカウンターに腰掛けた。水を持ってきた店員にビールと適当な料理を注文すると、最初にまずビールだけが運ばれてきた。
「あ、僕はいいです。ビール飲むと車運転できないから」
「何言ってんだよ。俺だったらここから歩いて駅まで行って電車で帰るからいいよ。お前も飲めよ」
「でも駅までけっこうあるし……」
「いいから。俺だけで飲んでもつまらないだろう」
 強引にすすめると、楠原は少し困ったような顔をしながらも「じゃあ…」とビールを手に取った。飲み会の席でもこいつが飲みすぎて酔っ払っているところをあまり見たことがない。それなりに飲んでいるようなのに全然酔った風がないのは、アルコールによほど強いのかもしれない。
「お前って、酒強いよな」
「え? そんなことないですよ。普通です」
「うそつけ。お前酔ったとこなんて見たことないよ。顔変わんないし」
「そうですか?」
「ああ。俺弱いからさ、羨ましいよ」
 楠原は、ああ、と言って小さく笑った。
「友井さんはわりとすぐ顔赤くなりますよね」
「そうそう。それもちょっと情けないよな」
 別に酒に強いのが立派なわけでも何でもないが、男として酒に弱いというのはあまり格好のいいものじゃないような気がする。いやでも飲まなければならないんだったら強いほうがいい。いやいや飲むより好きで飲んだほうが。
 そのうちに料理も運ばれてきて、ビールを飲みながら他愛もない話をし、料理に手をつけた。話題といえばたいていが職場のことで、プライベートのことが少し。どうしてだか子供の頃の思い出話とか、どういう部活をしていたのかとか。俺にとっては高校のころなんかもう十年も前のことだ。懐かしいというよりもどこか他人事のように遠く感じられ、そのことが少し寂しいような気もした。
 楠原はあまりお喋りなほうではないが、楠原を相手に話をするのは楽だった。相槌を打ちながら真剣に話を聞いてくれ、誠実に答える、ただそれだけのことが難しいのを俺はよく知っていた。知っているからよく人から相談をされる。でも自分のほうから自分の話をしたいと思う相手は今まであまりいなかった。
 楠原が黙って聞いてくれるのをいいことに俺はべらべらといろいろな話をした。酔いが回ってくるといろいろなことがどうでもよくなった。誰を相手に話をしているのかも半ば忘れ、まるでずっと知っている親しい友人に対するように話をした。普段の飲み会のときよりずっと気分が良くて楽しかった。時間を忘れた。
 いや本当に、時間を忘れたのだ。
 散々飲んで、ふと手元の時計を見たとき俺は一瞬目を疑った。
 十二時……十二時十分!?
「うっそだろう!」
 叫んで立ちあがろうとしたらぐらりとした。慌てて椅子に腰をおろし、頭を抱えた。
「大丈夫ですか」
 心配そうな声とともに、遠慮がちに背中に手が回された。気遣うように上下する手を感じる。
「お前、ばか、十二時過ぎてんなら教えろよ。終電なくなっちまっただろう。どうすんだよ」
 家までタクシーで帰るのは高い。夢中になって終電を逃してしまった俺が悪いのだが、ほとんど素面みたいな顔してちゃんと時間を教えない楠原に、八つ当たりとわかっていても愚痴をこぼさずにはいられなかった。
「すみません。あの、タクシー代なら俺が払いますから」
「ばか。そんなことさせられるわけないだろ」
「だけど……」
「いいって、八つ当たりだよ、ごめん。悪いけどここの勘定してくれる? 月曜にちゃんと払うから」
 一時の苛立ちが収まると急に冷静さが戻ってきた。冷静に自分が酔っていることを自覚した。これはもうさっさと帰って寝るしかない。
 俺がふらつかないようにゆっくりと立ちあがっているうちに、楠原は手早く勘定を済ませたらしかった。なんだか妙に手を差し出したそうな顔で俺を見るから笑って「大丈夫だ」と楠原の肩を叩いた。それにしても何でこんなに飲みすぎたんだろう。
「あの……友井さん」
 駅前まで行ってタクシーをつかまえるか、それとも電話で呼んだほうがいいかとぼんやり考えていると、楠原が俺の服の袖を引いて、振り返るとすぐに手を離した。
「なに」
「もしいやじゃなかったら……俺の家に泊まっていきませんか」
「え?」
「あ、本当に、いやじゃなかったら、ですけど」
 俺はあっけにとられた顔で楠原を見つめていたのかもしれない。いや、別に驚く必要なんてないし、むしろ大変ありがたい申し出だとは思うんだけど、でも何でお前そんな気まずそうな顔すんの。そういう顔するとよけい変に思うだろ。
 でも俺は今猛烈に眠いんだよ。家まで帰るのは正直面倒くさい。楠原の家は近いし。
「……ああ、じゃあお願いする。悪いな」
 そう言うと、楠原はぱっと顔を上げて見るからに嬉しそうな顔をした。何だろうな。懐かれるのは嫌な気分じゃないが、そんなに素直な反応を返されるとまるで自分が悪いことをしているような気分になる。
 ちょっと視界が歪むなと思いながらまた数分歩いて着いた楠原の部屋は、想像どおりきれいに片付けてあって、楠原の几帳面な性格がよく表れていた。
「友井さんはベッドで寝てください。俺はソファで寝ますから」
「お前の部屋なのにそんなことできるわけないだろ。お前がベッド使えよ」
「駄目です。友井さんは先輩でお客様なんだからベッドで寝てください」
「ああもう、俺は眠いんだよ。それだったら一緒にベッドで寝たらいいだろ」
 俺の言葉に楠原が目を見張り、それでようやくひょっとすると俺は今変なことを言ってしまったかもしれないと気がついた。けど言ってしまったことは取り消せない。今更さっきのはなかったことにしてくれと言うほうがよけいおかしい。
「………」
「………」
「友井さんがいやじゃなければ、いいですけど……」
「いいよ」
 別にいいよ。俺は寝られればどこだっていい。
 楠原は心なしか強張った顔でうなずき、わかりました、とため息混じりに呟いた。


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あとがき / あと1回分くらいしかストックがないですよ。どきどき。どうしよう……あわわ(最近これしか言ってません)。