理由 4





 薄着で十一月の真夜中に二十分以上外をうろつきまわった結果、当然のように風邪をひいた。
 二日酔なんだか風邪のせいなんだかわからない頭痛にひどく枯れた声。乾燥した空気に咽喉が痛くなって咳き込んだ。目が覚めたとき、ああ風邪をひいたなとぼんやりと思った。それでも普通に起きて仕事へ行く準備をした。それから出かける直前になってから今日は土曜日だったのだとようやく思い出し、脱力して急に身体が重くなったような気がした。
 ああ、今日が休みでよかったと思った。少し動いただけなのに頭痛がする。本格的に風邪をひいたらしい。これでは仕事に行ったところでろくに使いものにならなかっただろう。
(こりゃ駄目だ。一日寝てれば治るだろう)
 自分でも意外なほど冷静にそう思った。風邪などひくのは何年振りだろう。子供の頃は毎年のように風邪をひいて一日か二日学校を休んでいたものだが、社会人になってからはどういう理由でだかあまり病気をしなくなった。運動もあまりせず、食事も不規則でお世辞にも健康的な生活を送っているとは言えないのに不思議なこともあるものだと思う。
 ただし、ごくまれに体調を崩すときには子供の頃よりよほど性質の悪い崩れ方をする。半端ではなく気分が悪くなり、おまけに治りが遅い。
 ネクタイだけを外して、倒れるようにベッドの上に転がった。気分が悪いときには寝るしかない。眠りに落ちる前にふと楠原のことを思い出したが、何を考えたのか意識する間もなく、眠ってしまった。


 インターホンの音で目を覚ました。
 いつから鳴っていたのかわからない。ただ目を覚ましてから三度鳴り、無視しようかどうしようかと悩む間にまた二度鳴った。しかたなく、起きあがって玄関に向かった。立った途端に頭痛と眩暈がして吐き気がした。押し売りだったりしたら余計気分が悪くなりそうだと思いながら相手を確かめもせずにドアを開け、そこに立っていた姿に一瞬、呆然とした。
「楠原……」
「友井さん、ごめんなさい、朝早くに。まだ寝てましたか」
 なんでこいつがここにいるんだろうと思った。昨日あんなことをしておいて、いったいどういう神経でのこのこ顔を見せられるのかわからない。
 楠原はまるで仕事に行くときみたいな格好をして、少しもあげつらうところのないきっちりした様子でそこに立っていた。何だよ、気分悪いのは俺だけか。そう思うと無性に腹が立った。
「何の用だ」
「これ、忘れてたから。月曜にしようかと思ったんですけど、携帯がないと困るかと思って……」
 そう言いながら楠原は昨日俺が忘れていったコートと携帯電話を差し出した。
「ああ。……どうも」
 受け取る声は我ながら冷淡だった。わざわざ届けに来てくれたのはわかるが、そもそも俺がこれを忘れてくる羽目になったのは楠原のせいだ。感謝するのもおかしいような気がした。
「じゃあな」
 別にそれ以上話すこともなかった。そのままドアを閉めようとしたら、思いがけず楠原がドアを掴んで身体を割り込ませてきた。自分でも情けなかったが、そのとき俺は正直恐怖を覚えた。また昨日みたいなことをされたらと思った。年下の男に対してこんなことを思うのは自分でもどうかしてると思ったが。
 その気持ちが伝わったのかどうかはわからないが、楠原は少しためらうような顔をして、それでも引き下がらずに言った。
「友井さん、顔が赤い。……気分悪いんですか?」
「……お前には関係ない」
「熱があるんじゃないですか。測りましたか」
「お前には関係ないって。放っといてくれ」
「関係なくないです」
 腕を掴まれた。楠原の手が額に触れる。ひんやりとした感触にちょっと身を引いたが、おそらく熱があるだろう身体にはその手は心地よかった。
 楠原はすぐに手を引っ込めて、どうしてだか泣きそうな顔をした。
「やっぱり熱がある」
 それから無言で俺の手を掴んだまま、勝手に部屋の中に入ってこようとした。
「こら、何勝手に……!」
「心配なんです!」
 思いがけず強い口調で言われた。
「俺は友井さんが心配なんです。昨日みたいなこと絶対しません。誓いますから。だからおとなしく言うこと聞いてください。友井さんの気分がよくなったら帰るから、それまで……」
 どうして楠原がこんな真剣な顔をするのかわからなかった。俺が風邪をひいたのを自分のせいだと思っているのだろうか。それは確かにその通りだと思ったものの、だからといって楠原に看病をしてもらいたいとも思わなかった。暖かくして寝ていれば治る。一人暮らしの間ずっとそういうふうに風邪とは付き合ってきたから、今さら誰かに何かをしてもらいたいともあまり思わなかった。
 それでも気分が悪いときに言い争いをするのは正直面倒くさかった。楠原がしたいならすればいい。自分が困ることではなかったからよく考えたらむきになる必要もないことだった。
 ため息をついて「好きにしろよ」と言ったら楠原は妙に生真面目な顔のまま、うなずいた。
 俺は楠原のことはいないものとして過ごそうと決め、ベッドに戻ってごろりと横になり、目を瞑った。気配で楠原が近くにいるのはわかったが、目を開けるのは億劫だったし、声をかけることも面倒くさかった。
 風邪をひいたときはたいてい、横になって一日寝れば治っていた。薬に身体を慣らすのも嫌だったし、たいした風邪でもないのにいちいち医者に行くのも好きではなかった。だからいつも、気分が悪いときはひとりで一日中横になって治した。目が覚めるとたいてい熱も下がって気分も回復した。
 不意に額の上に冷たいものが置かれ、驚いて思わず目を開けた。
 手で触れると濡れたタオルの感触がした。
「………」
 楠原だった。何か言おうと思ったが、何と言ったらいいのかわからなかった。ひやりとしたタオルの冷たさは正直気持ちがよかった。かといってありがとうというのもおかしな気がした。だから結局何も言わず、また目を閉じた。


 目を開けると始めはぼんやりと、しだいにはっきりと見なれた部屋の中の光景が見えた。
 ゆっくりと身体を起こすと、今のところ頭痛は消えているような感じだった。時間を確かめようと時計を探す。机の上に置いた目覚し時計の時刻は四時二十分。
 午後か、午前かどちらなのかと思った。そして部屋の明るさから午後のほうだとわかった。
「友井さん。目、覚めましたか」
 突然聞こえてきた声に驚いて顔を向けると、楠原がこちらに近づいてくるところだった。
 俺が何も言わずにいると、いきなり俺の額に手を伸ばしてきた。
「あ、熱下がりましたね。よかった」
「……ああ」
 何を言えばいいのかわからない。楠原はしばらくこちらを見つめていたが、やがてふっと笑って「じゃあ俺は帰ります。テーブルの上に適当に食べ物買って置いてますから食べてください。また気分悪くなったりしたらすぐ連絡ください。何時でもいいですから」と言った。
「もう大丈夫だよ」
「だったらいいんです。無理はしないでください。じゃあ、勝手に上がりこんですみませんでした」
 そう言いながら丁寧に頭を下げ、楠原はくるりと背を向けた。
「………」
 やっぱり礼を言わないといけないのだろうか?
 昨日のことはどうあれ、せっかくの休日にわざわざ俺の看病に時間を費やしてくれたのは確かだ。俺は楠原を殴りつけて拒絶したのに、それでも俺のことを心配してくれた。
「楠原」
 部屋を出て行く前に呼びかけると、振り返った。不思議そうに。
「ありがとうな」
 顔を見ずに、怒っているような口調で言った。いっそ言わないほうがましなような愛想のない声に我ながらうんざりした。
「いいえ、俺のほうこそ、昨日は本当にすみませんでした。絶対もうしません。でも、友井さんのこと好きな気持ちは本当なんです。思い続けるのだけは、許してください。自分でもどうしようもないんです」
 未練がましくてすみません、と楠原は呟くように口にして、今度こそ本当に部屋を出ていった。俺は顔を上げられなかった。
 ちくしょう、男に好かれたってどうしようもないじゃないか。楠原が女の子なら、こんな風に言われたらきっとあっさり付き合っていただろう。嫌いじゃない相手に好きだと告白されたらよろめいてしまう。今まで何とも思っていなかった子が、告白された途端妙にかわいく思えるんだから人間は単純にできている。
 異性なら簡単なことが、どうして同性だと簡単にできないのだろう。そう考えかけて、急に馬鹿馬鹿しくなった。
 そもそも男は範疇外なのだ。そういう風にできているんだから仕方ないじゃないか。だいたい楠原だって根っからのゲイというわけでもないのだし、ただゲイの親友の気持ちを理解したいと言っていただけだ。俺のことを好きだと言っているのも、きっと心底俺が好きなわけではなくて、馬鹿みたいにそう思いこもうとしているだけなのだ。友達の気持ちを理解するために。
 そんなにその友達が大切ならそいつと付き合えばいいじゃないかと思った。わざわざ俺を巻きこまなくても、その友達と関係でも何でも持てばいい。そうしたらきっとゲイの気持ちもわかるだろう。
「……馬鹿馬鹿しい」
 真面目に考えるのもいやになって、またごろりとベッドの上に横になった。
 早く彼女を作ろう。唐突にそう思った。きっとそうすれば、楠原だって目が覚める。
 結婚という二文字がそろそろ避けきれないところまで来ているなと、欠伸交じりに自分の年を改めて意識した。


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あとがき / 今続きに本気で行き詰まっています。完結させていないものをUPするってこんなにも恐ろしいことだったのですね。2年前に考えたときにはラストまでの道筋ができていたのに、2年ぶり に考えると終わりが見えないのはな…ぜ…。