慌ただしく、何を考える余裕もなくバタバタしているうちにいつのまにか年も暮れ、三十日から正月休みを迎えた。正月はいつも神奈川の実家に帰り、いい年なんだからそろそろ結婚をというここ数年言われ続けている説教を聞き、まあそのうちねと曖昧に答えて流す。毎年同じことのくり返し。うんざりもするが、慣れもする。 それでも今年はいつにも増してその言葉はどっしりと胸にこたえた。今年はもう三十になる。会社の同僚たちを見まわしてみると、三十前半で独身はまだそれなりに多いが、三十も後半を迎えてくると未婚者の数はごく少なくなってくる。要するに、あと五年が勝負ということだ。特定の彼女さえいない身としては自然と焦りも生まれてくる。 いい加減、仕事だとか面倒くさいだとか言っていられないと切実に思う。男に迫られてごちゃごちゃしている場合じゃない。幸いというかなんというか、あれ以来楠原は本当にまったく何も言ってこなくなった。まったく以前どおりのただの同僚に戻った。内心はどうなのか知らないが、少なくとも表面上はしごく普通だ。言葉にも行動にも何も表さないのならそれで十分だった。 実家でごろごろと過ごした三日間の後、三日にアパートに戻ると旧友や会社の同僚からの年賀状が届いていた。楠原からのものもある。シンプルなニワトリの絵と「謹賀新年」の文字、それから手書きで「今年もよろしくお願いいたします」。可もなく不可もなく、ありきたりな年賀状。 「あー……俺、楠原に年賀状出してなかったっけ」 去年来た分だけ書いて、他は何も考えなかった。楠原からは去年は来ていなかったから出していない。他の年賀状も見ると去年入ったばかりの福田からも来ていて、当然、こいつにも俺は出していないのだった。 面倒くさいと思いながら二枚だけ年賀状を印刷した。明日から仕事なのにポストに投函するのも馬鹿馬鹿しく、会社で渡そうと思って鞄に仕舞った。 たったそれだけの作業に何だか疲れてしまい、四畳半の狭い寝室のベッドにごろりと横になって天井を見上げた。一人でだらだらしていると、いったい何のために結婚なんかしなければいけないのかと思う。自分の生活だけで精一杯なのに、この上妻や子供のことを考える余裕がいったいどこにあるのだろう。結婚している同僚や友人たちが子供のことを嬉しそうに話すのを聞くと、どうしても違和感を感じる。ひょっとしたら俺はあまりいい父親になれないかもしれないと思う。 子供嫌いを公言していた秋山という先輩が、去年子供ができた途端「自分の子だけはかわいい」に方針を転換した例もあるから、実際にできてみると愛情が湧いてくるんだろうか。恋人と同じように、いざつきあってみるとかわいく思えるという、都合のいい現実。 「めんどくせ」 寝返りをうち、もう寝てしまおうかという気持ちで目を閉じる。 面倒だとか、世間体だとか、できてもいない子供への責任だとか。 そういうことを考えられないくらい目の前の相手を好きになれるなら、もっといろいろなことが簡単なのだろうかと思った。好きだからそばにいたい。そんな当たり前のことだけが、何だかとても難しいような気がする。 俺のことを好きだと言った楠原は、そういうふうに単純に、俺を好きだったのだろうか。男同士でも、世間や親が何と言っても気にしないくらい、俺のことを思ってくれていたのだろうか。 聞いてみたいような気がした。けれどきっと、そんなことを聞くことは一生ないだろうとわかっていた。 「あけましておめでとうございます、友井さん。今年もよろしくお願いします」 始業の十分前に出勤すると、いつも五分前くらいにしか来ない福田が珍しく早く来ていて、俺の顔を見ると神妙に頭を下げて新年の挨拶をした。 「ああ、よろしく」 どういう心境の変化だと思いながらも挨拶を返す。年明けくらいは真面目になろうと決意でもしたのだろうか。そう思いながらふと感じた違和感に改めて顔を上げ、福田を見た。 「……髪型変えた?」 「あっ、わかりますか!」 「ちょっと大人っぽくなったな。そっちのほうがいいよ」 今までいかにも最近の若者という感じで明るい茶色に染めていた髪の色が少しだけ黒に近くなり、ソバージュの派手な髪を流していたのを、今日はきれいにまとめてアップにしている。清潔な感じがしていいなと思った。 「ありがとうございます」 えへへと福田は嬉しそうに笑った。もともと愛想はいい奴だが今日はいつにも増して素直だ。照れたように顔を赤くして笑っている。 「友井さん、おはようございます」 隣の席から楠原が声をかけてきた。それにも返事を返しながら、そういえばこの二人に年賀状を書いたんだったと思い出して鞄から取り出し、手渡した。 「実家に戻ってたから遅くなって悪い。年賀状ありがとな」 二人に年賀状を渡すと、一瞬だけ、楠原が変な表情をした。福田のほうを見て顔を曇らせたような気がしたのだが、すぐにもとの顔に戻ってしまったのではっきりとはわからなかった。福田のほうはなぜか、渡した年賀状を真剣に眺めて、それから「ありがとうございます」と妙に嬉しそうに言った。たかが年賀状にそれほど喜ばれる覚えはないのだが、正月休みによほど何かいいことでもあったのだろうか。 それから社長の年始の挨拶など、恒例の新年の行事がいくつかあって、その後は通常どおりの仕事に戻った。おかしいといえば唯一福田の態度がおかしいのだが、具体的にどうと言えるレベルではないので説明するのは難しかった。ただ、素直でおとなしいのだ。今までなら休み開けには大声で休みの間の出来事を喋り回っていたのに、今回はそれがない。仕事中の私語もあまりせず、真面目に仕事をしている。それが当たり前だが、福田には珍しいことだった。まあ何があったにせよ、こんなふうに変わるのなら大歓迎だ。きっと誰かに恋でもしたのだろうと思った。今まで急に様子の変わった女性社員が何人かいたが、たいていその後すぐ、結婚するとか恋人ができたという話を聞いた。 結局そのときはたいして気にも留めなかった。まさかそれから一月もたたないうちに、自分が告白を受けるなどということは、夢にも思わなかった。 「好きなんです」 その言葉を聞いたとき、あまりに突拍子もなく思えたせいか、本気で自分の耳を疑った。 「私、友井さんのこと好きなんです」 たまには昼ご飯を一緒にと誘われ、断る理由もなかったのでオーケーして、注文したものが届いて食事を始めようとしたタイミングで、唐突に福田が言った。 あたりを見まわすまでもなく、福田の視線がまっすぐに向けられているのはどう考えても自分だった。ということは、告白されているのは俺か。 (嘘だろう) 正直言って真っ先に浮かんだ感想はそれだった。正月明けに少しだけイメージが変わったが、それでも福田はいかにも若者らしい、よく言えば自分の感情に素直な、悪く言えば傍若無人な奴で、逆に俺はどちらかといえば保守的で実年齢よりもさらに年寄りくさいほうだった。 俺は福田のようなタイプの女の子があまり好きではなかったので、当然優しくもしなかった。なのにどこがどう間違ってこんなことになるのかわからない。 「……ありがとう。気持ちはうれしいよ」 やむをえず、一番差し障りがないであろう返事をした。まさか「エイプリルフールには二ヶ月早いだろ」とは言えない。まかり間違って本気だったら彼女を傷つけてしまうからだ。 けどまさか本気じゃないよな、と思って福田を見ると、福田はいつもの無神経さが嘘のようなしおらしい態度で、少し不安げにも見える表情で俺を見ていた。 (本気なのかもしれない) そう思った。すると思わず「どうして?」と口をついて出た。 「どうして俺?」 「だって友井さん……面倒見いいし、仕事丁寧に教えてくれるし。それにこの間、初めて眼鏡かけてるとこ見てときめいたっていうか……私、同年代の男の子って何だか子供っぽくて嫌なんです。だから」 福田が恥ずかしそうに俯くのを見て、不覚にも一瞬、彼女のことをかわいいと思ってしまった。きつい台詞も平気で言うような奴なのに、告白のときだけはこんなにおとなしくなるのかと、人間とはつくづくわからないものだと改めて思った。そして福田の感じている気まずさが感染したように、急に照れくさい気持ちに襲われた。 「もし、友井さんに今彼女がいないんだったら、私とつきあってくれませんか? お試しでもいいんです。私頑張って友井さんに好きになってもらえるよう努力します」 いつもは努力なんていう言葉とは無縁な奴が、真剣な顔でそんなことを言う。こと恋愛については努力がどれほど意味を持つのかに対して甚だ懐疑的ではあるものの、その真摯さは笑い飛ばして終わりにできないだけの効力を持っていた。そして俺自身も、しばらく忙しさにかまけて彼女の一人も作らなかったことを後悔し始めていたのだった。 ほんの一瞬だけ、楠原の顔が頭を過ぎった。けれどすぐに振り払った。 「俺でいいなら、いいよ。つき合ってみようか。お互いに、お試し期間ってことで」 つき合ってみないとわからないこともたくさんある。はじめから断ってしまったら相手のことを知る機会も失ってしまう。今日だけでもう、今まで福田に対して抱いていたイメージが相当変わってしまったくらいなのだから、自分がいかに人のことを知らないかと思い知る。 けど楠原の場合は、別だ。もともと男同士でつきあうようにはなっていないのだから、試しにつきあってみるとか、そういうのはそもそもできるはずもないことだった。 「本当ですか! やったあ、うれしい」 福田はにこっと笑って嬉しがった。嫌いだった相手をかわいいと思ってしまう自分の現金さには我ながら少し呆れてしまうものの、やはり好きだと言われて悪い気はしなかった。よほど嫌いな相手以外には、やはり嫌われるより好かれたほうがいい。 そういう風に唐突に、簡単に、俺たちのつき合いは始まった。 |
| あとがき / ものすごく季節外れですみません。GWが終わろうとしている今、正月休みが待ち遠しいです(でもそんなに早く一年が終わるのも嫌なのですが)。 |