誰かにとって何でもないことが、別の誰かにとってはかけがえもなく大切であるということは、この世の中に呆れるほど溢れかえっている。「こと」は「人」に置き換えてもいい。そうすると、それはもっと単純に「片思い」という言葉に変わる。片思い、英語では何て言うんだろうなとちらりと考えてしまったのは、このところその手の問いかけを受けることが多くなってしまったからだろう。 「小柴先生。私とつき合って、って英語ではどう言うの?」 ほらきた。瀬奈のいつもながらの問いかけに温は苦笑を浮かべ、「そんなもん試験には出ないよ」と前置きしたあとで、 「I love you.って言っとけばいいんじゃないの。Let's go out on a date next Sunday.とか。適当に」 「あとのほうのは何となくいいけど、アイラブユーはどうかなあ。陳腐すぎると思わない?」 「日本人だったら日本語で言えばいいだろ。それとも相手は日本名の外人か?」 「……先生のいじわる」 瀬奈はうっすらと頬を紅潮させ、唇を尖らせた。温は笑って瀬奈の額を軽く叩く。色白なのは遺伝だろうが、なめらかで張りのある美しい肌は若さの象徴だ。キャンパスで見かける女子大生のいろいろ塗りたくった肌とは明らかに違う。たかだか数歳の違いなのにこの差は何だろう。 若さは偉大だ。以前はそんなこと少しも思わなかったのに、彼女と知り合ってからよくそう思うようになった。 「今はまだ勉強時間なんだから勉強に集中する。そうじゃなかったら謝礼泥棒になっちまう」 「試験に出ることだけが勉強じゃないもん」 ぶつぶつ言いながらも瀬奈は再び問題集に取り組み始めた。 家庭教師の契約の時間は、毎週水曜と土曜の晩六時から八時まで。バレーボールの部活を終えて戻ってくる瀬奈は、水曜はたいてい制服を着たままだ。紺色のブレザーは派手過ぎず、真面目な感じを与えるデザインで、ただし少しばかりスカートが短いところがその印象を崩している。スカートと黒のハイソックスとの間に覗く足の白さが何だか目の毒だと思う。見るまいと思っても、ついそちらに目が行くのは男の悲しい性だ。 机の上の、ミッキーマウスの置時計を見る。七時三十五分。勉強を始めて一時間半を過ぎるとたいてい瀬奈の集中力が落ちてくることがここ二ヶ月ばかりの付き合いでわかってきた。そうなるとどうしても勉強以外のお喋りが増えてくる。 「ねえ、先生って恋人いるの」 少し面倒くさい問題にさしかかるとすぐ投げ出してしまう。まだ高校一年生だから大学受験を見据えてというのも難しい話なのかもしれない。早くから始めたほうが後々楽だろうという親の愛情など所詮子供には伝わらないのだろう。 温は椅子に背をもたせかけた。 「いないって言っただろう」 「四月の話でしょ。今はできた?」 「残念ながら今もフリーだよ。よかった申し込んでみる?」 「一年早くその言葉を聞きたかったなァ」 あははと軽く笑い飛ばす。もちろん、彼女は冗談だと思っているのだ。 しかしもしそうでなくとも、温が本気で言ったのだとしても、答えは変わらないのを知っていた。一年前にもう、彼女は自分にとってのかけがえのない相手を見つけてしまっている。 「翔太クンとは、その後どう」 やれやれと思いながら問いかけると、急に瀬奈の落ち着きがなくなったのがわかった。 「え、どうって、どうもしないよ、前と同じだよ」 年上の男に対しても何ら動じるところのない、年の割にいくらかませたところのある瀬奈が、こと廣瀬翔太のことになるとまるで人が変わったように急に恥じらい深い少女になるのが不思議だった。温が今までつき合った相手は初めてのデートでも平気で腕を組んでくるような積極的な女ばかりだったが、瀬奈の様子を見ていると、デートをしても手を握ることにすら赤面しそうな純情ぶりだった。 そんな彼女の反応が何となく面白くなくて、いつもからかう言葉に刺を込めてしまう。 「どうもしないだなんて、瀬奈ちゃんらしくねぇなあ。男なんて本気で迫ればイチコロなのにさ」 もちろん迫る人間にもよるのだが、瀬奈ならたいていの男はオーケーするだろう。青春真っ盛りの女子高生で、しかも顔立ちもかわいらしい。ショートカットの髪がさっぱりした印象を与え、男も女も好感を抱く類の容姿をしていた。 たいていの男なら、よほど好きな相手がいるのでない限り、彼女に迫られたらよろめくだろう。 「廣瀬くんはそういう軽薄な男じゃないもん」 「おお、言うね」 「言うわよ。廣瀬くんは硬派なのよ。女なんか興味ない、って感じ。でも私、そういうとこが好きなんだぁ」 うわーうわー、言っちゃった、と温の背中をバンバン叩いて瀬奈は一人で照れている。中学の頃からバレーボール部で活躍していたというだけあってわりに力が強く、叩かれた背中もかなり痛い。とんだとばっちりだと温は情けない気分になった。 のろけ話を聞きに来ているのか、俺は、と思うと心底やってられない気分になる。 「けど私、やっぱりね……」 不意に瀬奈が真面目な顔をした。 「どうした」 「やっぱり、廣瀬くんに私のこと好きになってもらいたい。硬派なとこすごく好きだけど、私のことだけ特別にしてほしい。そういうのって図々しいかなぁ?」 「別に……好きなら当たり前のことなんじゃないの」 「ねえ先生。どうやったら廣瀬くんに振り向いてもらえると思う?」 そんなの知ってたら今ごろこんな気持ちになってるわけがないと思いながらも、生徒の真剣な相談を無視してしまえるほど冷たくはなれなかった。かといって、的確なアドバイスをしてやれる自信もなく、また正直なところどうしてわざわざ自分を傷つけるようなことを進んでしなければならないのかとも思う。マゾか。 「言っちまえ、アイラブユーってさ」 結局、若者にはごちゃごちゃした駆け引きは似合わない。 両手を後ろに投げ出して、自分でもわかるほど投げやりに温は言った。それで上手くいくなら良し、いかなければそれもまた良し、どっちにしろ今のまま中途半端に恋愛相談に付き合わされるのはいい加減限界だ。 出会ってたった二ヶ月と少ししかたっていないのに、限界だ。ほとんど一目惚れだったんだからしょうがないだろと言い訳するように温は思った。 「うん……やっぱり、そうしようかな」 心に何か決意するように呟く瀬奈を見ていると、自分でけしかけておきながら温はたまらない気分になった。 だから顔を背けて、いつものようにあきらめろ、と自分に言い聞かせた。 出会ったときから彼女にはもう大切な人間がいた。だから温にはそれを邪魔する権利はない。告白してふられたのなら、その時は少しはチャンスもあるのかもしれない。けれどそれでも、慰めるふりをして言いよる自分の姿を想像するのは吐き気がする。そんな最低な野郎に成り下がるのはごめんだ。 八つ当たりだとわかってはいても、会ったこともない廣瀬翔太に向けて、こんちくしょうと叫びたかった。 「温くん」 一時限目から講義のある日は早起きしなければならないから好きではなかった。昨夜、瀬奈の家庭教師を終えてから自転車を二十分漕いでアパートに帰り、むしゃくしゃした気分を変えようと音楽を聴いたり借りていたDVDを見ていたりしていたら、結局眠りについたのは四時を過ぎていた。それで今日は八時に起きたから、四時間しか寝ていないことになる。 二時限目の授業がないのをいいことに、図書館で仮眠しようとソファに寝そべっていたところに声をかけられて、温ははじめ返事をせずに寝たふりをした。しかし相手はしつこく、目を閉じている温の肩に手をかけて前後に揺さぶった。 「温くんてば。ちょっと話があって探してたの。起きてよ」 「うるせぇな。眠いんだよ俺は」 「じゃあ私が勝手に決めてもいいってわけね? だったらいいわよ、好きなだけ寝れば。でもあとで文句言ったって知らないからね」 「……ひでぇ女だな」 無茶苦茶言いやがる、とぶつくさ呟きながらも温は起きあがった。このまま無視すればろくでもないことになるだろうと経験的にわかっていた。目の前に立っている戸川今日子は同じ学部の同級生で、サークルも同じだからよくも悪くも気心が知れていた。 「図書館でしゃべっちゃ駄目だから外行こうよ」 しぶしぶそれに従う。六月の上旬。梅雨入りはもうしているのだろうが、そう感じるほどには雨は降らず、むしろ夏が近づいてきているという不快な暑さばかりが気を滅入らせる。 図書館を一歩出るともう真昼のように強くなった日差しが暴力的で、とても長く歩く気にはなれずに、日陰になる図書館前の石段にしゃがみこんだ。 「手短にどうぞ」 「温くん、家庭教師もう一人やってみない?」 しゃがんだ温の顔を覗きこむようにして、今日子がにっこりと笑った。日焼け予防のためか、長袖のシャツにパンツを履いた軽快な服装が、スタイルのよい彼女にはよく似合っていた。 「なんで急にそんな話になるんだ」 「実はね、もともと私が中学のときから教えてた子なんだけど、急に私家庭教師続けられなくなったんだ。でね、その代わりをしてほしいなって思って」 「なんで家庭教師続けられなくなったんだ?」 問いかけると、今日子は一瞬言葉に詰まったように見えたが、すぐに「それは秘密」とまた笑った。 「とにかく、駄目なものは駄目になったの。でもその子、賢い子でね、今高一なんだけど、受験のためって言うより、一般教養として実際に外国で使えるような英語を学ばせたいってのが親の希望なの。それなら英会話スクールとか行ったほうがてっとり早いんだけど、一応受験も大事だからできたら受験にも使えて、実践にも役立つ英語が習いたいみたいでね。それで英文学科の学生にアルバイト募集が回ってきてて、たまたま私が応募したわけなんだけど」 「へえ、だから?」 「温くん、適任でしょ? 英文学科の生徒だし、アメリカ留学経験もあるし。まさにぴったり、あなたのための仕事よ! 頑張って!」 「おいこら、待てよ」 勝手に押しつけて今にも逃げ出しそうな今日子の腕を掴んだ。 「そんなこと急に言われても困る。だいたい留学ったって三ヶ月ホームステイしただけだし」 「十分、十分」 「だいたい、お前が家庭教師やってたなら女の子だろ? 男の先生は嫌がるだろうが」 「あ、それは全然大丈夫」 だってその子男の子だから、とあっけらかんと今日子が言った。 もともと募集は男女問わずになっていたのだという。どのくらい応募があったのか知らないが、最終的に今日子が選ばれたのだから性別はまったく問題にはならなかったのだろう。 要するに、親は息子を信頼しているというわけだ。若い女性とふたりきりになっても欲情したりしないだろうと、何が根拠かわからない信頼を抱いている。そうでなければ異性の家庭教師など普通は雇ったりしない。 もっともそれを言えば温と瀬奈の場合もそうで、これについて言えば、瀬奈は温が日曜だけバイトしている小さな清掃会社のオーナーの娘で、たまたま温が英文学科だと知った母親が娘の家庭教師をしてくれないかと申し出たのだ。この場合、温はオーナーに信頼されているとうぬぼれてもいいのだろう。間違っても娘を襲ったりしないだろうと。あるいは信頼されているというより、見た目よりずっと臆病なのを見抜かれているだけなのかもしれない。 「けどさ……」 「時給二千五百円! 悪くないでしょ?」 何とか断る言葉を探していた温の耳にも、その言葉は魅力的に聞こえた。瀬奈の場合は知り合いの娘だということもあって、時給は千五百円だ。それと比べるとかなりいい。 「しかもおやつつきー。お母さん美人だし。どう? やる?」 「……やる」 あっさりと温は誘惑に負けた。家庭教師とコンビニと掃除のアルバイトをかけ持ちしているが、実家からの仕送りもそう多くないためいつもぎりぎりの生活をしている。できれば割のいいバイトを求めるのは当然のことだ。 「よし、じゃあ決まりね。実は今日からなんだけど、八時からだったら大丈夫よね? あ、そうだその子の名前は廣瀬翔太くんっていうの。地図はこれ。木曜と日曜の八時から。オッケー?」 最寄の駅から二つ目の駅で下り、徒歩で約十分ほど歩いたところに廣瀬翔太の家はあった。 その一帯が新興住宅街だということと、それ自体の見た目から、比較的最近建てられたのだろうということがわかる、きれいな一軒家だった。車が二台は入る広い駐車場には今は一台だけ、赤いフィットが停められてある。その隣に自転車。 オレンジ色の門灯の前で一瞬、温は足を止めて、インターホンを押すのを躊躇した。半ば押し付けられるようにして引き受けた家庭教師のアルバイト。ここへ来るまでずっと憂鬱だったのは何も緊張しているせいではなく、ただ単純に、その生徒に会うことが正直苦痛以外のなにものでもなかったからだ。 ため息をつきながらインターホンを押した。返事のかわりに人の足音が聞こえて、すぐに玄関の扉が開いた。出てきたのはおそらく廣瀬翔太の母親で、なるほど今日子が言っていたのは嘘じゃないと温が感心するくらい、きれいな女性だった。高校一年生の母親なら三十代半ばは過ぎているだろうが、服装次第では十分二十代にも見えるに違いない。 「小柴先生? いらっしゃいませ、はじめまして」 頭を下げると、家の中に招き入れられた。「翔太、先生がお見えよ、下りてきて」と彼女が息子を呼ぶ。興味がないといえば嘘になるが、顔なんか見たくもないという気持も否定できない複雑な気分で温は階段を眺めた。すぐに響いてくる軽快な足音。 目が合うと、少年はぺこりと頭を下げた。 想像よりも背が高い。黒いTシャツから伸びた長い腕にはきれいに筋肉がついており、短めに切られた髪は飾り気がないが少年らしい清潔な印象を与える。 「はじめまして。廣瀬翔太といいます」 低めで落ち着いた、知性を感じさせる声だった。ああ女はこういう声に弱いんだと温は思った。深みがあって穏やかな、どこか潔癖な声。 「……ああ、はじめまして。小柴温です。よろしく」 翔太が頷いて、「僕の部屋こっちですから」と再び階段を上り始めた。母親ともう少し何か話しておくべきかと思い、彼女の顔を見たが、笑顔で息子の背中を見送っているのを見ると別段話す必要もないらしい。温は翔太のあとに続いた。 階段を上がって突き当たりの部屋が翔太の部屋だった。その隣からぴょこんと小学生くらいの女の子が顔を出していて、温と目が合うとびっくりしたように部屋のなかに引っ込んだ。 「妹です」 「嫌われたのかな?」 「恥ずかしがってるだけですよ」 翔太の声は素っ気無く、乾いて聞こえた。部屋に入ると、勉強机の隣の椅子を勧められた。 「英語を教えるっていう話なんだよね」 「はい」 「戸川さんはどういうやり方してた? 合わせたほうがいい?」 「別にかまいません。先生の好きなやり方を」 椅子に腰掛けて、机の上の本棚から翔太は英語関係のテキストや問題集を抜き出した。同じ学校ということもあり、それらは瀬奈の家で見るものとほとんど同じものだった。ただし受験英語だけではない英語を学びたいという少年らしく、中には一般英語学習者向けの英会話の本やペーパーバックが混じっている。 開け放した窓の向こうから、蛙の鳴く声が大きく聞こえた。思わず視線を窓に向けると、「暑いですか」と翔太が言った。 「クーラー入れたほうがいいですか」 「いや、君がいいならいいよ」 「僕はあまりクーラーはつけません」 「いまどき珍しいね」 「風が吹くと、わりと涼しいので。学校にもついてないですし、涼しいのに慣れても困るから」 階下で初めて見たときから思っていたが、翔太の顔にはまるで表情がなかった。初対面の相手と話すのに緊張しているという風でもないのに、まるではじめから温のことを嫌っているように表情がない。目があってもすぐに逸らす。 少しでも親交を深めようという気があれば、無意味でも人は笑うものだ。けれど彼はそうしない。 別に、そっちがその気なら俺だってかまわない、と温は思った。もともと、廣瀬翔太は今温が最も嫌いな男の名前だった。家庭教師として少しは私情を控えるべきかと思っていたが、こいつがこの態度なら自分も好きなようにやるだけだ。 「とりあえず実力テスト。これやってみて。制限時間四十分な」 瀬奈にしたのと同じテストを翔太の目の前に置いた。翔太は無言でテストに取り組み始めた。 暇な四十分間を、瀬奈の次の授業の準備に使うつもりだった。考えてみれば同じ学校の同じ学年の生徒を受け持つのは、授業の内容を考えるのには楽なことだった。しかし本音を言うと、たとえ違う学校の違う学年でもいいから、廣瀬翔太以外の人間を教えるほうがよかった。 ちらりと翔太の横顔を窺う。問題を読んではさほど考える素振りも見せずに答えを書きこんでいる。額にうっすらと汗が滲んでいるが、その横顔は涼しげだった。目鼻立ちが整っているせいだろうか。悔しいが、瀬奈が惚れるのもわかる色男だった。 ちくしょう、俺はそんなこと確認しにきたのかよとうんざりした。五つも年下の男に嫉妬するなんて馬鹿もいいところだ。恥ずかしい。 「できました」 翔太がそう言ってシャーペンを置いたのは、始まってから三十分もたっていないときだった。早いな、と思いながらも採点をし、結果は九十五点だった。 五十点しかとれなかった瀬奈の顔を思い出しながら、翔太を見た。彼はつまらなそうに一問だけの自分のミスを覗きこんでいる。 同じ学校の同じ学年の生徒でも、レベルが違えば別の授業を考えるべきだろう。 このレベルなら、受験に必要な文法的なことは学校の授業や宿題で十分マスターできるはずだった。ならば週二回の授業のうち、一回は単語や成句、慣用句の勉強にあて、もう一回は社会に出ても役立つであろうTOEIC向けの勉強にしようと決めた。それで翔太の成績が下がるようならまたそのとき考えればいいだろう。 そう伝えると、翔太は少し黙り込んだあと、頷いた。その沈黙は何なんだよと思いながらも、温は気づかなかったふりをした。どうせしばらく家庭教師を引き受けなければならないのなら、互いになるべく嫌な思いをしないほうがいい。勉強だけを教えてプライベートには立ち入らないこと。それが互いのためだと言い聞かせた。 「じゃあ次回からはそれでいくから、教材も作ってくる。悪いけど今日はまだ準備してなかったから、とりあえずそのペーパーバック貸して。どこまで読んでる?」 それは海外の有名なミステリー作家の本で、日本語版を温も読んだことがあった。翔太はちょうど半分くらいのページを開いた。 「じゃあそこからページの終わりまで音読して、そのあと訳して。辞書使っていいから」 低い声で読み始めた翔太の発音は、ところどころつかえるものの、悪くなかった。最近の学生は若いうちからネイティブの教師に英語を習ったりするようだから、概して発音がきれいな場合が多い。自分でも興味を持って勉強しているならよけいにそうだろう。 音読の後、いくつか知らない単語を調べた後で、翔太はそれを日本語に訳してみせる。もちろん完全とは言えないが、大意は正しかった。日本語の使い方も適切だ。瀬奈の日本語訳を見ると時々無茶苦茶な日本語を使っているときがあって、そういうときは正直頭を抱えたくなる。 「戸川さんから聞いてたけど、本当に優秀だね」 十時少し前まで同じことを続けさせ、最後に温はそう言った。心からの言葉だった。これほど優秀ならば英語の家庭教師などいらないだろうと思ったが、自給二千五百円はやはり魅力的だったし、より翔太の英語力を高める手伝いができないわけでもないので、口に出しては言わなかった。 「ヒアリングもスピーキングも全然駄目ですから」 照れるでもなく卑下するでもなく、淡々とそう口にして翔太はまた黙り込んだ。 この乾いたような抑揚のない話し方が彼の普通のしゃべり方なのだろうかと温は訝った。だとしたら何てかわいくない高校生だ。感情を見せないのがクールだとでも思っているのだろうか。 硬派っていうより暗いだけじゃないかと心の中で罵倒した。もちろん、それが単なる八つ当たりに近いものだという自覚はある。たとえば彼が瀬奈の思い人でなければ、大人びた高校生だと感じる程度だったはずだからだ。 授業の合間に翔太の母親が持ってきてくれた羊羹に手をつけていなかったことを思いだし、「いただきます」と手を合わせてからフォークを持つと、翔太が一瞬怪訝そうな顔をした。 「君も食べたら?」 いっこうに手をつけようとしない翔太に勧めると、彼は首を振った。 「甘い物そんなに好きじゃないから……先生は好きなんですか?」 「大好きってこたないけど、まあ普通に。エネルギーになるし。晩飯代わり。いらないならもらっていい?」 翔太は相変わらず無表情に頷いた。そして温が食べ終わるのを待ってから、ぽつりと口を開いた。 「このあと僕はいつも夜食を食べるんですけど、もしよければ先生もどうですか。戸川先生は夕食済ませてから来られてたので誘いませんでしたけど」 「え、それは……」 ありがたい申し出だったが、ただでさえ高い時給をもらっているのにそこまで図々しくなってもいいのだろうかという迷いが過ぎった。プライベートになるべく立ち入らないと決めたのに、いっしょに夜食まで食べるとなるとその間無言でいるわけにもいかないだろうし、間のとりかたに困る。 「母に言ってきます」 温の答えを待たずに翔太は部屋を出ていってしまった。結局それを引き止めなかったのは、やはり腹をすかせた自分の正直な気持に負けてしまったからだ。 俺は意志の弱い人間だなと情けなく思いながら、手持ち無沙汰な思いをもてあまして仕方なく、主のいない部屋を改めて観察する。シンプルなソファベッドに勉強机。その上にはデスクトップパソコン、プリンタ。フローリングの床に直接置かれたCDコンポ。ボックスに詰め込まれた何十枚かのCD。クローゼットの前には大きな本棚が置かれてあって、机の上の本棚には入りきらない教科書や問題集、ハードカバーの小説やノベルス、漫画や雑誌などが並べられてある。翔太本人の性格なのか母親のおかげか、部屋はきちんと片付いていて清潔だった。 散らかり放題の自分の部屋を思い出して少し反省した。高校生と比べてもしかたがないが、どんな女でも汚い部屋に住んでいる男よりはやはりこういう部屋に住んでいる男のほうがいいだろう。 無性に悔しくなって、健全な高校生ならエロ本の一冊くらい置いてるはずだと勝手に机を開けたりベッドの下を覗きこんだりしてみたが、見る限りは見つからなかった。よほど隠し方がうまいのか、それとも部屋には一冊も置いていないのか。この年でその手のことに興味がない男がいるとは温には思えなかった。だからたとえ部屋にはないとしても、見たことは絶対にあるはずだ、と決めつけた。どれだけ硬派に見える男だって考えることは同じだ。 「……何をしてるんですか」 あきらめきれずに机の中をあさっているところに翔太が戻ってきた。一瞬気まずく思ったが、考えてみれば本人に聞くのが一番早いということに気づいた。 「よう、君エロ本とかって持ってないわけ。どこに置いてあんの」 翔太は露骨に顔をしかめた。馬鹿か、と顔に書いてある。 「量はあまりないですけどよろしかったらキッチンへどうぞ。今度からは先生の分も作ってくれるそうです」 (無視かよ) 「ああ、どうも」 温は立ち上がった。それからふっと気づいた。「あ、量少ないって、ひょっとして君の分を分けてくれるから? 悪い、育ちざかりなのにごめんな」 「……いいえ」 先に階段を降りていた翔太がちらりと振りかえって、相変わらず無表情に首を振った。温は基本的に表情の乏しい人間は好きでも嫌いでもないが、年下で無表情の奴を見ると無理やりにでもこのすました顔を変えさせてやりたくなる。 その日の夜食に用意されたものはチキンライスと野菜スープだった。食事の間は心配しなくても翔太の母親がずっと喋ってくれていたから楽だった。大学の授業のことや、今しているアルバイトのことを聞かれ、どうしようか悩んだが、翔太のほかにもう一人、高校生の女の子を教えていることを話した。 「翔太くんと同い年ですけど、彼の方が優秀ですよ」 瀬奈には悪いと思ったが、別にリップサービスでも何でもなく事実だから仕方がない。だいたい瀬奈は真面目な学生とは言いがたいし、惚れた相手に負けても悔しいとは思わないだろう。 瀬奈のことを思い出すと、あらためて目の前に涼しい顔で座っている高校生が憎たらしくなった。顔も知らなかったときよりよけいに憎たらしく思えるのは、廣瀬翔太が想像していたよりもいい男で、頭もよく、瀬奈が好きになるのも仕方がないと思わせる相手だったからだろうか。 息子を誉められて悪い気はしないのか、翔太の母親は嬉しそうににこにこしている。やっぱりきれいな人だと思ったので温もにっこりとした。チキンライスもおいしかったし、毎回夜食を食べられて時給二千五百円、おいしすぎるバイトだと思った。生徒が廣瀬翔太であることさえ除けば、だ。 「じゃあまた、日曜日に」 挨拶をして退去した。少し遅くなったがまだ電車はあるはずだ。夜はさすがに昼間よりも温度が下がり、大分過ごしやすくなった。 電車を待っている間、ホームでぼんやりと瀬奈のことを考えた。ほんの二ヶ月前に出会ったばかりの彼女。五つも年下で、元気がよく、かわいらしい少女。最初はただ妹のように思っただけだった。それがいったいいつのまに、こんなふうな気持ちに変わってしまったのだろう。 今まで付き合ったことのある女の子はみんな、相手から告白されて付き合った。温は「適当に見た目がよく、遊んでそうで、優しそうだけど淡白そうなところがいい」のだとある相手からは言われた。本気で付き合うには向かないが、遊び相手としては最適だという意味だそうだ。誉め言葉なのか貶し言葉なのかそのときも今もわからない。 けれど遊んでいそうといわれるほど実際には遊んでいない。付き合ったことがあるのはそう言った彼女も含めて三人だけだ。中学二年の時に付き合った同級生。高校一年で付き合い始めた一年上の先輩とは彼女の卒業まで続いた。それと大学生になってからすぐ、同じサークルの女の子と何となく付き合って、三ヶ月で別れた。別れた理由は彼女が他の男に乗り換えたからだ。別に温は気にしないよね、だって私のこと好きじゃないもんね、と言われたとき、はじめて、彼女が自分に本気だったのかもしれないと思った。自分は何となく付き合っただけだったのに、彼女はそうではなかったのかもしれないと。 それから、断る理由がないというだけでつきあうことをやめた。今度付き合うときは相手から言わせるのではなく、自分から言おうと思った。自分が好きになった相手としか付き合わない、そう決めた。 そうしてやっと好きな相手ができたと思ったら、はじめから片思いだった。 そう、はじめから片思いだったんだと改めて思った。考えてみたら温が瀬奈を恋愛対象として見るようになったのは、彼女に好きな人がいると聞いてからだったような気がする。好きな相手のことを語る彼女のことをかわいいと思った、それが始まりだった。 (俺が好きなのは廣瀬翔太を好きな島田瀬奈かよ……最低だ) ようやくホームに到着した電車に乗りこむ。さすがにこの時間になると中もがらがらだったから入り口近くの席に腰を下ろして、向かい側の窓から見える景色を眺めた。家々の明かりが流れるように通りすぎていく。 ため息をついた。どうしてよりにもよって瀬奈に会った翌日に翔太に会うようになってるんだろうなと皮肉を感じた。 |
| あとがき / 何だかやけになったように長々と一気にUPしてしまいました。でもこれ、全部で220ページ以上あるんですよ……いやいやいや(何)。冬に書き溜めた話で、実は某BL雑誌に投稿して選外になったものです。でも1次選考は通過したんですよー。かなり嬉しかったです。それにその雑誌は投稿作品全部に丁寧な批評を返してくれるので、それも嬉しいなあと。完結したらどんな批評をもらったのか書きますね。自分の書いたものに意見してもらえるのはやっぱり嬉しいことだと実感。また出そうかな……(でもBLばっかり書きたいわけでは決して) |