one-sided 10





 翌朝、温が会社へ行くのと一緒に彼の部屋を出て、翔太は寮へ戻った。今日は二限目からの授業だから少し余裕があり、昨日できなかった洗濯と掃除をしておくつもりだった。
 大学寮といっても、想像していたよりずっと部屋は広く、各部屋にトイレも風呂もキッチンもついているし、冷暖房も全自動洗濯機もある。それで月1万円という部屋代はあまりにも格安で、いかに特待生が優遇されているか思い知る。大学側はいろいろな分野で名を挙げることを望んでいるらしく、陸上のみならず野球やサッカー、柔道その他のスポーツはもとより、各学部での試験の成績優秀者、果ては芸能人も広く特待生制度の対象としているらしい。学費はもちろん無料。そのかわり期待に答えられなくなれば当然その好待遇は打ち切られる。
 ただ走ることが好きなだけだったのに、いい記録を残せばそれだけ周りの期待は限度もなく膨れ上がっていくことをこの何年かで知った。応援の言葉が嬉しくないわけではないし、期待され、目をかけられるのは純粋に誇らしく、自信になった。けれど走るためだけに生きているとは思わない。もし周囲がそれを望んでいるのなら、残念ながらそういう風には生きられないと思った。学生として勉強にも力を入れたいし、社会経験の一つとしてアルバイトもしたい。
 一つのことだけにとらわれず、いろいろなことをしたい。だからきっと、温と会うのを週末だけにするというのはいいことなのだ、と翔太は昨夜から何度か自分に言い聞かせていた。
 彼のそばにいると彼のことしか考えられなくなって、ほかの何も手につかなくなる。会えば会うほど思いが募る。だからもっと距離を置いて、冷静になるべきなのだ。そばにいると感情が抑制できなくなるのなら、なるべく離れているほうがいい。このままどんどん彼にのめりこめば、きっと彼にも迷惑をかけてしまう。うっとうしがられて嫌われる。そんなことにならないために、もっと冷静にならなければ。
 洗濯物をベランダに干し、部屋の中をあらかた片付け終えたら、ちょうどいい時間になった。歩いて五分もかからない大学の一般棟へ向かう。二限目は一般教養の社会学だ。昨日から始まった大学の講義は高校の頃とはまったく違って、自分から学ぶ意欲を持って聞かなければ聞いた先から抜けていってしまいそうなものだった。板書の量も少ないから自分でメモをとる。ただ言葉を詰め込むのではなく考えることを要求する講義は新鮮で面白かった。
 二限目が終わると昼休みになる。学食で昼食をとろうと一般棟を出たところで、ちょうど百メートルほど先を歩いていた荻野の姿が見えた。ほぼ同じくらいに相手も翔太に気づいたらしく、こちらに近づいてきた。
「よう廣瀬。お前、平気?」
「平気ってなにが」
 おかしな挨拶だと首を傾げると、荻野は「だから、二日酔とかなってないかって聞いてんの。昨日けっこう飲んでただろうが」といらいらしたように言った。それでようやく昨日の晩にコンパをしたことを思い出した。
「ああ……大丈夫みたいだな。昨夜は少し足がもつれる感じがしたけど、今日は全然」
「あっそう。酒に強くてうらやましいですね。くそー、苦しんでるのは俺だけか」
 あったまいてーと、額を押さえて荻野は苦しげに顔をしかめた。二日酔らしい。
「だから飲みすぎるなって言っただろう」
「お前自分はがばがば飲んどいてよく言うな! お前につられたんだよ俺は! ああ大声出すと頭痛い!」
 自分で大声を出しておいて苦しんでいる。翔太は呆れたが、昨日知り合いのいない翔太に話しかけてくれたのは荻野だし、持ち前の社交性で周りの輪にとけこむきっかけを作ってくれたのも彼だ。放っておくのも悪い気がして、大丈夫か、と声をかけた。
「そんな調子が悪いなら帰って寝たらいいじゃないか。一日くらい授業休んだってかまわないだろう」
「俺は二日酔なんかに負けるのはいやなんだ」
「頭に入らないなら意味がないと思うけど」
「うるせ。陸上の練習もあるし」
「無理するなよ」
 そんな練習熱心なようにも見えないが、人は見かけによらないものだと思った。
「これから学食行くつもりだけど、荻野はどうする。もし何か食べるんだったら一緒に行くか」
「奢ってくれんの?」
「いいよ」
「やった。行く行く」
 二日酔だとわめいているわりには元気そうだし現金だ。そろって歩き出すと、「ところでさあ」と荻野が言った。
「昨日女子陸の連中から聞かれたんだけど、お前って付き合ってるやついるの?」
「いる」
 どうしてそんなことを聞かれるのかわからなかったが、翔太はすぐに頷いた。温の顔が浮かぶ。付き合ってほしいと言ったらオーケーしてくれた。たとえ彼が自分のことを好きではないとしても、付き合っていることに変わりはないはずだ。
「やっぱりいんのか。だよな。あいつら残念がるだろうけど仕方ないよな。けどお前そういうことには淡白そうに見えるのに、やることはちゃんとやる男だな。ヒュー、どんな子だよ?」
「………」
 翔太は眉をひそめて答えなかった。どうして好きな相手のことを、何か面白い話題のように話す必要があるのかわからない。そんなふうに彼のことを口にしたくない。
「なんだよ。教えてくれたっていいじゃん」
「言いたくない」
「どうして。俺口固いよ? 言うなって言われたら言わない。言われなきゃ言うかもしんないけど」
「荻野に話す理由がない」
「俺が知りたいってのじゃ駄目? 俺、お前に興味あるんだよな、マジで」
 急に真面目な顔になって、荻野がぽつりと呟いた。翔太は首を傾げた。
「興味? 俺は別に面白い人間じゃない」
「ばか。ライバルとしてだよ。俺、本当にお前がここに来るっていうからこの大学に決めたんだ。俺あんまり走りと人間を区別して考えられねえからさ。だからお前自身に興味ある。どういう人間があんなふうに走れるのか知りたい」
 長距離選手として、荻野は十分に優秀だった。中距離も長距離もいい記録を出す。レース経験も豊富だから場慣れしていて、勝負強い。
 その彼にライバルだと言われるのは光栄だと素直に思った。だから礼を言うと、荻野は複雑そうな表情をして「何だかどうも馬鹿にされてるような気がする……」と拗ねた口調で言った。
「まあいいや。けど今度そのつきあってる子、紹介してくれよ。約束な、約束」
 いいとも言っていないのに勝手にそう決めてしまった。温は自分たちが付き合っていることを絶対誰にも言うなと言った。おかしく思われるからと。
 翔太自身は別に誰にどう思われても平気だが、彼が嫌がることはしたくなかった。だから誰にも彼のことは言わない。紹介なんてもちろんしない。
 今日は水曜日で、週末まで、あと三日もあるのかと思うとあまりにも長いような気がして、思わずため息をついた。せめて声だけでも毎日聞きたいと思ったけれど、我慢しろと自分に言い聞かせる。なるべく彼のことを考えないようにして、冷静にならなければ。
 だがそれが、どうしてこんなに難しいのだろう。


 金曜日の夜からずっと、机の上に置いた携帯電話をたびたび眺めては、小さくため息をつくことを繰り返した。
 週末だけ会うようにしようと温が言ったから、平日には会いたくても我慢した。声を聞きたくても電話をしなかった。でもいざ週末になってみると、いつどういう風に連絡したらいいのかわからなくなった。金曜の夜は残業中かもしれないとか、もう寝てるかもしれないとか、土曜になったらなったで、昨夜遅くてまだ寝ているかもしれないと思う。メールでもすればいいのかもしれないが、正直あまり好きではなかった。声を聞きたいし、言葉を文字にしようとするととたんに何も書けなくなる。
 逡巡しているうちに時間だけが過ぎていき、午前十一時になったとき、ようやく思いきって携帯電話を手に取った。電話をかけようとしたちょうどそのときに、電話が鳴った。ディスプレイの表示を見てどきりとした。温からだった。慌てて耳元にあてて返事をする。
 電話の向こうで彼の声がする。
『翔太? なんか、声聞くの久しぶりな気がするな。お前今ヒマ? よかったら買い物付き合わないか?』
「あ、はい、もちろん行きます」
 彼に会えるのならどこへでも喜んで行く。答えた声に嬉しさが滲んでいたからかもしれない。温が小さく笑う声がした。
 駅で十二時に待ち合わせをした。電話を切った後も、声を聞いただけでおかしなくらい高まった心臓の鼓動が静まらない。我慢して、我慢して三日間、電話一つしなかったのに、三日ぶりの短い会話でこんなにも気持ちを乱されるなんてどうかしている。むしろ前より悪くなっているようだ。
「温さん……」
 声に出して名前を呼ぶと、それだけで会いたい気持ちでいっぱいになる。人を好きになるというのがこういうことなら、かつて今日子に抱いていた思いは、恋ではなかったのかとさえ思う。本気で好きなつもりだった。けれど今みたいに、会えないことがやりきれないと思うほど強い思いではなかった。
 どうしよう、と思った。自分の気持ちをコントロールできないことが怖い。それでも気持ちを止められない。彼に会いたい。少しでも長くそばにいたい。そうでないと不安だ。そばにいないと忘れられてしまう。
 大きく頭を振って、携帯電話を机に置いた。今は何よりもただ、彼に会いたかった。


「翔太。悪い、待ったか?」
 待ち合わせの駅で、約束の時間の五分前に温が姿を見せた。紺色のシャツとジーンズが、少しだけ茶色い髪によく似合っている。温はスタイルがいいからどんなものを着てもたいていよく似合う。
「待ってません」
 答えながら唐突に、彼に触れたいと思った。けれどきっと嫌がられるだろうから我慢する。会えなかった三日間を思えば、こんなに近くに彼がいることだけでも嬉しい。
「お前今日、部活はないの? ずっとヒマ?」
「部活はありますけど、強制参加じゃないから、大丈夫です」
 陸上部の活動は平日は四時から、午後の授業のない水曜日は一時から、そして土曜は三時から行われる。強制ではないが、おそらく特待生はすべての練習に参加することを望まれているはずだった。その認識はあるが、練習は晩に一人でもできる。今は温と会っていることのほうがはるかに大事だった。
「何時から?」
「三時からですけど……」
「じゃあ、それまでには帰らないとな。あんまり時間ないけど、まあいいか」
「温さん」
 練習は出なくていいと言っているのに、温はひとりで勝手に決めてしまった。抗議するつもりで彼の顔を見つめると、彼は少しだけ困ったように笑った。
「だってお前特待生なんだろうが。練習サボったりするな。付き合わせた俺が悪い気がする」
「そんなことありません。僕が温さんと一緒にいたいんです」
「一緒にいるだろ、今。とにかく三時からはちゃんと練習に参加すること」
 翔太は唇をかみ締めた。言わなければよかった、今日も練習があるなんて。馬鹿正直な自分を悔やんだ。せっかく会えたのに、三時間も一緒にいられないのだろうか。
「そんな顔するなよ」
 翔太の不満げな様子に気づいて、温がやれやれと呟いた。彼を困らせていることがわかってまた情けなくなる。わかりましたと頷いたら、温が不意に伸ばした手で翔太の頭を撫でた。ほんの短い間。
「練習終わったらまた家に来いよ。泊まっていったらいいから。なあ」
「……ほんとうですか」
 荻野のことを言えない。自分も呆れるくらい現金だった。温の言葉が嬉しくて頷いた。
 それから駅前の喫茶店で軽食をとり、新しい服が見たいという温について駅前の大手デパート五階の紳士服売り場を見て回った。温はときどき立ち止まっては服を手に取り、「これ、お前に似合いそう」と翔太の前にかざした。自分に何が似合うかはよくわからなかったので曖昧に首を傾げると、その反応を否定ととったのか、温はすぐにその服を元の場所に戻した。
「お前の趣味ってどんなの。俺、お前には黒が似合うと思うんだけど、あんまり好きじゃないか?」
 売り場を歩きながら問われた。意識したことのない質問に、正直に「自分ではよくわかりません」と答えた。
「温さんには白が似合うと思うけど……」
「誰が俺の話をしてるんだ。なあ、好きな服一着選べよ。俺お前にまだ入学祝いしてなかったからさ。買ってやる」
 温がそう言って笑った。てっきり彼の服を買うのだと思っていたから、突然そう振られてびっくりした。
「そんなの……いいです。僕もまだ就職祝い贈れてないし」
「学生から何かもらおうなんて思ってないよ。俺の自己満足なんだから選べよ。遠慮すんな」
「けど」
「いいから。俺が買ってやりたいだけだ。最後まで家庭教師続けられなかった謝罪もこめて」
 温は譲らなかった。せっかくの気持ちを頑なに断ることもできず、翔太は頷いた。
「僕もアルバイト始めて自分で稼げるようになったら温さんに就職祝いしますから。遅くなっても、絶対」
「ああ、待ってるよ」
 結局彼が似合うと言ってくれた黒のスポーツウエアを一着買った。もっと高いものでもいいと温は不満そうだったが、こちらのほうが家で自主練習するときに使えるからと言って説得した。
「あんまし合格祝いっぽくないけどなあ。ま、いいか、お前スポーツマンだから」
 今度ボーナスもらったらまた何か買ってやるよ、と温が翔太の肩を叩いた。彼からの贈り物が嬉しい反面、自分がまだ働いてもいない学生なのだと思い知らされるのが辛い。
 彼より早く生まれていれば、せめて同い年だったら、もっと彼を包み込んであげられるほど大人だったら。
 今みたいに甘えるばかりじゃなく、彼に甘えてもらいたい。そう思うのに、温は翔太を甘やかすばかりで、決して翔太にもたれかかってはくれない。いつも翔太が先にたまらなくなって彼の温もりを求め、彼はそれを困った子供を見るように受け入れるだけだ。
「温さん」
 早く大人になりたいと思った。年齢の差を埋められないなら、せめて早く社会人になって、彼と対等でいたい。
 温の手を握りしめて、すぐに離した。今すぐ抱きしめてキスしたかったけれど我慢する。大人になるというのはきっと自分の気持ちを抑える術を学ぶことでもあるのだろう。
「翔太、お前変な顔してる」
 温が翔太を見て笑った。翔太はカッと頭に血が上って俯いた。温といるといつも、自分の言動をうまくコントロールできなくなる。他の何に対してもあまり心を動かしたりしないのに、彼のことだけは別だ。
 どうしてこんなに好きなんだろう。
 そしていったいどうしたら、彼は自分のことを好きになってくれるのだろう。
 それがわかるならどんなことだってするのに、と思った。もしも金で買えるものなら、きっと買ってしまう。どんな手段でもかまわないと思うほど彼が恋しい。そばにいたい。
 重症過ぎて、もうどうしようもない。翔太は顔を上げて温の横顔を見つめながら、零れそうになるため息を飲みこんだ。


[TOP/BACK/NEXT]
あとがき / 箱根駅伝を見ました。ただ走るだけなのにどうしてあんなに面白いんだろうと不思議です。ひそかに駒大を応援していましたが、亜細亜大も初優勝おめでとうございます。あ、ここあとがき欄?