「温、久しぶりだなぁ。ちょっと髪伸びたんじゃない? 切ってやろうか」 高校時代からの友人の、久しぶりに会うときの挨拶はいつもこれだ。 温は苦笑して、「お前は相変わらずだな」と言った。黒田は美容師として働いている手先の器用な洒落た男で、中性的な雰囲気と話しやすさで、顧客の若い女性にも人気があるらしい。もっとも自分で言っていたことだからそのまま信じる気もないが、しかし高校生のころからたしかに女の友達は多い奴だった。 「まだもうちょっといいよ。だいたいお前、今は人気店の美容師だろう。いつまでもタダで切ってもらうの悪いからな」 「そんなことねぇよ。俺温の髪触るの好きだもんよ。柔らかいしさ。ツラもいいから似合う髪形考えんの楽しいんだもんな。専属美容師にしといてよ、ついでに今度髪染め直さない?」 「遠慮しとく」 聞いた話によると、友達だからといって誰でも無料で髪を切ってやるわけでもないらしい。特別扱いしてくれているのは嬉しいが、すぐに髪を染めたがるのが困りものだ。勝手に変な色に染められてはたまったものじゃない。 そのとき高校生くらいのウエイトレスが注文を聞きにきて、黒田はミックスジュースを、温はコーヒーを注文した。大きく店のロゴがペイントされた窓から外を見ると、道を歩く人々がみな色とりどりの傘を手に、足早に通りすぎていく。午後のまだ早い時刻にもかかわらず、太陽が見えないせいでどんよりと薄暗い。 「今年の梅雨は本当に雨ばっかりだな」 今朝からずっと止まず、細く、ときおり強く降りつける雨の音がガラス一枚隔てた向こうから聞こえてくる。 六月の終わり、梅雨入り宣言から天気の悪い日が続いている。 「じゃあ景気づけに明るく、金髪にでもするか」 黒田はしつこくそんなことを言った。ばーかと笑って、温は旧友の顔に視線を戻した。髪の色を変えるのが趣味のような男は、今は深い青色の髪をしている。目立つが、彫りの深い顔立ちには似合っていないこともないし、温には真似できない奇抜な服装も黒田が着るとそう変でもない。ただ全体として、非常に派手だ。 二、三ヶ月に一度、「久しぶりに会わないか」と黒田から連絡がある。ちょうど髪が伸びた頃を見計らっているのかもしれない。土曜日の今日もそういう風にして誘われて、翔太の練習のある時間帯ならかまわないと思ってオーケーした。平日会えない分、翔太は土曜と日曜はほとんど一日中一緒にいたがる。一緒にいて何か特別なことをするわけでもない。ただ同じ部屋の中で、話をしたり、本を読んだり、互いに好きなことをするだけだ。それでもそばにいるのといないのとでまったく違う。 六月が終わる。翔太と再会してから、もう三ヶ月が経とうとしている。 「なあ黒田。お前今つきあってる相手いるか」 「なに、急に。今はフリーよ。立候補する?」 「しねえよ。けど、嫌じゃなかったらちょっと相談のってくれないか。お前経験抱負だろ」 「え、なに女の話? へー、めっずらしー。お前って滅多にそういう話しないのに」 好奇心に満ちた顔をして黒田が身を乗り出してきた。たしかに彼が言うとおり、温は今まであまり自分の付き合っている相手のことを誰かに話すことをしなかった。照れももちろんあったし、話すようなことがないというのもあった。彼女とのエピソードを喜んで友達に聞かせるような情熱はなかった。 さっきとは違うウエイトレスがミックスジュースとコーヒーをテーブルに置いていく。 「あのさあ、相手を傷つけないように別れるのってどうすんの」 「はあ?」 ミックスジュースにストローを突っ込みながら黒田が怪訝そうな顔をした。当たり前だ。 「なに、他に好きな女でもできた?」 「そんなんじゃない」 「じゃ、付き合ってる奴のこと嫌いになった?」 「そうじゃない。けど別れたいんだよ。自然消滅がいいんだけど、なんか自信ないっていうか……付き合い始めて三ヶ月も経つのに、消滅どころか段々エスカレートしてくるような気がするんだよ」 「エスカレート? え、行為がってこと? ぎゃー、温ヤラシー」 「バカ! 違う!」 思わず黒田の頭を殴りつけてしまった。カッと赤くなった顔を隠すために俯いてコーヒーを手に取った。 行為どころか、翔太とはいまだにキスまでしかしていない。最初の約束どおり、彼は夜一緒に寝ても手を出してこようともしない。ただしそのかわりのように強く抱きついてくる。いつもぴったりとくっついて眠る。最初はなかなか眠れなかったが、今ではすぐそばに聞こえる人の呼吸や心臓の音にも慣れてしまった。 エスカレートしているのは、感情だ。言葉。温のことを好きだと言って、時々泣きそうな顔をする。もっとたくさんそばにいたい、練習なんて行きたくないと、頭がよくてあまり感情を表さないと思っていた男が、子供のようなわがままを言う。 そういう回数が増えていく。なによりやりきれないのは、翔太自身、そういう自分を持て余しているように見えることだった。練習を休んで一緒にいたいと言いながら辛そうに顔を歪める。 「でも三ヶ月だろ、ちょうど盛り上がる頃じゃん。仕方ないじゃん。自然消滅ってわりに時間かかるよ。温自然消滅得意だからよく知ってるくせに」 「失礼なこと言うな、お前」 思わず黒田を睨みつけた。過去誰かとつきあったことのあるのは三回、うち二回は確かに自然消滅だった。一番短かった三回目だけは三ヶ月ですっきりと振られた。私のこと好きじゃないのよね、と彼女は言った。温は否定できなかった。 「あんまり時間かけたくないんだ。だって時間、もったいないだろ。相手、大学生なんだけど、大学時代ってやっぱり特別だろう。別れることわかってる人間と付き合ってるのなんてもったいない。あいつの大事な時間台無しにしてるみたいでさ」 はじめからつきあったりしなければよかったのだと今ではわかっている。けれどあのときは彼を突き放すことができなかった。彼を傷つけるのが怖かった。それは今でもそうだ。彼を傷つけるのがなにより怖い。 黒田はミックスジュースをずずっと飲んで、うーんと唸った。 「何で別れるって決めてんのかわかんないけど……まあ、別れたいならとりあえず、会う時間減らすことから始めたら。誘われても理由つけて断るとか。そうしたらなんか避けられてるなって気づくだろうし、浮気疑うかもしれないし。疑う心ってのは愛情を減らすと思うんだよね、これ俺の持論」 「やっぱりそうか」 会う時間を減らす。それがやはり一番いいのだろう。週末ずっと一緒にいるなんて、今までつきあったどの子ともしなかった。 (好きな子を作れよ。かわいい、お前にお似合いの子を。そんで俺のことなんて忘れちまえ) 今度こそちゃんと、後腐れなく、別れよう。 温はちくりと感じる胸の痛みに気づかないふりをして、生温いコーヒーを口に含んだ。 急な仕事が入って出かけることになった、と言うと、電話の向こうで相手が沈黙した。 それからしばらく経ってから、またですか、とため息のような声が聞こえた。電話をかけたときの嬉しそうだった声との差に、温は何と言ったらいいかわからなくなる。しかたなく、ごめんな、と謝った。 「今度埋め合わせするから。ごめんな」 『いいえ……仕事、忙しいんですね。無理しないでください。身体が心配です』 翔太の声のほうがよほど無理をしている。仕事の二文字に彼がなにも言えなくなるのを知っていていつも、温は仕事を言い訳にした。埋め合わせをすると言いながらなにもしない。 七月初めに梅雨明けしたと思ったら、一気に夏が本番を迎えたように気温が高くなった。夜からつけっぱなしにしている冷房の音を聞きながら、翔太は今でも冷房を使わない生活をしているのだろうかと思った。 『明日は会えますか?』 すがるように、翔太が尋ねる。温はああと、短く答えた。温のいる経理部は日々それなりに忙しいが、土日も出ないといけないことは決算期を除いては滅多にない。七月の今は特に一年でも一番暇なくらいで、あるはずもない仕事を理由に翔太と会うのを断ることは、温にとっても辛いことだった。嘘をついて、あんなにも純粋に自分を好きだと言ってくれる相手を裏切る。 けれどすべて、翔太のためだ。温と付き合っていても彼にはなにも得るところはない。ずっと一緒にいられるわけがない。どうせ別れるのなら、きっと早いほうがいい。 『早く明日になればいいのに』 電話を切る前に、翔太がそんなことを言って笑った。仕事で会えないと言うといつも、彼は少しだけ困ったような悲しそうな声で、そうですか、と言った。それなら仕方ないですねと。決して会いたいとは言わない。自分のわがままが温を困らせるとわかっているから言わない。その代わり日曜に会うとすぐに抱きしめてきて、なかなか離れようとしない。寂しいんだとその肩が、背中が言っている。 温は切れた携帯電話を手に何度目かわからないため息をついた。翔太に嘘をついた日は一日中家に閉じこもっている。出かけて万が一にでも翔太に会うのは嫌だったし、出かける気にもなれなかった。本を読んだりテレビを見たり、ごろごろと怠惰に一日を過ごす。時々翔太のことを考える。 傷つけたくないと思うのに、今やっていることはきっと彼を傷つけている。けれど面と向かって別れようと言うよりは彼を傷つけないはずだ。少しずつ、少しずつ距離を広げて、翔太の目を覚まさせたい。彼の気持ちはあまりにまっすぐで、その強さだけで彼を傷つけていた。だから早く彼を自由にしてやりたい。 携帯電話を放り出して、ベッドにごろりと横になった。両腕を頭の下で組んで天井を見上げる。目を閉じると翔太の顔が浮かんだ。端整で知的な顔だ。そのくせ長距離では相当有名な選手らしく、何気なく手を伸ばした陸上関係の雑誌ではかなり大きく取り扱われていたこともある。将来有望な陸上のスター。きっと望めばたいていのことは叶えられるだけの才能に恵まれた人間。 背中を丸めて横を向いた。あとどのくらい、こんな気持ちを味わえばいいのだろうと思った。 |
| あとがき / バレンタインデーが近くなってきましたね。きれいなラッピングを見ているだけで楽しいです。自分用にまたたくさん買うんだろうな…(-_-) |