よく晴れた夏の日だった。 朝目覚めたときから暑く、外を歩くだけで強い日差しに汗が吹き出す。今日で前期の大学の授業が終わり、明日からは長い二ヶ月間の休みが始まる。ただし陸上の練習は今までどおりあるし、大学で出された課題のレポートもたくさんあるから、実際はそれほど休めるわけでもない。 水曜日で午後の授業がないから、今日の練習は一時からだ。それほど本気でもなく陸上部に入った連中はこの時期、ほとんど姿を見せなくなった。炎天下の中で行う練習は厳しい。しかし厳しいほうがいいと翔太は思った。走っている間はなにも考えられずにいられる。ただ走ることだけを考えていられる。 「廣瀬、お前最近調子いいよな」 柔軟をしながら荻野が声をかけてきた。高校の頃には練習嫌いの天才肌だと聞いていたが、人の噂はあてにならない。少なくとも大学に入ってからの彼は誰よりも熱心に練習に取り組んでいた。それこそ中学生の頃からしっかりと練習を積んできた人間は通常、大学に入ってもなかなか記録を伸ばせないものだが、彼は少しずつでも自己新記録を更新している。それはすごいことだった。 「別に」 調子がいいも悪いもない。ただ考えたくないから走っているだけだ。考えたくない。なのに気がつくとすぐに考えてしまう。 電話をかけると三回に一度は必ず、仕事があると断られる。夜だけでも会いたいと言っても、何時になるかわからないとやんわり断られる。会うときは今までどおり、優しく笑いかけてくれるけれど、どこか困ったような表情を浮かべることが増えた。好きだと口にするたび、抱きしめるたび、彼は少しだけ悲しそうな顔をする。 それがどういう意味を持つのかなんて知らない。知りたくもない。ただ、会いたい。週に一度だけでは足りない。寂しい。そばにいたい。どうしようもない。 「機嫌は悪いけどな。なんかやなことでもあったのか。お兄さんが悩みを聞いてやろうか」 相変わらず荻野はいい奴だった。翔太は表情を和らげて、ありがとう、と言った。 「けど何でもない。暑いから、少しぼんやりしてるんだ」 荻野に言って解決することなんてなにもない。彼の好意はありがたい。しかし温のことは誰にも話したくない。それは彼と自分の問題だった。考えたくない、でも本当はもう考えなくてはいけないとわかっている。 彼は自分を避けている。いくら否定したくても、そうとしか思えない。仕事も本当に忙しいのかもしれない。けれどそれだったらどうしてあんなに辛そうな顔をするのだろう。まるで嘘をついているみたいに。 嫌われたのだろうか。それとも誰か他に好きな相手でもできたのだろうか。 言葉にしてそう考えると、胸を掻きむしられるほど苦しくなった。 (嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ) 大きく頭を振ってその考えを振り払う。荻野がそばにいるのもかまわず翔太は両手で頭を抱えた。 嫌われるのには耐えられない。彼が他の相手を抱きしめるのも、キスするのも、そんなの絶対耐えられない。きっと嫉妬でおかしくなる。 「おい、廣瀬」 聞いてみればいいのだろうか。そうしたら彼は何と答えるのだろう。 そんなことないよと、嘘でも言ってほしい。もしも頷かれたら本当にどうにかなってしまいそうだ。彼を誰にもとられたくない。自分だけの、自分だけのものになってほしい。他の誰も見ないでほしい。ずっと一緒にいてほしい。そうだ、彼はたしかにそう言ってくれたのに。お前が望む限りはそばにいると言ってくれたのに、どうして。 「廣瀬、どうした気分悪いのか、大丈夫か?」 目を上げた。心配げな荻野の顔がすぐ近くにある。伸ばされた手を払って無理やりに笑顔を浮かべた。 「……なんでもない」 来週の土日は出張だと聞かされたとき、翔太は一瞬、息が止まるかと思った。 一週間ぶりに会った日曜日、抱きしめた腕の中で翔太の髪をゆっくりと撫でながら、ごめんな、と温は言った。 「だから来週は全然会えない。今度会えるの二週間後だな」 「何で……」 どうしてこんなに簡単に、二週間も会えないと言えるのだろう。翔太は唇をかみ締めた。温にしがみついて肩口に顔を埋める。温が息を吐き出した。 「ごめんな。けど、夏休みなんだし、お前もたまには実家に帰ったら。香里ちゃんも兄貴に会いたいだろ」 ゴールデンウイークも実家には帰らなかった。そんな時間があったら温と一緒にいたかったからだ。 なのにその彼が、家にでも帰れと言う。 「………」 出張なら仕方がない。仕方がないとわかっている。彼を責めてもどうしようもない。行かないでくれと言えるわけがない。ついていくとも。仕事なんだ遊びじゃないと諭されるに決まっている。 仕事、いつも仕事だ。彼にとってはなにより仕事が大事なのだろうか。一緒にいたいのは自分だけで、会えなくても彼は少しも寂しいと思わないのだろうか。 きっとそうだ。寂しいのは自分だけだ。こんなに愛しく思うのも。 全部自分だけだ。 抱きしめる腕の力を緩めた。少しずつ身体を離して、彼の顔を見た。 辛そうに、心配するように翔太を見ている。最近一緒にいるといつも、彼を困らせている。 「出張、どこへ行くんですか」 「え? ああ、大阪だよ。同僚と二人で、三日間。金曜から」 「……お土産買ってきてください」 ため息に聞こえないように息をついて、笑った。うまく笑えた自信はない。それでも今の翔太には精一杯の努力だった。 「ああ」 温も笑う。やっぱり心からの笑顔ではないのはわかった。ごめんな、ともう一度くり返して、温はそっと顔を寄せてきた。唇が触れる。少し触れるだけの軽いキス。柔らかな感触を残してすぐに離れる。こんな軽いキスでも情けないほど胸が震える。まだ嫌われてはいないのだと自分に言い聞かせることができる。珍しく彼からしてくれたこのキスで、きっと二週間耐えられるだろう。きっと大丈夫だ。 もう一度そっと温を抱きしめて、好きですと耳元で囁いた。それだけが、彼をつなぎとめる唯一の言葉のような気がしていた。 一週間後の土曜日、雲の多い、少しだけ昨日までより気温が下がった日だったのをいいことに、朝からずっと大学の近くの自然公園を走っていた。 陸上部のコーチからは勝手な練習をするなと言われている。特待生は通常の部活の他に日々の個人トレーニングまでコーチが口を出す。それは別に逆らうべきことでもなかったが、走りたいと思うときに走るなと言われても聞けない。自分の身体だ。故障を恐れるコーチの気持ちもわかる。けれど走りたいときに走れないなら何のために陸上をやっているのかわからない。 部活動の間は、翔太は従順で真面目な学生だった。しかしコーチに言わずに勝手に毎日別の練習をした。最近は温に会えない寂しさを紛らわすためだけに走ることも増えた。がむしゃらにただ走る。タイムも距離もどうでもいい。走ることしか考えられないだけのスピードで、疲れきって倒れこむほどの距離を走る。そうすれば少しだけ頭がすっきりする。一瞬でも、忘れていられる。彼がそばにいないことを。 自然公園の中の景色にも飽きて、外に出た。土の感触がアスファルトの固さに変わる。 別にどこへ行こうというのでもなかった。足が向くまま、走っていただけだった。 しかし随分長い間がむしゃらに走って、気がつくと、見なれた景色が広がっていた。 (ここは……) 彼の住むアパートの近くだった。我ながらおかしくて、走りながら笑った。どうしてこんなにも馬鹿なんだろうと思った。 彼のアパートの前で、走るのをやめた。肩で大きく息をつきながら三階建ての建物を見上げる。二階のあの部屋。彼の部屋。 どうしようか、逡巡した。このまま行きすぎてしまえばいい。だけどここまで来たんだ、せめて彼の部屋の前まで行きたいと思った。行ってどうなるものでもないが、扉に触れたい。彼の触れたものに、少しでも。 中央の階段を上って何度も行ったことのある部屋まで行く。扉に額を押し当てて、小さく彼の名前を呼んだ。 どうしよう、会いたい。我慢できない。 電話をしようか。声だけでも聞けるなら嬉しい。会えないときは電話もしないと勝手に決めていたが、そうしろと彼に言われたわけではない。 ほとんど可能性はないと知りながら、万が一彼からの電話があってもいいようにと、走るときでも持ち歩いている携帯電話を取り出して、ボタンを押した。祈るように電話を耳に押し当てた。 「え……」 なにか音が聞こえた。 小さく、ほとんど聞き取れないくらいの音楽。部屋の中から。 音が唐突に聞こえなくなる。それと同時に携帯電話の向こうから彼の声が聞こえた。 『はい、もしもし?』 「温さん……」 ドアノブにそっと手をかける。息を飲む。鍵が……開いている。ギィと音をたてて扉を開いた。 携帯電話が、指の間から滑り落ちて音を立てた。彼の声を伝えていた機械。でももう必要ない。 「……翔太」 部屋の中で、あんなにも会いたかった彼が、固まったように翔太を見ていた。 「出張じゃ、なかったんですか……?」 尋ねた声に温は表情を曇らせた。 「……ああ」 馬鹿正直に、そう答える。どうせ嘘をつくのなら最後まで突き通せばいいのに、どうしてこんなところで開き直るのかと翔太は不思議に思った。いろいろ言えるのに。予定が変わったとか、体調が悪くなってやっぱり行かないことにした、とか。 「どうして?」 ぼんやりと、自分の声をまるで他人の声のように聞きながら尋ねた。 どうして嘘をついたんですか。嘘をついてまで、そんなにまで会いたくなかったんですか。 そんなに僕のことを嫌いなんですか。 「ごめん。こんなつもりじゃなかった」 「こんなつもりって? 言ってることがわかりません」 玄関先に突っ立ったまま、冷静に言う自分の言葉は冷たく響いた。温が顔を歪める。困ったように、いつものように。 「翔太」 「僕を避けるのはどうしてですか。温さん、教えてください、どうしてですか?」 こんなことを尋ねる自分を、どうしようもなく馬鹿だと思った。出張じゃなかったんですね、会えて嬉しい。愚かでも、そう笑って彼を抱きしめればいいのだろうか。そうすればもう少し、夢を見ていられたんだろうか。本気で信じていた、いつかは彼が自分を好きになってくれるという夢。 温は答えなかった。携帯電話を握りしめたまま、翔太を見つめたままなにも言わない。 翔太は乱暴に靴を脱ぎ捨てて部屋の中に上がりこんだ。温のすぐ目の前まで歩いていって、彼の肩を掴んだ。 「嘘をついてまで、僕と会いたくなかったんですか。だったらどうしてそう言ってくれなかったんですか。会いたくないって言えばよかったのに。そんな簡単なことなのに」 掴んだ肩から、彼の温もりが伝わってくる。欲しかったのはただ彼の気持ちだった。愛されたかった。他には何もいらなかった。 「翔太……ごめん」 「謝らないでください。答えてください。いつまで僕に嘘をつくんですか?」 もうやめろと、頭の中で冷静な自分が言っている。何も聞くな。彼を責めるな。 彼は始めから、自分のことを好きではなかった。なのに無理やり付き合ってくれていただけだ。翔太がそう願ったから。優しい彼は拒めなかった。彼を責める資格は、翔太にはない。 「ごめん……お前を傷つけたくなかった。傷つけずに、ちゃんと、今度こそちゃんと別れようと思った。三年前みたいに、中途半端に思いを引きずらないように……」 「………」 三年前みたいに、中途半端に思いを引きずらないように、ちゃんと別れようと思った。 思考が止まる。頭が真っ白になる。彼を責めるなと思った気持ちが吹き飛ぶ。ちゃんと別れようと思った。 「別れるために……最初から、そのために?」 最初から、これっぽっちも望みはなかったのだろうか。再会して、無我夢中で彼に好きだと言った。付き合って欲しいと言った。今は好きでなくとも、いつか好きになってくれるなら、ずっと待つと。けれど温の中では最初から別れることが決まっていて、どんなに彼を好きになっても、どれだけ一緒にいても、好きになってくれる可能性など最初から一つもなかったというのだろうか。 「別れるために! それだけのために! あなたはずっと……!」 たまらなくなって大声で叫んだ。 好きだったのに、どうしようもなく好きだったのに。彼に会えると嬉しくて、口づけると、それだけで一日中幸せな気分になれたのに。 彼に会ってからずっと、幸せな夢を見ていた。いつか彼も自分を好きになってくれる。そうしたらきっと、この胸の不安はなくなるだろう。彼が前みたいにいなくなってしまうという不安。誰かに彼をとられてしまう不安。 肩を掴む手に力がこもった。嫌だ、嫌だそんなのは嫌だ。こんな言葉は聞きたくない。 何も聞かなかったことにして、すべてなかったことにして、やり直せないだろうか。これはきっと何かの間違いだ。間違いに決まっている。 「温さん……どうして?」 好きになるのに理由はない。好きになれないのにも。なのに同じ言葉を翔太は繰り返した。頭が混乱して、自分が何を言っているのかもよくわからなかった。唐突に温を抱きしめてキスしたいと思った。このまま押し倒して、自分のものにしようか。彼が嫌がっても、もう知らない。どうせ最初から別れるつもりだったからきっと彼はあんなことを言ったのだ。童貞だから寝ないんじゃなくて、ただ、相手が翔太だったから寝たくなかっただけなのだ。 「翔太。ごめん……お前のこと傷つけたくなかったのに、こんな、一番傷つけるような……ごめん……」 温が唇をかみ締める。掴んだ肩が震えた。はっとして、翔太は彼を見つめた。 「あ、つしさん……」 きつく目を閉じて、肩を震わせながら、温は泣いていた。片手で隠すように目元を覆う。そうしながら何度もごめんと繰り返した。 「泣かないで。そんな、逆じゃないですか。ふられたのは僕なのに、どうして温さんが泣くんですか」 泣きたいのはこっちのほうなのに、どうしてだか涙が出ない。そのかわりのように、彼が泣いている。五つも年上で、いつも翔太を甘やかしてくれた。優しくしてくれた。彼は嘘つきだけれど、あの優しさも、傷つけたくなかったという言葉も、嘘じゃない。それは絶対嘘じゃなかった。 「……泣かないでください。ごめんなさい。温さんを困らせてばかりでごめんなさい」 目を覆った手の甲に、精一杯の気持ちを伝えるために口づけをした。それから肩を離した。 「今はちょっと頭、どうかしてるから。……落ち着いてから電話します」 温に背を向けた。これ以上彼のそばにいるとどうなってしまうかわからなかった。悔しくて悲しい。彼を押し倒して自分の気持ちをぶつけたい。だけど泣いている。大切な人が、大好きな人が泣いている。慰めてあげたいのに、できない。こんなにも自分は無力だ。好きな人を泣かせることしかできないで、どうして好きになってくれなどと言えるだろう。 玄関先に落ちていた携帯電話を拾って部屋を飛び出した。振り返ることもできなかった。 |
| あとがき / 次でラストです。おお長かったですね。しかし真逆の季節ですとよ。 |