one-sided 13





 それから二週間、翔太からは何の連絡もなかった。
 落ち着いたらまた電話すると言った。けれど温は、彼はもう二度と連絡してこないような気がした。いったいこれ以上何を話すことがあるのだろう。自分は徹底的に彼を傷つけた。あんなにも一途だった彼を、一番ひどいやり方で裏切った。謝罪の言葉は、きっと彼は聞きたくないだろう。しかしそれ以外に、温には何も言えないのだ。
 傷ついた気持ちを、時間が癒してくれるのはいつだろう。いつになったら、彼は温のことを忘れて誰か他の人間に恋ができるだろうか。今度は裏切らない、誰にでも胸を張って言える、翔太のことだけを心から愛してくれる人間を。
 そのとき携帯電話の着信音が小さく響いた。ディスプレイを見て息を飲んだ。翔太からだった。
「はい……もしもし」
 どういうふうに、彼に答えたらいいのかわからない。だが無視することもできずに電話に出た。もうこれ以上は彼を裏切れない。
『あー、もしもし? 温さん、です?』
「……そうだけど」
 翔太の声じゃない。誰だ? 表示は確かに翔太の名前だったはずだ。じゃあ、彼の携帯で、誰か別の人間が電話しているということだろうか。
 それがどういうことなのかと考えて、愕然とした。
「翔太に何かあったのか!?」
 思わず叫ぶと、電話の相手もびっくりしたようだった。
『え、と、ええ、まあ。ちょっと事故にあって。それで、恋人に会いたいって言ってるけど、名前言わないもんだから、片っ端から電話してるんですけど。あいつの恋人に心当たりとかあります?』
「今どこにいる?」
『あ、大学わかります? 門の前まで来てくれたら俺が案内します』
 すぐ行くと言って電話を切った。そのまま車のキーだけ持って外に飛び出した。
 翔太が事故にあった? そんな、どうして。彼は大丈夫なのだろうか。電話の男の声はそれほど緊迫したものでもなかったからきっと大丈夫だ。そう自分に言い聞かせた。大丈夫でないはずがない。彼は何も悪いことをしていないのに。
 けれど翔太は陸上選手だ。命に別状はなくとも、もし足を怪我でもしたら走れなくなる。もしそんなことになったらどうすればいいのだろう。いったいどうしてやったらいいんだろう。
 赤信号で停車している間、ハンドルを強く殴りつけてちくしょうと呟いた。彼がただ、無事であるようにと願った。


「あ、あなたが温さんですか? はじめまして、俺荻野っていいます。廣瀬と同じ部活の」
 指定されたとおりに行った大学の門の前では、一人の男が待っていた。すっきりした、人好きのする顔立ちをした男だ。
「翔太は?」
「あ、無事です。身体はね。でも精神的には全然駄目です。すげー暗い。もともと暗いけど、輪をかけて」
「……事故にあったんじゃないのか?」
「あー、嘘です、それ。すいません」
 悪びれない答えが返ってくる。温は荻野と名乗った男の顔を見て、それからそうか、と呟いた。苦しいくらい不安だった心が凪いでいく。小さく息をついた。翔太に何もないのなら、それでいい。
「それで? 君は何がしたかったんだ?」
「ちょっと文句言ってやろうと思って。あいつの恋人に。だって、最近のあいつの走り滅茶苦茶なんですよ。ペースなんて全然考えずに飛ばして、見ててすげぇ不安になる。あんな走り方して大丈夫なのかって。言っても聞かないし、顧問も手焼いてるし。全然笑わなくなったし、声かけてもろくに返事もしません。はっきりいって周り全然見ずに自分の中に閉じこもってる感じです。それでも練習だけは出てくるのがあいつらしいんですけどね」
 荻野から聞かされる翔太の様子に胸が痛んだ。そんな状態が長く続いていいはずがない。無茶をすれば身体への負担も大きくなる。
 あとどれくらい時間があればいいのだろう。翔太くらい一途な人間は、きっと普通の人間より傷を癒すのに時間がかかる。
「今日部屋に押しかけて無理やり理由聞いたら、ふられたって、あいつが。相手は最初から別れるつもりでつきあってたんだ、最初から望みなんて全然なかったんだって。でも本気で好きだったんだって、淡白そうなあいつが言うんです。だから俺、携帯電話無断で持ち出して、ほんと片っ端から電話したんです。といってもたいして登録されてなかったんですけど。温さんって、男の名前だと思ったから、連絡するの最後にしたんだけど……廣瀬の恋人って、あなたですよね? あなたがあいつをふったんですよね?」
 答えるのにためらいがあった。翔太の友人に、男が恋人だったなどと言ってもいいのだろうか。そんなことを言って、翔太の評価が下がったりしないだろうか。
 しかし若者らしい、まっすぐな荻野の視線を受け止めていると、嘘はつけないと思った。頷くと、やっぱり、と彼はため息をついた。
「まさかって思ったんですけどね。でもあいつならありうるかなって気もしました。ちょっと変わった奴だから。それに、あなたかっこいいですしね。俺、あいつの恋人に会ったら何で別れるつもりでつきあったりするんだって文句言おうと思ったけど、あなた見たら理由わかってしまいました。男同士って、やっぱきついですよね? 世間的に?」
 直接的な彼の言い方は決して不愉快ではなかった。翔太の友人として、彼を心配してくれているのがわかる。それでいて冷静に、温の立場も慮っている。温は小さく笑った。翔太にいい友達がいるのが嬉しかった。
 けど、と、荻野は続けた。少しだけ強い口調になった。
「けど、それでもきっとあいつは本気であなたのこと好きなんですよ。男同士だとか、世間だとか全然気にしないで。俺にはあなたの気持ちわかります。だけど、あいつのこと、あなた自身は本当は、いったいどう思っているんですか?」
 翔太のことを、いろいろなしがらみはすべて無視して、本当はいったいどう思っているのか。
 温は返事ができなかった。初めて出会ったときは憎たらしい男だと思った。それが段々かわいいと思うようになって、再会してからは、よけいその気持ちが強くなった。だからこそ彼を傷つけたくなかった。純粋で一途な彼が、世間でいろいろ言われて辛い思いをしないように、汚されてしまわないように、早く別れてやりたかった。男を好きになるなんて彼の人生の汚点になると思った。それでも彼を突き放す勇気がなかった。会いたいと言われると、断れなかった。自分も彼に会いたかった。
 会いたかった。
「………」
 翔太。少しだけ温よりも背が高くて、痩せているくせに抱きしめるとしなやかな筋肉がついているのがわかる。少しとっつきづらい無表情が、笑うととたんに人懐こくなる。手をつなぐのが好きだった。身体を寄せ合って眠るのも。そばにいたがって、離れているのを寂しがった。
 受け入れたのは、ただそうしたかったからだった。彼のためじゃない、自分が彼と一緒にいたいと思ったから、拒めなかった。優しい口づけも、抱きしめる確かな腕も、すべて自分が欲しいと思った。彼のためじゃない、自分のために。
「これ……あなたから、あいつに返しておいてください。会ってくれますよね?」
「……ああ」
 差し出された携帯電話を受け取った。荻野はぺこりと頭を下げて、じゃあ失礼しますと踵を返した。その後ろ姿をしばらく見送って、温は手にした携帯電話をじっと見つめた。


 大学寮の503号室だと聞いたことはある。だが実際に来るのは初めてだった。会うときはいつも、温の部屋か街中で、翔太の部屋で待ち合わせしたことは一度もない。
 503号室の前に立って、表札に彼の名前があるのを確かめた。廣瀬。手を触れると、胸が苦しいような気持ちになった。あんな別れ方をしてから、二週間ずっと会わずにいた彼に、どういう顔で会えばいいのかまだわからない。どういう風に言えばいいのだろう。いったい何を伝えたいのだろう。それさえまだ、自分の中でかたまっていない。けれど彼には、本当のことを言わなければならない。結果がどうであろうとも、本当の気持ちを。
 インターホンを鳴らしても返事がなかった。間隔をあけて何度か鳴らす。やっぱり返事がない。
 いないのだろうかと思って、呼びかけてみた。翔太、と。少しだけ声を大きくして、もう一度呼ぶ。
 いないのなら、帰るまで待っていようと思いかけたときに、足音が聞こえて、すぐに扉が開いた。中から翔太が顔を出す。彼は温を見て、信じられないというような表情をしていた。久しぶりに会う彼の顔。温は笑って、よう、と言った。
「中、入っていいか? 嫌なら帰るから。俺のこと顔も見たくないんだったら」
「いいえ……入ってください。どうぞ」
 翔太も戸惑っているように見えた。どうぞと言いながら、玄関に突っ立ったまま動こうとしない。お邪魔しますと言って温が中に入ろうとすると、ようやく自分が邪魔をしていることに気づいたのか、身体を引いた。
 腕があたる。とっさに翔太が腕を引いた。それから自分で傷ついたような顔をした。
 怯えるような彼の動作が、悲しかった。温は彼の腕をつかんで、その目を見つめ、そっと離した。
「これ、荻野くんから。返しといてくれって」
 預かった携帯電話を渡すと、翔太は怪訝そうな顔をした。電話と温の顔を見比べて、眉を顰める。
「荻野に会ったんですか?」
「さっきね。お前のこと心配してた」
「……携帯、勝手に持ち出してあなたに連絡したんですか。あいつ」
 翔太が不愉快そうに唇を噛む。
「怒るなよ。本気で心配してた。いい友達だ」
「けど、何か温さんに言ったんじゃないですか。俺が変なこと言ったから、あいつ何か失礼なこと言いませんでしたか」
「何も。大丈夫だよ」
 ごめんなさい、と翔太は俯いた。それから気をとりなおしたように笑って、「温さんがこの部屋に来てくれるの初めてですね」と言った。痛々しい笑顔。
「ああ」
「今ちょっと散らかってるけど、あの、ちょうど探しものしてたから……」
「探しもの?」
「はい。あ、座ってください。ソファもなくてすみません」
 ノートパソコンの乗ったデスクの下の椅子を示す。温は頷いて、言われたとおりにした。学生の一人暮らし用にしては、広くて住み心地のよさそうな部屋だ。散らかっているというわりには片付いていて、几帳面な翔太の性格がうかがわれる。
 翔太は部屋の隅から何かを持ってきて、温の前に立った。そして手に持っていたものを温に向かって差し出した。
「ちょうどよかった。あの、これ、よかったら持っていてもらえませんか」
「これは……?」
「中学のとき、初めて出た大会で優勝したときのメダルです。三千メートル。もっと大きな大会のもあるけど、僕にとってはこれが一番思い出に残ってるんです。一番うれしかった。だから温さんに、持っててほしいんです。もし嫌じゃなかったら」
 差し出された手のひらくらいの大きさの箱。開けると、小さな金色のメダルが入っていた。走る姿の像が彫りこまれている。
「俺が持ってて、いいのか?」
「はい。それで、もう一つ、僕が引退するまでに取れた一番いいメダル、あなたにあげます。かまいませんか? 僕はそう思うだけで、これから頑張れると思うんです。あなたのために頑張ってるんだと思えたら、きっといい記録が出せると思うんです」
 メダルを持った温の手を、包み込むように翔太が両手で握りしめた。温かい手だ。やっぱりこの暑さの中冷房もつけていない彼の部屋は暑く、手のひらが汗ばんでいる。
「温さん。もしもこれから、何か困ったことがあったり、悲しいことがあったら、僕のこと思い出してください。今はまだ頼りないと思うけど、これからもっといい男になります。あなたのこと助けてあげられるような大人になります。だから本当に、困ったときだけでいいから、僕のことを思い出してください。あなたのためなら、僕はどんなこともする。何を犠牲にしてもあなたの力になります。大好きです。困らせてばっかりでごめんなさい。でも、これからもずっとあなただけが好きです。電話番号は変えません。住所変わったら必ず手紙書きます。だから思い出してください。幸せなときは忘れてていいから……」
 握りしめた温の手に、額を押しつけて翔太が震える声で言った。願うような、誓うような言葉。
 温はたまらなくなった。どうしてこいつはこうなんだろう。こんなにも、自分なんかに対して一生懸命なんだろう。
「翔太……」
 身体を寄せて、触れているのとは逆の手で彼の背中を抱きしめた。暑さも気にならない。しっかりと抱きしめると、一瞬驚いたように硬直していた翔太が、すぐに強い力で抱きついてきた。
「翔太、ごめんな。傷つけてごめん。俺、今まで世間体だとか、お前のためだとか、そういうのばっかりで、全然自分のこと言ってなかった。いつもお前に会いたかったくせに、会えないと寂しかったくせに、一言も言わなかった。全部お前のせいにした」
 会いたいと言ってくれるのをいいことに、仕方ないなとまるで、全部翔太のわがままのように。
 会いたいのは自分も同じだった。彼といる時間は楽しかった。会話がなくても、触れなくても、同じ部屋に翔太がいるというだけで、嬉しかった。
「お前のこと好きだよ。お前が別れる決意したんなら、言わないほうがいいと思ったけど……お前が、ずっと俺のこと好きだなんて言うから。馬鹿野郎。お前が新しい恋するんじゃなかったら別れることに全然意味なんかないじゃないか」
 今でも、別れたほうがいいのかどうか、わからない。どうするのが翔太にとって一番いいのかなんて、時間が経ってみなければ本当にはわからない。だったらせめて、今、自分の気持ちに正直になりたい。それが彼にとって結果的に悪いことでも、そんな先のことを考えて我慢するのも、今彼を傷つけるのも、もうしたくない。
「好きだよ。俺もお前のこと、好きだ」
「……温さん」
 ほんとうですか、と呆けたような翔太の声がする。感情を忘れたような声。
 それから急に、身体を離して翔太がまっすぐに温の目を見つめた。
「本当ですか? 僕はまだ、いつかあなたが僕を好きになってくれるかもしれないと、信じててもいいですか?」
「そんなこと信じるな。いつかじゃないよ。今、お前のこと好きだって言ってるんだよ。聞こえないのか」
「だって……だけど、僕はずっと片思いだったじゃないですか」
 今まで温が自分の気持ちに目を逸らしていたから、すぐに信じてもらえないのも仕方がないのかもしれなかった。好きだと言えばすべてが上手くいくなんて考えていたわけじゃない。翔太に嘘をついたことも、たくさん傷つけたことも、何一つ消えてなくなることはない。
「なあ、もし、やり直せるんだったら。今度は俺から言うよ。お前のことがすごく好きだ。だから、もし俺のこと許してくれるんだったら、また付き合ってくれないか。俺、今度はもっとちゃんと、自分に正直になるよ。もう二度とお前に嘘ついたりしない。信じられないかもしれないけど……」
「温さん」
 翔太が両手を温の頬にあてた。そこにいることを確かめるようにそろそろと頬を撫でる。
 不意に、翔太が強く抱きついてきて、温の髪に顔を埋めた。
「一つだけ、約束してください。もう僕のせいであんな風に泣かないでください。温さんが泣くの見たの、二回目です。どっちも、僕はあなたを慰めてあげられなかった。あんな風に泣かせたくないのに、守りたいのに。僕はあなたが泣くとたまらなくなります。どうしていいかわからなくなる。絶対別れるもんかって思ってたのに、あなたが泣くから、あきらめないといけないのかと思った。僕はあなたの涙に弱いんです」
 だから泣かないで、と温にしがみついたまま、翔太がしぼり出すような声で言った。
 温は両手を彼の背中に回した。温かい身体。広い背中。
「言っとくけど、十歳過ぎてから泣いたの、二回だけだからな。お前の前だけだ。別に涙もろいわけじゃないんだぜ」
 一度目は瀬奈への失恋が決定的になったとき、二度目は翔太を傷つけたとき。
 考えてみれば二度も翔太に泣き顔を見られたことが気恥ずかしくて、温は赤くなりながらせめてもの反論をした。
 翔太は小さく肩を震わせて笑った。
「安心しました」
「忘れろよ、頼むから。いい年して男が泣くのなんか恥ずかしい」
「忘れません。あなたのことは何一つ、忘れたりできません」
 温の髪を撫でていた手が、そっと背中におりてくる。そろそろと背を辿りながら、少しだけ翔太の動きが止まった。温の耳元で小さく、「ところで、童貞とは寝ないっていうの、やっぱりまだ有効なんですか?」と自信なさそうに尋ねた。
 温は思わず吹き出して、お前次第だと答えた。
「もうちょっとキスがうまくなったら、その次のこと、教えてやるよ」
 噛みつくようにキスをすると、翔太が真っ赤になった。それから困ったような顔で、努力します、と彼らしい生真面目さで、返事をした。


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あとがき / これにて完結です。やっぱり私が書くのはハッピーエンドになってしまいます……。ところでもお忘れかもしれませんが、実はこの話はBL雑誌(シャレ−ドですが)に応募して、1次選考は何とか通過した話だったりします。その雑誌では応募作全部に評価文を送ってもらえるのですが、その評価は次のようなものでした。どこにでもあるような話を丁寧に書いていて読みやすい(これは好意的な評価)。女の子が好きというところから始まるとBL読者はひく(なるほど)。前半の展開がたらたらしている。前半では翔太がミステリアスな感じだったのに、後半に入るとうざいくらい一途な人になっていてちょっと怖い、温が優柔不断。このあたり、なるほどなるほどと思うところが多いのですが、私が一番衝撃を受けたのは「このページ数で最後までしてないなんてありえない」というような評価でした……(しかも複数)。あ、やっぱりそうなのですか、ごめんなさい。ここまで読んでくださった皆様にもごめんなさい。別に書きたくないわけじゃないのですが、この展開では書けなかったというか、最後にとってつけたように書くのも抵抗があったというか……。また機会があったら書こうかな。いや読みたくないですか。