朝からずっと憂鬱だった水曜日、案の定、温の顔を見るなり瀬奈が飛びついてきて、「私廣瀬くんと付き合うことになったの!」と満面の笑顔で言った。予想していたことながらつらいと思う気持ちは抑えられず、仕方なく、温は曖昧な笑顔を浮かべた。 「よかったね」 「うん! 告白してよかったー! 私のこと好きになってくれたわけじゃないんだけど、でも頑張って両思いにしてみせるんだ、絶対」 そういう意味での努力の力を、正直温はあまり信じていなかったが、口に出してはもちろん言えなかった。それに実際のところ、全身で自分を好きだと言ってくれるかわいい女の子に気持ちがぐらつかない男は珍しい。瀬奈なら翔太の失恋の傷も癒して新たな思い人になれるのかもしれない。 「まあ、頑張れ。瀬奈ちゃんはかわいいから大丈夫だよ」 「ありがと、先生。先生が応援してくれたおかげだよ。今度何かお礼するね。何がいい?」 「なんでもいいんだ?」 「うん。私にできることだったら」 「へえ、じゃあさ」 キスしてもいい、と言おうとして、理性で思いとどまった。大学生にもなって何を馬鹿なことを言うつもりだったんだと激しく自己嫌悪する。片思いだった相手と上手くいって喜んでいる子に迫るなんて。 「……じゃあさ、期末テストで点数上げてくれ。せめて英語だけでも」 「あ、駄目。それは無理」 悪いけどそれは聞けない、と瀬奈は悲壮な顔で大きく両手をクロスさせ、バツを示した。 「だってこれからは廣瀬くんとデートもいっぱいしないといけないし、勉強なんてしてる暇なくなるもん」 「デートはいいけど、勉強もちゃんとしないと嫌われるぞ。彼、優等生なんだろ? 成績下がったらつきあってくれなくなるかもしれないぞ」 「ええっ!? そういうのあると思う?」 ショックを受けたように瀬奈が口元を押さえた。彼女は決して頭は悪くないはずだが、いかんせん、気が多くてすぐに集中が途切れるから今一つ成績はぱっとしない。翔太と比べればどうしても見劣りする。 「あるだろうよ。だから勉強をきちんとして、時々デートもしたらいいだろ」 「……ぶー、ちぇー……」 しぶしぶ瀬奈は頷いた。翔太と付き合うことでもう少し真面目に彼女が勉強に取り組むのならいいことだ、と温は自分に納得させるように思った。 それから机に向かって、先週の続きの問題集に取り組んだ。彼女はとにかく飽きやすいから、一つのことを掘り下げて学ぶよりも、なるべく多くの問題を解かせるほうが身につくタイプだと温は判断していた。だから授業の内容とほぼ足並みを揃えて問題集をさせるというのが授業の基本パターンで、それに時々単語や慣用句の小テストを混ぜる。覚えるまで何度でも繰り返し、時間をあけて同じ問題を出す。 「あ、先生。なんか先生、今日ちょっといっつもと違うね。あー、髪切ったんだあ!」 温は腕時計を見て時間を確かめた。七時四十分。今日はまだしも集中がもったほうだ。翔太に嫌われるかもしれないという気持ちが彼女を頑張らせているのだろう。 「もういまさら気づいてくれなくたっていいよ。どうせ瀬奈ちゃんは愛しの翔太くんのこと以外はどうでもいいんだろ」 「やだー、拗ねないでよ。気づかなくってごめんね。先生、今のほうがいいよ、爽やかでよけい色男になったよ」 「うーん、嬉しくない」 「なんでー。先生ホントかっこいいよ。私みんなに自慢したいくらい」 「別におだててくれなくていいから、どちらかといえば真面目に勉強してほしい」 「今日はもう終わりの時間、でしょ」 置時計を見てから瀬奈はぱたんと問題集を閉じた。仕方ないなと思いながらも温は小さく笑った。 髪を切ったのは一昨日だ。たまたま黒田――美容師見習の友人の名前だが――から飲みに行かないかと誘いの電話があり、そのときついでに頼んだ。黒田は喜んで、飲みはやめてわざわざ髪を切りに来てくれた。 「どうなふうにする? ヴィジュアル系っぽくしてみる?」 うきうきとそんなことを本気で尋ねてくる友人に、慌てて首を振った。 「今より髪を短くして、あと、もう少し黒っぽい色に染め直してほしいんだけど」 「えっ、なんでだよ! 金髪にするって約束したじゃんよ!」 「いつしたそんな約束。もうちょっと、真面目な学生っぽくしてほしいんだよ。一応家庭教師として生徒の親に悪く思われないくらい」 「ちぇッ、つまらね」 黒田は吐き捨てたが、温の望みどおりにしてくれた。しかし髪の色はまだかなり明るくて、もうちょっと黒いほうが、と文句を言うと耳を塞いで聞こえない振りをした。黒田は黒い髪が嫌いなのだ。本人も会うたび違う髪の色をしていて、そのときは明るい赤だった。 「失恋したときってさ、女の人はよく髪切ったりするけど、男の人はどうなのかな? 髪切るの?」 「………」 瀬奈に一番聞かれたくないことを聞かれた気がして温は顔をしかめた。 (別にそういう理由で切ったんじゃない。単に伸びてきてたから、鬱陶しかったし……) 言い訳じみていて温はひそかにため息をついた。 「あっ、先生、ひょっとして失恋したの!?」 そのため息に目敏く気づいた瀬奈が大声を張り上げる。 「うるさい」 「誰に、誰に? 先生みたいな人ふるなんてもったいないよ。その人わかってないよ」 瀬奈が無邪気に傷を抉ってくる。温は瀬奈の声を無視して片づけを始めた。もう八時を過ぎている。 「先生、元気出してね!」 帰り際、真面目な顔をして瀬奈がガッツポーズをしてみせた。 誰のせいで落ち込んでいるんだとは、もちろん言えるはずがなかった。 「髪切ったんですね」 部屋に入るなり、振り返った翔太が開口一番そんなことを言ったのは、ある意味非常に皮肉なことだと温は思った。片思いの相手である瀬奈はすぐには気づきもしなかったのに、恋敵である男のほうはすぐにそれに気づく。まあもちろん、翔太は温を恋敵などとは微塵も思っていないだろうけれど。 「ああ、夏だし」 「似合いますよ」 さらりと言う。温は翔太の顔をまじまじと見て、こいつ不器用で奥手な男かと思っていたが案外プレイボーイになれるタイプなのかもしれないと思ったりした。もっともそんな才能を自分の前で見せてくれなくてもいい。年下の男にそんなこと言われたくはない。 「お前嫌いだろ、茶色い髪」 「別に……見た目だけで判断する気はありません」 「でも見た目では嫌いなんだろ」 「なんで絡むんですか」 翔太が不思議そうに温を見る。気分を害した様子でもなく、ただ困惑したように。 (からむ……) 年下にそんなことを言われてしまってはもう、立つ瀬がないどころではない。 脱力して、温は承諾も得ずにベッドに寝転がった。自分では気にしていないつもりでいたが、予想以上に瀬奈のことでショックを受けているのかもしれないと投げやりに思った。もういい。この部屋はくそ暑いし、もうどうにでも好きにしてくれ。どうせ俺は告白もできずに失恋した情けない男なんだよ。 「先生」 「あと五分待て。まだ八時なってないだろ」 「それはかまいませんけど、疲れてるんですか。気分悪いんだったら今日はもう帰られたほうがいいんじゃないですか」 温は寝転がったまま、どこか心配そうに自分を見下ろしている翔太を見た。 「おまえけっこういい奴だな、悔しいけどね」 「先生。会うたび性格変わってますよ」 「ああ、今まで取り繕ってたんだ。でもいいだろ、ちょっとだけだらだらさせてくれよ」 くそ、情けない。その思いがあんまり募りすぎて、温は投げ出した腕に顔を埋めて唸った。自分の部屋の汗臭い布団とは違っていい匂いがする。やっぱり布団もたまには干してやらないといけないなとつまらないことを考えた。 瀬奈のことは忘れないといけない。家庭教師を続ける以上、完全に忘れてしまうことは不可能でも、彼女のことを好きだという気持ちだけでも捨ててしまわなければ。彼女は好きな男と付き合えることになって、もう他の男が割り込む隙間などないのだから。 「翔太」 何とか肘を持ち上げて顔を上げ、温を無視して勉強することにしたらしい翔太の後ろ姿に向かって呼びかけた。少し驚いたように翔太が振り返る。考えてみたら下の名前を呼び捨てにしたのは初めてかもしれない。 「ちょっと」 「……なんですか?」 露骨に不審感を滲ませつつも、素直な高校生は温のそばに近づいてきた。別に何かをしようと思って呼んだわけではなかったが、困ったような顔をして、かといって年上の家庭教師を無下にすることもできずしぶしぶ自分に従っている翔太を見るといじめてやりたいような気分になった。 「キスしたことあるか」 「………」 「彼女いるんだろ。教えてやるよ、俺、わりに上手いって言われるから」 翔太の腕を掴んで引き寄せると、当然だがものすごい抵抗を感じた。それでも無理やり引っ張ったせいでベッドの上に倒れこむ形になる。ベッドに押しつけて、頬を撫でた。これが瀬奈の好きな顔だ、と思った。瀬奈の好きな目と、鼻と、髪、唇。いつか翔太と瀬奈がキスすることもあるんだろうという当たり前のことに、ひどく傷ついた。自分は触れられないものに、彼は触れることができる。 目を閉じて口づけると、男にするのも女にするのもあまり違わなかった。驚いて固まっているらしく、まったく抵抗のない翔太の歯列を割って舌を滑り込ませた。柔らかく、あたたかい感触に、まるで瀬奈にキスしているような気分になる。 角度を変えて何度も口付けながら髪をまさぐった。短く、硬い髪。ああ、やっぱり瀬奈じゃないと確認させられたが、それでも離れがたくてしばらく、そうしていた。我に返った翔太が思いきり温を突き飛ばすまで。 翔太は素早く身体を起こすと、ごしごしと何度も唇を拭った。 「あー……ごめん」 ぼんやりとその姿を見つめながら温が言うと、翔太は一度だけ睨みつけるように温を見たが、すぐに目を逸らし、何も答えなかった。 「ごめん……」 瀬奈のことが、自分で思うよりずっと、本気で好きだったのだと気づいた。 なのに彼女と付き合える日は一生来ない。どんなに思っていても、触れたくても、その権利があるのは自分ではない。 片手で両目を覆って、温は声を殺して泣いた。翔太に申し訳なく思う気持ちと瀬奈への届かない思いがいっしょになってわけがわからなくなった。ただもう絶望的に、自分は駄目な人間だと思った。翔太とキスをした、そのあたたかな感覚が温を慰め、罵った。 結局その日は少しも授業にはならなかった。けれど翔太はずっと黙って部屋にいて、温を慰めもしないかわりに非難もしなかった。温が帰ると告げたときだけ、わずかにほっとした顔をして頷いた。それから帰り際、「先生」と温を呼び止めた 「日曜も来てくれますよね?」 もう彼の家庭教師は続けられないだろうと思っていたときにそう問われ、返事ができずにいたら「来てください」と静かな声で、それでも強く言われた。 「……ああ」 抱えきれない自己嫌悪を感じながら、温はあやふやに頷いた。 |
| あとがき / 何だか目がしょぼしょぼします……(-_-)……はっ、老眼!?(全然話と関係ない) |