短い梅雨はわずかな雨と湿気を帯びた蒸し暑さの記憶を残して終わり、大学も二ヶ月の夏休みに入ったので、温は長期の暇を持て余して今までのバイトのほかに、短期の塾講師のバイトを入れた。講師といっても相手は小学生だから気は楽だった。小学生に、遊びに近い感覚で英語の基礎を教える夏休み講座で、同じ塾で長期にバイトしている同級生から紹介してもらった。 夏休みには瀬奈も翔太も予備校の夏期講座を受けるというから家庭教師は休みにしようかと尋ねたが、ふたりとも、それとこれはまた別の話だとわけのわからないことをいうので今までどおり週二日で続けることになった。ただし翔太のほうは、夏休みの間だけ、始まりの時間を六時に早めた。 正直をいうと、あのあと翔太の顔を見るのは大変に気まずかった。しかし彼はまるで何事もなかったようにいつもどおりの礼儀正しさで迎えてくれたし、初めて会ったときに比べたら笑顔を見せてくれることも多くなった。逆に平静でいられなかったのは無茶なことをした温のほうで、彼の顔を見るとキスしたときの感触や、瀬奈に対するやましい気持ちを思い出して、たまらなくなった。 夏休みの間、時々黒田や今日子からどこかへ遊びに行かないかという誘いの電話がかかってきたが、温はたいていの誘いを断った。昼は塾講師、夕方はコンビニのバイトを毎日のように入れていて時間がなかったせいもあるし、遊びに行くとどうしても金を使うのも嫌だった。バイトでためた金でもうちょっとマシな服を買い、マシな暮らしをしようと決意していたからだ。 おかげで十月に入り、久しぶりに第二外国語で選択したドイツ語の授業で顔を合わせた今日子は、「なんか温くん、雰囲気変わった?」と声をかけてきた。 「ちょっとお洒落になった感じ」 「前はどうだったって言いたいんだ?」 「やだ、そういう意味じゃないわよ」 アハハと今日子は笑った。それから急に真面目な顔になり、 「けど、どうして? 夏休みも全然付き合ってくれなかったし……ひょっとして、彼女でもできた?」 今度は温が苦笑いする番だった。もしそうならこんなアルバイト三昧の休みを過ごすもんかと心の中で呟いて、口に出しては言わなかった。そんな自分でも情けなくなるようなことをわざわざ彼女に話すこともない。 「で、できたの? 彼女?」 今日子は誤解している。違うと言おうかと思ったが、考えてみたら誤解されて困ることもないので黙ったままでいた。すると今日子が一瞬泣きそうな顔をしたように見えた。 「そっかあ……私、遅かったんだぁ。くそ、もっと早く告白しとけばよかった」 ちぇっと笑いながら今日子は言ったが、その声は震えて聞こえた。本当に今にも泣きそうだった。 (告白? ……俺に?) ひょっとしてこれは愛の告白なのだろうかと温は呆然とした。好きだとか、付き合ってくれと言われたことは何度かあるからそういう意味では驚かなかったが、相手が戸川今日子だというのはあまり予想していなかった。彼女は誰にでも好かれるような人間だったから、当然彼氏もいるものだと思っていたからだ。 改めて今日子を見ると、薄手のブラウンのセーターとロングスカートが秋らしく、女らしくて、セミロングの髪は派手過ぎない栗色に染められていて柔らかそうだった。もし彼女なんていない、つきあってくれと言ったらおそらく彼女はオーケーしてくれるのだろう。何も言わなければ、温に彼女がいると誤解している今日子は温のことをあきらめて、いつか別の誰かを好きになるのだろう。 瀬奈の顔を思い出す。あきらめようと決意して、けれど、本当にあきらめられたのかどうかは自分でもまだよくわからなかった。それでも彼女とは付き合えない、それだけはわかっている。 だからもし、自分のことを好きだと言ってくれる相手がいるのなら。 (次に付き合う相手は自分から好きになった子だって、決めてたけどなぁ) 相手が今日子ならその決意が鈍る。彼女は温が今まで付き合った相手と比べても一番といえるほどかわいいし、性格もあっさりしているところが温の好みだった。その彼女が思いを寄せてくれているのなら断るのはもったいない。ごくごく自然にそう思ったが、けれど結局、今日子の誤解を否定する言葉は出てこなかった。 「……私ね、温くんに謝らないといけないことがある」 授業が始まる直前に、ぽつりと今日子が呟いた。時間がとれないかと聞かれたが、講義の後はすぐにコンビニのバイトを入れていたので、月曜の十二時に待ち合わせの約束をした。何か謝られるようなことをしたのだろうかと気になったが、さほど深刻に受け止めてもいなかったので、講義が始まると、すぐに頭の片隅に追いやられてしまった。 授業が始まって一時間二十分で、瀬奈が集中力を放棄した。 時計を確認して、その時間がいつもより早いことに温はショックを覚える。秋になったから少しは真面目に勉強するかと思えば、最近前にも増して集中力も成績も落ちてきているようだ。 「瀬奈ちゃん。俺君のお母さんに申し訳が立たないんだけど」 「だって、だって先生。もう三ヶ月以上経つんだよ? なのにキスもしてないってどう考えてもおかしいと思わない? 健全な高校生がだよ?」 早い話が、翔太と上手くいっていないという話なのだった。というよりも、翔太が何もしてくれないという話。 翔太の真面目そうな清潔な顔を思い浮かべながら、やっぱり奥手な奴なんだなと温は思った。けれど三ヶ月何もしないからといって責められてもかわいそうだ。それに何より、そんなことを自分に言われても困る。 「大事にしてるってことでしょ」 「だってそういうふうな感じじゃないんだもん。先生は翔太くんのこと知らないからわからないんだもん。私と一緒にいても、心ここにあらずっていうか……話しかけても、適当に話合わせてくれてるだけなの私だってわかるよ。自分のことはほとんど何も話してくれないんだよ」 瀬奈はもう、今にも泣き出しそうになっている。一途な分、思いこみが激しくてすぐに感情が高ぶる。 翔太のことも知っている温としては、一方的に彼を責める気にもなれずに答えに困った。彼は確かにあまり口数が多いほうではないし、進んで自分のことを喋りたがるタイプでもない。かといって人の話を聞かないというわけでもない。 「先生。私、やっぱり頑張っても駄目なのかなァ。翔太くんのタイプじゃないのかな」 「なに弱気になってるんだ。絶対好きにさせてみせるって言ってたのは瀬奈ちゃんだろ」 「でもさ、人の気持ちって、努力だけじゃどうにもなんないじゃん」 とうとう瀬奈はべそをかいた。真っ赤な顔をして涙をこらえようとしているのか、しきりに瞬きをする。しかしそのうちにやはりこらえきれなくなって、手の甲で涙を拭った。 温は一瞬、悩んで、しかし自分にやましい気持ちはないと言い聞かせてそっと瀬奈の背中を撫でてやった。すぐに彼女が抱きついてきて、思わずどきりとしたが、よけいなことは考えないようにしてただ慰める意図で軽く抱きしめた。 「じゃああきらめる? 今ならあきらめられる?」 「わかんない……」 瀬奈は正直だった。自分の気持ちを自分ですべて決められるのなら何も悩む必要はない。けれどそういうふうにはできないから難しい。 「好き、翔太くん、大好き。だから私のこと好きになってよ、お願いよ」 すがるように言われても、温には何も言ってやることができない。ずっと抱きしめたいと思っていたはずの温もりは、けれど少しも嬉しくなかった。瀬奈の泣き顔は見たくない。悲しい言葉も聞きたくない。だが彼女を笑顔にしてやれるのは翔太だけだ。 瀬奈が望むなら、抱きしめてキスしてやるのは簡単だ。だが温ではなく、翔太のキスがどうしても必要なら……頼めば、彼は瀬奈を大事にしてくれるだろうか。自分の彼女が不安がっていることを知れば、キスの一つくらい、別に難しくも何ともないことだ。 (けど、まさかあいつ、俺とのキスが初めてだったりしないよな) それで男なんかとファーストキスをしてしまったことがトラウマになって、瀬奈にキスもしていないのだったら俺のせいか、と考えて、ひどくおそろしい気持ちになった。 どちらにしろ、本意ではないが、翔太に確かめないといけない。正直彼に対しては今となってはもう嫉妬より後ろめたい気持ちのほうが強くて、できればあまりおせっかいなことも馬鹿なこともしたくはないのだが、瀬奈が泣いているし、もし万が一自分に責任があるのならばはっきりしなければいけない。 「頑張れ。好きなら頑張るしかないだろ、意味がなくてもさ」 瀬奈はしばらく温にすがったまま泣いて、やがて顔を上げると、うん、と頷いた。 「月曜ね、翔太くんの誕生日なの。翔太くんが喜ぶプレゼントあげて、キスしてって言ってみる。女の子から言ってもいいよね? 私キスしたいもん」 「そう、その調子。瀬奈ちゃんらしくなってきたね」 泣き顔のままえへへと瀬奈が笑った。身体を離して頭を撫でてやると、くすぐったそうにまた笑った。 「ありがと、先生。私頑張る」 瀬奈が少しは元気を取り戻してくれたことにほっとしつつ、温は何と言って翔太に話をすればいいのかと、ひそかにため息をついた。 |
| あとがき / 季節がちょうどリアルタイムになってきましたねえ。他人事のようなあとがき……。 |