one-sided 5





 十月に入ったばかり、日によってはまだ少し暑いと感じる日もあるが、冬が近づいていることが日に日に身をもって感じられるようになった。今はまだ過ごしやすい気候だが、十一月に入るとすぐに寒くなるだろう。
 ビル清掃のアルバイトを終えて、帰りがけに温はCD専門店に立ち寄り、洋楽のCDを一枚買った。自分でも持っていない男性歌手のCDだったが、試聴して発音がわかりやすくきれいだったのと、音楽的にも静かな感じが翔太にあっている気がして選んだ。月曜が誕生日だと聞いたから、プレゼントでもしようかと思ったのだった。
(いろいろ、まあ……迷惑かけてる気がするしな)
 少し話をするつもりでいつもより二十分ほど早めに家を出た。インターホンを押すと、最近ようやく温に慣れてきたらしい翔太の妹の香里が出て、「こんばんは」とぺこりと頭を下げた。
「今日はちょっと早いね」
「ああ、お兄ちゃんに話があったから」
「明日ね、お兄ちゃんの誕生日なの。おっきなケーキ食べるんだ。先生も来る?」
「明日は来れないんだ。残念だけど」
 香里は少しがっかりしたような顔をしたが、頭を撫でてやると嬉しそうににこにこ笑った。その後ろから母親が出てきて、「あら先生今日は早いんですね」と娘と同じことを言った。
 温も同じ答えを返して、すぐに二階の翔太の部屋へ上がった。軽くノックしてドアを開ける。翔太は振り返って「こんばんは」と小さく笑った。
 最近本当に、彼は温に対して愛想がよくなった。無口なのは相変わらずだが、容易に笑顔を見せるようになり、肩に入れていた力が抜けたように態度が柔らかくなった。
「明日誕生日なんだってな。一日早いけどおめでとう。これ、よかったら聞いてみな。少しは英語の勉強になるから」
 買ったばかりのCDを差し出すと、翔太は少し驚いたように温を見た。
「どうして僕の誕生日を知ってるんですか」
「あー、この間、お前のお母さんに聞いた」
 まさか瀬奈に聞いたとは言えない。適当に言葉を濁すと、翔太は特に不審に思った様子もなく、そうですか、と呟いて、笑った。
「ありがとうございます」
「どういたしまして。優等生の生徒に、ご褒美な」
 言いながら、妹にしたのと同じように頭を撫でてやると、さっと翔太の顔から笑顔が消えた。強張った表情に、温は慌てて手を引く。
「あ、ごめん」
「……いえ、ちょっと驚いただけです。すみません」
 自分で自分の髪を触って、ぎごちなく翔太が微笑んだ。「それより今日はいつもより早いですね」と言われて、温は自分が何をするために早く来たのかを思い出した。
「ああ、ちょっと、話があって」
「話? 僕にですか」
「ああ、少しだけ時間いいかな」
 翔太の隣に腰かけると、翔太は頷いた。手に持ったままだったCDをそっと机の上に置き、温に向き直った。
 どういうふうに切りだそうかと迷った。要するに瀬奈にキスしてやってくれと言いたいのだが、どう考えても、温がそんなことを翔太に要求する権利はない。かといって、なるがまま放っておくというのも瀬奈がかわいそうだった。せめて翔太の本当の気持ちを知りたい。もし彼が瀬奈のことを好きになれないのなら……そうだとしたら、いったいどうしたらいいのだろう? それでも瀬奈と付き合い続けてくれと頼むべきなのか、それならさっさと別れろと言うべきなのか。
 わからずに、仕方なく、ごちゃごちゃ考えるのをやめて温はとりあえず口を開いた。
「島田瀬奈って知ってるよな。俺、言ってなかったけど彼女の家庭教師もしてるんだ」
「え?」
 翔太が驚いたように温を見た。
「うん、だからお前たちが付き合ってるの知ってるよ。瀬奈ちゃんがいっつもお前のことばっかり話してるし。それで、おせっかいなのわかってて言うけど、彼女、お前が自分のこと本当に好きかどうかわからないって泣いてたぞ。付き合って三ヶ月以上経つのにキスもしてくれないってさ」
 翔太の驚きの表情は温の言葉を聞いているうちに消え、最初に会ったときのような何を考えているのかわからない無表情がとってかわった。他人によけいな口出しされることが不愉快なんだろうと温は思ったが、言ってしまったことは取り消せないし、言わずにいたとしても後悔するだろうと思った。
「それで?」
 落ち着いた乾いた声で翔太が言った。
「それで、僕はどうしたらいいんですか」
「付き合うことに決めたなら、やっぱりそれなりのことしてあげるべきだろ。そうじゃないなら、お前がどうしても彼女のこと好きになれないなら、はっきりさせたほうがいい、たぶん」
 呟く声が小さくなっていくのが自分でもわかった。正直、どうするのが一番いいのかなどわからないのだ。翔太の冷静な冷たい声を聞いていると、やっぱり自分がよけいなことを言うのは間違いだったような気がした。
「……俺が口出すことじゃないけどな。ごめん、勝手なこと言って」
「島田にキスしたらいいですか。そうしたら、先生は満足なんですか」
 翔太が目を逸らして、机の上から英語の辞書を取り出した。「だったらそうします」
 その言い方は彼らしくなく、投げやりでどこか挑戦的だった。
「そんなこと言ってないだろ」
「じゃあどういうつもりで言ってるんですか。そもそも先生は、どういうつもりで僕に……」
 不意に翔太が口を噤んだ。温を一瞬睨みつけるように見て、すぐに目を逸らした。
「島田のことは言われなくてもきちんとします」
 そう言われると、温はもう何も言えなくなった。
(そもそもどういうつもりでお前にキスしたのか、って……?)
 翔太が言いかけてやめた言葉。あのあと何事もなかったかのように振舞ってくれていたからてっきりそれほど気にしていないのだと思っていたが、やはりずっと気にしていたのだと思い知らされたような気分だった。
 言えるわけがなかった。本当は自分も瀬奈のことが好きで、彼女と付き合い始めた翔太に彼女を重ねたのだ、とは。翔太に触れることで、間接的に瀬奈に触れているような気になれた。だからキスをしたなんて絶対に言えない。気まぐれで口づけるよりなお悪い。
 気まずい雰囲気のまま、その日の授業を終えると、いつものように台所で夜食をご馳走になった。たいていいつも話しているのは翔太の母親で、翔太はほとんど黙っていることが多いが、その日はいつにもまして寡黙だった。無表情で、話しかけても短く答えを返すだけ。俺のせいだろうかと、温はたまらなくなった。何も誕生日の前の日に嫌な気持ちにさせなくてもよかった。彼は何も悪くない。そう、翔太は何も悪いことはしていないのに。
 帰りがけに、見送りに出た翔太に軽く頭を下げて「悪かったな」と謝ったが、聞こえなかったのか無視したのか、何も答えなかった。



 月曜日、目が覚めたのは十時過ぎで、寝ぼけた頭のまま二限目の授業を受けて、昼食をどこで食べようかと思っていたときに今日子との約束を思い出した。時間より少し早かったが待ち合わせの喫茶店に行き、サンドイッチを注文して今日子を待つことにした。
 それにしても、彼女の言っていた「謝らなければならないこと」とはいったい何なのだろうか。今日子とは会えばそれなりに話をするし、時々何人かの仲間と一緒に飲みにいったりもするが、ほとんど二人きりで何かをしたような覚えはなく、だから謝られるようなことをいつされたのかまったく思いつかない。
「温くん」
 約束の十二時より十分早く今日子が姿を見せた。
「よう。先に食べてたけど」
「うん、いいよ。私いっつもお昼食べないから」
 注文を聞きに来たウエイトレスにコーヒーだけを注文し、今日子はいつもより真面目な様子で椅子に腰掛け、まっすぐに温の顔を見た。
「この間言ってたことなんだけど」
「俺に謝ることがあるって?」
「うん……あのね、私、温くんのこと私の彼氏だって嘘ついちゃったんだ」
 ごめんね、とすぐに付け加えて今日子は少し俯いた。正直、温はもっと直接的に何か悪いことをされたのかと思っていたから、今日子のその言葉に拍子抜けした。別に今現在付き合っている彼女はいないから、今日子に彼氏だと言われても温のほうには何も困ることはない。
「そんなことか。別に、かまわないよ」
「けど、翔太くん、温くんにつっかかったりしなかった? そんな子じゃないと思うけど、一途そうだし、ホントはずっと心配で……」
「なんで翔太の名前が出てくるんだ?」
「だって……温くんが私の彼氏だって嘘ついたの、翔太くんになんだもん」
「ちょっ、待てよ。なんであいつにそんなこと言う必要があるんだ?」
 翔太の名前が出てきたことで、雲行きが怪しくなってきたのを感じた。今日子は翔太の前の家庭教師だった。温は彼女の事情で急に家庭教師が続けられなくなったからという理由でそれを引き継いだのだ。だから彼女が翔太のことを知っていること自体は当たり前だ。
「ごめんなさい……あのね、そもそも家庭教師続けられなくなったのって、私が、翔太くんに告白されたからなんだ……。翔太くんかわいいけど、そんな、高一の子と付き合ったりできるわけないじゃない。断ったけど、どうしてですか、他に付き合ってる人がいるんですかって聞かれて……思わずうんって言っちゃったの。そのほうが断りやすいと思ったし。そしたら何て名前のどういう人かっていろいろ聞かれて、私、つい……。結局あきらめてくれたんだけど、なんか、そのまま家庭教師続けるの気まずくなっちゃって、ちょっと都合が悪くなったから他の家庭教師紹介するって言ったらね。温くんにお願いしてほしいって、翔太くんが」
 心のつっかえを吐き出すように今日子が話している間、温は呆然としながら彼女の顔を見ていた。
 翔太がすごく好きだったと言っていたのは、今日子のことだったのだとわかった。まだ思いを断ち切れていないような顔をして、けれどあきらめろと自分に言い聞かせていたようだった。瀬奈とつきあいはじめたのも、失恋したときの自分の痛みを思ったせいかもしれないし、ひょっとしたら今日子のことを忘れたかったからなのかもしれない。
 温がはじめて翔太に会ったときの、彼の初対面にしては妙に険のある、無愛想な態度を思い出した。
 あれは温のことを恋敵だと思っていたからなのだ……温が、彼をそう思っていたのとまったく同じ気持ちで。
「私、温くんにちゃんと言わなきゃって思ってたけど、言えなくて……ごめんなさい。翔太くん、温くんに何もしてないよね?」
 今日子の言葉に返事をする気になれなかった。何もしてない?
 そう、翔太は何もしてない。だが温のほうは、ただ瀬奈に好かれている彼が羨ましくて勝手に妬んだりした。おまけに彼に瀬奈を重ねてキスまでした。あのとき、驚きのせいか彼は抵抗しなかったけれど……、そう考えて、不意にはっとした。
 驚いて、ではないのかもしれない。もし彼が今日子のことを好きで、今日子と温が付き合っていると誤解していたのだとしたら。ならばひょっとして、彼もあのとき、温に今日子を重ねていたのではないか。舌をさし入れてもすぐに抵抗せず、戸惑いながらほんの少しだけ応えてくれそうになっていたのも、そのせいなのだろうか。
 温は立ちあがった。サンドイッチもまだ全部食べていなかったが、一気に食欲がなくなった。
「あ、温くん!」
「帰る。そのことはわかったから、もういい。怒ってないから。気持ち応えられなくてごめん」
 じゃあ、と軽く手を上げて温はすぐにその場を離れた。今日子のせいだけではない。けれど彼女の顔を見ていたくなかった。
 翔太が自分に今日子のことを重ねていた、そう考えると、胸がかきむしられるようにたまらなく嫌な気持ちになった。自分は彼に瀬奈を重ねていたくせに、同じことをされていたのだと思うのがどうしてこんなに嫌なのか自分でもわからなかった。
 念のためにと聞いていた翔太の携帯電話のアドレスに連絡がほしいとメールを送った。ちょうど学校の休み時間だったせいか、それほど待たずに電話がかかってきて、温は彼に今日の晩時間が取れないかと聞いた。会って話したいことがある、そう言うと、少しの沈黙の後、わかりましたと返事があった。部活が終わって家に帰るのが八時過ぎだから、そのころならいいということだった。
 また晩にと言って通話を切った。電話を通して聞こえた翔太の声に、自分がわけもわからずいらいらしているのを感じた。会って何が話したいのかも、温自身よく、わかってはいなかった。



 家庭教師の日でもないのに家の中に入るのは気まずくて、翔太の家のすぐ近くの公園まで出てきてくれるよう頼んだ。夜はもう、大分冷えるようになった。ジャンパーのポケットに手を突っ込んで、温は冷たい風に首を竦めた。明日は晴れるのか、夜空はすっきりと晴れ渡っていて星がよく見えた。西の空にかかる満月に近い月が、寒々しく白い光を放っている。
 明るい夜だった。約束の時間より少し遅れてやってきた翔太は学生服のままだった。
「すみません、部活がちょっと長引いて……」
「いや、こっちこそごめんな。夜中に呼び出したりして。寒くないか?」
 コートも何も来ていないのが寒そうに見えて尋ねると、翔太はにっこりと笑った。
「ちょっと前まで走ってたから、大丈夫です」
 そういえば彼は陸上部で長距離をしていると聞いた。すごく速くてかっこいい、と瀬奈が騒いでいたこともあるが、翔太の口から部活動について聞いたことはあまりなかった。
 考えてみたら彼と話したのはほとんどが英語の勉強のことばかりで、家庭教師としてはそれが当たり前なのかもしれないが、もっといろいろなことを話しておけばよかったと思う。彼の部活動や、友達のこと、好きな相手のこと。翔太は聞かなければ何も言わない。けれど尋ねても無視するような人間ではない。だからもっと、いろいろなことを尋ねてみればよかった。
「なあ、俺な、戸川今日子と付き合ってなんかないよ」
 話を長引かせる気はなかった。こんな寒い夜に長々と引きとめて風邪をひかせたくはない。
 翔太が温の顔を不思議そうに見る。温が口にしたことの意味を、すぐには掴みかねたようだった。
「ごめんな。お前が今日子のこと好きだなんて知らなかった。俺は瀬奈ちゃんが好きだった。だからお前にキスしたんだ。俺はお前に彼女を重ねた。なあ、お前は俺に今日子を重ねたのか? ごめんな、俺、今日子とキスもしてない。彼女とは全然、関係ない」
 翔太は表情を変えなかった。温の言葉を聞いても動揺は見せず、唇を引き結んで黙ったまま温を見ていた。背が高く、落ち着いていても、やはり彼は高校生だった。出会った頃はかわいげのないガキだと思っていたが、今はその若さが痛々しいと思う。
「ごめんな」
「……先生」
「いろいろお前には迷惑かけて……ごめん。お前のこと、俺けっこう好きだった。真面目で、頭がよくて、礼儀正しくて。瀬奈ちゃんのこと、嫉妬したけど、お前だったら好きになっても仕方ないと思った。もっと一緒に勉強したかったな」
 けどもう、家庭教師はやめる。
 そう続けると、翔太が顔を歪めた。
「なんでですか。俺、別に先生が今日子さんと……戸川先生と付き合ってなくても、かまいません。最初は戸川先生が好きな奴を見てみたいってだけで、無茶言ったけど、でも今はもう、そんなのいいんです」
 翔太が引きとめようとしてくれているのがわかって嬉しかった。ひどいことをしたのに、それで許されたような気になった。温は笑って、それからまた嫌がられるかなと思ったけれど、最後だからと言い訳して翔太の短い髪をくしゃくしゃとかきまわした。彼は身動ぎしなかった。
「ありがとう。でも俺が駄目なんだ。お前が俺に今日子を重ねてたのかもしれないと思っただけで、俺が駄目だ、嫌なんだ」
「俺はそんなこと……!」
「ごめんな。お前が楽しい高校生活送れて、好きな大学に行けるよう応援してるよ。お前ならなんでもできる、頑張れ」
 軽く肩を叩く。翔太が何か言いたげに口を開いたのを遮って、
「じゃあな」と背を向けた。
「先生!」
「風邪引くから早く帰れ。それから……誕生日おめでとう」
 振り返らずに、呟くように言った。翔太に届いたかどうかわからなかったけれど、言いたかっただけだから、かまわなかった。
 本当は翔太が高校を卒業するまで勉強を見てやりたかったなと思う。まだ少年らしさを残した彼が、どういうふうに大人になっていくのか見てみたかったと、何だか自分でもおかしくなるようなことを考えた。
 月の光に照らされた明るい道を歩きながら、翔太の髪に触れた手をぎゅっと握り締めて、温は「くそ」と冷たい空気に向かって吐き捨てた。


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あとがき / 次で第一部が終わりです。どこにも第一部とか書いてないですが。第二部とかも書かずに続きますが……(-_-)