one-sided 6





 その年の卒業式は、三月二十七日、月曜日だった。
 よく晴れた日で、別段式など行かなくてもいいかと思っていたが、天気がいいので行く気になった。普段着でアパートを出て、時間ぎりぎりに式場である体育館に入った。顔も知らないような大勢の同級生でごったがえす会場は暑いくらいで、温は少しうんざりしたが、袴を着てかしこまっている仲間を見るのは面白かった。もう明日からはまったくかかわりのなくなる連中が、今だけは同じ場所で同じ時間を共有している。
 視界の隅に戸川今日子の姿を見かけたような気がしたが、すぐに人ごみに紛れて見えなくなった。彼女とはあれ以来、親しく付き合うことはなくなった。今はもう友人とも呼べず、ただの顔見知りだ。それでも卒業式の日に少しでも顔を見られてよかったと思う。おそらくもう会うことはないのだろうから。
 式が終わった後、教室で名簿順に置かれた卒業証書を受け取った。もうそれでこの大学ですることは終わりだった。四年間、長いような気もしたけれど過ぎ去ってみるとあっという間だ。三年生から始めた就職活動の甲斐あって中堅商社に就職も決まり、四月からは新しい生活が始まる。
 教室を出て、桜並木の道を歩くと、少しだけ感傷的な気持ちになった。
 アルバイトももう二月ですべてやめ、今は新生活のための準備や、勉強で日々を過ごしている。島田瀬奈は三年生になってから必死で勉強に取り組み始め、かなりいい大学に推薦合格を早々に決めた。合格祝いにフランス料理を食べに行って、そこでさよならをした。もちろん先生と生徒として。瀬奈は泣いたけれど、きっとすぐに温のことなど忘れてしまうだろう。彼女は結局、あの何ヶ月か後に翔太と別れ、しばらくしてから別の男と付き合い始めた。翔太と別れたときにさんざん泣いていた彼女が嬉しそうに新しい恋人の話をするのを聞くのは、正直つらかった。翔太はどうしているだろうと思った。二人が別れて以来、瀬奈から翔太の様子を知ることもできなくなって、本当に、彼とはまったく無関係な人生になってしまった。
「先生」
 不意に翔太の声がしたような気がして、温は苦笑いした。あれから二年以上経つのにこんなにも鮮明に彼の声を覚えているのかとおかしくなった。
「小柴先生」
 再び声が聞こえて、温は立ち止まった。大学の門の前に、一人の背の高い男が立っていた。
 二年前よりまた背が伸びて、顔立ちはより引き締まり、精悍になった。それでも見間違えるはずもなく、それは廣瀬翔太だった。
「よう、お前、随分大きくなったな」
 手を上げて笑った。翔太は温を見て、「先生よりも高いですよ」と憎たらしく言った。しかしそれは悔しいが本当のようで、すぐ近くに来ると目線の高さで明らかに負けていた。
「生意気な」
 呟くと翔太はそっと笑った。覚えているとおりの笑い方だった。背が高くなっても、大人びた顔つきに変わっても、笑い方は変わらない。
「偶然だな」
「冗談でしょ」
「何が?」
「偶然こんなとこで会うわけないって言ってるんです。俺、先生のこと待ってたんです。会えると思ってなかったけど……会えたらいいって、会いたいって思ってたから……」
 どう言えばいいかわからないというように、困った様子で翔太は首を傾げた。
 会いたかったと言われて、ああ、と温も思った。俺も会いたかったよ。ずっと。けれど言えずに黙って翔太を見つめた。
「俺、あのとき、今日子さんのこと本気で好きだったんです。こんなに誰かを好きになることなんてこの先ないって思ってた。けど……あの後いつも、思い出すのは小柴先生のことばっかりなんです。会いたくなるのは」
 願えば叶うものですね、と翔太は小さく笑った。顔がわずかに赤い。
 彼はここで、ずっと待っていたのだろうか。温が通るかどうかもわからない場所で、ひょっとしたらもうとっくに気づかず通りすぎてしまったかもしれないのに。
「俺、先生に会えたら言おうと思って。もしも会えたら、言いたいことがあって……」
 翔太がすがるように真剣な目をして、手を伸ばした。大きな手のひら。一瞬触れることをためらうように動きが止まり、それからそっと温の腕を掴んだ。少しずつその手が下りてきて、握りこむように指先に触れた。
「翔太」
「ごめんなさい、迷惑だってわかってるけど、俺……」
「なあ、お前大学合格した?」
 翔太の言葉を遮って問いかけた。温の指を握る手の力が少しだけ強くなった。
 翔太は頷く。都内の有名私大の名前を口にした。陸上でもそこそこ名前を聞くところだ。おそらくそこが第一志望だったのだろう。温は笑って、よかったな、と言った。
「先生……!」
「合格祝いしようか、今から。お前が欲しいもの買ってやる」
 指先を握り返した。翔太が驚いたように目を見開いて、それから、少しだけ情けない顔で笑った。
「お金じゃ買えないものがほしい」
 囁く声に、温は何でもやるよ、と答えた。翔太が欲しいもので、温が与えられるものなら何でも。
 掠めるような口づけは、ほとんど何が触れたのかわからないほど一瞬だった。
「今のは二年前のお返しです。合格祝いは、別」真っ赤な顔をして、それでもそんなことを言う翔太の頭を小突いた。まだ冷たい風が吹いて桜の花びらを揺らす。つないだ指先は温かく、できればずっと、その手を離したくないと思った。


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あとがき / 第一部完。こんなに展開早くていいの?と思います、我ながら。でもそのわりに第二部は……(もごもご)。