one-sided 7





 四年間の生活ですっかり手に馴染んだキーを鍵穴に差し込んで回すと、かちりとどこか錆びたような音がした。お世辞にもきれいとはいえない古びたアパートの二階、明るい春の陽気の中でもひっそりと重く静まり返っている部屋のドアを開けると、カーテンを下ろした室内は薄暗く、隙間から漏れこんでくる光だけが今がまだ昼をわずかに過ぎたばかりの時間だということを教えていた。
「入れよ。まあ何にもないけど」
 文字通りな、と苦笑しながら小柴温は年下の男を自分の部屋に招き入れた。
 玄関で靴を揃えて脱ぎ、温のあとについて部屋の中に足を踏み入れた廣瀬翔太は、本当にそこにほとんど何も残っていないことに驚いたようだった。
「今日、引き払う予定なんだ。会社に近いとこに引っ越そうと思って」
「会社……」
「ああ。もともとここも学校に近くて安いってだけで決めたとこだし。思い入れも何もないしな」
「会社、どこにあるんですか」
 翔太は所在無さげに室内を見まわしていたが、今まだ残っているのは簡単な調理用具と雑巾、雑誌が何冊かだけで、見ても楽しいものは何もなかった。剥き出しになった板張りの床はところどころ色が変色しており、歩くと小さくギシギシと音を立てた。
 まあ、座れば、と肩をすくめながら温は言い、コーヒーを入れるため小さな鍋を火にかけた。もともとこの部屋にいる時間は少なかったからポットは買っていない。昨日のうちにあらかたの物は引越し先のアパートに移してあり、昨日はもうそこに泊まった。今日は卒業式の後でざっと大掃除をして、管理人に鍵を引き渡して終わりにするつもりだった。
「会社、遠いんですか」
 床に腰を下ろし、長い足を持て余すように両手で膝を抱え込んで、翔太は再度問いかけた。
 二年半ぶりの再会のあと、近くにあったハンバーガーショップで簡単な昼食を一緒に取ったが、そのときはもっぱら温がいろいろ尋ねてばかりで、温のことはあまり何も話さなかった。ただ、無事就職が決まったことだけを伝えると、よかったですね、と翔太は生真面目な顔で、それでも嬉しそうに微笑んだ。
「どうかな。ここからはちょっと離れるけど、一応都内だし」
 台所に立ったまま翔太を見下ろすと、彼は表情の読めない顔でじっと温を見上げていた。
 つくづく変わってねえなあと温は思う。翔太はいつも、何か言いたいことや不満があるときはたいてい無表情になって何も喋らなくなる。言いたいことがあれば言えばいいのに、自分の気持ちを切り捨てるように、相手を拒絶するように黙り込む。
 少量の水はすぐに沸騰し、ガスを止めた。二人分のコーヒーカップを手に部屋の中央に戻り、腰を屈めて片方を翔太に差し出すと、彼は頭を下げて受け取った。指先がわずかに触れて翔太が少しだけ顔をしかめる。温はわざと翔太から離れた場所に胡座を組んで座った。
「お前のほうこそ、住むとこってどうすんの。実家から通い? それとも一人暮し?」
「大学の寮で一人暮しをします。特待生入学する学生は全員そう決められているので」
「へえ、すごいな。引越しはもうすませたのか?」
「いえ、明後日です」
「そうか。お前も忙しいんだな」
 会話が途切れると、翔太はコーヒーカップを両手で握り締めたまま、床の木目に視線を落とした。もともと端整だった顔立ちは、二年のうちに少年らしい幼さを削ぎ落として物静かな青年の顔になった。それでも会話の端々から窺われる生真面目な性格は相変わらずで、いまだ大人にはなりきれていないどっちつかずの脆さのようなものも感じられる。
 大学の寮に住むのなら、温の新しいアパートとは三駅ほどしか離れていない場所だと思ったが、温は何も言わなかった。近いからどうだというのか。そんなことは温にも翔太にも関係がないことのはずだった。だから口にしなかった。ひょっとしたら、翔太はそれを聞きたいのかもしれないと頭を掠めたが、そんなこともないだろうと打ち消して胸の奥に沈めてしまった。
 翔太と付き合いがあったのは、二年前の六月から十月までのほんの五ヶ月間だけだ。その頃から特別親しかったというわけでもなく、家庭教師と生徒として、一緒に英語の勉強をしただけだった。だからこうして再会して、同じ部屋にいても、距離のとりかたをお互いに掴みかねている。友人でもなく、今はもう先生と生徒でもなく、ただの知り合いというにはもう少し相手に対する感情に屈折がある。
 温は軽く唇を舐めて、再会してからすぐに一度だけキスをしたのはほとんど挨拶だよなと自分に言い聞かせた。西洋と同じだ。
 翔太が口をつけないままにコーヒーカップを床に置いた。顔を上げて温を見る。自分が女だったら惚れる顔だと温は思った。好みの顔だと、男なのにどうしようもなくそう思った。我ながらどうしていいかわからなくて笑うしかなかった。けれど逆に翔太は唇をかみ締めて、それから腰を浮かせて温のそばに近づいてきた。
「先生」
「もう先生じゃないだろ。温でいいよ」
「……温さん」
 男にそういう風に呼ばれるのは初めてだったから不思議な気がした。呼び捨てにされるのは慣れているが、翔太の声にはどこか悲しげな、困ったような響きがあって、何とかしてやらないといけないような気分にさせられる。
 いつのまにか翔太がすぐそばまで寄ってきていて、膝を床についたまま、中腰になっておずおずと手を伸ばしてきた。温が動かずにいると、翔太の両手がそっと温の頭を引き寄せた。間近で目が合う。困ったような、ためらうような翔太の真面目な顔が、ゆっくりと近づいてくる。押しのける気にはなれなかった。
 唇が触れる。はじめは軽く触れるだけ。やがて不器用に歯列を割って舌が入りこんできたが、情熱的なというにはあまりにゆっくりとしてたどたどしい動きに、温は次第に我慢ができなくなった。翔太の頭を抱き返して、自分から積極的に舌を絡めた。こうなるともう男も女も変わらない。長いキスをしながら翔太の短い髪をまさぐった。硬い髪。
 しばらくして唇が離れると、翔太は温にぎゅっとしがみつくようにして肩口に顔を埋めた。翔太の体重を支えきれずに床の上に倒れこむ。それでも翔太は離れずに温にしがみついたままだった。背中に回された腕がそっと意志を持って背を辿り始めて、やばいな、と思った。
 翔太が温の耳の下に口づける。大きな手のひらが顎から首にかけてゆっくりと、何かを確かめるようにそろそろと動いた。抵抗されたらすぐにでもやめるというような、自信のない、緩慢な動きだった。
「翔太」
 ちくしょう俺はどうしたらいいんだよと思いながら、名前を呼んだ。翔太の動きが止まる。
「お前、童貞?」
「………」
「どうなんだ。答えないならこれ以上はしない」
「…温さんは、どっちだったらいいんですか」
「答えになってない」
 翔太の肩を押して距離をとる。翔太はいつもは腹が立つくらい落ち着いている顔を悔しそうに歪めて、「……初めてです」と答えた。その手はまだ温の腕を掴んでいて、まるで離したら終わりだというように、ぐっと力がこめられた。
「キスは? 俺以外の誰かとしたか?」
「……いいえ」
 翔太の答えに、温は心の底からどうしていいかわからないような気持ちになった。五つも年下の、童貞で、しかも男の自分としかキスもしたことのないような男を、このままどうしようもない方向へ引きずってしまっていいのだろうかと思ったのだった。
「温さん、童貞だったら嫌ですか。それとも……僕だから嫌なんですか」
 翔太の手がそろそろと温の頬に触れる。吐き出すような小さな声には不安とあきらめが滲んでいる。温は翔太の頭をそっと撫で、この年下の、大人になりきれていない男を、傷つけることだけはしたくないと思った。
「やじゃない。全然嫌じゃないから、困ってる」
 仕方なく、正直に気持ちを告げると翔太の手が少し震えた。
「本当に嫌じゃないですか」
「ああ。自分でもびっくりするぐらい、嫌じゃない。だから困る」
「困らないでください」
 翔太が再び顔を寄せてきて、温の首を抱いて唇を触れ合わせた。相変わらずぎごちなく、おずおずと、けれど確かな意志を持って舌を入れてくる。こんな下手くそなキスに、それでも頭が痺れるような気がするのはどうしてだろうと思いながら温は求められるまま、深い口づけに応えた。そういえばこんなふうに誰かとキスをするのは何年振りだろうと思った。好きでもない相手と付き合うのをやめたら、誰とも付き合えなくなってしまった。
 翔太の指が温の首を撫で、もう片方の手がたまりかねたようにシャツの裾をジーンズから引き出して、その隙間から直に温の肌に触れてきた。シャツを捲り上げられると直接背中が床に触れ、その冷たさに温は思わず身動ぎする。
 そのとき突然、翔太の唇が離れた。上にのしかかっていた身体と背中を辿っていた手も消えた。温が驚いて彼を見ると、身体を起こしていた翔太は手早く温の服を元のように整えてから、今度は温の隣に寝そべって、押しつけるようにその肩に頭を寄せた。
「こんな冷たくて、固いところで興奮してすみません。俺、温さんが痛いのいやだから」
「やめるのか?」
 驚きを隠せずに言った。下が布団も何もない、固い床だからという理由だけで、一度その気になったものをやめたりできるのだろうかと心底驚いていた。
「今はやめます。ここでは」
 だけどあきらめたわけじゃないですからと宣言するように強い口調で言ってから、翔太は黙り込んだ。
 温はその意志の強さ、あるいは理性とでも呼べるものに、どういう感想を抱けばいいのかわからなかった。翔太がやめなければ、きっと温は一つも抵抗せずに彼と寝ていただろう。そうすることで後悔するとしても、一度始まった流れに逆らうような理性はきっと自分は持っていないような気がした。だからこそよけい、翔太の意志の強さにあきれながらすごいとも思った。
「翔太」
 すぐそばにある温もりが心地よくて、腕を辿り、そっと指先に触れた。お互いに強く、握り締めた。
 この、潔癖なまでの純粋さに見合うものを、いったい自分は持っているのだろうかと、温は思った。


 何か夢を見ていたような気がするのだが、目を開けるとどんな夢だったのか忘れてしまった。
 誰かが髪に触れている。ゆっくりと動く手の動きが心地よくて、夢の続きかと思った。だが目を開けた先には廣瀬翔太の顔があって、彼は温が目を覚ましたのに気づくと慌てたように手を離して起き上がった。
「ああ……寝ちまったのか……」
 温も起き上がり、目を閉じて首を振った。固い床で居眠りしたせいか痛む身体で大きく伸びをする。首を回しながら息を吐き出した。それからようやく時計を見ると、驚いたことにもう五時前になっていた。
「まだ掃除してねえのに……」
 夕方に鍵を返すと管理人には伝えてある。温は頭を抱えたくなった。まさか荷物だけ引き上げてさようならというわけにもいかない。仕方がない、夜まで待ってもらおうと決意して、ため息をついた。
「掃除手伝いましょうか」
「ん? いや、いいや、狭いとこだし。お前もそろそろ帰ったほうがいいんじゃないの。忙しいんだろ」
 温の言葉に翔太はわずかに表情を曇らせた。そうですね、と言いながらも動こうとしない。
「翔太?」
「帰りますから、新しい住所と電話番号、会社の名前を教えてください」
 強い口調でそう言ってから、付け加えるように、「それから……今度、いつ会えますか?」と聞いた。
 温はすぐには答えられなかった。今後も翔太とつき合い続けていくということが果たして可能なのか、可能だとしても、それがいったいどういう意味を持つのかということがわからなかった。
 いっそこれ以上先へは進まずに、このままこの場所で別れてしまったほうがいいのではないか。
 もう二度と会わず、翔太は新しい大学生活を、温は社会人として、それぞれ始めたほうが。
「温さん」
 温の迷いを見透かしたように、翔太が険しい顔になった。
「何を考えてるんですか」
 まだ付き合ってもいないのに、別れ話だとはいえない。温は曖昧に笑った。だがそういう曖昧さを、翔太は許さなかった。自分の鞄から手帳とペンを取り出して温の手に押しつけ、「教えてくれるまで帰りません」と温を睨みつけるようにして言った。
「別に教えたくないわけじゃないけどさ」
 翔太は答えずに、相変わらず険しい顔で、ただじっと温の手元を見ている。仕方なく言われるままに新しいアパートの住所と新しく変えた携帯電話の番号、四月から働く会社の名前を書きつける。
「ほら」
 温が差し出した手帳を見て、翔太は驚いたように、「僕のところとそんなに離れてないです」と言った。翔太の大学の名前からそんなことはわかっていたから温はただ頷いただけだった。けれど翔太が嬉しそうに笑うのを見ると、胸が痛くなった。いったい何がそんなに嬉しいんだと思う。
(俺なんかと一緒にいたっていいことなんかないぞ)
 優しくしてやるのも、寝てやることも簡単だが、それで翔太が得るものはあまりに少ない。むしろ彼が失うもののほうが怖い。男同士でキスをする不自然さを彼はどう考えているのだろうか。いったい翔太は自分とどういうふうになりたいのだろうかと思う。
 だがそんなことを聞くわけにもいかない。
「明日も会いたい。駄目ですか?」
 今度いつ会えるのかという問いに対する温の答えを待たずに翔太が言った。
「……駄目じゃないよ」
 答えながら、駄目なのは俺自身だと思った。翔太のために一番いい道を選んでやりたいのに、彼と一緒にいたいとも思う身勝手さ。そのとき翔太がすっと身体を寄せてきて、ごく自然に唇を触れあわせた。当たり前のような口づけだった。
 明日また電話しますと言って、翔太は部屋を出ていった。温は管理人に連絡するのも忘れて、しばらくぼうっとその場から動かずにいた。
 カーテンから差しこむ光は、確実に夕暮れの色をしていた。


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あとがき / うーあー、コメントのしようが。自分で書いといて読み返しながらテレました。あわあわ。青春……(ちがう)。