one-sided 8





 突然鳴り出した携帯電話の音に目を覚まさせられたのは初めてだった。
 深い意味もなく呼び出し音に設定していたクラシックの名曲がテーブルの上で鳴っている。それほど音量が大きいわけでもないのに、突然たたき起こされた気分で、温は心臓の鼓動が早くなっているような気がした。
 誰だよこんな朝早く、と寝ぼけた目を擦りながらベッドから出る。そしてディスプレイに表示されてある名前を見て一気に眠気が吹き飛んだ。九時三十一分。
「もしもし」
 電話の向こうで翔太が律儀におはようございます、と言った。ひょっとしてまだ寝てましたか。
「いや……ちょうど、起きたとこ。昨日ちょっと夜更かしした」
 携帯電話を手にベッドに戻り、腰を下ろした。前のアパートでは布団を敷いて寝ていたのだが、仕事を始めたら布団を干すのもそうたびたびはできなくなるだろうと思って、引越しを機にベッドを購入した。固いスプリングの感触にはまだあまり慣れない。
「なに、デートの誘いか?」
 冗談のつもりで言って笑ったら、電話の向こうで翔太が一瞬黙り込んだので、温の表情からも笑いが消えた。
 迷惑ですか、しばらくして、戸惑うように翔太の声が言った。顔が見えない分、声だけで相手の様子を判断しないといけないのは実はひどく難しいことなのだと改めて温は思った。翔太に関わっていくなかで、一番大切にしようと決めたこと――それは彼を傷つけないことだった。
「そんなわけないよ。けどお前引越しの準備で忙しいんじゃないの」
 大方できているし、残りは夜にするからいいのだと彼は言った。会いたいんです。ためいきを吐き出すように言われて断ることができるくらいなら、はじめから悩んだりしてないんだよなあと温は思った。
 温の新しい家が見たいと翔太が言うので、自分のアパートの最寄の駅で待ち合わせをした。電話を切った後、温はしばらく携帯電話のディスプレイを眺めてから、ベッドの上に放り投げた。
 部屋で二人きりになったとき、再び迫られたりしたらはねつけることができるだろうかと考えた。翔太とは寝ない。昨日の夜、さんざん考えてやはり出た結論はそれだった。翔太に対する自分の思いが仮に恋だと仮定して、そして翔太も同じように考えてくれているとしても、二人が寝て得られるものはなにもない。ただ気持ちがいいだけだ。
 もともとセックスがそういうものだとしても、翔太を相手にそういう、気持ちいいだけのセックスをする気にはなれなかった。拒んで彼がいっとき傷つくよりも、受け入れることでいずれ彼が受けるダメージのほうが大きいだろう。どうせずっと付き合い続けていくことができるわけでもない。別れるのなら、わざわざ男同士のセックスなんかを彼に教えたくない。
(別に俺だって男としたことないけどさ)
 けれど初めてというのはやはりなにかが違うのだと思った。なにもその相手が男でなくてもいい。
 寝ないのならば、はじめから付き合いもしないほうがいいとも考えた。けれど会いたいと言った翔太の声を思い出すと、そんな簡単なことさえ拒絶する気にはなれなかった。セックスはしないが、もし翔太が望むなら、それ以外の点では普通につきあっていくつもりだった。彼が自分に飽きるまで。
(翔太)
 結局、二年前の別れがあまりに唐突で中途半端だったから、持たなくていい執着をお互いに持ってしまっただけなのだ。だから今、自分たちはやり直そうとしている。きちんと別れるために、一から。
 温は立ちあがって、出かける準備にとりかかった。



 もうじき四月を迎える街の空気は、一月前と比べると嘘のように柔らかく、温かくなった。日陰にいるとまだいくぶん肌寒さを感じるが、太陽の光を受ける場所を歩いていると汗ばんでくるほどだった。アパートから駅までは歩いて約二十分。通勤のためにローンで車も買ったのだが、二十分の道をわざわざ車を出すこともないと思ったから歩きにした。
 都心からは大分離れたこのあたりはいくらか年を経た住宅街で、街全体の静けさが気に入っていた。まだ見慣れない街並みは新鮮で、今日のような陽気の日に歩くのは気分がいい。
 駅の改札の前でしばらく待っていると、やがて駆け足で改札に飛び込んでくる翔太の姿が見えた。温に向かって手を上げて、笑う。温は軽く手を振り返した。
「すみません。待たせましたか」
「いや、そんなに待ってない」
 薄手の黒のトレーナー一枚きりの翔太の格好は、いくらなんでも少し寒そうに見えた。寒くないのかと尋ねると、別に、と首を傾げるようにしながら答えた。
「それが若さかねえ」
 肩をすくめて温が言うと、翔太はわずかに目を細めて温を見たが、なにも言わなかった。かわりにすっと温の左手に触れ、一度握り締めてから、すぐに離した。
「昨日別れてからずっと触りたかったから……ごめんなさい」
「……お前って手フェチ?」
「じゃなくて。温さんに触りたかったんです」
 真面目な顔でそんなことを言う翔太に温は何と答えたらいいのかわからなかった。触れられたときにはあまりに突然で何とも思わなかったのに、後になって触れた指先から熱が上ってくるような気がする。
「お前立派なタラシになれるよ」
 仕方がないから笑って逃げた。翔太はまだじっと温の顔を見ている。なにか言いかけた彼の言葉を遮って、「じゃあ行くか」と温は駅出口に足を向けた。すぐに翔太もその隣に並んで歩き出す。
「歩いて二十分くらいだけど、いいよな」
「かまいません。天気がいいし、温さんと歩けるのは嬉しいです」
 思わず翔太の顔を見ると、冗談を言っている様子ではなく、相変わらずごく真面目な顔をしているから、温は顔をしかめた。
「お前天然? 馬鹿?」
「……僕はなにか気に障ること言いましたか。すみません」
「謝らなくてもいいから、外で変なこと言うなよ。おかしく思われるから」
「………」
 翔太は困ったように小首を傾げて、黙り込んだ。そういえば、と温は思い出す。ごく短時間だったとはいえ昨日も大学の校門前でキスしてきたし、ひょっとしてこいつには人前だからどうとか、誰かに見られたらまずいとか、そういった常識的な感覚が欠落しているのではないかという、恐ろしい考えが頭を過ぎった。
 温のおそれを裏付けるように、翔太がぽつりと言った。
「すみません……僕は正直、人と付き合うのがどういうことかよくわからなくて。付き合ったことあるのは……島田だけだし」
 島田瀬奈の名前を出すとき、一瞬翔太がなにかを確かめようとするように温を見て、すぐに目を伏せた。
「……温さんはまだ、島田のこと好きですか」
 道の真ん中で立ち止まって、翔太が尋ねた。温も足を止め、彼を見つめた。
「今は、もう何とも思ってない」
 瀬奈のことを好きだったのはあのときだけだ。あのときは本当に彼女がかわいいと思っていた。だから彼女が好きだと言った翔太が羨ましかったし、妬ましかった。
 なのに気がつけばどうしてだか、今目の前にいるのは瀬奈ではなくて翔太なのだからおかしなものだと思う。
「そうですか……」
 ほっとしたように翔太が息を吐き出した。
「人の気持ちなんて変わるからな。だから辛いんだろうけど、ふられても好きでい続けるのも辛いからな。ずっと好きでなんていられないよ」
 行こうぜ、と翔太を促してまた歩き出す。
 人の気持ちは変わる。それは仕方がないことだ。誰かを好きになるのも好きになれないのも、頭ではどうすることもできないことだから仕方がない。
 だから今翔太が温のことを特別に思ってくれているとしても、いつかは冷める。そういうものだ。そうでなければ困る。なるべくなら早く冷めたほうが彼のためだろう。四年間の大学生活、かわいらしい彼女でも作って楽しく送ればいい。
「ずっと好きでいる人だっていますよ」
 翔太が反論して言った。
「そうかな」
「いますよ。変わらない思いだってあります、きっと」
「けどお前だって今日子のこと好きだったんだろ。今はもう好きじゃない?」
 別に苛めるつもりで言ったわけでもなかったが、傷ついたように翔太の顔が強張った。温は慌てて言ったことを後悔したが、口にしたものを今からとり返せるわけがなかった。
「翔太。悪い、答える必要ない」
「今日子さんが好きでした。すごく好きだと思ってた。なのになんで、変わるんだろう……」
 それは人間の心がそういうふうにできているからだ。けれど潔癖な翔太は自分の心変わりを責めるように俯いた。
「変わったっていいんだよ。じゃなきゃ辛い。誰もお前のこと責めない。一人の人をずっと、なんてすごく難しいことだよ。いろんな人を好きになって、成長していくこともあるんだからさ」
「温さん」
 翔太がすがるように温の手を掴んだ。指先を絡めてぎゅっと握る。温はその指を振りほどけなかった。翔太がひどく傷ついているような気がしたからだった。
「僕はもう変わりたくありません。他の誰も……好きになりたくない」
 つないだ指先に込められた力の強さが、そのまま彼の決意のようだった。言ってやりたいことは山ほどあるが、今の翔太にはおそらくなにを言っても無駄だった。仕方なく、温はその手を同じように握り返して、「馬鹿」と一言だけ、呟いた。
 温の新しいアパートは駅と職場のちょうど中間くらいの場所にある三階建ての小さな建物で、築後十年もたっていない外装はまだ新しく、以前住んでいたところより随分と小奇麗だった。その分家賃も高いが、これからは社会人として生活するのだからと思いきってここに決めた。
 温の部屋は二階の201号室で、まだいくつかダンボールを置きっぱなしにしてあるものの、ひとまずの生活に必要なものだけは整理していた。
「何飲む? コーヒーか紅茶なら入れてやる。オレンジジュースもあるけど…」
 部屋に入り、まずキッチンに足を向けかけた温の腕を後ろから翔太が掴んだ。
「その前に、ちょっと話がしたいんです。駄目ですか」
「駄目ってことはないけど」
 妙に真剣な顔で自分を見つめている翔太の様子を訝しみながら、温は翔太に向き直った。それから立ったまま話でもないだろうと思って彼に椅子をすすめ、自分はベッドの端に腰を下ろした。
「改まって話って何だよ」
 翔太がじっと自分を見ているのがわかって居心地が悪かった。わざと視線を外して天井を見上げる。いったいどうして年下の男相手にこんなに窮屈な思いをしなければならないのかと思いながら翔太の言葉を待った。
 だが彼がためらいながら口にした言葉は、温には予想外のものだった。
「あなたが好きです」
 吐き出すように、ため息のように彼は呟いた。何の飾りもない、あまりに直接的な言葉。こんなふうに告白されたのは初めてのような気がした。温が何も答えないうちに、翔太が再び言った。
「あなたが好きです。昨日はいきなりキスなんかしてすみませんでした。自分の気持ちも言わないまま……本当にすみません。家に帰ってよく考えたら、恥ずかしくなって。だからはっきり伝えておきたいと思ったんです。僕はあなたが好きです。だから一緒にいたい。あなたの恋人になりたい」
 ストレート過ぎる告白に、温はどうしていいかわからなかった。誤解の余地のない言葉の選び方に、誤魔化して逃げるという選択肢はないことだけが確かだった。昨日の晩考えて、もし翔太が望むならつきあうくらいはかまわないと思っていたはずなのに、いざ告白されてみるとそれすらもやはり受け入れるべきではないような気がした。
「思い込みじゃないの」
 困り果てて、仕方なく言った。翔太の顔は見られなかった。
「昨日再会したばかりだろ。なんか勘違いしてるんじゃないか」
「してません」
「だってお前俺のことなんかほとんど何も知らないくせに。初めてキスしたのが俺だったから自分の気持ち誤解してるんだよ。俺こそ悪かったよ、キスなんかして。取り消せるものなら取り消したい」
「そんなの関係ない」
 いつのまにかすぐ近くまで翔太が寄ってきていた。避ける間もなく抱きつかれて、抵抗してもよけい強く抱きつくばかりで離れなかった。大きな身体をした男が子供のようにしがみついてくる。
「翔太」
「僕があなたを好きなことにそんなの全然、関係ないんです。二年以上会ってなくても、あなたのことよくは知らなくても。一緒にいたいと思うことに、理由なんかないです。あなたが好きだ。昨日会って、はっきりそうわかったんです。僕はもう間違えたくない」
 顔が近づき、唇が触れても、温はもう抵抗しなかった。恋人同士のように長いキスをして、唇が離れてもすぐにまた口づけられる。あきれるほど何度もキスをした。
「僕のこと嫌いですか」
 触れているのと変わらないくらい近い距離から翔太が言った。
「そういう質問はずるいだろ」
 嫌いな相手とキスできるほど心が広くない。翔太だって自分が嫌われているとは思っていないはずだった。相手が自分を嫌っているとわかっていて抱きしめたり、キスしたりできるほどきっと彼は無神経にはなれない。
「嫌いじゃないなら僕とつきあってください」
「好きじゃなくても?」
「今はそれでもかまいません。でもいつか好きになってください。僕は待ちます、ずっと」
 好きじゃなくてもいいからつきあってほしいと言う。翔太は温の頬をそろそろと撫でた。咽に触れられるとくすぐったくて温は身をよじった。翔太の肩を押して互いの間に距離をとり、翔太を見つめた。
「お前のこと嫌いじゃない」
「じゃあ」
「つきあってもいいよ。けど、一つだけ言っとくことがある」
「……なんですか?」
 翔太が警戒するような顔になった。温は笑った。冗談のように、軽い口調で言った。
「俺、前から決めてることがあってな。つまり、処女とは寝ないってこと」
「え?」
「だから、童貞とも寝ないの。要するに、お前が童貞である限りお前とはセックスしないってこと。わかった?」
 こんなにはっきり言っているのに、翔太はまだよく理解できないような様子で訝しげに温の顔を見ている。
「呆けるな。セックスなしでいいならつきあうよ。どうする? それでもいいか、やめるか?」
「……なんで」
 ようやく言われたことの意味を理解したらしい翔太が眉を顰めて、どういう表情をしたらいいのかわからないというように、困った様子で首を傾げた。
「やなものに理由はないんだよ。そう決めてるんだから仕方ないだろ」
「だって、そんなの……」
「別に一生お前とはしないって言ってるわけじゃないだろ。童貞じゃなくなったらいいよ。そんときまだ俺としたいと思ったらだけど」
「………」
「つきあうか? 俺はお前が浮気しても寛容だぜ。本気でもいいし。女の子に惚れたら口説き方教えて、応援してやる」
 翔太が唇をかみ締めた。それから突然また温に抱き着いてきて、思いきり体重をかけるから思わずベッドに倒れこむ形になってしまった。
「つきあってください」
 ベッドの上で身体を密着させながら翔太が言った。
「ああ、いいよ」
「キスはしても?」
「もう何回もしたからな」
 また何度かキスをして、翔太が温の肩に顔を埋めた。そしてそのまま動かずに、ただじっと抱き合ったまま、しばらくずっとそうしていた。
 翔太の背中を抱くように腕を回しながら、温は、翔太はいったい今どういう気分だろうかと考えた。十八の男にとっての衝動がどういうものかくらいわかる。しかも彼には一度も経験がない。温はまだ童貞だったとき、同級生よりも早く経験して大人になりたいと思っていた。もっとも今になってみれば、そんなのはどうでもいいことだった。だれでもいいからセックスしたいなんて、どうしてそんなに馬鹿なことを考えていたのかと思う。
 けれど翔太はそんな人間ではないはずだった。誰でもいいと思っていたなら今まで童貞でいるはずがない。間違いなくモテるだろうし、相手にこだわらなければ選り取りみどりだ。
「ストイックなやつ……」
 呆れたような尊敬するような、自分でも判断がつかない気持ちで呟くと、翔太がむくっと顔を上げて、温を睨みつけてきた。
「誰がそうさせてるんですか」
「お前が今まで童貞だったのは俺のせいじゃないよ」
「僕の前から急にいなくなったくせに。携帯の番号まで変えたくせに。だから僕はあなたのことばっかり気になって、他のことなんか……」
 携帯電話の番号を変えたのはいろいろなことを割りきろうと思ったからだった。翔太のことも瀬奈のことも、全部なかったことにして始めようと思った。だが結局瀬奈の家庭教師は続けていたし、温が完全に関係を断ち切りたかったのは翔太だけだったのだという気もする。
「……悪かったよ、ごめん」
「もうしないでください。僕のそばにいてください」
「お前が望む間はな」
「じゃあ、ずっと」
 無愛想なくせに翔太の表現はどこまでもストレートで、返事に困る。温は曖昧に笑って翔太の頭を撫でてやった。かつて家庭教師としてだけ付き合っていた翔太は、真面目な優等生で、どこか他人を警戒するようなところがあって、そのかわり一度心を開いた相手にはかなり態度が柔らかくなるのは知っていた。だがそれがそのまま、好きだと思った人間への無防備なまでの一途な言動に繋がるとは思わなかった。
 翔太のことはかわいいと思う。だからなるべく傷つけず、彼と上手に別れてやりたい。できれば彼にお似合いのかわいい彼女ができるまでちゃんと見守ってやりたい。
 温は翔太の頭を抱き寄せて、自分からキスをした。


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あとがき / 季節外れの話ですね。もうかなり翔太が変な人間になってきています。まともで真面目な高校生に設定したのに……。