四月の空は高く澄み渡り、春の陽気とまだかすかに残る冬の冷たさとが混じる空気は心地よく、時折吹く風がさあっと足早に駆け抜けていく。 シューズの紐を結び直して立ち上がり、グラウンドの土を何度かトントンと踏みつけてみる。最近はずっと実家近くの路上ばかり走っていたから土の感触は久しぶりだ。シューズを通して伝わってくる、柔らかく受け止めるような感触。アスファルトよりも断然、土の上を走るのが好きだった。 高い空を仰ぐ。強すぎない光。穏やかな春の空気を思い切り吸い込んで、吐き出した。 「廣瀬」 陸上部の主将を務める四年生の赤城の呼びかけに、はい、と翔太は返事をした。昨日の入学式の後、すぐに陸上部へ入部の申し込みをした。名門とまでいえないが、そこそこ広く名前を知られている陸上部へは入部希望者も多く、昨日一日だけでもう何人か入部者があったらしい。 今日が今年度の初練習日だということで、三時の集合時間には部員の大半が集まっていた。 「それから上田、松並、荻野、坂口、青野。一万メートル、いけるか? 新入生はとりあえず走り見ときたいからさぁ。無理なら無理って正直に言ってね。初心者に一万はきついからねぇ」 ぼりぼりと頭を掻きながら赤城がアハハと笑った。呼ばれた中にあった聞き覚えのある名に、翔太は視線を周囲に巡らせた。荻野政喜は中学の頃からずっと第一線で活躍してきた男で、何度か話をしたこともあるからだいたいの人となりも知っていた。しかし大勢の部員に紛れて今まで彼が同じ大学にいたことに気づかなかった。 「よ、廣瀬。おひさしぶりー」 目が合うと片手を上げてへらっと笑った。 少しだけ頷いてそれに応え、翔太は赤城に向かって「いけます」と言った。他の五人も同じ返事をする。 「ああ、そう? 嬉しいねえ。んじゃトラック二十五週。マネージャータイムお願い。俺後ろからついてくわ。他のみんなはいつもどおりで、橋本に任せた。その前にウォーミングアップ十分」 赤城の指示で部員たちが別れてウォーミングアップを始める。 「一緒にやろうぜ」 荻野がそばに寄ってくる。拒む理由はないので翔太は頷いた。 「荻野もこの大学だったんだな」 「まあね」 柔軟しながら荻野はつまらなそうに鼻を鳴らした。百七十センチ強の身長は長距離選手としては高くも低くもなく、柔らかな身体とバネのような俊敏さを持った男だ。 会うときはたいていいつもへらへらと笑ったような顔をしているが、今は少し機嫌が悪いらしく、口元がへの字に歪んでいる。 「なんで機嫌が悪いんだ」 「別に普通」 「ふうん」 本人が普通だと言うのならそうなのだろう。翔太は頷いて、それ以上尋ねるのをやめた。するといきなり髪の毛を引っ張られたので思わず顔をしかめた。 「なに?」 「お前サイテイ。俺なんかな、お前と一緒に走りたいからわざわざこの大学に決めたんだぞ。なのに『荻野もこの大学だったんだな』って言われりゃ傷つくだろ」 思いがけない言葉に翔太は頭をおさえて荻野を見つめ、どう返答したらよいのかわからず首を傾げた。 「それは……悪かった。どうもありがとう」 「どうせ俺なんかアウトオブ眼中なんだろ。どうせ、あーあどうせ」 やってらんねえよーと荻野は大げさに嘆いてみせる。どこまで本気なのかわからない態度に翔太は肩をすくめて、それ以上のコメントを差し控えた。言えば言うほど悪くなるような気がした。もしも荻野が本当に翔太と同じ大学に通いたいと思ってここを選んだのなら、たしかに翔太の言った言葉は無神経なものだった。 翔太が大学を選ぶ基準にしたのは、推薦がもらえること、学問的にも十分な教育が受けられること、それからもう一つ、できるだけ地元から近いという三点だった。偶然の再会を期待することさえできなくなるのが嫌だという気持ちがあった。あえて意識しないようにしていたが、確かにあった。 「ウォーミングアップ終了ー。じゃ、新入生集まって」 一万メートルを走る赤城を含めた七人が部員の輪から外れてトラックのスタート地点に集合する。残りの部員は副主将の橋本の指示で校外へランニングへ出かけることになった。 「記録出すつもりで、本気で走れ。――レディ、ゴー!」 よく通る赤城の声と同時に六人が一斉に走り出した。本気を出せと言われても、少なくとも翔太は練習だからと言って手を抜いて走るような器用なことはできなかった。かといって常に全速力かと言われればそういうわけでもなく、走り始めた瞬間、頭の中からいろいろなことが消えてしまう。それはたとえばレースの結果だとか、今までの努力とか、周囲の期待とか、仲間への責任とか、そういうものがほとんど消え去り、ただ走る、という身体の感覚だけが意識までも飲み込んでしまう。 地面を踏みしめて走るその確かな感覚と、移り変わる景色、風を受ける身体。前を向いてどこまででも行けそうな気がする。そのときの感覚を言葉で説明することはできない。走ることは、もはや当たり前のように翔太の生活の一部で、自分の一部だった。 電話をかけてもつながらなかった。まだ仕事中だろうかと思い、翔太はため息をつきながら携帯電話をシャツの胸ポケットにしまった。 (声が聞きたかったのに) 自分でもおかしいと思うほど、気持ちばかりが募って仕方がなかった。再会して以来ずっと、毎日会っているのにまだ足りない。しつこくすると嫌われるかもしれない、そう恐れる気持ちがあるからできる限り自分の気持ちを抑えるようにしているが、それでも十分、温にとってはしつこいかもしれない。しかし彼はうっとうしがらずに翔太の相手をしてくれる。 (甘えてる) こんな風に人に甘えることがあるなんて思ったこともなかった。人との付き合いはたいてい、一歩引いた表面的なもので、仲がよい友人にでも自分の心の奥底までは見せる気になれなかった。家族でも友人でも、おのずと付き合いの限界はあると、誰に教わったわけでもないのに子供の頃から自然にそう感じていたし、今までは実際その通りに生きてきた。よそよそしく接していたつもりもないが、自分にとってその誰かがいないとどうしても困るというような頼り方はしなかったし、誰がいなくても今までどおり生きていけると思っていた。それはもう、ほんの一週間ほど前までは。 ポケットの中の携帯電話に服の上からそっと触れる。固い小さな機械。今まではこんなものなくても困らなかった。でも今はないと困る。正直に、とても困る。またため息をついた。 「廣瀬、なにボーっとしてんの。歓迎コンパもちろん行くだろ?」 荻野が翔太の背中をドンと叩いて声をかけてきた。陸上部の初練習が終わり、部室でシャワーを浴びた後、当たり前のように部員全員で飲みに行くという話になった。女子陸上部と合同コンパをするという。 正直、あまり乗り気はしなかった。そんなものへ行くよりよほど温の顔が見たかった。 「お前しょっぱなからノリ悪い顔してんなよ。浮くぞ? 強制参加! 決定!」 「……わかった」 しかし電話はつながらないし、それならば家に帰っても、飲み会に参加しても同じことだった。せっかく声をかけてくれている荻野に感謝する気持ちもあって頷いた。それに確かに最初から部の和を乱すようなことをするのは良くなかった。 男子部員は新入生も含めて二十五人、女子部員が十一人。総勢三十六人はかなりの大人数で、大学近くの小さな居酒屋を貸切にしてコンパは行われた。居酒屋といっても無国籍風の店内は若者に好まれそうな派手な内装で、オレンジ色の明るい照明の下、翔太はなぜか巨大な水槽の中に入れられたような、落ち着かない気分になった。騒がしい洋楽とそれよりもっと騒がしい部員たちの喋り声。高校時代に一度も経験したことのない喧騒に、あまり現実感が湧かなかった。 自然に新入生が同じテーブルに集まったが、翔太以外の他の連中はそれなりにこの空気に溶け込んでいるように見えた。大声でしきりに何か、この大学に入学した経緯だとか、今住んでいるアパートのことだとかを話している。一緒に練習した中にあった顔だが、名前がまだ頭に入ってきていなかった。翔太は烏龍茶をごくりと飲み込んで、所在無くあたりの様子を観察した。 主将の赤城は副主将の橋本と何か楽しげに話している。その回りにいるのは四年生だろうか。荻野は店の隅のほうで、何人かの女の子と話している。社交的な男だからこういう集まりが好きなのだろう。 大勢の知らない人間の中にいるのは苦手だな、とこの雰囲気に溶け込めない自分にわずかに自己嫌悪を感じながら翔太は苦笑いした。まだ始まってからさほど時間がたっていないが、いつ退散しようかと早くも考え始めていた。 「おい、お前ちゃんと飲んでるか?」 いつのまにか、女の子と喋っていたはずの荻野がすぐ後ろに立っていた。翔太の隣の席に無理やり身体を割りこませてくる。 「何これ。ビール?」 「烏龍茶」 答えると、頭をはたかれた。 「ばか。お前こんな場で何烏龍茶なんか飲んでるわけ。どこの小学生なわけ」 「未成年のうちは飲まない」 他人にまで強制するつもりはないし、大学生になったらおおっぴらに飲んでも社会的にたいてい容認されているのはわかっている。それでも好んで法律を破るつもりもないし、そうまでして飲みたいとも思わなかった。 「おまっ、マジ? マジですか? どんな真面目な優等生ですか?」 荻野は明らかに飲んでいる赤い顔で絡んでくる。どれだけ飲んだのか知らないが、こんな短時間で赤くなるというのはあまり強くないのだろう。 「飲みすぎるなよ。無理したら倒れるぞ」 「先生かお前はー」 「いいから。無茶はするなよ。俺はもう帰るつもりだけど……」 「阿呆!」 荻野が叫んで、ぎゅっと翔太の腕を掴んだ。 「ちょっと、放せよ、いたい」 「帰さないぞー! 前からお前、どっか真面目な奴だなって思ってたけど、今日という今日は呆れたぞ。お前そんなんで大学生活渡っていけると思ってるのか! お兄さんが! 今日は飲むまで帰しません!」 今まで酔っ払いを相手にしたことがなかったが、迷惑なものだと実感した。言っても無駄だと思ったので無言で腕を外そうとしたが、思いのほか荻野の力は強く、離れなかった。 「廣瀬。お前酒も飲めない男は嫌われるぞ。男として情けないぞ」 「………」 聞き流そうとして、ふと温の顔が頭に浮かんだ。五つ年上の温はもう社会人だ。社会人には大学生以上に付き合いがあるし、酒だって当然飲むだろう。家でも飲むのかもしれない。翔太の前でアルコールを口にしたことはないが、たいていの大人はよく酒を飲む。彼もそうだろうか。 酒も飲めない自分を彼は、子供だと思うだろうか。だから、いつも甘やかしてくれるのだろうか。翔太がまだ子供だから。 「それ、何飲んでるんだ?」 荻野が右手に持っているグラスに目をやって尋ねると、「赤ワイン」と嬉しげに返事があった。 「ちょっと飲んでいいか」 「おお! どうぞ!」 差し出されて、最初は少しだけ口に含んでみる。ワインくらいは家で何度か口にしたことがある。そのままぐいっと残りを飲み干すと、荻野が「いい飲みっぷりだねぇ」と拍手をした。 「オーソドックスにビールもいけよ。おねーさん、生ビール二つ。ジョッキでちょうだい」 勝手に注文をされたが、拒まなかった。すぐに運ばれてきたビールに口をつける。おいしいものじゃないと思う。それともこれをおいしいと感じるようになったら大人になったということなのだろうか。 温のことを考えながら、無言で一杯、ほとんど一気飲みに近い勢いで飲み干した。飲み終わった後で少しむせたが、荻野は翔太の背中をバンバン叩いて嬉しそうに笑った。 「やればできるじゃないか。それでこそ男だ。おーい、おねーさーん、もう一杯!」 そのとき胸ポケットで、携帯電話が鳴った。 翔太は慌てて立ち上がると、荻野のことも一瞬で忘れて電話を耳に当てた。そうしながらうるさい店内を出るために出口へ向かう。 「もしもし? 温さん?」 ディスプレイは確かに彼の名を示している。七時十四分。着信記録があったからかけてきてくれたのだろう。 「仕事、終わりましたか?」 彼の声が、今終わって帰るとこ、と告げた。 『お前、今どこにいるんだ? なんか一瞬騒がしかったけど』 「陸上部の歓迎コンパで……」 『ああ。じゃ、悪かったな、途中で抜けさせて。電話切るよ、またかける』 じゃあな、という彼の声に心臓が止まりそうになった。慌てて、切らないでください、と縋るように言った。今日初めて彼の声を聞いているのに、こんな短時間で切られたくなかった。 『そんな悲壮な声出すなよ。どうした? 楽しくないのか?』 「温さんに会いたい。今から行ったら駄目ですか」 電話の向こうで少し沈黙があった。いつもならすぐにいいよと言ってくれるのに、今日は駄目なのだろうか。不安になり、翔太は「駄目ですか?」ともう一度、繰り返した。 『――駄目。コンパまだ終わってないんだろ。初めての顔合わせなんだろうし、ちゃんと最後までいなきゃ駄目だ』 「けど、僕は温さんに会いたいです」 声を聞くとよけいに切実に、そう思った。声だけでは心もとない。ちゃんと顔を見て、彼が確かに自分の手の届くところにいることを確かめなければ不安になる。いつまた自分の前からいなくなってしまうかと思うと、不安でたまらなくなる。そんなことはないとわかっていても。 「会いたいです」 子供のようにわがままをいって彼を困らせている。子供扱いされたくないと思っているのに、年下であることを利用して、兄のような彼の優しさにつけこんでいる。 情けなくて、店の前の駐車場にしゃがみこんで目を伏せた。ずるいことをしていると百も承知で、それでも会いたかった。 『……じゃあ、コンパ終わってからうち来いよ、待っててやるから。それで泊まっていったらいい。ソファで寝てもよければな』 「泊まっていいんですか?」 『遅くに家帰るの面倒だろ。電車乗る前に連絡しろよ、駅まで迎えに行ってやるよ』 「いえ、走っていくから、大丈夫です」 彼に会えると思うだけで、現金なほど心が騒いだ。コンパが終わってからという条件があるが、かまわなかった。彼に会えるのなら、どんなつまらないものでも我慢して過ごせると思った。それに泊まってもいいのなら明日の朝までずっと一緒にいられる。 『じゃ、また後でな』 電話が切れてしまってからも、しばらく携帯電話を握り締めたまま、翔太は店の外にしゃがみこんだままでいた。中からかすかに漏れてくる喧騒が遠い。つい先ほどまではこの騒がしさの中にいたというのに、まるで今では自分の世界とは切り離されたもののように感じた。 頭の中で、警告するようにもうずっと、やばいな、という声が聞こえている。 こんなふうに、誰かに依存しすぎるのは危険なことだ。そんなこと言われなくてもわかっている。 なのに会うたび彼が大切になるのを自分では止められない。その顔も声も喋り方も、唇の温かさ、髪の柔らかさも、すべてに心が騒ぐ。どうしようもなく、惹きつけられる。一緒にいられるだけで他には何もいらないと思う。 立ち上がって、翔太は再び店の中に戻った。途中で抜けたことを荻野に謝り、すでに運ばれてきていた二杯目のビールに口をつけた。そして酔っ払いながらも滑舌だけはしっかりしている荻野のおかげで、陸上部の先輩同輩や、何人かの女の子と話をすることができた。話してみると、当たり前だがみな普通の話をしていた。とりたてて特別なことのない、他愛もない、自分と周囲の人間の話。 勧められるままにビールを口に運んだ。飲んでいるうちに、うまくもない味にも違和感がなくなった。ただ飲んでいれば、この水槽のような店内でも一人だけ疎外感を感じずにすんだ。どうでもいい馬鹿話に笑ったし、知らない人間のよくわからない話題でもおかしかった。 それでもコンパの間中、頭の中の別のところでずっと温のことを考えていた。早く彼に会いたいと、そればかり考えていた。 結局コンパがお開きになったのは十時を回ってからで、電車に乗り、温の家近くの駅に着いた頃には十一時少し前になってしまっていた。 電車を下りてから、改札を抜けるのももどかしい気持ちですぐに走り出した。駅から彼の家までは二キロほどだ。走れば十分もかからない。平日の夜十一時には当然道を歩く人の姿はほとんどなく、交通量もまばらだから走りやすい。 明日も晴れるのか、夜空には雲一つなく、星が空一面に瞬いていた。翔太は少しだけ空を仰いで月を探したが、見つけることはできなかった。 (少しふらふらする) アスファルトを踏みしめる足の感覚がいつもと違うことにわずかに戸惑った。ビールのせいだろうか。何杯飲んだのか思い出せないが、ひょっとして飲みすぎたのかもしれない。自分の限界がどこにあるのかまったくわからなかった。 三階建てのアパートの201号室。部屋の前に立ってインターホンを鳴らした。すぐに中から足音が聞こえてきて、ドアが開くと同時に温が顔を出した。 「やっぱり走ってきたのか。迎えに行ってやるって言ったのに」 呆れたように苦笑する、その顔に、たまらなく会いたかったと思った。理由も何もなく、ただもうどうしようもなく、会いたかった。 「温さん」 入れよ、と背を向けた彼の身体を後ろから抱きしめた。温かい人の感触。たしかにこんなにすぐ近くに存在し、手が届くところにいるということ。それに安心して、翔太は大きく息を吐き出した。 「こんな夜遅くにすみません。明日も仕事があるのに……」 「いいよ。俺もお前の顔見たかった。もう寝るだろ?」 温の頬に触れる。顔の向きを変えさせて、首を伸ばして後ろから口づけた。抱きしめることとキスをすることが彼が許してくれたことだった。それだけでも十分、満たされた気分になる。 「お前、酒くさい」 唇が離れたとき、笑いながら言われた言葉に翔太は少なからず動揺した。 「本当ですか……酒くさい、ですか?」 「いいけどな。けどあんまり飲みすぎるなよ。一応未成年なんだから」 「飲まないほうがいいですか。だったらもう飲みません」 もともと好きで飲んだわけでもない。飲んでいるうちに忘れてしまったが、酒も飲めないのは男として情けないのかと、そんな男は嫌われるのだろうかと思ったから、飲んでみただけだった。 「別に飲んでもいいよ。付き合いあるだろ? 飲み過ぎるなって言ってるだけ。二日酔になっても苦しいからさ」 やんわりと翔太の腕を抜け出して温は廊下を奥へ進んでいく。その何気ない言葉に、なぜか翔太はお前にはお前の生活があるんだから好きにしろと突き放されたような気がして、すぐにはその場を動けなかった。そんな意図があって言ったわけではないとわかっていても、一瞬浮かんだ考えはしばらく消えなかった。 「翔太? どうした?」 ついてこない翔太を訝しむように、温が振り返って首を傾げた。 「どうも、しません」 ようやく靴を脱いで、中に上がった。 「風呂入るか?」 「いえ、部活の後でシャワーを浴びたからいいです」 「じゃあもう寝るか。着替え貸してやる。その服酒くさいからな」 少しだけ顔を寄せて服の匂いを嗅ぐ仕草をしてから、温は笑った。部屋から黒のトレーナーとパンツを持ってきてほら、と翔太に差し出す。礼を言って受け取った。 「俺こっちで寝るから、それに着替えたらベッドで寝ろよ」 温はさっさとソファに布団を持ちこんで寝る姿勢だった。今にもおやすみと言って眠ってしまいそうな彼に、翔太は慌てて声をかけた。 「駄目です、そんなの。僕が無理言って来てるんだからそっちで寝ます。温さんはちゃんとベッドで寝てください」 「だってこのソファ俺で身長ぎりぎりなんだよ。お前悔しいけど俺よりちょっとだけ背高いだろう。だから譲ってやるんだ。全然気にしなくていい。気にするならもう泊めてやらない」 無茶苦茶なことを言う。泊めてやらないと言われたら、翔太にはもう何も言えない。そんなのは嫌だからだ。かといってこのまま自分がベッドを占領して眠るのも嫌だ。 「……一緒に寝たら駄目ですか」 自分にとっての一番の希望が口をついて出た。目を閉じていた温がぱっと目を開ける。目が合うと、温はしばらくじっと翔太の顔を見て、それから小首を傾げた。 「狭いだろ?」 「僕は平気です。温さんが嫌なら、僕は床で寝ます。一人でベッド使えないから」 「……変なとこで、お前って律儀っていうか、何て言うか……」 ソファから半身を起こして、温は頭をかいた。それから少しの間考えてから、「わかった」と立ち上がった。 「じゃあ一緒に寝よう。お前がいいなら、俺もいいよ」 甘やかす言葉に、翔太は胸が痛いと思った。甘やかしてくれるのが嬉しいと同時に、なだめるようなその言葉が自分を子供扱いしているということを示しているようで、辛かった。年下であり、彼が家庭教師をしていたときの生徒だったことを利用しているのは自分なのに、そういうふうに扱われるのが嫌だった。彼の優しさがただ、わがままな生徒に向けられるもののようで。 それでも差し伸べられた手を拒絶することはできなくて、着替え終わると電気を消して、温の隣に潜り込んだ。すぐに手を伸ばして、彼の身体にそっと寄り添った。腕を辿って手のひらに触れ、握り締めると、同じように握り返してくれた。 「なあ、翔太」 手を握ったまま、囁くように小さく温が名前を呼んだ。 「はい」 「今はまだ、会社入ったばっかりで仕事よくわかってないから早く帰れるけどな、そのうち残業とか増えてくると思うんだよ。帰り遅くなる。だからさ、たぶん今までみたいに毎日会えなくなると思うんだ」 「……はい」 それはわかっていたことだった。けれど言葉にしてつきつけられるとやはり、そんなのは嫌だと言ってしまいそうな気がして、翔太は強く目を瞑った。温を困らせるわがままは言いたくない。 「だから、会うの週末だけにしないか」 「……はい」 そのことを、頭で想像することを無理やり止めて返事をする。今まで毎日会っていてもなお、離れているとすぐに顔が見たくなっていたのに、それを週末だけにするというのがどういう意味なのか、考えたら絶対に嫌だと言ってしまう。だから今は考えたくなかった。きつく目を閉じたままただ頷いた。 「ちょっと寂しいけどな」 温がぽつりと言って、触れている手と反対の手でそろそろと翔太の髪を撫でた。そんな些細な仕草に泣きそうになる。深く意識して言ったわけでもない言葉。彼にとってはなんでもない仕草。その一つ一つに、馬鹿みたいに振りまわされている自分の心が情けなかった。ちょっとどころじゃなく寂しくてやりきれないと、言えるものなら言いたかった。それでもそんなことを言って嫌われるのはもっと嫌だ。嫌われたくない、絶対に。 腕にすがりついてその温もりを感じた。必死に自分の気持ちを隠そうと努めた。 本当にどうして、こんなにも彼のことが大切になってしまったのだろう。一秒も離れていたくないと思うなんておかしい。どうかしている。自分でよくわかっている。けれど彼のそばにいると少しも冷静になれない。頭でわかっていることを感情が裏切る。 「大学生活、楽しく送れそうか?」 温の問いかけに肯定も否定もしなかった。ただ強く彼の手を握りしめた。 |
| あとがき / いちゃいちゃしてますね。更新しながら冬の寒さが身に沁みます。ふーゆー(-_-) |