降っているかいないかわからないほどの雨はそれでも朝からずっと止むことなく降り続け、空を覆う重たい灰色の雲はまだ当分消えそうもない。 その日は水曜日で、出がけにちらっと目を走らせた新聞の天気予報欄でもやはり一日中傘の絵になっていた。春先の雨にはどこか、無為なまどろみのような静けさとやわらかさがあって、決して嫌いではないのだが、空気を望むような曖昧さでふっと人が恋しくなる。長谷川は客のいないのをよいことに大きな机に子供のように頬杖をつき、考えた。 誰かを思うとき、はじめに思い出すのは声だった。彼あるいは彼女の口癖、印象に残って忘れられない言葉、自分の名を呼ぶときの親しみに満ちた彼らの声を、まず真っ先に思い出す。なかには顔すらない、声だけの記憶もたくさんあった。顔さえ覚えていないのにその人間を好きだったことは覚えているのだから不思議なものだ。その声が心を過ぎるとき同時によぎる一瞬の感情が、その人間の存在に対する自分の気持ちを最も正確に表している。決して言葉にはできない、自分にしか知りえない漠然とした思いが、しかし一番確かなものだった。 (今日は誰も来ないかもしれないな) 実りのない物思いにふける頭の片隅で思った。平日の午後、それも雨の日を選んでわざわざ展示場に足を伸ばす人間は多くない。冷やかしもないが同時に本気の客も来ない。もっとも長谷川にとって、本気で家を買う気があるかないかなど実際のところどうでもよいことに近く、冷やかしの客も大歓迎が本音だった。首になるのは困るが、そうならない限りにおいては一件も契約が成立しなくてもかまわない。いつだったかお前には熱意と気迫が足りないとため息混じりに上司がぼやいていたのも実に当然のことだった。 「…すみません」 突然聞こえてきた声に驚いて目を上げた。戸口に若い男が立っている。濃紺のパーカーにジーンズ。背は高く、短い髪が湿って額に張りついていた。右手に持った傘からも水滴が滴り落ちている。耳を澄ませばいつのまにか、雨は少し勢いを増したのかもしれなかった。長谷川はすぐに立ち上がって彼を迎えた。 「ちょっと、中を見せてもらっていいですか」 「ええ、もちろんです。タオルをお持ちしましょうか?」 「あ、っと、すみません。こんな濡れてて……」 男は、まるで今初めてそのことに気づいたというように恐縮して頭を下げた。雨の中で人恋しさを募らせていた長谷川には、そのぎごちない仕草が突然にもたらされた救いのように感じられた。営業用だけではない笑顔を向けると、バスルームから備品であるタオルをとって引き返し、「どうぞお使いください」と差し出した。 「すみません」 顔から頭、パーカーの順で急かされるように、だが丁寧に水滴を拭う男の姿を改めて観察する。ただ短く切っているだけという印象の黒い髪。背が高いのに威圧感がないのは不器用そうな仕草のせいかもしれない。履き古された靴にはところどころ泥が跳ねて汚れていた。 世慣れた風のない口調は大学生だろうか。あるいは少なくともあまり人と関わりを持つような仕事に従事していない者。こんな時間にこんなところをうろついていることからして、普通のサラリーマンではないようだ。 視線を感じたのか男が顔を上げ、目が合うと、驚いたように目を見開いてすぐにそらした。長谷川は癖になっている不躾な視線をいつものように反省したが、謝る代わりに微笑んで声をかけた。いつもしているように。 「雨、ひどくなったんですね」 「少し」 「ご自宅はお近くなんですか。歩いてここまで?」 「いえ……近くまで来たもので、ちょっとだけと思って……」 男は口ごもるように言葉を濁した。長谷川は礼とともに返されたタオルを受付机の上に置き、「ご案内しましょうか」と彼を促した。 「それともお邪魔でしたらお一人で見て回られますか」 「いいえ、あの、よかったら案内してください」 お忙しくなければ、とつけ加えられた言葉に微笑んだ。若い男が一人きり、それもこんな雨の日に来ることからして本気で購入物件を探しているようには見えない。一時の雨宿りと考えるのも、この雨が朝から降り続いていることと男が傘を持っていることを考えると不自然だった。 けれどそんなことどうだっていい。たいていの客に対してそうであるように長谷川は男に好感を持ち、わずかであっても彼と時間を共有できることを素直に喜んだ。男の前に立ってリビングに入る。 「実はここ、もうすぐ建て替えになるんですよ」 「…そうなんですか?」 表情の変化はほとんど見られなかったが、男の驚いたような声は顔よりも正直だった。長谷川はうなずいた。 「ええ、デザインがちょっと旧式でしょう。インテリアは時々変えますが、外観や骨組みまではいじれないですからね」 「ああ、そういえば……」 男は室内を見回し、首を傾げる。大きなリビングには中央にテーブルとソファが置かれてあって、暖色のやわらかな照明が落ちている。男は何かを思い出そうとするかのように目を細めたが、「そういえば」に続く言葉は聞かれなかった。 「広くてゆったりしているでしょう。ちょっとしたホームパーティが開けるくらいというのがコンセプトだったんですよ。新築したばかりのころは実際にパーティの準備をしてみたりしてね」 長谷川が言った言葉に、男はうれしそうに微笑んだ。 「ええ、そうでした。大きな花瓶が飾ってあって、ケーキとか、フライドチキンだとか、たくさんの料理がありました。俺は作り物だと思ったけど、よく見たらそうじゃなかったから、びっくりして……」 男はそこではっとしたように口を噤んだ。口元に手を当て、長谷川を見てから頭を下げる。 「……すみません」 「どうして謝るんです? 以前にもここにいらしてくださったことがあるんですね」 先ほどの幸福そうな表情が一瞬でかき消えてしまったことを残念に思いながら長谷川が言うと、男は彼と視線を合わすまいとするかのようにじっと足元に視線を落として、小さくうなずいた。頼りなげなその横顔は、はじめの印象よりもさらにいくらか彼を若く見せていた。 しばらく黙って男の言葉を待ったが、彼は自分からは何も言うつもりはないようだった。そのことを確認してから長谷川は口を開いた。 「他のところへ行きましょうか。せっかくいらしたんだから全部ご覧になっていってください。一度見たものでもインテリアが変わるとずいぶんイメージが変わるでしょう?」 何事もなかったように言って男を促した。彼の硬い表情には気がつかないふりをする。 時折、馬鹿みたいに優しさについて考える。 誰かの一生の中で、たった一言、たった一つの行為の持つ重みはいったいどれだけ大きくなりうるのだろうかということを考える。 「…ええ、本当ですね」 広いダイニングと採光性に優れたシステムキッチン。今日はあいにくの天気の悪さでその長所が生かされていないが、晴れた日には大きくとった曇り硝子の窓から明るい陽射しが差し込んでくる。 「家族の顔を見ながら料理ができるほうがいいとおっしゃるお客様が多いんです。だから対面型が人気があって」 「それはわかる気がします」 「料理はよくなさるんですか?」 「全然うまくはないですけど。一人暮らししてますから、一通りは」 この長身の、あまり器用そうでない男がキッチンに向かっている姿を想像するとおかしかった。けれど妙に似合っているような気もする。彼ならきっと結婚してもぎごちない手つきで時折、妻の料理を手伝ったりするのだろう。 「僕も料理をするのは好きですよ。自分のためより、誰かに食べてもらうために作るのが好きだな」 「ああ」 それもわかります、そう言って男は小さく微笑んだ。はじめに聞いたときは低く、雨に沈んだように掠れていた声が、今は相変わらず低いけれど、よく通る落ち着いた声になっていた。こういう声は好きだと漠然と長谷川は思った。好きだという感情はとりとめのない曖昧な思い込みのようなものだと彼は思っているから、そのとき、ひどく満ち足りた幸せな気分になった。好きな人間の好きな声を聞いているという、満足感からくる幸福感。 「二階へ行きましょうか」 二階の部屋は三つある。大きな寝室が一つと子供部屋が二つ。他にフリースペースとして階段を上がったところに広い空間がとってあった。今は書斎代わりに本棚と小作りな机、その上には液晶一体型のデスクトップパソコンが置かれてある。 「ここが一番趣味が出るところかもしれないですね。以前来られたときには何が置いてありました?」 尋ねると、男は思い出すように首を傾げた。 「そうですね。たぶん……絵が飾ってあったと思います。白いキャンバスと。絵の具のにおいがちょっとして、ブラインドを開けるとすごく眩しくて」 「よく覚えていらっしゃるんですね」 「印象的でしたから。案内してくれた方もすごくいい人で、……あなたみたいに」 その言葉が素直に嬉しかったので微笑むと、目を合わせた男は照れたようにすぐに目を伏せてしまった。 長谷川は窓際に近づいてブラインドを開ける。すると降り注ぐ陽光ではなくて細く降る雨が見えた。やはり昼に外に出てみたときより少しひどくなっているようだ。視線を下ろしても道を歩く人影は一つも見えない。少なくとも販売員だけはいるはずの他の展示場も、まるで誰もいない家のようにひっそりと雨に濡れていた。 「今日は一日中雨ですね、きっと」 隣に並んだ男に話しかけた。 「そうですね。でも雨は嫌いじゃないです。静かで、周りが気にならなくなるから。一人きりになれるから、楽な気がして……」 「一人は楽ですか?」 「…ええ」 「でも寂しいでしょう」 男は不意をつかれたように長谷川を見た。長谷川のほうははじめから男の顔を見ていたので、自然近い距離で目が合った。今度は彼は顔を背けずに、何か言いたげに口を開きかけたが、結局何も言わないままに再び閉じた。耳を澄ませば雨音がひどく静かに聞こえてくる。 「僕は、雨の日は少し寂しいと思うんですよ。誰かといっしょにいたいと思う」 もちろん、できることなら好きな相手と一緒のほうがなおいい。けれどそうでなくとも、たとえ気が合わない人間だったとしても、一人きりでいるよりはよほどいい。一言も言葉を交わさなくても、ただ誰かがそばにいるというだけで慰められる気がした。人の気配そのものに。 隣で男が身じろぎする。のろのろと腕を持ち上げて、目を押さえた。 「……すみません」 彼はここに来てから謝ってばかりだった。謝らなくていいと言う代わりに、男には見えないことを知りながら長谷川は小さくうなずき、視線を窓外に向けた。 雨の空は暗い。 春分を過ぎても日によってはまだ随分と肌寒く、今日のように太陽が見えず気温が上がらない日にはよけいにそうだった。けれどこれがあと一月もすれば夏の気配を感じさせるほどになるのかと思うと、冬の澄み切った冷たさが名残惜しいように思えてくる。 目を向けると、男は手のひらで両目を覆い、声も立てずにただ肩だけを震わせていた。 「家を……売ろうと、思って……」 息を吐き出すようにして、掠れた声で彼が言った。 「一人では広すぎるから、だから……」 「ええ」 「ここの前を通りかかったら、どうしても、もう一度だけ中を見てみたくなって。そうしたら、ちゃんとあきらめられるんじゃないかと思いました」 少し落ち着いてきたのか、低い声はもう掠れてはいなかった。長谷川は両手で顔を覆ったままの男の姿を見つめながら、独り言のようなその告白を聞いた。 「だけどあの家には……あそこには、全部あるから。全部に思い出があるから、俺は……」 大きな家に一人きりで、静かに降り続く雨の音を聞いている光景を想像する。 そこには自分と、大好きだった人が残した記憶だけがある。どこを見てもその記憶が忘れがたく浮かび上がり、それはその人がもうそこにはいないのだという現実を、否応なく突きつけてくる。一人きりだ。他には誰もいない。永遠に取り残されたような広い空間が家の中と自分の心に空いている。記憶は流れ出し、溢れて一時胸を塞ぐけれど、隙間を埋めてはくれない。時の流れよりも役立たずなもの。それでも捨てることができない。 男はそれきり口を閉ざし、じっと何かに耐えるように俯いたままでいる。 長谷川は思い切って窓を開けてみた。とたんに雨音が大きくなり、一瞬の後に冷たい空気が室内に流れ込んできて目を細めた。 「家には暮らしのすべてがあります。でも人がいなければ何もない。誰かがそこに住んではじめて、意味のあるものになります。だからこういう展示場はいつも作り物めいて寂しいんだと僕は思う」 訪れてくれる人をいつも心待ちにしているのはだからなのだ。そのときはじめてここが本当に家になる。 男はほんのわずかうなずいたようだった。長谷川もそれ以上は何も言わず、ただ黙って雨の音を聞いていた。一人で聞けば陰鬱すぎる雨の音も、すぐ近くに人の存在を感じているだけでその気の滅入るような暗さが嘘のように消え失せる。あるのは優しさだけだった。干渉しない、ただそこにあるという存在だけが与えるやわらかな空気のような優しさ。 やがて男が顔を上げて静かな声で別れを告げるまで、二人はしばらくそうして春の始まりを告げる雨の音を聞いていた。 |
| あとがき / これは一応一話読みきり形式ですが、5まであって共通のキャラクターが出てきます。ちなみに去年のコバルトノベル対象に応募して一次落ちした作品だったりもします。そういう目で見てください(笑) 書いた後で気づいたのですが、これは私が生まれて初めて書いた超能力も超常現象も出てこない現代ものかもしれません。そういう意味では画期的な話といえるのかも。 |