「川口くん」 一度何かに集中すると容易にそこを抜け出すことができなくなる。 子供の頃からその傾向はあって、はじめは友達と遊んでいるうちに家に帰るのを忘れたりとか、夢中になって本を読んでいるうちに徹夜してしまって翌日授業中に居眠りをして叱られたりとか、そういう誰にでもあるような些細なことが人より少し頻繁に起こる程度だったのが、だんだんと年を重ねるにつれてその頻度も程度も大きくなっていった。 中学生の頃、映画の世界にはまり込んだ。学校帰りにレンタルビデオ店へ毎日のように通い、食事や入浴の時間も惜しんで部屋に閉じこもってビデオを見た。もちろん学校の授業も宿題も意識の外だった。授業の間には映画のシーンを一つ一つ丁寧に思い返し、画面に映っていた部屋のインテリア、登場人物の仕草、台詞や声の調子を頭の中で何度も反芻した。映画の、とりわけ古い映画の中の、あの時が止まったような感覚が好きだった。何もかもが緩やかな時の流れの中にあるような、穏やかに静かなあの雰囲気が好きだった。 けれどビデオ店通いは高校に入ってすぐ中断された。違うものに惹かれたからだ。夢中になれるものはいつもたった一つだけで、その「何か」以外には、たとえそれまでどれだけ大切に思っていたものだったとしても、すべて意識の核からは滑り落ちてしまう。したがって中断は今にいたるまで中断のままであり、再開の目途は立っていない。 嫌いになったわけではない。好きだったこと、夢中だったことはずっと覚えている。ただその感情がどこか冷めていて、まるで遠くから自分自身を眺めているような気がするだけだ。まったく関係のない傍観者のように、客観的にどこまでも無感動に、例えるなら面白くない映画を見ているように。 「川口くんてば。もうお昼だよ、休憩しないの」 呼びかけられて顔を上げると、アルバイトの女の子がすぐそばで自分を見下ろしていたのと目が合って、川口実は一瞬、何を言われたのかわからなかった。自分の世界から「現実」に戻ってくるときはいつもそうだ。境界が曖昧になってぼんやりと霞み、時間軸も空間軸も捩れて混沌とする。 「…昼休み?」 「そうよ。昼まで働くのやめようよ。そんな切羽つまってるわけじゃないでしょ? つまってるの?」 「いや……そんなことないよ」 川口は立ち上がろうとして、思い出して作業中の画面を終了した。財布だけ持って立ち上がると、「川口くんいつもどこでお昼食べるの? 今日わたしも一緒していい?」と目の前の彼女が訊いてきた。たしか名前は――川口は記憶をたどった――中島、中島則子、だ。そう、何度も呼んだことがあるし、ちゃんと覚えている。一瞬わからなかったのはただぼんやりしていたからだ。まだ完全に頭が周囲の現実に適応していないせい。頭の中の記号の羅列を追い払うため、軽く首を振って川口はあらためて則子の顔を見た。 「俺は食堂だけど、……どうしたの」 こんな風に誘われたことは今までなかった。中島則子が臨時社員として入ってからこの夏で一年になるが、とりたてて親しいわけでもなく、口をきくといえばただ挨拶と、些細な用事、短い世間話程度のものだけだった。軽く波打つやわらかそうな髪をした、大きな目で色白のかわいらしい女の子だけれど、川口は彼女の正確な年齢さえも知らなかった。 「うん。今日いつも一緒に食べてる子が二人ともお休みしてて。一人だと寂しいし」 だからといってどうして自分なのかと思ったが口には出さなかった。ほとんど男ばかりの職場だから、則子のように若い女の子には働きづらい場所なのかもしれない。けれどなぜか川口には気を許しているようで、時々会話を交わすときの態度は他の人間に比べて親しげに思えた。川口の実年齢よりも若く見える外見と朴訥な雰囲気のせいかもしれない。そしてあるいはもう一つ、既婚であるということの。 食堂はいつも混んでいた。特に夏と冬には外に出るのを嫌う者たちでますますごった返す。そろそろ昼間に出歩くとじわりと汗が滲むようになった六月のその日、食堂はやはり混んでおり、カウンターでそろって昼定食を注文した二人は、ぽつぽつと空いている席の一角に向かい合って腰を下ろした。 「川口くんてさ、仕事してるときいっつもすごい真剣よね。わたしなかなか声かけられないもん」 「そんなことないよ」 「あるよ。ほんとに真剣。睨むみたいに画面見てるでしょ。別に目、悪くないよね。あ、ひょっとしてコンタクト?」 「目は……悪いよ。すごく悪い」 学生の頃はずっと眼鏡をかけていた。友人たちはみなコンタクトにしていたが、何かを目の中に入れるという行為にはひどい違和感を感じて、考えるだけで気持ちが悪かった。自分は一生眼鏡でかまわないと思っていた。けれど就職する前の年、もう度の合う眼鏡を作るのは難しいからいっそのこととコンタクトを勧められて、思ってもいなかったことだけに大きなショックを受けた。 何かに熱中しているときは忘れていられるのに、ふと意識を向けるととたんに目の中に異物感を感じる。川口は眉を寄せた。何年経っても慣れない。これからもたぶんずっと、慣れることはない。そう思うとひどく気が滅入る。 「うん、まあこういう仕事してたらね、悪くなるよね。わたしはコンピュータあんまり触らないから大丈夫だけど、それでも最近ちょっと視力落ちたかもって思うし」 ちょっと落ちた、程度なことが川口には羨ましかった。たしか以前、則子は視力が両目一・二だと言っていたのを聞いたような気がする。「気をつけたほうがいいよ、一生のことだから」と川口が言うと、彼女は神妙な顔でうなずいた。 「そうよね」 それで会話は途切れた。二人とも黙ってそれぞれの食事に手を伸ばす。 こういう沈黙を気まずいと感じることには慣れすぎて、最近では大分感覚が鈍くなってきた。川口はもともと口数の多いほうではないし、仲間内で話していても聞き役に回ることのほうが多かった。だから相手が喋らなければ会話はそれで終わってしまう。自分から話しかけようにも、気の利いた話題などすぐには思いつかない。 ふっと、意識を目の前の彼女から周囲に広げてみる。何をそんなに話すことがあるのかと羨ましく思うほどざわざわとした食堂の喧騒の中で、あらためて、川口はその不思議さに思いをやった。漠然と聞いているだけでは誰が何を言っているのかまったくわからないのに、少し意識を集中してみればそれぞれの会話が意味を持って聞こえてくる。すぐそばの若い男三人のグループは週末に予定している合コンへの期待で盛り上がっているし、その隣では女性二人がのんびりと天気の話をしている。別の少し離れたところからは、今季のサッカーでどこが勝つの負けるのという話をやや興奮気味に話すのが聞こえてきた。 「……だけど、他に頼める人いないし」 「え?」 中島則子の言葉ではっと意識を彼女に戻した。また、話を聞いていなかった。内心自分の悪癖を呪いながら則子を見ると、彼女は川口のほうは見ないで俯いたまま唇を噛んでいた。 「え、と……」 ごめんねもう一回言ってくれる、と頼む前に則子のほうが口を開いた。懇願するような小さな声だった。 「奥さんいるのわかってるし、迷惑なのもわかってる。でも一日だけでいいの。ふりだけで。わたしの恋人になってくれませんか」 ずっと以前に父にもらった古ぼけたラジオからそれに似合いの何十年も昔のヒット曲が流れてくる。 室内に自分以外誰もいなくなったのを確認した後で、川口はいつもこのラジオを取り出して聞いている。何を聞きたいわけでもない。集中しない限り意識の隅にものぼらない雑音のような何かがほしいだけだ。何もない静けさがただ嫌だった。静けさは感情を乱す。誰もいない家を思い出す。その静けさから逃れるためにラジオを聞き、きちんと仕事さえ仕上げれば本当はあまり出てくる必要のない職場に朝から晩までいて、長時間酷使するせいで痛む目をだましながらディスプレイと向かい合っている。 目を閉じて、指先で瞼をきつく押さえた。先ほど見た時計の針は九時ちょっと過ぎを差していた。たぶんもう帰ったほうがいいのかもしれない。どうせたいした仕事を抱えているわけでもない。 頭ではそうわかっているのにやはり、家に戻ることを考えると帰り支度をする気になれなかった。ラジオから流れる元気のいいポップスに意識が移り、目が、広く誰もいなくなった室内を見回して、自分のいる一角だけについた明かりを急に眩しく感じた。 立ち上がって窓際に行き、ブラインドを開けて外の景色を見下ろした。周囲の高層ビルが邪魔で切り取ったような夜空しか見えない。その小さな空でさえどこか重たく、今日の夜から雨が降るらしいと昼間食堂で女の子たちが話していたのを思い出した。――私、傘持ってきてないよ。 (俺だって持ってない) 会社の駐車場は少し離れたところにある。このまま雨が降ってきたら濡れていくらか歩かなければならなくなるが、それでもいいかと川口は思った。雨に濡れるのも涼しくなっていいかもしれない。 (今日は少し、暑い) 壁にもたれかかるようにして外を眺めながら、深く意識するでもなしに昼間のことを反芻した。 「わたしの恋人になってくれませんか」 川口にしてみればまったく唐突に、中島則子はそう切り出した。恋人に、正確には偽の恋人に。 問い返すこともできずに川口が黙ったままでいると則子は顔を上げ、必死の表情で言い募った。 「お願い、一日だけ。わたしの彼に会ってほしいの。川口くんはただそこにいてくれればいいから、彼にはわたしが全部言うから、適当にうなずいてくれればそれでいいの」 「……彼と別れたいの?」 尋ねると、則子は一瞬息を止めて、やがて決心したようにうなずいた。その一瞬の空白に彼女の迷いが見えた気がして、川口はひどく困惑した。本人の中にすら迷いがあることをするのに、どうして他人の自分が関わっていけるのかと思ったのだ。本当の恋人でも友人でさえもない、まったくの他人の自分が。 義務という言葉は好きではなかった。だから自分にはそんな義務はないだろうとは思わずに、ただ、困惑した。そのくせ則子が彼氏と別れたがる理由を自分から訊くこともできなかった。 「本当はまだ好き。だけどもう駄目だと思う。わたしは彼も自分も信じられないから、そろそろもう駄目だと思う」 「……そう」 「川口くんみたいなひとだったらよかったなあ。そしたらよかったのに」 自分みたいな人間だったら、何が、どんなふうに、よかったんだ? 永遠にかみ合わない会話をしているような気がした。彼女は知らないからこんなことが言える。もう何ヶ月も前に離婚したのだと知ったらいったい何と言うのだろう。学生のうちに結婚して、六年も一緒に暮らした。なのにいつからか相手にとって一緒にいることが苦痛だったなんて、全然、気がつかなかった。 わけのわからない展開に頭がついていけず、川口は食欲をなくした。半分以上残っていた昼定食を見てももう食べる気にはなれずに箸を置いた。氷の溶けかけた水を一口飲む。あまり冷たく感じなかった。 「今週の土曜日、いい?」 上目遣いに、川口が断ることなどほとんど考えていないような顔でそれでもしおらしく、則子が言った。いったい自分はどういう風に見られているんだろうと、川口は短時間で一気に疲れた頭で考えた。自分はそれほどお人好しじゃないし、優しくもない。それに嫌なことを嫌だと言えないほど気弱なわけでもない。 わからないだけだ、わからないだけ。 何が嫌で何がしたいのか、いつもよくわからない。 「ああ――いいよ。何時?」 だからこういうふうに、曖昧に笑顔さえ浮かべて答えてしまう。 「じゃあ3時に『MOND』で。知ってるよね? 駅前の」 「知ってる。3時だね、わかった」 「ありがとう」 両手を合わせて拝むような仕草をした則子に川口は苦笑を向けた。ふいに、美紀子だったらこんなことはしない、と思った。そう信じるというより、実際にしなかったのだ。他に好きな人ができたとは言わず、彼女は川口のことが好きではなくなったのだと言った。他の誰のせいでもない、すべてあなたと私の問題なのだと。 けれど則子はまだ彼氏のことが好きなのだという。だったらたしかに美紀子と同じようにはできない。まだ好きな相手とそれでも別れなければならないとき、考えるのはたぶん、どうやったら相手も自分もなるべく傷つかずに別れられるかということ。 (傷つかない?) 好きな人間と別れるときに、いったいどうやったら傷つかないでいられるんだろう。 そう思って則子を見ると、彼女は今までの軽い調子が嘘のように泣きだしそうな顔で髪をいじっていた。けれど川口と目が合うとそれを隠すように、目を細めて、ぎごちなく笑った。 「――雨か」 降りだした雨の気配に川口は物思いから覚めた。夏の雨の匂いがする。灼けたアスファルトが冷える匂いだと、いつもそう感じていた。道路から立ち上る太陽の熱の匂い。今は夜なのだからそんなはずはないとわかっていても、夏の雨はいつも同じ匂いがする。 首をめぐらせて壁にかかっているカレンダーを見た。今日は水曜日だった。 (あなたのいいところは、) かつて二人がつき合い始めたばかりの頃――だからもう十年近く前のことになる――いつものようにはきはきとした口調で彼女は唐突にそう切り出した。 (怒らないところ) 辛辣なことを言うときでも笑い話をするときでも彼女はいつも同じその口調だったから、それが皮肉なのか誉め言葉なのか、川口には一瞬判断がつかなかった。ただ美紀子は皮肉を言うくらいならはっきり面と向かって批判する性格だったし、そう言った後で笑顔を浮かべたのでそれが悪意からきたものではないことがわかった。悪意。一瞬でもそんな言葉を浮かべた自分を恥じた。川口は不自然でないように曖昧に笑いながら視線を逸らし、俯いた。 彼女の自分に対するマイナスの感情にあまりに過敏になりすぎているのは、もう大分前から自覚していた。それはつき合う前からだ。けれど最近になってますますひどくなっている。 怒らない? ちがう、そうじゃない、と心の中で反論した。もちろん彼にだって腹が立つときはあるし、ときには両親や友人に八つ当たりをすることもある。けれど彼女にはしない。今までも、たぶんこれから先もしない。理由はいたって簡単で、嫌われたくないからだった。 その頃の川口が何より恐れていたのは美紀子に嫌われることだった。彼女の他愛もない言葉ひとつにひどく感情が揺さぶられ、不安定になった。表面には決して出さないよう自戒していたけれど、内心にあるのは、いつも怯えだった。何の取り柄もない自分にいつか彼女が飽きて離れていってしまうのではないかと、毎日変わらずに怖かった。 (悪いところは凝り性なところ。夢中になると私のことだって忘れるでしょ。薄情なんだから) (そんなことないよ) 慌てて否定した。何かに熱中すると周囲が見えなくなるのは認めるが、美紀子のことを忘れたことはなかった。彼女を好きになってはじめて、川口は誰かに対する思いが人以外のものへ向ける熱意と両立するものであることを知ったのだ。 まるで心の中にしきりがあって、大切な人への思いは特別な、決して他のものには立ち入ることのできない領域に存在しているようだと思った。そこに別の人間への思いが混じることはあっても、それ以外の何かへの熱中がその場所を埋めることはない。だからどんなに何かに集中していても、美紀子への思いが薄らぐことはない。その頃はそう信じていた。 指先で意味もなくテーブルを叩く。一年程前にできたばかりのこじんまりとして地味な、けれど若者にはわりによく知られている喫茶店の中で中島則子を待ちながら、川口はなぜこんなにも冷静に美紀子のことを思い出せるのか自分でも不思議だった。ほんの数日前まで彼女の顔を思い出すだけでもつらいと感じていたのに、今はどうしてだか平気だった。思えば別れて以来、彼女のことを考えることを自分に禁じていたような気がする。思い出しそうになったら必死で違うことを考えようとした。けれど今、こうして思い出してみると感じるのは寂しさや後悔よりも懐かしさだった。古い友人を思うような郷愁的であたたかい気持ち。こんなふうに、ゆっくりと古い映画を見るように愛していた人間を思い出せるのは、たぶん幸せなことに違いない。ひとりきりの寂しい雨の日に人の優しさを感じたときのように、美紀子のこともいい思い出になるといい。いつか、ずっと先でもいいから。 店の扉が開く音に目を上げて、則子がやってきたのに気がついた。きょろきょろと店内を見回していた彼女は川口と目が合うと、手を上げて彼のほうへ近づいてきた。 涼しげな青のワンピースに白のボレロという格好の彼女は、職場で会うときよりもずっと華やかでかわいらしく見えた。まったく無頓着に普段着のまま来てしまった川口は一瞬だけ後悔したが、気合を入れてスーツで来るのも何か違うような気がして、それくらいならばまだ今のほうがましだという結論に落ち着いた。スーツ以外のちゃんとした服というものを彼は持っていない。美紀子が選んでくれた服は全部、彼女と別れるときに感情に任せて捨ててしまった。 「わたしのほうが遅かったんだね。ごめんね、無理にお願いしたくせに」 「いや、まだ約束の時間より早いし。俺もちょっと前に来たばかりだから」 時計を見ると三時五分前だった。則子は川口の隣に座り、すぐに注文を聞きにきたウェイトレスからメニュー表を受け取った。 「川口くんはもう注文したの?」 「うん」 「何頼んだ?」 「コーヒー」 「じゃあわたしも同じもの」 にこりと笑ってそう言うと、ろくに見もしなかったメニューをウェイトレスに返す。丁寧に頭を下げてウェイトレスが去っていくと、何がうれしいのか、則子は川口の顔を見上げてまた笑った。 「川口くんってやっぱり几帳面だよね。待ち合わせよりどれだけ早く来るかとかってけっこう性格出ると思わない?」 「そうかな」 「うん、絶対そう。わたしの彼なんてすごい時間にルーズなのよ。だから今日も遅れてくると思うけど、ごめんね。ちょっとだけ待って」 「いいよ。どうせ休みだからってすることもなかったし」 それにこんなふうに若い女の子と二人でいるのは久しぶりのような気がした。これから始まるのが恋人同士の別れ話で、自分はその口実に使われるだけなのだとわかっていても、不思議に嫌ではなかった。そういう、恋愛の切なさだとか苦しさだとかいうのが、妙に懐かしく、また羨ましいことのようにさえ今は思える。 川口の美紀子への思いは、いつからか恋人に対するものから家族へのものに変わり、ずいぶん前に恋愛感情と呼べるものではなくなったのかもしれない。いなければすごく寂しい。けれど高校時代に感じていたような怯えや、全身で彼女の一言一言に集中するようなことは、たしかにもうずっと以前になくなっていたのだ。 「中島さんの彼氏ってどういう人?」 恋愛という、若さの恩恵のようなものに少しでも触れたいような、何やらすっかり年老いてしまったようなその感覚を自分でも奇妙に思いながらも、好奇心を抑えきれずに問いかけた。 「うーんとね、顔はいいよ。ちょっと目立つ感じでね。背は川口くんのほうが高いな。あんまり真面目じゃない。というより不真面目。いいかげんで何かをがんばろうとかいう気がないの。身の回りのことも何にもやんないし、本当に駄目な人」 「へえ」 自分とはまるきり別のタイプだなと川口は思った。たぶん、もっとずっとお洒落で、よく喋り、女の子と話すことを楽しむようなタイプ。川口は違った。根本的に美紀子以外の女性にはまったく慣れていないから、二人でいても何を話せばいいかわからない。離婚したことを知った友人が一度コンパに誘ってくれたが、そこへ来ていた誰とも上手く打ち解けることができなかった。 「彼、いくつ?」 「今年で二十四」 「へえ、年上? それとも同い年?」 尋ねると、びっくりしたように則子が顔を上げて川口を見た。そのとき先ほどと同じウェイトレスがコーヒーを運んできて、則子はそれに頭を下げてから、言った。 「わたし、アルバイトなんかしてるけどもう二十六よ。知らなかった?」 知らなかった。 川口は彼女を見て、眉を寄せ、とても自分と同い年には見えないと思った。二十六なら美紀子とも同じだ。けれど全然違う。 「川口くんは?」 「俺も同じ。二十六」 「え、うそ。年下かと思った」 てっきり冗談かと思ったが、本当に驚いているような則子の顔を見て本気で言っているのだとわかった。互いに相手のほうが年下だと思っていたのだ。最近の女の子はそうなのだろうと思って気にしなかったが、則子が川口に対して敬語を使わないのもだからなのだ。複雑な気分で彼女を見ると、彼女も同じように少し困った顔をして川口を見ていた。 「あの、一つ聞いていい? 川口くんって何年の何月生まれ?」 川口が答えると、則子は「あー」と心底弱ったような声をあげた。 「一つ先輩だー。わたしったらごめんなさい。ずっと失礼な口きいちゃって」 だって年下だと思ったんだもん、とこれだけのことに泣きそうになっている則子を見て川口は思わず吹き出した。社会人になって気にするようになったのは、年齢よりもむしろ役職や入社した年次だった。年下でも上の人間はいるし、同期でもずっと年上の人間だっている。それが当たり前だと思うようになっていた川口にとって則子の反応は新鮮な気がした。たった学年が一つ上だったという、そのことだけで。 「笑わないで……くださいよー」 急に改められたその口調にまた笑った。こんなふうに明るい気持ちになったのは何ヶ月ぶりだろうと思ったら、かりそめの恋人役に、少しだけ感謝したい気分になった。 その日、結局四時まで待っても相手の男は現れず、川口は則子にさんざん頭を下げて謝られた後で、喫茶店を出た。そこで別れればよかったのだけれどふと振り返って、ほとんど無意識に気がついたら問いかけていた。 「よかったら、これからどこか行かない?」 |
| あとがき / 1のあとがきで「共通のキャラクターが出てきます」と書いたのですが、あれは一人のキャラクターが1〜5までずっと出てくるいう意味ではなかったのです。でも自分で読み返してもまるで「長谷川が主人公で、モデルハウスを訪れる客と彼との会話を書いたシリーズです」というふうに読めました……。すみません、嘘でした……。ちなみに川口の名前はまことと読みます。別にみのるでもいいのですが、始めの設定ではとりあえずまことだったということで。だいたい各話20Pになるように無理やり終わらせたりしながら書いたのですが、1が15Pと短かったのでその代わりのように2が伸びてしまいました。このシリーズに出てくるキャラの名前は知り合いからのパクリだらけです……。 |