音のない雨 3





 七月に入ってすぐの頃から、今年の夏は猛暑になるとしきりにニュースで言われるようになっていた。
 六月にはまだそんなこと言ってなかったじゃないと、則子はうんざりするような暑さの中で誰にともなく呟いた。むしろ六月は平年よりも涼しいくらいだった。梅雨も、はっきりそうとわかるほど雨続きだったわけではなく、この季節に特有のじめじめした暑さというものはあまり感じずにすんだ。
 なのに今月に入ってからの暑さといったら、それはもうひどいものだった。八月中旬なみの暑さ、がここ数日の流行語だ。暑いときに暑いと言われてうれしい人間なんかいるわけないでしょ、と心の中だけで悪態をつきながら則子はブレーキを踏み込む。言ったってしかたがないと思いながらも言ってしまうけど、でも人の口からは聞きたくないのよ。
 車を停めてエンジンを切るとラジオのニュースもぷつりと消えた。帰りがけに寄ったスーパーの買い物袋とハンドバッグを抱えて車外に出る。もう六時を過ぎているのに外はまだ明るく、いやになるほど暑かった。夏は苦手だとつくづく思う。この暑さの中で遊ぶなんて信じられない、アパート前の狭い道路でまだキャッチボールをしている子供二人に目をやって、半ば尊敬交じりにそんなことを思った。
 アパートの階段を上る足が重い。気を張っていないと疲れた表情をしてしまいそうで、踊り場でいったん足を止めて則子は気分を引き締めた。
「ただいま。和くん、帰ってるの?」
 玄関の扉が開いていたからといって必ずしも彼がいるとは限らない。それはもうじき四年になろうとしているつき合いの中で思い知らされた。鍵を開けたまま平気で外出できるような人間とつき合っていることが、時折自分でも不思議でたまらなくなることがある。
「和くん?」
 キッチンに買ってきたものを置いてから、自分の部屋を覗いた。彼がいるのかどうか確かめてからでなければ夕食のメニューが決まらない。とりあえず買い物だけはしてきたものの、一人ならば別に食べなくてもかまわなかった。本音を言うとこの暑い中に料理をするのはいやなのだ。
 部屋のドアを開けて中を見た瞬間、則子はため息をつきたくなった。彼はそこにいた。則子のベッドの上で、細長い身体を少し窮屈そうに折り曲げて眠っていた。
 ――もっと大きなベッド買わないの。
 時々ひどく不満そうに彼はそう言う。そしたら一緒に寝られるのに。 小さなソファベッドで寝起きさせるのは確かに気の毒だと思うけれど、そんなものを入れられるほど部屋は広くない。本来ならワンルームくらいの広さを無理やり分けているような作りの2Kなのだ。
 ――俺は足が長いから、困る。
 彼自身も無理を承知してはいるようで、眉を寄せてほとんど独り言のようにぼやく姿はおかしかった。
 則子が帰ってきたことにもまったく気づかずに眠り続けている和のそばに立って、しばらく黙って彼を見つめた。じっと目を凝らせばかすかに身体が上下しているのがわかる。いびきや歯軋りなどとは無縁な静かな眠り。一緒に眠るときでも彼の呼吸はいつも静かだった。寝相もいい。狭いベッドでも転げ落ちることは決してない。眠りについたときと同じ姿勢のまま、身体を丸めて眠っている。
 和は則子のベッドで眠るのが好きだ。狭いと文句を言うくせによくここで丸くなっている姿を発見する。則子は彼の眠っている姿を見るのが好きだ。このときだけは、普段の苛立ちをすべて忘れて彼に見惚れる。長い睫毛と男のくせにきれいな肌。かすかに寝息を漏らす乾いた唇。則子は指を伸ばして彼の茶色の髪をそっと撫でた。暑さのために汗でしっとりと湿っている。冷房もつけずに眠っているのだから当たり前だ。全開にした窓からは少し風が入ってくるけれど、この暑さの前ではほとんどないも同然だった。
(和くんには夏が似合うわ)
 いつだったか冗談交じりに、しかし多分に本気を込めて言ったことがある。
 彼自身は冬よりも夏のほうに弱かった。けれども冷房のきいた部屋にいると頭痛がするという繊細な感覚の持ち主で、現代文明の恩恵に与ることもできず、毎年夏は少しだけ元気がなかった。頭のどこか一部分がぼんやりと眠ったままいるようで、わずかに気だるげな、億劫そうな仕草が夏という無意味に乾いた季節に無性に似合っているのだった。
 髪を撫でていた指を止め、今度はゆっくりと頬に触れる。余分な肉も、必要な肉すらついていないような痩せた頬骨。その鋭角さは彼が目を覚ましているとき、どこか挑戦的に見えた。目つきの悪さのせいかもしれない。けれど眠っているときの彼の安らかな寝顔は、則子の目には痛々しく映った。何が不幸なわけではなく、何が悲しいわけでもないのだけれど。
(わたしは何が悲しいの)
 自問した。
(何かが悲しいの? どうすればなくなるの)
 自分の感情ですら自分ではわからない。他の誰にももちろんわからない。
 ひとりきりで、喋らない彼をただ見ていると胸に穴が空いたようになる。
(わたしはどうしたいの)
 そのとき不意に手首を掴まれて、びくりと身体を震わせた。いつのまにか、目を覚ました和が横になったまま則子の顔を見上げていた。
「おかえり」
 眠たげな声に急速に現実感が戻ってくる。「ただいま」驚きを表に出さないように努めながら、則子は笑った。
「晩ごはん食べる? だったら作るけど」
 不自然でないように手を引いて彼との間に距離をとった。半分眠ったままのような和は身体を起こし、汗で張りついた前髪を気持ち悪そうにかきあげた。
「あぁ……食べる。けど作るの面倒だったらいいよ。コンビニで弁当でも買ってくる」
「いいよ、面倒じゃないから。すぐ作るから、少し待ってて」
「うん……」
 ああ、汗でべたべただな、とあきらめたようにぼやいている彼の声を背中に聞きながら部屋を出る。
 和とつき合い始めたのは四年前の同じ夏、ゼミの友達に誘われた他大学生とのコンパでだった。彼は則子より二つ年下で、当時も今と変わらず容姿に恵まれていて、そのコンパの席でも一番人気だった。則子ははじめ、彼の軽薄そうな見た目が好きではないと思った。男のくせに耳につけた銀のピアスも染めた髪も好感が持てなかった。けれど彼の、他のみんなが騒いでいてもどこかそれに染まりきらないような、一人だけ疲れているようなノリの悪さが少しだけ気になった。それは夏という季節のせいだと後に知って、惹かれた。
 則子は夏の彼が好きだった。


「中島さん、これコピー五部、お願いできる?」
「あ、はい」
 斜め前の席の男から書類を受け取って則子は立ち上がった。渡された書類は少し分厚い。またコピーに時間がかかるんだろうなあ、途中で止まったりしたら面倒だなあと思いながらも、表情には出さず、にっこり笑ってコピー室に向かった。
 幸いにも先客はおらず、すぐに書類をセットしてコピーを始める。機械に不具合が起こりさえしなければ何もすることはない。ただ待つだけだ。コピー機の前に立って壁を見つめ、則子はほっとして息をついた。
 こういう、一人でいる時間が好きだった。今いるのは誰でも使える場所で、すぐ次の瞬間にも誰かがやってくるかもしれないから本当の意味でくつろぐことはできないが、それでも一人でいるのは楽だった。一番いいのはトイレ。誰にも姿が見られないあの個室の中では心底リラックスできる。
 きっと正規の社員がこれを聞いたら笑うだろうなと自嘲交じりに思いながら、彼女も少し笑った。たかがアルバイト、何の仕事もしていないくせに何がリラックスだ。それに反論はできない。則子がするのは主にお茶くみかコピーとり、昼の弁当の注文、そういう他愛もない雑用ばかりで、本当はきっと仕事とも呼べないようなものだった。これで給料をもらい、夏冬にはボーナスまで支給されるのだから恵まれているに違いない。
 だけど、好きでこんなことをしているんじゃない、と則子は軽く唇を噛んだ。責任を負わず、楽な雑用ばかりをしているのはそうしたいからじゃない。 正社員になれなかったからだ。二十六になった今でも毎年、時期を問わず就職活動をしているのに、どこからも採用通知をもらえないからだ。アルバイトなら雇ってくれるところはたくさんある。けれど正規の仕事はない。
(わたしだってちゃんと働きたいわよ)
 働きたい。人が忙しくしているのを見ると羨ましくてたまらなくなる。定時に帰る彼女に向けて「お疲れ様」と笑ってくれる人たちを見て、急に泣きたいくらい悲しくなって上手く笑顔で返事ができないときがある。
「あ、先客」
 人の声に振り返ると、同じ課の藤井という男が立っていた。
「あっと、もうすぐ終わりますから」
 頭を下げて言うと、「いいよいいよ、ゆっくりやって。俺はちょっと休憩」と彼は窓のそばへ歩いていって大きく伸びをした。プログラマーという職業のためにあまり出社してこず、たまの出社時もラフな普段着の社員が多い中で、藤井はいつもきっちりとしたスーツを着て、しかも毎日会社にやってくる。今の会社をリストラされて他のところで全然違う仕事をすることになったときの予備練習、と以前理由を尋ねたとき答えていたが、冗談めかしたその言葉が本気なのかどうか則子にはわからなかった。
 やがてコピーが終わり、彼に声をかけて出て行こうとしたら、思いがけず藤井に呼び止められた。
「ああ、そうだ。中島さん、今度一緒に飲みに行かない? おっと、二人っきりじゃないから安心して。ほら、川口いるでしょ。あいつも一緒」
「川口さん?」
 少し離れた席で、則子には背を向ける形でいつもパソコンと向き合っている男の後ろ姿を思い浮かべた。背は人目を引くほど高いのに、その姿勢の悪さのせいで座っているときはそれほど高くは見えない。あまり存在感のない、あえて意識するのでなければ視界の隅に埋もれてしまいそうなごく普通の男の背中。
 真面目な男だった。以前はあまり会社に来ていなかったのに、ここ半年ほどは藤井と同じく毎日出社してくるようになった。無口で何を考えているかわからないというので違う課のアルバイト仲間にはあまり人気がなく、どちらかといえば、今話しかけている藤井という男のほうが評判がいい。顔立ちそのものが図抜けてよいわけではないが、話が上手く、無駄のない動作が堂々として見えた。彼がもてるのはわかる、と思う。わかるけれど、それと自分の感情とはまったく何の関係もない。
「中島さん、あいつとわりと仲いいでしょ? でね、たまにはあいつにもかわいい女の子と一緒に過ごす時間が必要だと俺は考えるわけ。前にさ、一回コンパ誘ってやったけど、あいつ人見知りするみたいで駄目だったよ。きっと知ってる子のほうがいいんだと思って」
「でも、川口さん奥さんがいらっしゃるでしょう。そんなことしていいんですか」
「あ、そうか。中島さんは知らないよな。あいつ離婚したんだよ」
 さすがに終わりのほうは声を低めて囁くように藤井が言った。則子は目を見開いて「え」と声をあげる。
(離婚?)
「もう何ヶ月前になるかなぁ。たしか冬だったから、もう半年近く前か」
 半年、則子はショックを受けた。それはちょうど彼が毎日出社してくるようになった頃だ。それでは先月、あの無茶なお願いをしたとき、彼はもう離婚していたことになる。なのに則子はそれを知らず、「奥さんがいるのにこんなこと頼んで」だとか何だとか、今考えればひどく無神経なことを口にしてしまった。彼は何も言わず、怒ったような素振りすら見せなかったけれど、だからといって傷つかなかったということにはならない。
「だからね、よかったら誰か中島さんの友達誘って、四人でさ、楽しく飲みに行きましょう」
 藤井の言葉はもうほとんど頭に入っていなかった。そうですね、曖昧に笑いながらうなずいて則子は逃げるようにその場をあとにした。川口が離婚している。そのことだけが衝撃的で、他のことは何も考えられなくなった。
 無口で、人づき合いに不器用そうで、いまだに大学生のように見える男。時間に正確で、几帳面で、本当に時々だけれど、意外なほど無防備に笑う。大人になりきれない少年のように。
 則子は立ち止まって、自分の頬をぴしゃりと叩いた。
 自分勝手な考えを深く恥じた。


 土曜日は朝から憂鬱になるくらい晴れ渡り、至極当然のように、やはり暑かった。
 冬は陽射しが恋しいけれど、夏のこの陽射しにはありがたみも何もあったもんじゃないと思いながら歩いていた則子は、ようやく到着したアパートの前に立ってその建物を見上げる。いつもながら薄汚れた古いアパート。いいところといったら家賃の安さくらいで、しかしそれもこの古さからすれば当然だった。二〇二号室の前でインターホンを鳴らす。返事はない。
「……おはよう」
 何度かインターホンをくり返して待っていると、しばらくしてようやく出てきた和がにこりともせずに則子を見て言った。そのこもったような声とぼさぼさの頭から彼が今まで寝ていたのだということがわかる。九時に行くと連絡していたものの、彼にとって朝は眠るものだということに変わりはない。慣れていたので特に気にもせず部屋にあがった。
 週のほとんどは則子の部屋で寝起きする彼とは、半同棲のようなものだった。けれど互いに一人になりたいこともあるだろうからといって彼の部屋は解約せずにそのまま残している。大学から近いこの場所は絶好のたまり場らしく、友人たちと飲む日の前後は彼はいつもここにいた。 だから月に一度ほど、則子はここに掃除に来る。放っておいたら汚くなる一方だからそうしなければ仕方がないのだ。
「シャワー浴びて目ぇ覚ますから好きにしてて」
 この古いアパートでもシャワーだけは部屋ごとについている。別に目を覚まさなくていいのに、と思いながらも則子はうなずいた。和は寝起きはいつも不機嫌そうだけれど、ぼんやりした半分眠ったような顔が好きだからそのままでもいい。でも彼はそれでは気持ちが悪いのだろう。
 簡易ベッドの上に腰を下ろして、いつ来ても汚い部屋を見回した。多少なりとも片付いているのは掃除をしたあと彼が部屋を使わない間だけで、一度でも和が寝起きしたら最後すぐにまた雑然としてだらしのない部屋に戻る。文句を言っても彼は変わらない。実際つき合い始めた頃から彼は何も変わらない。年を四つ重ねただけで、自分勝手に則子を振り回すところも、部屋を散らかし放題にするところも、こんな汚い部屋に住んでいるくせに見た目にだけは気を遣うところも、大学生という身分ですら、何一つとして変わっていない。
 ――今年は卒業できるの。就職は?
 ああ、とかうん、とか答えるばかりで彼は少しも真剣に考えてはいないようだった。家庭が裕福なのか彼に甘いのか、いまだに仕送りは続けられているから生活に不自由はないのだろう。だから焦燥感がない。夏に歩き回って就職活動など冗談ではないと思っているのが言動の端々から感じられた。けれど春は春で、のどかすぎて気持ちが悪いから何もする気になれない、と言っていた。
(いっそのことホストにでもなればいいのよ、すぐ就職できるわ)
 ふと浮かんだ考えに自分でいやな気分になった。ホストをホステスに置き換えれば自分にだって当てはまることに気づいたからだ。けれど則子はそうしない。彼もしない。それに何より、彼が不特定多数の女たちと始終一緒にいるなんて考えただけでいやだった。
 シャワーの音を頭の隅に聞きながら、別れようかな、とポツリと呟いた。
 声に出してもまるで実感は湧かない。自分が本気なのか、冗談なのか、自分でもわからない。
 けれどもう一ヶ月以上も前からそう思っていたはずだった。だから川口に頼んで新しい恋人役を演じてもらおうとしたのだ。だがその場に和は来なかった。帰ってそのことを問い詰めると、「行こうと思ったけど、馬鹿らしくなって」と言われ、逆上した。
 ――馬鹿らしいって何がよ? わたしが誰とつき合おうがどうだっていいってこと?
 ――じゃなくてさ。だって、則子さん、
 俺のこと好きだろ、とまったくためらいも疑いもなくベッドから則子の顔を見上げて言った彼に、どうしようもなく力が抜けた。自分が情けなくて涙が出そうになった。それでも彼の言葉が本当だとわかっていたからだ。 それきり、則子が必死の思いで切り出した別れ話は雲のように消え失せてしまった。
 和のいいかげんなところも、自分勝手なところも、全部含めて好きだった。そのすべてが彼という人間だった。だからきっと、求めても無駄なのだと知ったのは最近になってからだった。彼が真面目に就職してくれるのを求めるのは無駄なのだ。変えられないものを変える努力には何の意味もない。できるのはただ選ぶことだけだ。ちゃんと働いて生計を立てている別の男性を見つけるか、則子が働いて彼を養っていくか。和が聞いたら怒るかもしれないけれど、本当は後者を選びたいのに、できそうもない。アルバイトで人一人を養っていけるはずがない。
 そのとき突然鳴り出した電話の音に、ぼんやりしていた則子は驚いて顔を上げた。
 コールが続く。浴室に視線をやったけれど和が出てくる気配はない。だからといって自分が出るわけにもいかない。何度か呼び出し音が続いた後で、電話は留守録に切り替わった。機械的な女性の声の後、ピーッという音が鳴って、男の声が聞こえてきた。
『……もしもし? 俺だけど、わかるか?』
 その声に聞き覚えはない。若そうな声だからきっと友達の一人だろうと思ったけれど、続く言葉にそうではないことがわかった。
『元気にやってるのか? 母さんが心配してるからたまには帰ってきなさい。俺も火曜日だったら家にいるから。とりあえず連絡だけでもください。久しぶりに顔が見たいし』
 じゃあ、と言って電話は切れた。和に兄がいるというのは聞いている。だが会ったことはないし、当然声を聞いたこともない。こんな声をしてるんだ、と思った。でも、そういえば少しだけ似ているかもしれない。和よりもっと落ち着いた声だけれど。
「電話誰から?」
 いつのまにかシャワーを終えたらしい和に振り返って、お兄さんから、と告げた。タオルで髪を拭いていた手が一瞬、止まって彼の目が則子を見つめ、すぐに何事もなかったように視線が流れた。
「ふうん」
「たまには帰ってきなさいって言ってた。帰らないの?」
「子供じゃあるまいし」
「でも心配してるのは本当だと思うよ。いったいいつから帰ってないの?」
「忘れた」
 そっけなく言うと彼は則子に背を向けて冷蔵庫の前に立ち、取り出したペットボトルの水に口をつけた。
 態度からして、彼がその話題から離れたがっているのは明らかだった。彼は言いたくないことはどれだけ問い詰めたって言わない。目をそらし、時には表情すら変えないでさっさと話題を変える。しかし大抵の場合それはきわめて巧妙だから、その場では気がつかないことが多い。後で思い出したとき、なんとなく誤魔化されたような気になるだけだった。
「優しそうな声の人だった」
 則子が言うと、和はタオルを頭にかけたまま振り返り、「そうだろう」と唇の端を吊り上げて笑った。
「兄貴は優等生だからな。誰にだって優しいさ」
 四年間もつき合ってきたのに、彼の兄に対する感想というものを初めて聞いた、と則子は思った。
 四年もつき合ったのに、わたしは彼のことを、何も知らない。
 本当に大切なことは、何も。


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あとがき / 自分でも強く自覚していることながら、私の書く話には女性キャラが少ないです。ついでにタイプも3パターンくらいしかいない……。このシリーズには女性キャラが二人出てくるのですが、二人とも悲しいほどに私が書く典型的な2パターンの性格です。やっぱり女性キャラだらけの話を書かないとだめなのかもしれません……。