音のない雨 5





 彼に出会って初めて、自分のことを心の底から嫌いだと思った。
(彼の指が好き)
 女性客の多い喫茶店の窓際の席に向かい合って座り、物珍しそうな顔でメニューを見ている男の整った指先が好きだと思う。外見に気を遣っている風でもないのに目を惹くのは彼に特有の、その周りだけ静かに時が流れているような穏やかな雰囲気のせいかもしれない。あるいは彼が特別に見えているのは自分だけで、他の誰にとっても彼は特別な存在ではないのかもしれない。
「僕はコーヒーを。友野さんは何にする?」
 メニューをウェイトレスに返しながら問いかけられただけでどきりとする。美紀子は動揺が表情に出ないよう細心の注意をしながら微笑んで、「私もコーヒーを」と答えた。頭を下げてウェイトレスが去っていくのを見送り、視線を戻すと、自然に彼と目が合った。
「パフェとか食べたりしないの?」
「食べてほしい?」
「見るのは好きなんだ」
 顔の前で指を組み合わせて笑う、その笑い方がずるいと思った。こんな風に笑いかけられて相手がどんな気持ちになるのか考えたことがあるのだろうか。カッと顔が赤くなるのが自分でもわかって美紀子は戸惑った。こんな些細なことで焦るなんてどうかしている。
 彼と会うときはいつも、自分はどうかしている。美紀子は自嘲を隠して窓の外の景色に視線を向けた。よく晴れた土曜の午後。窓から見える街並みを行き交うのはカップルや家族連れが多い。平日の、時間に追われるような急ぎ足とは異なって、今日の彼らの歩みは緩やかだった。時の流れまでが速度を変えてしまったように感じられる。ほんの少しの羨望をこめて彼らの姿を眺めた後で、美紀子が再び正面に座る男の顔を窺うと、彼もまた美紀子につられるようにして窓の外を眺めていた。
「そういえばこの間、和君に会ったのよ」
 焦るようにそう切り出したのは、彼が自分以外の人間を見ていることに耐えられなかったからだった。望みどおり彼の視線をつかまえて美紀子はほっとする。こんなことに安堵する自分がたまらなく嫌だと思ったけれど、それでもたしかにほっとしたのだ。
「偶然彼の友達に会ってね、一緒に飲みに行ったところで彼にも会ったの」
「あいつ元気そうにしてた?」
「すごく元気そうだったわ。五年ぶりだけど、あんまり変わってなかった」
 つい一週間ほど前に会ったばかりの後輩の顔を思い出しながら、美紀子はそっと指先で自分の唇に触れた。あの日、掠めるようにわずかに触れた和の唇は思ったよりも柔らかく、乾いていた。あのとき何を思ったのか自分だけは知っている。彼女は嬉しかったのだ。
 誰より好きな男の弟はやはり、彼に似ていて、その血のつながりが彼女には特別だった。
「そう。だったらよかった。電話しても全然出ないし、直接会いに行ったほうがいいかと思ってたんだけど」
「大丈夫よ。和君だってだってもう大人なんだし、過保護にすると嫌われちゃうわ」
 冗談めかして言いながら、自分がひどく勝手なことを言っている自覚はあった。
(ごめんね、和君)
 けれど美紀子は彼らを会わせたくない。兄弟だというだけで彼に気にしてもらえる和が羨ましくて、妬ましかった。彼女は和よりずっと下の位置にいる。ひょっとすると彼の同僚よりも下かもしれない。誘われるから会って食事をする、彼にとってはきっとただそれだけの、友人にも満たない相手。
「ねえ、長谷川さん」
 今の彼女には失ったものも、手に入れたいものも遠すぎる。どちらからも同じくらい離れていて、戻ることも進むこともできないまま立ち止まっている。時々本当に途方に暮れてしまう。美紀子はそっと微笑んだ。
「映画、何が観たい?」


 気がついたのはきっと彼女だけで、彼のほうはおそらく気づきもしなかった。
「友野さん?」
 不思議そうな長谷川の声が落ちてきても答えられない。隠れるように美紀子が長谷川のコートの背に顔をうずめると、戸惑うように彼が身じろぎするのがわかった。早くこの場を立ち去りたいと彼女は思った。けれど身体が動かない。鼓動がひどく速まっている。
 ショックだったのはこんなところで彼に出会ってしまったことではなく、彼がひとりではないことだった。
 よく――よくは見えなかった。けれど肩ほどの長さの髪の、かわいらしい女の子だった。
「どうしたの。気分でも悪くなった?」
「ちょっと、」
 まさか別れた夫が自分の知らない女と親しげにしていたからショックだったのだとは言えない。自分の勝手で別れておいて、けれど他の人間に渡すのは嫌だと思ったなどとは言えない。そしてそんなことを考えたその同じ頭で、やっぱりどうしても長谷川のことがあきらめられないと思っているなんて、言えるはずがない。
 しばらくして美紀子がコートから手を離し、顔を上げると、夫とはまるで違う顔が心配そうに自分のことを見下ろしていた。
「ごめんなさい。気分が悪いから……帰るわ」
 長谷川はその言葉を疑うでもなく心配そうな顔のまま、「送るよ」と言った。美紀子は首を振ってその申し出を断った。一緒にいたいけれど、いたくない。いつも心のどこかで感じている矛盾が今日は一層大きく感じられた。彼のそばにいると自分がひどく価値のない、つまらない人間のように思えて仕方がない。彼と一緒にいるときの自分は自分でないように感じる。
 もう一度謝罪の言葉を口にして、美紀子は逃げるようにその場から立ち去った。


 美紀子が長谷川昭に初めて出会ったのは一年前、高校時代の友人の結婚式の席上でだった。その名前と顔立ちから、彼が大学の頃かわいがっていた後輩の血縁者であることはすぐにわかった。尋ねてみると案の定、彼は長谷川和の兄であるということだった。けれど、惹かれたのはだからではない。和のことはたしかに好きだったが、夫と比べられると思ったことは一度もなかった。彼女にとって大事なのはいつも夫のほうで、いくら容姿が整っていようとも、和は少し気の合うただの後輩に過ぎなかった。
 同い年の夫――川口実とは幼稚園の頃からずっと同じ学校だった。彼はどこかぼんやりしたところのある少年で、特に目立つところもなく、どちらかといえばせっかちな美紀子には多少いらいらするくらいの存在だった。その彼を特別に意識するようになったのは高校に入ってから、低かった彼の背が自分をとうの昔に追い越してしまったことに気がついたときだった。意識するようになって初めて、彼の「ぼんやり」が、夢中になった一つのことに集中しすぎて他のことが考えられなくなっているせいなのだと知った。
 気がつくと空気のように自然に、彼とつき合って、結婚した。
 学生結婚に両親ははじめ反対したけれど、真面目な川口のことは気に入っていたようで最後には祝福してくれた。幼い頃から近くにいた彼との生活に慣れるのに時間はかからなかった。川口美紀子、はまるで生まれたときからそうであったように当たり前の名前になって、彼女は彼との生活に何の不満も持っていなかった。
 なのに長谷川と出会い、二人で話す機会を作って互いに自己紹介をするとき、彼女は「友野美紀子です」と名乗り、そのことに自分でも驚いた。彼の前で川口の性を名乗ることはなぜだかできなかった。一つ年上で、物腰のやわらかい、何に対しても感情を荒立てたりしないように見える落ち着いた人間。それが初対面の時の彼に対する美紀子の印象だった。それは一年近くが経とうとしている今でもあまり変わっていない。彼が何かに本気で憤っているところや誰かを悪く言っているところなど想像もできない。いつも穏やかに微笑んで自分の好きなことや人について話す、マイナスの感情にはあまりに無縁なように見える人。
 けれどマイナスの見えない彼には、同じくらいプラスの感情も希薄に感じられた。
 好きなものを語るときでもあまりに口調が穏やか過ぎて、熱意や情熱には程遠い。それは同じように物静かで声を荒げることのなかった川口とは決定的に違うところだった。自分の好きなものに対してだけは彼はひどく情熱的だった。その他のことに対する無関心さが彼の印象を一見無感情な人間に見せてしまうけれど、彼は本当は情熱的な男だった。けれどその熱の半分も長谷川の言動からは感じられない。浅いのか深いのかまるでわからない感情の底が見えない。
(本当は何も考えてないのかもしれない)
 美紀子はソファにもたれ、見てもいないテレビから騒々しい話し声が聞こえてくるのをどこか遠くのことのように感じながら、ふとそう思った。憤るほどに何にも真剣ではなくて、嫌うほどにも人に近づかない。彼ほど人当たりがよく容姿も整った人間が二十八まで独身でいるなんて、それこそ何も理由がないはずがなかった。
 ぼんやりと、今日の午後街中で思いがけず見かけた川口の横顔を思い出す。彼のことが好きだった、本当に好きだった、と思う。けれどどう足掻いてもそれは過去のことに過ぎない。長谷川と出会いさえしなければずっと彼を好きでいられたはずで、彼も自分を大切にしてくれたはずで、きっとそちらのほうが今のこの迷うばかりの生活より何倍も幸せだったに違いないとわかっていても、出会わなければよかったとは思えなかった。どうしても。
(ごめんなさいね)
 川口に別れを告げるとき、長谷川のことは言えなかった。別れるのはあなたと私のせい、お互いに最近どこかすれ違っているのはあなただってわかっているはずだと彼女は言い、言いながらそれは嘘だと心の中で叫んでいた。川口は何も悪くない。悪いのは自分だけ。すれ違ってぎくしゃくするのは自分の気持ちが違うところを向いているからだ。でも他に好きな人ができたのだとは言えなかった。心から好きだった相手の前で、他の男のことなど言えなかった。
(幸せになって。でも他の人を好きにならないで)
(私のことを振り向いて。でもあなたのことが私にはわからない)
 二人の男に対する矛盾に満ちた思いが頭の中で渦を巻いている。耳を塞いでこんなのは違うと叫びたい。こんなはずじゃない、私はこんな人間じゃない。
 かたく目を閉じると、光の残像が白く瞼の裏に焼きついていた。自分の人生を変えたこの思いがいつか薄れてしまうことを恐れながら、同時にそのときを心から待ち望んでいる。
 自分でもおかしいと思うほど、ここのところいつも矛盾だらけの気持ちを持て余している。


 その日は朝からずっと雨で、目に映る景色すべてが灰色に煙っているように低く沈んで感じられた。高層ビルの最上階にあるレストランから見下ろした地上には、雨のせいかどれもくすんだ色に見える傘がビー玉のように散らばって不思議な光景だった。だがやはりその数は少ない。クリスマスを二週間後に控えた週末の昼、まだ客の少ないレストランではこの時期恒例の明るいクリスマスソングが場の静けさを埋めるように流れていた。
「この間和が家に来て」
 肘を抱えるように長谷川がテーブルの上に置いた手の、その整った指先を美紀子は見ていた。長い指。
「名古屋で就職が決まったと言っていた。俺はびっくりして、……なんて言ったらいいか、わからなかった」
 見つめていた指が不意に持ち上げられて、それを追うように視線を上げると長谷川はその指先を軽く額に当てて、テーブルの木目を見るように俯いていた。その視線がゆっくりと流れて今度は窓の外を見る。動いているのに止まったように見える緩やかな動き。彼の感情が何らかの理由で昂ぶっているとき、その動作がひどく緩慢に、いつにもまして静かになるのに最近美紀子は気がついていた。そういえば和も、と思う。彼も不機嫌なとき、感情を表に出すのも馬鹿らしいとばかりに無表情に、きわめて静かでゆっくりとした動きをした。性格は正反対なくせに兄弟とはこういう妙なところだけは似るものなのだろうか。そう思うと少しおかしかった。
 ウェイターが注文した料理を運んできても、彼はそのことに気づきさえしなかったように黙ったまま頬杖をついて窓の外を見つめていた。美紀子はウェイターに軽く頭を下げて彼を見送り、運ばれてきた料理に目をやったが、食欲はまるで湧いてこなかった。
「どうしてあんなにびっくりしたのかわからない。喜ぶべきことだとわかっていたのに……俺は、自分で思っていたよりずっと、弟離れができていなかったのかもしれない。四つも離れた弟だったから、まだ子供のような気がずっとしていて――」
 灰色の雨の中で、何もかもが微睡んでいるような錯覚を覚える。場違いに流れる明るい歌。先ほどから決して自分を見ようとしない目の前の男。
(どうしてそんな話を私にするの)
 だれよりあなたを大切に思う人間の前で、他の人のことをそんなに大切そうに話すの。
 美紀子はスプーンを手にとり、食欲もないままに一口スープを口に含んだ。食器の立てるカチャリという音に、長谷川は夢から覚めたような顔をして、彼女を見た。
「ああ……ごめんね」
 そして取り繕うような笑い方をした。彼でもこんなすぐに嘘だとわかるような下手な笑い方をすることが意外だった。もっと感情を隠すのが上手なのだと思っていた。
「つまらない話だったね。自分のことばっかりでごめん」
 他の人間を大切に思う気持ちなんて聞きたくなかった。でもこんなふうに、本心を隠してなかったことにするような笑顔を向けられるのはもっと嫌だった。いまだに彼にとって自分が遠くにいることを実感させられる。一年経ってもまだ気を遣われるような関係のままなのだと。
「雨の日って、気分まで暗くなるから嫌ね」
 けれど自分も同じように、傷つかない言葉を探している。上辺だけ繕う、深入りすることを恐れるように傷つかない言葉。
「そうだね。……でも僕は、雨が降ると思い出す人がいる」
 正面を向いても食事に手をつけようとはせずに、長谷川はぽつぽつと春先に出会った男の話をした。
 雨の午後に一人で展示場にやってきて、室内を見て回り、不意に耐えられなくなったように泣き出した男。それは忘れてしまうにはあまりにも印象深く、その男の容姿も声も、驚くほど鮮明に記憶に残っていると長谷川は言った。多分ずっと忘れられないだろう、と。
 美紀子はうんざりとして、彼に気づかれないようにそっと顔を背けた。彼がたった一度会っただけのその男にさえ嫉妬する自分が、吐き気がするほど嫌でたまらなかった。
「大切な人と別れたんだろうと思った。とても大切な人と」
 彼がその男と今の自分を重ね合わせているように美紀子には思えた。彼は今、大切な弟と別れようとしている。たとえめったに会わなかったとしても、会おうと思えば会える距離にいるのとそうでないのとはまったく違う。目に見える距離は目に見えない心の距離とも決して無縁ではない。
(私は和君のようにはできない)
 夜明け前に一人、留守番電話に残っていた兄の声を何度も聞いていた和の執着を彼女は理解した。他の誰がわからなくとも、たった一人彼女だけは理解した。
 大学時代、彼はいつも何かをあきらめているように見えた。あきらめて、けれど同時に期待し続けているように。友人たちと騒いでいるときでも心からは満たされていないような彼の表情の意味を、再会して初めて美紀子は知った。
 同じ一人の人間に向ける感情という意味で、和と美紀子は似たもの同士だった。しかし彼は名古屋へ――報われない執着から離れたところへ行くことを選んだ。美紀子には選べない。彼女は女で、家族という、彼のように離れていてもつながっている絆などないから、彼女には選べない。
「長谷川さん」
 今目の前で、自分の気持ちを持て余すということを初めて経験するような途方に暮れた顔で指先を見つめている男のことを、自分はまだ何も知らないと思った。彼の持つ感情も、愛情も、憎しみも怒りも、自分と同じような迷いや矛盾を胸に抱えているのかどうか、何も知らない。今はまだ。
 でもだから知りたい。何年かかってもいい。一生かかってもいい。自分の一生をかけて。
「あなたのことが、とても好きです」


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あとがき / これで終わりかーという感じですが、終わりです。ここまで読んでくださってどうもありがとうございました。この話を私はなるべく早いうちにUPしたいという思いがあったのですが、それはなぜかというと、この「音のない雨」と「ある異邦人の話」と「メルセス王国物語」は私が書きたい3つの路線を表している話だからです。要するに「ある異邦人」=剣や魔法はあまり出てこない地味なファンタジー、「メルセス王国」=異世界現代日本外国等舞台は問わずとりあえず悩みのない明るい話、「音のない雨」=現代日本の社会人の話、です。時には剣と魔法のファンタジーや高校生が出てくる話なども書きたくなったりするのですが、それでも基本的に書きたいのはこの3つの路線だなあと最近気づきました。実際に書いているのは目指すものとはかなり違っているのですが、少しでも精進していけるよう頑張りたいと思いますので、これからもお付き合いいただけるととても嬉しいです。