四月に入ったばかり、その日は朝から目が痛くなるほどの晴天で、見渡しても太陽を遮る雲ひとつ見えなかった。テレビニュースで今日は春らしいよいお天気で、絶好の行楽日和ですとキャスターが語っていたのをふと思い出し、眩しすぎる空を仰いで目を押さえた。 「詐欺だろ、夏だろ本当は。暑いよ」 それでも強い日差しの中で時折吹く風の冷たさだけが今がまだ春なのだということを感じさせる。 帽子を深く被り直し、気を取り直してまた歩き始めた。 今日は大学主催の展覧会の二日目で、一時からの受付の係に回されていたから行かないわけにはいかなかった。客の入りは例年並みで多くも少なくもなく、絵が好きなのか単なる暇つぶしなのか見ただけではわかるはずもない。一時まではまだいくらか時間があったから中で時間を潰すことにして、受付を通り過ぎるとき係の同級生がちらりと笑顔を放って寄越し、片手を上げてそれに応えた。 正直なところ、一度自分の手を離れた作品にあまり関心はないが、展示場の独特の雰囲気はいつも特別だった。遠慮がちな呼吸の音。低く抑えた話し声。静かな喧騒の中ぼんやりと作品を浮かび上がらせる白い壁と照明。作品の近くに申し訳のようにぽつんと添えられるタイトルと作者の名前。 そしてそんな中ふと足を止めさせるのは、ある絵の前に佇んだまま身じろぎもしない客の姿だ。 『春光』と名づけられた絵の前に立ち、食い入るように見つめているのはまだ幼い、幼いといっても小学校高学年くらいの少年で、ランドセルがこの上なく似合いそうな小さな背中と睨みつけるような強い眼差しの不均衡さが印象に残った。白のパーカーにジーンズ、履き古して色褪せた黒のスニーカー。肩に引っ掛けたモスグリーンのリュックサックは小さな身体と不似合いに巨大に見えた。 不意に少年が、背後の気配に気づいたのか、振り返って首を伸ばし、目が合うと呆けたような顔をした。照れるでもなく、睨むでもなくただ無防備なその顔に思わず笑った。笑って声をかけた。 「絵が好きかい」 少年はこくりと頷き、ぼくも、と言った。 「ぼくも絵を描きたいんです。こんなふうに、静かな絵を描きたい。いつもみんな、僕の絵は感情的すぎて駄目だっていうんです」 こんな絵を描きたい、と眩しそうに目を細めながら『春光』に目を戻した少年の一瞬の視線の強さはちょっとした感動を覚えるようなものだった。 僕の絵だよ、どうもありがとう、感謝だけ告げて時計を見るとそろそろ受付を交代する時間で、踵を返しその場を立ち去りかけた足を止めさせたのもやはり、同じその少年だった。 身じろぎせずにまっすぐ伸びた背筋で絵の前に佇んでいた少年は今度は、しっかりと俺の服の裾を掴んでこちらを見上げ、絵を見ていたときと同じ眼差しを惜しみなく向けてきた。 ぼくに、近づくと自分の胸ほどまでしかないその小ささに改めて驚く。ここしばらく観賞の対象として以外に子供と親しく接したことがないことに気がつくと、突然戸惑いを覚えた。こんなにも小さいということを、ずっと長い間。 ――ぼくに絵を教えてください。 ずっと長い間、忘れていたと思うと同時に少年の言葉は何かの聞き間違えかと眉を顰め、そろそろ交代しろ伊原、遊んでんじゃねえよとの罵声にただ、条件反射のように頷いた。 自分の部屋で一番気に入っているところはどこかと問われたらそれは間違いなく風通しのよいところだと断言できる。 十階建てのマンションの七階。大学に入って一人暮らしを始めるときに親が買ってくれた贈り物をありがたくいただき、友人たちの羨望を一身に受けつつここで暮らし始めて三年。窓から見下ろす景色にいくら慣れても風の涼しさを感じなくなることはない。 「適当に座って。好きにしてたらいいから」 栗坂夏生、と名乗った少年はこくりと頷き、物珍しそうに部屋の中をきょろきょろと見回した。そうしている姿は年相応の子供のようで――、ふと気がついて尋ねた。 「と、君何歳だっけ?」 「十三歳です」 「ということは、中学生?」 「この春から中学二年になります」 小学生だとばかり思っていたら外れだった。中学生にしたらかなり小柄なほうだろうと何かに敗北感を感じつつ負け惜しみを呟いて、窓を開けた。途端に流れ込んでくる風に目を細める。歩いているとき夏のように感じた日差しは、今はあくまでやわらかく、吹く風はどこまでも透明だった。 きっとこの風は高いところにしか吹かない。 だからこの部屋が好きだ。低いところには住みたくない。 しばらく窓の前に立って風の涼しさに満足を覚えた後で、振り返って夏生を見た。彼は横を向いていた。座りもせず、もうきょろきょろと周囲を見回すでもなく。 視線の先を辿るとそこは、アトリエ代わりに使っている一室だった。ドアが半分だけ開いて中が見える。 「見たらいいよ。面白いかわからないけど」 先に立って中に招くと夏生は目をいっぱいに見開きながら部屋に足を踏み入れた。そして一歩入ったところで立ち尽くす。展示場でそうしていたように。 中にあるのは今までに描いた絵が十数枚と描きかけの絵が二枚。風景画しか描かないことに大きな理由はなかった。人を描くのが苦手だ。ただそれだけ。高校からの友人は風景画なんてつまらない、人物画のほうが断然見ていて面白いと言うが、別に面白がってもらうために描くわけじゃない。 「好きなものを使っていい。何か描いてごらん。できたら呼んで」 絵を教えてほしい。 突然の頼みを断らず、家まで連れてきたのはひとえに興味があったからだ。この少年がどんな絵を描くのか。好奇心。本気で誰かに絵を教えられるなんて思ってない。だから夏生には悪いが、ただ単に興味があったのだ。 頷いた少年に笑いかけ、一人にしてやるためにその部屋を出た。 「伊原さぁ、絵、ちょっと変わった?」 暇つぶしと言いながらアトリエ代わりの部屋に入り、珍しく無言で人の絵を見ていると思っていたら不意に振り返り、千賀子が言った。 「ああ?」 「変わった感じがする。どこがかなぁ? どこだろうなぁ」 キャンバスの前でしきりに首を傾げる千賀子にミルク抜きのコーヒーを押しつけ、同じ部屋の片隅にしゃがみこみ、一心に筆を動かしている夏生の前に腰を屈めてオレンジジュースを置いた。 距離を置いてその描きかけの絵を眺める。 夏生の描く絵は、今のところはたいてい静物画だった。花瓶に無造作に突っ込まれただけの花をまるでしごく大事な宝物のように凝視して、描いている。何かを描いているときの夏生に話しかけても返事はない。ほとんど瞬きさえもしない。 夏生の絵は拙い。圧倒的に技術が足りない。陰影の描き方もぼかしも構図のとり方もろくに理解していない。この絵を見てうまいと言う人間はおそらくいないだろう。たいていが中学生の幼い絵だと笑い飛ばすだけだ。 ただそれでも、と口に出さずに思う。 それでも夏生の絵には力がある。下手糞なのに一瞬目を惹くのはその眼差しと同じだ。はっとする。目を開けたまま見ていた夢から覚まされたように。 「情熱的な絵だわぁ」 いつのまにか隣で同じように夏生の絵を見ていた千賀子が言った。それから急に納得したように「ああ、なんだ」と呟いた。それから後の言葉は聞かれなかったが、そんなもの聞かなくても自分自身が一番よくわかっていた。 俺の描く絵が変わったとしたら、それは夏生の影響を受けているからだ。恬淡過ぎると言われていた絵に足りなかったもの。千賀子の言葉を借りれば情熱というものを、夏生から学んだのは俺だけで、夏生は一週間一緒に暮らしても俺から何も学ばなかった。外にも出かけず日がな一日絵ばかり描いて暮らしているのに、静かな絵を描きたいと言っていたとは思えないほどの頑固さで夏生の描く絵は変わらない。技術的なことを覚えても、その本質は何も変わらない。 ガッと、ものを打ち付ける音がした。 夏生が拳で二度、スケッチブックを殴りつけて、三度目には膝を抱えてスケッチブックに額を押し付けた。 「泣いた」 面白がるように千賀子が言う。動物にするようにそばに近づいて夏生の頭を撫でると、夏生はただでさえ小さい体をさらに縮めて肩を震わせた。子供が声を殺して泣く理由。これ以上ないというほど体を小さくして泣き声を漏らさない理由。 開け放した窓から風が吹き込んでくる。カーテンのはためく音と風の強さに目を細めた。 そしてその日のうちに、短い書き置きだけを残して夏生は部屋を出ていった。 ――春休みが終わるので家に帰ります。ありがとうございました。 それからしばらくして家へ遊びにきた千賀子は夏生のことを「あんたの親戚だと思っていた」と言い、まるきり他人だと知ると「人の家の子を一週間も連れ込むなんて」と呆れた顔をした。そして夏生の残していった書き置きを眺めて「この子もあんたと同じくらいおかしいけど」と付け加えた。 強い眼差しと泣いていた静かな背中。「情熱的な」夏生の絵。 顔や名前を忘れても、夏生の描く絵が変わらない限りあいつのことはわかるだろう。 少年の残していった絵は、今も部屋の片隅で風を受けている。 |
| あとがき / 時系列では「冬の音楽」の後、「夏の風景」の前にあたる話。夏生はなつおと読みます。実はもう秋もできているので今度こそは季節に合わせてUPします(野望)。 |