ある異邦人の話 1





 広場の中央には大きな噴水がある。
 早朝と夕方の一刻、その水は噴き上げるのをやめる。そのときばかりは水の表は鏡のように平面になり、夜と朝、昼と夜の境の色をした空を一面に映し出す。
 マーフィはいつものように水面を覗き込んで、家できれいに梳かしてきた髪を結い上げた。鏡は家にもあるけれど、この水の鏡を使ったほうが上手く結える気がするのだ。
 朝の、すがすがしい空気のにおいがした。少し冷たく肌寒いくらいなのが心地よい。マーフィは夜明けのこの時間が一番好きだった。どこからか金木犀が香る。夜の間閉じていた花々が、朝の気配に身を震わせる。
 髪を結い終え、彼女は水の中の自分に向かってにっこりと笑った。――今日も新しい一日が始まる。
 ふいに水面に結ばれた像が歪み、再び水が噴き上がってきた。飛沫がかからないように慌てて後ろに飛びのいたマーフィはしばらくそのまま噴水を眺めていたが、やがてくるりと向きを変えて歩きだした。
 なぜだか急に詩人に会いたくなった。そこで北西の森に向かう。詩人はとても早起きで、朝方はその辺りをぶらぶら動き回っているのが常だった。
 周囲の景色を楽しむようにゆっくりと歩きながら街の中を抜け、川を越えて、彼女は森に足を踏み入れた。そこで少し身震いする。気温が下がっていた。早朝であるためばかりではない。広場から離れてゆくためだ。広場は春の太陽の下で、街は風吹く春の野原。先ほど越えた川の辺りで春から秋に季節が移り、森の奥へ進むにつれて秋が深まる。広場から離れるほどに寒くなる。
 ――かぜなんて、ひかないといいのですけれど。
 マーフィは森の近くに住む風変わりな友人たちのことを思った。好きこのんで寒いところに住みたがる気持ちはよくわからない。それでも、時折こうして訪れるぶんには、彼女は森も好きだった。目に眩しい黄色の銀杏や鮮やかな紅葉がとても美しい。見上げた空はかすかに青味を帯びた白。
 ――白。
 マーフィは立ち止まって首をかしげた。なぜ森の空は白いのだろう。広場や街から見た空は透き通った青なのに。
 ――でもどちらもきれいだから、いいですわ。
 しばらく考えたあとで、彼女はそう結論づけた。要するにわからなかったのだ。
 そして再び歩きだし、街の住人たちが起きだしてくる時刻までふらふらと森の中をまわってみたが、あいにく詩人は見つからなかった。ひょっとしたらまだ寝ているのかもしれないし、どこか別のところにいるのかもしれない。彼は基本的に気まぐれで、気が向かなければ一日じゅうだって動かないのだ。
 あきらめて帰ろうと思ったとき、背後でがさりと音がした。
「ヒュー?」
 振り返ると男が一人、眉間にしわを寄せて立っていた。
 知らない男だった。背が高く、まだ若い。マーフィはその男に向かってにっこりと笑いかけた。
「あら、新しい方ですわね。はじめまして。この国へようこそ」
 驚きもしない態度に男は困惑したようだった。眉間のしわが深くなる。
「ここは」自分がしゃべっていることを確かめるかのようにゆっくりと、彼は言った。「どこだ?」
「森の中ですわ」
「……土地の名前を、俺は訊いたのだが」
「名前? そんなものあるのかしら。私、知りませんわ。でも、ここは<人形たちの国>ですわ。少しは人間の方もいますけれど。あなたのように」
「<人形たちの国>?」
 男の声が奇妙にはね上がった。が、彼は自身のその声を恥じたらしく、二、三度咳払いをして声調を整え、それからもう一度くり返した。
「<人形たちの国>?」
「ええ、そうですわ。ここに住んでいるのはほとんどが人形なのですわ。もちろん私も。だから<人形たちの国>というのです」
 男は何とも言えない表情をしてマーフィを見下ろした。彼女をじっと見つめる。その視線に応えてマーフィがにこっと笑うと、彼は大きくため息をついた。
「だれか、他の人間に会いたいんだが」
「人間? 人間でないといけませんの?」
「人形でもいいさ」男は少し声を荒らげた。
「ああ、人形でも何でもいいさ。君以外ならね」
「そうですわね。ここからだと一番近いのは」
 怒った様子の男をいささかも気にした風もなく、マーフィは考え込んだ。
「シドのところかしら。ええ、たぶんそうですわね。ではついていらして。異邦の方」
 彼女は先に立って歩き始めた。
「その、シドというのは?」
 彼女の後に従いながら男が問いかけた。
「私たちをつくってくれた人ですわ。人間ですの」
「それは君の父親ということだな? そうなんだろう?」
「ええ、そういうことになりますわね」
「そうか」
 息をついた彼はややほっとしたように見える。こわばっていた顔の表情がほんの少しだけゆるむ。
「もう一つ訊いてもいいか」
「ええ。何でも訊いてくださいな」
「今日は何月何日だ?」
 マーフィは立ち止まって男を振り返った。彼は先ほどよりましになったとはいえ、まだどこか落ち着かなげな顔をしてマーフィの答えを待っている。
「ええと……たしか、十月三十日、でしたかしら」
「合ってるな」
「まあ、合ってますの? ではドクターに教えてあげないと。ずっと日付の正確さを確かめたいって言ってましたもの」
 マーフィがうれしげに両手を合わせて笑う。
「ドクター?」
 男が問い返すのとほぼ同時に、突然木の葉がガサッと擦れる音がして頭上から何かが落下してきた。
 ぽす、という音をたて、それはまともに地面にぶつかった。
「『ぽす』?」
「あいててててて。何で落ちるんだあ? おいらを落とすなんざとんでもない木だな。おいらが人間だったら死んでるとこだってんだ」
 男は頭上を見上げ、木々の隙間から漏れる太陽の光に少し目を細めながら、木の枝がかなり上方にあることを確認した。それからゆっくりと落ちてきたものに視線を戻す。
「……『ぽす』?」
「まあ、ヒュー。そんなところにいましたの。お話でもしようと思ってずっと探してましたのよ」
「やあ、マーフィ。ちょっと木の上で眠ってたのさ。おっと、新入りかい?」
 詩人は身軽にぴょんと起き上がって、不躾な視線で上から下まで男を見回した。
 それから感心したように口笛を吹いて言う。
「人間だ。珍しい」
「君もか」
 男はうんざりした様子で呟いた。
「いったいここはどうなってるんだ? 何が何だかさっぱりわかりやしない」
「わからないと困ることでも? 何かあるかい?」
 男を見上げて詩人が言った。男は詩人を睨みつけた。
「もちろんあるさ。何もかもわからなくていったい何をしろというんだ?」
「何もしなけりゃいいじゃないか? それに何も全部がわからないってんじゃない。たとえばこれはわかってるだろ? あんたは異邦人だってこと」
 指さして言われ、虚をつかれたように男は黙り込んだ。怒っているようにも見えるし、何を言ってよいかわからずに困惑しているようにも見える。
 詩人は大声で笑って、ぴっと人差し指を立てた。
「異邦人に捧げる詩。挨拶代わりさ」



     異邦人 異邦人 遠い国から来たあなた
     何を思って泣くのでしょうか 捨てた故郷に未練でも
     振り返らない でも進めもしない 結局いつでも立ち止まる
     ここはどこなのでしょう 約束の地か
     いいえ あなたの知らない国です 異邦の方







「たしか仕事の途中だったんです。それで少しうたた寝をしてしまったようで……」
「次に気がついたら森の中にいたと。そういうわけかね?」
「ええ、その通りです」
 男はうなずいた。
 マーフィたちに案内されてやってきた小屋の中で、男は一人の老人と向き合っていた。シドという名の眼鏡をかけたその老人は、彼の前に腰かけて、大きな木片のようなものをいじりながらさして興味もなさそうに男の話を聞いていたが、やがてそれを机の上に置いて男を見た。
「まあ、来てしまったものはしょうがないな。ここはいっさいあきらめてだな、ここで暮らすがいいさ」
「ちょっと待ってください」
 なげやりな返答に男は気色ばんで言った。
「ちょっと待ってください。何なんですかそれは? そんなことできるはずがないでしょう」
「なぜかね? 生きていくのに必要なものは全部ある。家もあるし、服も、食べ物も、まあ好き嫌いはともかくとしてだが、とりあえずある。他に何が必要だね?」
「そういう問題ではありません」
 男は首を振った。
「僕には仕事がありますし、こんなわけのわからないところにいつまでもいるわけにはいかないんですよ。帰りたいんです」
「どこへ」
 静かにシドが尋ねた。「どこへだね?」
「ロンドンです。イングランドだ。僕の住んでいた場所へ帰りたいんです」
「ロンドンか」
 シドは目を細めて小さく呟いた。遠くを見るように、一瞬だけ深い緑色のその瞳が揺れる。
「懐かしい」
「ロンドンをご存じなのですか?」
「ああ、ここに来る前はロンドンに住んでいた。もう二十年近く前のことになるか」
「二十年……」
 男の顔に驚愕とも絶望ともつかぬ表情が浮かんだ。シドは再び木片を手に取り、慈しむようにゆっくりとその表面を手のひらで撫でる。
「わしもあんたと同じように、目が覚めてみたらここにおった。気の毒だが帰り方など知らんよ」
「あなたはそれで平気なんですか? 帰りたいとは思わないのですか」
「思わんさ。待っていてくれる家族はいなかったしな。むしろこちらのほうがいいくらいだ」
「そんな」
 一人きり取り残されたような声で男は言った。しかしそれ以上言葉が出てこないらしく、情けない顔をして黙り込む。シドはやおら小刀を取り出して手にした木片を削り始めた。
「いや、あなたがどうであろうとそれはあなたの勝手です。しかし僕は……」
 やがて口を開いた男はそこで言葉を止めて、不意に大きなため息をついた。
「あなたに何を言ってもしかたがない」
「役に立てなんだな」
 さして悪いとも思っていない口調でシドが答える。その表情からは彼が何を考えているのかまるでうかがえない。彼は感情があまり表に出ない体質のようだった。
 男はゆるく首を横に振った。
「あなたのせいじゃありません。突然こんなことになって、驚いているんです。誰かに八つ当たりしたい気分なんですよ」
 シドはうなずいた。だが口に出しては何も言わず、そのまま黙々と木片を削り続ける。
「彫刻を?」
 四角かったものが目の前で少しずつ形を変えていく様を見つめながら、男は尋ねた。
「そうだ。手先は器用なほうでね。昔は人形作りをしていたが、二十年前にやめてしまった。今はもっぱら彫刻だな」
「人形作り?」
 男は奇妙な顔をした。
「ここはよほど人形に縁があるんですね。あなたの娘さん――ずいぶん年が離れているようですが、彼女が自分のことを人形だと言っていたのは、あなたの昔の職業と何か関係が?」
「マーフィのことかね? ふむ、あれはわしが作った人形だ。われながらよくできておる」
「あなたまでそんなことを言うんですか?」
 眉をひそめた男の声は疲れているようだった。
「いったいあなた方は僕に何か恨みでもあるんですか」
「信じられないかね。しかし作った本人が言うんだ。事実だよ」
「人形が動くはずがないでしょう! いいかげんなことを言ってこれ以上僕を混乱させないでくれ!」
 男が突然声を荒らげて立ち上がっても、シドは表情も変えなかった。
「まあ聞きなさい」
 木を削っていた手を止めて、彼は表情どおりに落ち着いた声で言った。
「何もはじめから動いていたわけではない。二十年前、いつもと同じように目を覚ましたらわしはここにおって、そしてあの子たちが動いておったんだ。『ごきげんいかが』とあの子らはわしに挨拶した。なぜ動き出したかなど知らん。だがわしは動いとるあの子らを見てうれしかったし、あの子らもうれしそうだった。それでいいじゃないか」
「何がいいんですか?」男はあっけにとられている。
「ちっともよくない。じゃあ何ですか。つまり、それが始まりというわけですね。このとんでもない国の?」
「そうかもしれん。そのときここにおったのはわしの作った人形たちばかりだったからな。わしはうまくできた人形はとっておくのが癖だったから、全部で八十人ばかりおったかな」
 シドは平然と言ってうなずいた。
「八十人……それがこの国の全人口なんですか」
 男はもはや怒鳴る気力も失せたように肩を落とした。
「いいや、そうではない。数は少しずつ増えておるよ」
「まさか人形が子供を産んだなんて言わないでしょうね?」
「言わんよ。わからんかね? あんたがここにいる事実を考えてみなさい。ここでは二月に一人くらいの割合で住人が増えるんだよ。あんたと同じように森の辺りでさまよっているのを誰かが見つけるんだ。もっとも多くは人形であって、あんたのような人間はひどく珍しい。この前に人間が来たのは二年前だな。その前はもう覚えておらん」
「なぜやって来たのが人間か人形かわかるんです?」
 男は首を傾げた。
「もしここへ案内してくれた少女と少年が人形なのだとしたら、僕には区別できない。彼らはまるで人間と変わりなかったじゃないですか」
 マーフィと詩人は男をここへ案内した後、彼がシドと二人で話をしたいと言ったので家から追い出された。今はどこにいるのかわからない。まだ表にいるかもしれないし、もうどこかへ行ってしまったかもしれない。
「いいや、違っておるよ。だから区別はできる。あの子らもすぐあんたが人間だとわかったろう?」
 男はうなずいた。「だから不思議なんです」
 シドは落ちかかってきた眼鏡を押し上げ、ちらりと目だけ上げて男を見た。
「まあ、慣れればわかるようになる。よく見てみるといい。人形たちは肌がなめらかだし、妙な髪の色をしている者もおるし、それに指がとてもきれいだな。爪がな、薄紅色をしておるんだ」
「そんなところを誰が見るんです?」
 男は呆れたように言った。自分の指に目を落とし、すぐに顔を上げる。
「彼らは爪なんて見ていなかった」
 シドはくっくっと肩を揺らして笑った。
「たしかにさっきのは細かすぎたな。まあこう考えればよろしい。『こんな人形がいたら売れるかどうか?』 あんたみたいなのはとても売れんな」
「それは……とてもわかりやすいですね」
 男が非常に複雑な顔をしたその時、コンコンと扉を叩く音がして、マーフィがひょっこりと顔をのぞかせた。
「お話はもう終わりました?」
「終わったよ。なあ君?」
 シドが男に視線をやる。男はしばらく考えていたが、やがてうなずいた。
 マーフィは両手を合わせてにっこり笑った。よく見ると彼女の後ろに詩人も立っている。
「じゃあ私たちといっしょにいらっしゃいません? この国をご案内しますわ」
 突然の誘いに男はマーフィとシドを見比べた。
「あんたが疲れておらなんだら」
 シドが言った。
「行ってやるといい。そのために待っとったのだろうから」
 男はうなずいて立ち上がった。そうしてぱっと顔を輝かせたマーフィのいるほうへ向かう。その背中を見るともなしに見ながら、独り言のようにシドが呟いた。
「あんたはどこへ帰りたいのか? 心からそう思っているのか? それをよく考えてみるといい。もしその二つに胸を張って答えられるなら、あんたはそもそもここに来ておらんはずなんだ」
「それは……」
 不可解なシドの言葉に男は足を止めて振り返ったが、シドはそれ以上何も言うつもりはないようだった。彼らの存在を忘れてしまったかのように彫刻に集中し始める。
「鳥をね」
 シドの家を出て少し行ったところで、跳ねるように歩きながら詩人が言った。
「鳥を彫ってるんだ。もうずっと鳥ばかり、さ」


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