ある異邦人の話 2





 <人形たちの国>では夜はゆるやかに訪れる。太陽が沈み、西の空の薄紅色をおしやるように東の空から紺色の夜が迫ってくる。その速度はひどくゆっくりで、ほとんど時が止まってしまったかのように。それでも気がつけばいつの間にか夜が空を支配して、星がちかちかと瞬いている。
「ここに横になってさ」草の上に仰向けに寝転がって詩人が言った。
「星を見ながら寝るんだ。いつも」
 静かに流れる川の音が聞こえる。近くに川があるのだ。男はしばらく落ち着かなげに辺りを見回し、最後に立ったまま詩人を見下ろした。
「寒くないのか?」
「寒かないよ。今以下の温度にはならないのさ」
「……そういえば、十月の終わりなのになぜこんなに暖かいんだ? 緯度が違う?」
「緯度なんて知らないけど」
 詩人は投げ出すように両手を広げた。
「あんたも横になりなよ。なんか話しづらいからさ」
 詩人の言うとおりだったので、男も草の上に寝転がって夜空を見上げた。
「変な気分だ」
 独り言のように彼は言った。「落ち着かない」
「すぐ慣れるよ。空をずっと眺めてればさ。星は落ちてきやしないし」
 男は夜空に目を凝らす。目が痛くなるほどの満天の星だった。
「月がないな」
 男が言うと、詩人は「月のない夜の詩」と呟いてうたい始めた。



     月を追いかけて 夜中にこっそり家を出る
     大地を跳んで 月を壊しにゆくのさ


     月の欠片は散らばって 風と空の間で止まる
     きれいな星だねなんて そんな当然のこと



「異邦人。あんたの住んでたのはどんなところ?」
 うたい終わって詩人が尋ねる。男はわずかに眉をひそめた。
「異邦人と呼ばれるのは愉快じゃないな」
「じゃあ何と呼ぼう? おいらはあんたの名前を知らないんだ」
「クレアだ」
 男は答えた。「デイヴィス・クレア」
「クレア」
 詩人はくり返して、いい名だね、とまんざら世辞でもない様子で言った。彼は透き通った声をしている。その声で名を呼ばれると、不思議に温かい気持ちになった。続けて詩人も自己紹介した。
「おいらはヒュー。吟遊詩人さ」
「吟遊詩人か。初めて見たな」
 その不思議な響きをかみしめるようにしてクレアが言った。目を閉じる。まぶたの裏に星の光がやきついていた。
「ここにひとりで住んでるのか。ずっと?」
 彼は尋ねた。
「そう。ずっとね」
「なぜ街に住まないんだ?」
「吟遊詩人は街に住まないのさ。そう決まってるんだ」
 あまりはっきりと詩人が断言するので、クレアは返す言葉を思いつかなかった。なるほど、と少し肩をすくめて、それからはじめに詩人が尋ねたことを思い出した。
「俺の住んでたところか」
 彼はロンドンのことを考えた。
「大きな都市だ。こことはまるで違う。もっと大勢の人がいて、多くの建物があって、車が走っている」
 クレアはそこで目を開けた。もっと何か言おうと思ったのだが、それ以上説明する言葉が浮かばなかった。しかたがないので彼は言った。
「それだけ」
「それだけ?」
 詩人がすっとんきょうな声をあげる。
「今のじゃ、どんなとこだかさっぱりわかんなかったよ」
「まあ、そうだろうな。俺にもわからなかった」
 悲しいのか情けないのかわからない気持ちでクレアは呟いた。面積や人口や、そうしたことならいくらでも言える。けれど実際のところ、あの街で最後にこうして星を見上げたのがいつなのかすら覚えていないのだ。ひんやりとした草の上で、こんなにも多くの星を見ながらいったいロンドンの人口を言ってどうなるというのだろう。
「だから、あんたは異邦人だっていうのさ」
 不意に詩人がそう言って笑った。
「まあいいよ。だったら代わりにおいらがここの話をしてあげるよ。まだ寝やしないだろ? 聞きたいことがあったら何でも言っておくれよ」
「聞きたいこと」
 いろいろある。ある気がする。それでもはっきりとした問いの形で浮かんでくる言葉は何もなかった。どうもおかしい。思考力がまるでなくなってしまったかのようだ。なぜこんなにも言葉が出ないのだろう。
「聞きたいこと」
 彼はくり返した。考えれば考えるほどわからなくなった。それで何も言わずにずっと考えていたら、そのうちに隣から規則正しい寝息が聞こえてきたので、クレアはようやく空しい思考を止めた。質問すべき相手はもう眠りの中だ。
 彼は大きく息をついて、目を閉じた。
 そうして今日一日のことを思い返してみる。
 仕事で、彼は徹夜をしていたのだ。自分の家でパソコンの画面と向き合って、さっぱりはかどらない進行具合にいらいらと頭をかきむしって。いつ眠ってしまったのかは覚えていない。徹夜には慣れていたはずなのに、なぜ今日に限って眠ってしまったのかもわからない。
 気がつくと、森の中にぼんやりと立っていた。見上げると空は白く明るかったから、もう朝なのだと知った。――夜が明けた。眩しさに目を細めて、真っ先に思ったのはそのことだった。
(なぜ、こんなところにいるんだ?)
 妙に落ち着いた瞬間を過ぎ、ようやくそう自問した。森などに来た覚えはない。なのになぜここにいるんだ?
 驚きというより、ただ不可解だった。彼は腕を組んで辺りを見回した。そのとき、マーフィの姿を見つけたのだ。
 その後で詩人に会い、シドの家へ行き、そこを出て、マーフィたちにこの国を案内してもらった。国、といっても、実際にはとてもそうは呼べないほど小さなところだ。住人も二百人くらいしかいない。広場の中央に噴水があり、その広場をぐるりと囲むように街が広がる。街には実に個性的な色彩の建物がずらりと並び、その扉のすべてにそれぞれの職業を書いた木札がかかっている。
 <パン屋>はいい。<花屋>もわかる。しかしなぜ<大工>や<木こり>という札が必要なのかクレアにはわからなかった。尋ねると、「だって何かかかっていたほうが素敵じゃありません?」という答えが返ってきて彼は閉口した。マーフィの家の前には<踊り子>と書かれた札がかかっている。しかし彼女は踊りなどまったくできず、ただその響きが好きなだけなのだ。
 ドーナツ型の街の外には、広い草原がある。そしてそこをさらに越えると森がある。ほとんど方位の見分けがつかない円形の国の中で、ただ南の低い山と南北に流れる細い川とだけが他方向を示す道標になっている。
 不思議な国だった。小さな国。しかしいかに小さいといえどそのすべてを歩き尽くすのは容易ではなく、実のところ、シドの家から広場にたどりつくまでの間に、クレアはすでに疲れきっていた。そもそも外出すら滅多にしない生活だったのだ。マーフィの家は広場の近くにあり、今朝彼女はそこから彼のいた森まで散歩がてらにやってきたらしい。その物好きさにクレアは呆れた。
 昼食は<大工>の家でごちそうになった。食事は一日一回食べればよいほう、というのが彼の習慣になっていたのでさほど空腹は感じていなかったが、<大工>は人間だというので行ってみる気になった。
 彼は四十代半ばくらいの人の好さそうな男で、他にそれよりいくらか若い女と幼い子供が二人いた。家族なのだという。彼らは話を聞くと喜んでクレアを迎え、食事を出してくれた。しかし同じように並んで食卓についた詩人とマーフィの前には何も置かれない。不審に思って二人を見ると、その視線に気づいたのか詩人が言った。
「おいらたちはものを食べない。当然だろ?」
「………」
 人形ならばものは食べまい、しかししゃべって動く人形の何が「当然」だ、とクレアは思ったが言わなかった。彼はまだ心の底から彼らが人形なのだとは信じていない。一食くらい抜いても人は死なない。
 食事はとりたてておいしくはなかったが、まともだった。午後はそのまま大工の家で雑談をして過ごした。
「私は十五年ほど前にここに来たんですよ」と大工は言った。「私は十年くらいかしら」とその妻が言った。
「いや、とにかくびっくりしましたね。まったく見覚えのないところにいきなり立ってるんですから。変な夢だ。まあせっかくだから寝よう、と私は思いました。いやね、実は私は夢を見たことがなかったもんで、夢の中でさらに寝たらどうなるのかをずっと試してみたかったんですよ」
 妻は初耳だったらしく、「まああなた、知ってたけど変な人ね」とにこりともせずに言った。冗談としてならともかく、あまりに真面目な顔で言うのでクレアは少し怯んだ。しかし大工は気にした様子もなくはははと笑った。
「で、横になったはいいものの全然寝つけませんでね、しかたないから森の中を探索してみることにしてみたんですよ。ひょっとしたら宝が見つかるかもしれないと考えまして。そうそう、私は『宝島』の大ファンでしてねえ」
 なぜその状況で宝が見つかるなどと考えるんだ? とクレアは甚だしく疑問に思った。大工の妻はふっと冷たくため息をつき、子供たちは父親の話など聞かずに勝手に遊び回っている。クレアも内心ため息をつきたかった。
 しかし彼の気持ちもよそに、大工の話はその調子で脱線をくり返しながら延々と続いた。そのうちに、クレアは一つのことに気がついた。
 それは、詩人とマーフィとがたいへんな聞き上手である、ということだった。だいたいは大工がしゃべりたいままに任せ、無視にならない程度にあいづちを打ったり質問したりする。それでも相手の言葉の途中では決して口を挟まず、相手の話を邪魔するようなことはない。マーフィにいたっては実に楽しそうに大工の話に聞き入っている。このような能力に恵まれていないクレアは、少し羨ましい気持ちで彼らを見ていた。
「まあ、ここはいいところですよ。あなたもすぐに慣れますよ」
 ようやく話が終わったのか、大工がそう言って笑った。クレアは困惑する。
「でも僕は、この国のことが本当にわからないんですよ。何だか誰かに騙されてるんじゃないかという気ばかりするんです」
「それはよくわかりますわ」
 大工の妻が優しげな微笑を浮かべてうなずいた。
「そうだ。ねえ、あなたはもうドクターにお会いになりまして?」
「ドクター?」
 クレアは問い返した。「まだ」と代わって詩人が答えた。
 彼女は今度はにっこりと笑った。
「では、彼にお会いになって話をお聞きになればよろしいわ。彼も人間なんですのよ。二年ほど前にこちらにいらっしゃったのですけれど、とても賢明な方です。この世界にとても興味を持っていらっしゃるの。きっといろいろ教えてくれましてよ」
「どこにいるんですか、その人は?」
 俄かに興味がひかれた。会ってみたい。
「東の森の中ですわ。ここから少し離れていますけど」
「あら、でも今日は駄目ですわ」
 不意にマーフィが言った。
「昨日遊びに行ったとき、今日は南の山に栗拾いに行くっておっしゃってましたもの」
「おお、栗拾いか。私も今度行こうかなあ」
 大工が羨ましそうな顔をする。
「そうか。残念だな」
 それを無視してクレアは呟いた。
「明日行かれたらいいですわ。私、案内しますわ」
 マーフィがにこにことして言ったので、結局はそういうことで決定した。
「ところで」
 またひとしきり雑談した後で、大工が言った。
「今夜はどちらにお泊まりになるのですか? もしお決まりでなければうちに泊まっていかれませんか」
 いきなりの申し出にクレアは面食らった。そんなことは考えもしなかったのだ。
「いや、僕は……」
 たしかに泊まるところがなければ困る。しかし正直なところ、ここで世話になるのは気がすすまなかった。彼らは親切そうな人間なのだが、このような家族団欒の雰囲気は苦手だった。「ご迷惑でしょうし」
「そんなことおっしゃらないでください。困ったときはお互い様というじゃありませんか。遠慮なんていりませんよ」
「いや、しかし……」
 遠慮などしていないとは言えない。困り果てて助けを求めるように視線をさまよわせた。
「おいらのところにおいでよ」
 何かのついでのような口調で詩人が言った。
「ちょっと歩くけど、それでもいいかい?」
 かまわない、とほっとしてクレアは答えた。とにかくここにはいたくなかったのだ。
 しかしさすがにその気持ちを表に出すわけにはいかないので、彼は残念そうな顔をつくって大工に言った。
「せっかく誘っていただいたのに申し訳ありませんが、彼もこう言ってくれていますので」
「そうですか。残念ですねえ。いろいろ向こうの話も聞きたかったのですが。まあしかし待っていてください。すぐにあなた用の家を作ってさしあげますから」
 新しくこの国にやってきた者の家を建てるのが彼の仕事なのだという。今街にある家もすべて彼の手によるらしい。できあがった家に各自が勝手に色を塗る。
「住むのは街中でいいですか? どこでもお好きなところにお建てしますよ」
「はあ……」
 どこがいいかと言われてもわからない。クレアが答えあぐねていると、マーフィが言った。
「街の中がいいと思いますわ。街から離れると食事の用意に困りますもの。エレファンさんなんていつも文句を言いながら街まで来てますわ」
「うん、そうでしょうな。じゃあそうしましょう」
 住むところなどどうでもよかったのでクレアは文句を言わなかったが、家まで建ててもらうとなると、自分はいったいいつまでここにいるのだろう、とふと考えた。だんだん感覚が麻痺してくる。こういうふうにして誰もがここの住人となってゆくのか?
 それから彼は大工の家で夕食もごちそうになり、草原にある詩人の家にやって来たのだ。もっとも、それは家というよりテントだったのだけれども。
 そのあたりまで思い返したところで急に眠気が襲ってきたので、彼は眠ってしまった。
 そういえば、詩人とマーフィは夕食も食べなかった。







 翌朝目を開けるとマーフィの顔があった。彼女は至極真面目な顔をして、クレアをまじまじと見つめていた。
 クレアは驚きのあまり声も出ず、ただ二、三度瞬きをくり返した。
「あら、お目覚めですわね」
 マーフィはにっこり笑った。
「何をしてるんだ、君は?」
 クレアが身を起こす。寝起きなので声が低い。
「あなたの寝顔を見てましたの」
「いつから?」
「かなり前からですわ。だって、ちっとも起きてくださらないんですもの」
「起こせばいいじゃないか」
 不機嫌な声でクレアは言った。
「寝顔なんか見られてるより、叩き起こされたほうがずっといい」
「私、人の寝顔ってあまり見たことありませんの。楽しかったからいいですわ」
 マーフィは花のような笑顔を見せて答える。あまりに邪気のないその声と表情に、クレアは怒る気も失せて頭を振った。
 まだ眠気の残っている顔を叩いて立ち上がり、周囲を見回してみる。詩人の姿が見えなかった。
「ヒューはどこへ行ったんだ?」
「さっき森に行きましたわ。落ちないように木の上で眠る練習をするのですって」
「起きたばかりなのに?」
「ヒューは早起きですもの」
「それがどういう理由になるんだ?」
 どうにも彼らの考え方は理解できない。彼らが特殊なのか、それとも理解できない自分が悪いのか。考えたくもなかったので、クレアはとりあえず川で顔を洗うことにした。その途中で、彼は後ろからついてくるマーフィを振り返った。
「ところで、君はなぜここにいるんだ?」
「もちろんドクターのところにご案内しようと思ってですわ。昨日約束しましたでしょ」
「こんなに早くから?」
 クレアは驚いて空を見上げた。太陽はまだ低い位置にある。
「すまない。よく時間がわからないんだが」
「私もよくわかりませんわ。時計があるのはドクターのところだけですもの。でも夜が明けてそれほどたっていませんわ」
「それは迷惑だろう?」
 クレアは呆れ返った。早朝の電話や訪問ほど迷惑なものもない。
 しかしマーフィはいいえ、と首を振った。
「迷惑じゃないと思いますわ。ドクターは夜は寝ませんの。昼に三時間ほど眠るだけなのですって」
「三時間?」
 世の中には変わった人間もいるものだ。クレアはため息をつきながら、ふと思った。
 ――この世界には変わり者しか来ないのか?
 いやな考えだった。自分もその一員になるからだ。否定はしないが、とてもいやな考えだった。


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