翌朝クレアが目を覚ますと、詩人はまたいなくなっていた。彼はひとつところにじっとしているのがあまり好きではないのだ。クレアは眠い目をこすり、近くの川で顔を洗った。もう何年もくり返しやってきたことのように、彼にはそうしたことがとても自然に感じられた。星を見ながら眠ること、水道でなく川の水で顔を洗うこと。 (この抵抗のなさは、いったい何なんだ) 自分でもそう思ったが、不快ではなかった。彼は少し首を傾げて、今日は一日何をして過ごそうか、とまるで夏休みの少年に戻ったような気分で考えた。しかし「しなければならないことがない」というのは、とても自由な気がするとともにどこか落ち着かない気分にもさせる。水道水や無機質な天井はすぐに忘れられても、ほとんど身体の一部ほどに慣れ切った感情はそうそう捨てられるものではないらしい。 「クレアさん!」 突然大声で名を呼ばれた。聞き覚えのある高い声に、クレアは振り返った。 「マーフィ?」 「私……私、とっても感動しましたわ!」 突進するようなスピードで駆けてきたマーフィは、感極まった様子で叫んだ。きらきらとした目でクレアを見上げ、その胸には何かを大切そうに抱えている。――それは本のようだった。 「ああ、誰かを好きになるって何てすばらしいことなんでしょう!」 マーフィは本を抱えたまま両手を合わせた。彼女の興奮しきった様子にクレアは少々ひるんだが、彼女の持っている本が自分の作品であることに気づくと、やや眉を寄せた。ステインに「大問題」呼ばわりされた例の二作目だった。 「………」 しかし実のところ、ステインに言われるまでもなくこの作品は「大問題」だと、彼自身そう思っていた。考えてみれば、これを書いたときからすでにスランプだったのだ。真面目な恋愛などしたこともないくせに恋愛小説を書こうとしたのが間違いだった。ワンパターン作家と呼ばれないためには早いうちからいろいろなジャンルのものを書いたほうがいいんだよ、という編集者の意見にのったのがいけなかった。 「……それは俺が書いたんじゃない」 「え? 何ですの?」 ぼそりと呟いたクレアに、マーフィは不思議そうに問い返した。聞こえなかったらしい。クレアはふいっと顔を背けた。 「まあクレアさん。私、何かいけないことを言ってしまいました?」 マーフィが不安そうに尋ねる。いいや、とクレアは首を振った。彼女が悪いわけではない。悪いのは全部あの医者だ。クレアはそれが自分の作品であるということは棚に上げて、心の中でドクター・ステインを罵倒した。 「その本はやっぱりドクターに?」 尋ねると、予想どおりマーフィはうなずいた。 「そうですわ」 「もう読んだんだね? じゃあ、それを俺にくれないか」 処分するから、とは言わずにクレアは威圧的に手を差し出した。 「え、それは駄目ですわ。だって次はヒューに貸すんですもの」 「! やめろ!」 冗談じゃない、と思うと同時に手が伸びた。力ずくで奪い取ろうとしたのだ。けれどマーフィがとっさに身を引いたので彼の手は宙を切り、勢いあまって前のめりに倒れこんだ。しかもその際マーフィを巻き込んでしまったのが悪かった。 「………!」 気がつくと、まともに彼女の上に倒れかかっていた。はっとして即座に起き上がる。何ということをしてしまったんだ。少女の上に思いきり体重をかけてしまうなんて。 「す、すまない! ……大丈夫か? 悪かった、本当に――」 「あら、そんなに気にしないでくださいな。大丈夫ですわ」 クレアの差し出した手をとって、マーフィはにっこりした。彼女を助け起こしてやりながらクレアはそのあまりの軽さに目を瞠る。いや、それはもはや軽いなどというものではなく、ほとんどないのだ、体重が。 (……人形だから、か?) 改めてそのことを思った。だからこんなに軽いのか。 「どうかしまして?」 「あ、いいや」 クレアは首を振って、地面に落ちた本を拾い上げた。処分したい気持ちはやまやまだったが、彼はそれをマーフィに差し出した。 「まあ、ありがとうございます」 マーフィが笑って受け取ろうとして、その瞬間、わずかに手が触れ合った。途端にふっと彼女の手が止まる。まるで電流を受けたかのように、彼女は本を持った手をびくっと引いた。 「マーフィ?」 「な、何でもありませんわ!」 マーフィはぶんぶんと首をふった。クレアは眉をひそめる。 「しかしそれは何でもないという態度では……」 「ほんとに何でもありませんの! 今日はこれで失礼しますわ!」 言い終えるやいなや彼女は逃げるようにそこから駆けだした。クレアはぽかんとしてそれを見送る。 (どうしましょう――) 走りながら、マーフィは心の中で叫んだ。 (私、あの人に恋をしてしまいましたわ――!) クレアが<人形たちの国>に来てから、すでに一ヵ月あまりが過ぎようとしていた。 まるでずっと前からこの国の住人であったかのようにすっかりここの生活に慣れ切ってしまった彼は、ある日大工から一つの知らせを受け取った。 彼の家が完成した、というのである。 それを聞いたとき、はじめは何の話だかわからなかった。それからややあって、そういえば大工が自分の家を作ってくれていたのだったと思い出した。そこで彼は、なぜかついてきた詩人とマーフィとともに新しい家を訪れた。 「すごいな。思ったよりまともにできてる」 クレアはしきりに家を眺めまわしながら、褒め言葉か貶し言葉かわからない台詞を呟いた。大きくはないが一人が暮らすには十分だ。簡単な家具も用意されており、居心地は良さそうだった。 しかしただ一つ気になるのが、外の壁はともかく、なぜか屋根まで白い、ということだった。理由を問うと、自由に色を塗ったり絵を描いたりするためだ、と答えた。 「ペンキもちゃんと用意してありますから。ささ、どうぞ」 大工はにこにこ笑って足元にある色とりどりのペンキを示す。クレアはげっそりして、面倒だから白のままでいい、と言った。このままで別にかまわない。 「まあ、そんなの寂しすぎますわ」マーフィが言った。 「俺は白が好きなんだ」とつまらなそうな顔をしてクレアは首を振った。そうとでも言っておけば文句はつけないだろう。いったい何が楽しくてペンキ塗りなどをしなければならないのだ。 「クレアがそれでいいならいいけどさ。でもドクターに落書きされちまっても知らないよ」 両手を頭の後ろで組みながら、詩人が物騒なことを言う。クレアは顔を上げた。 「何だって?」 「少し前にそういうことがあったんだ。クレアみたいに白が好きだって言ってそのままにしといたらさ、ある日突然落書きだらけになってるんだ。誰がやったんだろうってみんなで話してたとこにドクターがやってきて、『やあ皆さん! どうです、僕の芸術は? いやどうもね、真っ白い平面を見ると何でもキャンバスに見えてしまうんですよ。このありあまる才能が迸り出てきまして!』」 ステインの口調を真似て詩人が言った。その時の様子がやけにはっきりと頭の中に浮かんでしまい、クレアは露骨に嫌な顔をした。 彼はしばらく黙ってペンキと真っ白な壁とを見比べていたが、やがてしぶしぶハケを手に取った。 それを見て、詩人はうれしそうに跳びはねた。 「やっぱり塗るのかい? じゃあおいらが手伝ってやるよ」 「わたしもですわ」 どうやらそれが目的でついてきたらしい。物好きな、と思いながらもクレアはうなずいた。好きでしてくれるならそれにこしたことはない。 そこでクレアはすべての作業を二人に任せ、自分は辺りを散歩してくることにした。 それから約一時間後、散歩から帰ってきた彼が見たものは――。 黒と青の縞模様の屋根と、ピンク色に塗られ、かわいらしい花々がいっぱいに描かれた壁、だった。 彼は激しく後悔した。 その日の夜、もう何度目かわからないため息をついて、クレアは無理やりに閉じていた目を開けた。 ここ一月の生活で闇に慣れた目に、馴染みのない室内の様子が映る。部屋にある家具はごくわずか――今彼が横になっている寝台と、小さなタンスに机、たったそれだけ。他にほしいものがあったら何でも言ってくださいと大工は言ったが、そんなものは何も思い浮かばない。 クレアは寝返りをうって、またため息をついた。眠れない。 いったい横になってからどのくらい経っているのだろうか。いつもならとっくに眠っているはずなのに、今日に限ってまったく眠れない。かといって眠くないわけではなく、眠りたいのに眠れないのだ。だからよけいにいらいらする。 だが眠れない理由は何となくわかっていた。 「駄目だ」 クレアはあきらめて起き上がった。いつまでもこんなことをしていても疲れるだけだ。彼は外に出た。 相変わらず、空は満天の星だった。 詩人は膝を抱えてぼんやりと夜空を見ていた。 視界の端にクレアの姿を認めると、彼は静かに笑った。 「やあクレア。眠れないのかい?」 「ああ、何となく」 詩人のところまで歩いていって、クレアはその隣に腰を下ろした。 「どうも変な習慣がついてしまった。草の上で星を見ながらでないと眠れないんだ」 彼の言葉に詩人は笑う。やはり不思議な声をしているとクレアは思った。透き通った声だ。風のような、水のような、空のような。とても懐かしい。 だが今はその声が、わずかに沈んでいるように感じられた。 「元気がないな」 クレアが言うと、詩人は不思議そうな顔をした。 「おいらが? そんなことないさ」 「そうか?」 クレアは肩をすくめた。彼としても確証があったわけではない。ただそう思っただけなのだ。詩人はまたぼんやりと空に視線を戻した。クレアは再び言う。「やっぱり元気がないな」 「そうかい? じゃあ、そうなのかもしれないな」 「なぜ?」 クレアが尋ねると、詩人はうん、とうなずいた。 「寂しいのかな。たぶんね」 「さびしい?」 おうむ返しにクレアは訊き返した。この詩人にその言葉はあまり似つかわしくないように思える。 「うん。クレアは寂しいと思ったことはない?」 「俺は……」 そんなことはないと言いたかったが、では自分はなぜ今こんなところに来ているのかと自問してやめた。かといって素直に答えるのは性格と年齢からしてためらわれるので、結局黙ったままでいるしかなかった。 「夜はさ、なんかぼんやりして、まぼろしみたいな感じがするだろ?」 クレアの答えは待たずに詩人が言った。 「だけど、おいらはそうじゃないと思うんだ。昼や朝は、ほんとは心に目隠しをしてるのさ。眩しさで目をくらませて、ものを考えられないようにするのさ。でも夜はそれがなくて、いろいろなことを考える」 「いろいろなこと?」クレアは尋ねた。 「いろいろなこと」詩人は答えた。 「一人でいるからいろいろなことを考えるんだ」 クレアが言った。 「だから寂しいんだ。どうしてヒューは街で暮らさないんだ? そっちのほうがましじゃないか」 「向き合うためさ」 透き通って消えてしまいそうな声で、詩人はぽつりと答えた。 「向き合う? 自分と?」 クレアの問いに彼は首を振る。 「ちがうちがう。夜とだよ。どうして夜があるのか、いつも考えてる」 言うなり詩人は大きくのびをして、ごろんと草の上に寝転がった。頭の下で手を組んで、目を閉じる。 それきり会話は途切れてしまう。その沈黙があまりに長く続いたので、クレアは詩人が眠ってしまったのかとさえ思った。 「おいら、旅に出るよ」 突然ぱちっと目を開けて、詩人が言った。 「旅だって?」クレアは心底驚いた。いったい何を言い出したのかと思ったのだ。 「おいら、あんたと長くいっしょにいすぎたのかもしれない」 独り言のように詩人が言った。その言葉にクレアは眉をひそめる。 「どこへ?」かろうじてそれだけを尋ねた。 「誰もいないところ。ひとりになれるところ」 まるでうたうように詩人は答えた。ひどく遠いところに彼がいるような気がして、クレアはなぜか不安になる。 「帰ってくるんだろう?」 彼の言葉に、詩人は目を細めて笑った。「帰ってくるさ。だって、ここはおいらの国だからね」 クレアはむっつりおし黙って本を読んでいた。無論、自分の本ではない。ステインから借りた本である。正確に言えば、マーフィに頼んで彼から借りてもらった本だ。「砂漠を越えて」やって来たという彼はやたら多くの私物を持ち込んでおり、数多くの蔵書もそのひとつだった。本好きのクレアとしてはそれらはとても魅力的だったのだが、彼は初対面のときからずっとドクター・ステインを苦手としている。そこで姑息にもマーフィを使って又借りをするという手段に出たのだった。 さて、その又借りした本の一冊を読みながら、クレアは小さくため息をついた。振り返りもせずに、 「なにか用か」 ぶっきらぼうな声で背後に立っている少女に言った。やっと話しかけてもらえたことがうれしかったらしく、部屋に入ってきてから一言も発せずじっとクレアを見ていたマーフィはにっこりと笑った。 「最近見かけないのでどうしてらっしゃるのかと思ったのですわ」 「本を読んでいた。今も読んでいる。現在完了形継続」 返事はにべもない。彼はさらに続けて、 「用がないなら帰れ。邪魔だ」 「いやですわ」 マーフィはふくれた調子で答えるとその場にしゃがみこみ、じいっとクレアの背中を見つめた。しかしそうしていると何とも幸せな気持ちになってきて、我知らず彼女はまた微笑んだ。 クレアはあきらめたように振り返った。 「君もよほど暇なんだな。俺のところにいたって楽しいことなんかないだろう」 「あら、そんなことないですわ。だって私、クレアさんのことが好きなんですもの」 「………」 クレアは何も聞かなかったふりをして、再び本を読み始めた。マーフィは少しショックを受けた。 「ひどいですわ、無視するなんて。私はただ、クレアさんに元気になってもらいたいだけですのに……」 「元気も何も」 本から顔も上げないでクレアは言った。「別にはじめから落ち込んでやしない」 「うそ。だって、ヒューがいなくなってからずっとつまらなそうな顔してますわ」 詩人が「旅に出る」と言ってどこかへ行ってしまったのは二ヵ月も前のことだ。あの日以来クレアは家に閉じこもりがちになり、人とつき合うのを避けるようになった。彼が出かけるのは食料の調達をするためと、本を返し別のを借りるため、の二つの目的に限られる。最近では本と食料をどっさりため込んで、二週間は冬眠したように出てこない。 しかしそれは彼が変わったというよりは、元に戻ったというほうが正しい。詩人がいたころのほうが特別だったのだ。 「本当に、ヒューはどこに行ってしまったのかしら」 ため息まじりにマーフィは呟いた。詩人がいなくなって寂しいのは彼女も同じなのだ。 「早く帰ってきてほしいですわね」 クレアは答えず、ただ肩をすくめた。 「クレアさん!」 久しぶりに食料の調達に街へ出たクレアは、ふいに背後から呼びかけられて振り返った。聞き覚えのあるようなないような声だ。見ると、ドクター・ステインの助手であるエレファン青年がにこにこ笑って立っていた。 「こんにちは! ずいぶんお久しぶりですね」 「あ……こんにちは」 彼の笑顔につられてクレアは不器用に笑った。 「最近お見かけしないので心配してたんですよ。でも思ったより元気そうだ」 元気そのものの人間に言われると複雑な気持ちになる。クレアは仕方なく「はあ、まあそれなりに」といい加減な答えを返した。 「ああ、そうそう。僕、昨日やっとあの本読んだんですよ。ほら、クレアさんのデビュー作」 思い出したようにエレファン青年が言い、クレアは嫌なことを聞いたとばかりに顔をしかめた。二作目の恋愛小説について言われるのも嫌だが、一作目の暗さについてとやかく言われるのもうんざりしていたのだ。 しかしエレファン青年は無論そんなことには気づかない。彼は相変わらずにこやかな笑顔で言った。 「あれねえ、なんだか難しすぎて僕にはよくわかりませんでした。でもですね、クレアさんの情景描写は僕好きですよ」 「情景描写?」 そんなことを言われたのは初めてだったので、思わず問い返した。エレファン青年はうなずく。 「ええ。なんとなくね、すごくやさしい文章だと思います。僕は絵を描くのが好きで、実は画家を目指してるんですが、いやそんなことはどうでもいいんですが、クレアさんの文章を読むと、いろいろなイメージがわいてきてすごく絵が描きたくなります。あなたにはもっとやさしい話のほうが似合うんじゃないかなあ」 僕の勝手な意見なんですけど、と言って彼は笑った。思いがけない評価にクレアは困惑したが、なぜかその言葉が強く心に残った。 そのあと少し世間話をしてエレファン青年と別れた後、クレアはあらためて先ほどの言葉を考えた。 (やさしい話?) 考えたこともなかった。しかしなぜか、そんな話を書いてみたいと思った。 |