その日は朝から気分がよかった。 ここしばらく考えていた話を、ようやく書き始めることができたのだ。主人公は二人の姉弟。金の髪と緑の目をもつ十七才の少女と、金茶の髪と空色の目をもつ十三才の少年。彼らはある日ふとしたことから奇妙な異世界へと足を踏み入れてしまい、そこでさまざまなことを体験する。いわゆるファンタジー小説――クレアが一生書くまいと決めていた――であるが、同時にきわめてノンフィクションに近い。モデルは言うまでもない。ただし、性格はよほど小説のほうがまっとうだと彼は信じているが。 「クレアさん!」 突然ノックもなしに扉が開いて、マーフィが駆け込んできた。執筆の邪魔をされたクレアはややむっとしたが、文句をつける前に彼女が泣きそうな顔で叫んだ。 「大変ですの! シドが……!」 「シドが? どうかしたのか?」 「倒れたんですわ!」 マーフィはクレアの服にしがみついた。今まで見たこともないような真剣な顔をしている。 クレアは彼女の様子のほうにまず驚いて、その言葉の意味をすぐには理解できなかった。 「シドが、倒れた……?」 「お願い! 早くドクター・ステインを呼んでください! 今はヒューがついてますけれど、私もすぐに行かなきゃいけませんの!」 「ヒュー? 帰ってるのか?」 クレアの問いは、しかし彼女の耳には届いていないらしかった。クレアは自分の服をつかむマーフィの手をそっとはずして、大きくうなずいてみせた。 「わかった。すぐに連れて行くから」 シドの診察を終えて今後の簡単な処置法を伝えると、ステインはクレアの肩を軽く叩いて外へ招いた。何かここでは言いたくない話があるらしい。クレアは小さくうなずき、彼に続いてそっとシドの家を出た。二人が出て行っても詩人とマーフィは何も言わなかった。あるいは気づいていないのかもしれない。彼らは寝台のそばに腰かけて、ぼんやりとシドだけを見ていたからだ。 「正直言って」家からさほど離れていない森の中で、珍しく真面目な顔をした医師が言った。 「あまりよくはない。かなり危険といってもいい」 「そんなにですか?」 単刀直入な医師の言葉に、クレアは眉をひそめた。はじめにこの国に来たとき顔を合わせて以来、シドとはあまり会っていない。しかしそれほど身体が悪いようには見えなかった。 ステインはうなずいた。 「もうずっと前から悪いのはわかってたんだ。でもどうしようもなかった。ここにはろくな医療設備がないからね。実際上道具なしには医者は何もできやしない。ただの役立たずなのさ」 なげやりな言葉を吐きながら、本当は彼が心底悔しがっているのがわかった。クレアは意外な思いで彼を見る。もっとどんなことにも恬淡としたつかみどころのない人間かと思っていたのだ。 「ああ、この世界はいったいどうなってしまうんだろうなあ」 ふいに独り言のようにステインがぼやいた。 「どうなってしまうとは?」 いきなり何を言うのかとクレアは問い返す。ステインはちらっと振り返り、だってそうじゃないか? と肩をすくめた。 「シドは特別なんだ。彼はこの世界に必要な人間だ。そう思ったことは? 支えのようなものさ。それを失えば、ここはいとも簡単に、あっけなく、何ものをも残さず崩れ去ってしまうかもしれない。このひどく不安定な世界」 「不安定? ここが?」 クレアにはそうは思えなかった。ここが元いた世界と違うのは事実だ。しかしだからといって不安定ということにはならない。ここはここでちゃんと安定しているではないか。 しかしステインはうなずいた。 「そうさ。考えてごらん、たとえば広場に金木犀があるだろう? 広場は春だ。金木犀は秋に咲く。これがどういうことかわかるかい。春に咲かない金木犀がそれでも咲くということは、それは本当の金木犀ではないということなんだ。金木犀の形をした何か別のもの。そしてこの国の住人たちはといえば、人の形をしたちがうもの。そういうものたちに囲まれた世界は、やはり不安定だよ。どうしてもね」 一気にそれだけ言ってしまうと、ステインは少し気の抜けた顔をした。それからふっと空に目を上げて、彼は再び呟いた。 「ああ、本当にこの世界はどうなってしまうんだろうなあ」 何日たってもシドの体調はよくならず、寝たきりの生活が続いた。時折気分がよいときには上体を起こして彫刻をすることもあったが、それも長時間は無理だった。一日の半分以上は眠っている。 詩人とクレアとマーフィとが、交代で彼のそばについていることにした。ドクター・ステインも毎日やってくる。もっとも、本人が言うところではただの「気休め」にすぎないけれども。 珍しく、少し寒い夜だった。夜はクレアがついていることになっている。 彼はシドの家の前までやってくると、軽くノックしてから扉を開けた。 「ヒュー、交代しよう」 椅子に腰かけ、眠っているかのようにうなだれていた詩人は、その声にはっと顔を上げた。「ああ、クレア。もうそんな時間なのかい」 「疲れているみたいだな」 クレアが心配そうに言うと、詩人は「そんなことないよ」と言って少し笑った。その笑顔になぜかふうっと悲しい気分になって、クレアは思わず彼から目をそらした。 「早く眠ったほうがいい。シドには俺がついてるから」 「いや、今日はここにいたいんだ。クレアは帰っていいよ」 「大丈夫なのか? あまり眠ってないんだろう?」 「平気さ。おいらは人間じゃないから、本当は眠らなくたっていいんだ」 だけど、と詩人は独り言のように呟いた。「夜はやっぱり暗くて長いから、眠ったほうがいいんだ。眠っていたいんだ。ただそれだけ」 それから彼は窓の外の暗闇に目をやって、唇をひき結んだ。 クレアはため息をつき、椅子をもう一つ持ち出してきて、詩人のそばに腰を下ろした。 「せっかく来たから、やはりここにいよう」彼は言ったが、詩人をこのまま放っておくのはためらわれるような気がしたのだ。 するとふいに詩人が窓からクレアに視線を戻し、問いかけた。 「なあクレア。理想の世界ってどんなだと思う?」 クレアはとっさにその意味が理解できず、不審げな顔で詩人を見返した。 「理想の世界? 何だそれは」 「言葉通りのものさ。どんな世界が一番いいと思うかって、そういうこと」 「一番いい世界?」クレアは少し考えた。 「楽園のような、か。老いがなく、病も死もない永遠の生命の世界」 その答えに詩人は片眉を上げた。 「独創性のかけらもない答えだなあ。ほんとに小説家なのかい?」 グサリときたが、彼の言うとおりだったのでクレアは反論できなかった。「おいらはね」と詩人は言った。 「おいらは夜のない世界がいいな。朝と昼だけの。だけどそんな世界ありっこないんだ。理想の世界なんてどこにもないのさ。たぶんね」 「ヒュー」 詩人の声があまりに沈んでいるような気がして、クレアは不安になった。なぜこんなことを言い出すのだろう。理想の世界、なんて。 彼は何か言わねばならないと思ったが、何を言えばよいのかわからずに、結局口をつぐんだ。 ――いったい、この世界はどうなってしまうのだろうな。 ふとドクター・ステインの言葉を思い出して、クレアはひどく重い気分になった。 真夜中ごろに、シドが目を覚ました。彼はゆっくりとまぶたを開けて、二つの空色の瞳がじっとこちらを見ているのに気がついた。 「ヒュー」寝台に横たわったままで、シドは詩人に手を伸ばした。詩人は寝台のそばにしゃがみこみ、ためらいがちにその手をとる。 「どうした。とても悲しそうな顔をしている」 詩人の顔を真っすぐに見つめて、シドがささやくような小声で言った。もう声を出すのもつらかった。 詩人が答えなかったので、シドは視線を動かして室内を見回した。部屋の中央ほどで一人の男が座ったまま眠っている。ロンドンからやって来たという若者だ。遠い昔に訣別したあの街。 シドの手を握りしめたまま、詩人は布団の上に顔を伏せた。 「シド。どうして時は止まらないんだろう。ここはおいらの楽園なのに。どうして楽しいだけじゃ駄目なんだい?」 「いいさ。楽しいだけでいい。お前は笑っておればいいんだよ。わしのことなど気にすることはない。ここはお前の楽園なのだから」 詩人は顔も上げずに、ただシドの手を握る腕に力を込めた。 「おいらもそう思うのに、何でか笑えないのさ。――時が止まればいいのにね」 それから何日かたった日の昼、シドの具合がよかったのでクレアたちは彼の家に集まって他愛ない話をしていた。おそらく、クレアが珍しくロンドンの話をしている時だった。それまで穏やかな顔でみんなの話を聞いていたシドの瞳が、眠るようにゆっくりと閉じられたのは。 「シド。まだ、夜じゃないよ」呆けたように呟かれた詩人の声を、クレアはいつまでも忘れることができなかった。 異変の始まりは、雪だった。 はじめにそれに気づいたのは、ドクター・ステインの助手であるヘンリー・エレファン青年だった。 いつものようによく晴れた日、彼は庭にあるドクターご自慢の半自動洗濯機――ドクター・ステインは医師であると同時に科学者でもあったので、これは彼の発明品の一つであった――で洗濯をしている最中だった。 何気なく空を見上げた彼は、何か白いごみのようなものがふわふわと宙に舞っていることに気がついた。 はじめは大きな埃だ、としか思わずそのまま洗濯を続行していた彼は、しだいに寒さを感じるようになるにいたって、もしや、という思いを抱いた。 ――もしや、これは雪ではないか? 彼はびっくりして再び空を仰いだ。先ほどは小さなごみにしか見えなかったものが、今でははっきりと雪と呼べるものになっていた。彼は今度こそ仰天してあわてて家の中に駆け戻り、ノックもせずにドクター・ステインの部屋に飛び込んで報告した。「ドクター! 雪が降ってますよ!」 医師はその報告に一瞬だけ奇妙な顔をしたが、すぐに何でもないことのように肩をすくめた。 「ああ、どうりで寒いと思った」 しかし冷静な医師とは対照的に興奮しきったその助手は、部屋の窓を開けてしきりに歓声をあげた。医師が迷惑そうに寒いよ、と呟いたが、その声は届いていないらしかった。 「それにしてもドクター、いったいどうしたんでしょうね。雪なんて、ここに来てから一度も降ったことがないのに。――あれ、そういえば雨も降りませんよね。え? じゃあ何で川は涸れないんだ?」 ふと今まで考えもしなかった疑問にぶちあたり、エレファン青年は首を傾げた。 「それは雪が降ってるからさ。世界の果てでね」聞こえるか聞こえないかという程度の小声で、ドクター・ステインが呟いた。それはかつて、ここに来てまだそれほどたっていない頃、エレファン青年と同様の質問をしたときに返された答えだった。 ドクターは窓の外に視線をやって、本格的に降り始めた雪をしばらく眺めていた。 その日以来、雪は毎日のように降ったが、積もることはなかった。しかし雪とともに訪れた冬は木々を枯らし、川に薄い氷を張り、<人形たちの国>の風景は、いつのまにか冬色に染まっていた。 いつものように雪がちらちらと舞っている冬空をふと見上げてから、クレアは足を速めて再び歩きだした。 彼は、詩人のテントへ向かっているところだった。ここしばらく詩人には会っていない。何度か訪ねていったが、いつも彼はいなかった。しかし彼がひとつところにとどまっていないのはいつものことで、探せばおそらく会えたはずだ。だがクレアは彼を探さなかった。彼に会わねばならないと思う一方で、それを恐れていたのだ。最後に見たあの、とり残された子供のような顔が頭から離れない。 (ヒュー) 街に来ていっしょに暮らさないかと誘うつもりだった。彼はこれ以上ひとりでいてはいけないような気がした。ドクター・ステインはシドがこの世界の支えだと言ったが、少なくとも彼が詩人の支えだったことだけは確かだ。支えを失えば崩れてしまう。世界も人も、あらゆるものが。 ふいに森の奥から声が聞こえてきて、クレアは顔を上げた。 「マーフィ?」彼は呟いた。彼女の声のように聞こえたのだ。 「だって、ここは<人形たちの国>なんですもの。他に名前なんてありませんわ」 「ああ? 君はいったい何を言ってるんだね。もういい。誰か他の奴に会わせてくれ。時間の無駄だ」 怒ったような男の声も聞こえる。たしか自分も初めてこの国に来たとき同じようなことを言った、と思い出し、ではまた新たな住人がやってきたのだろうかとクレアは考えた。 「マーフィ」 彼らの姿を認めて呼びかけると、マーフィははっと顔を上げた。クレアさん、と呟いて、心からほっとしたような顔をする。彼女はクレアのもとに駆け寄ってきて、まるで隠れるようにクレアの後ろにまわった。彼女がこんな行動をするのは珍しいことだった。 「何だ、あんたは」 マーフィと向き合っていた中年の男は、突然現れたクレアに不審の目を向けた。しかしすぐに表情を和らげると、「ああ、その子の知り合いか? ちょうどよかった。いったいここはどこなんだ? 俺はどうしてこんなところにいるんだ」 「ここは……」 言いかけて、クレアはふと口をつぐんだ。何となく、この男はちがうと思った。マーフィを振り返ると、彼女はクレアにしがみついて怯えたように男を見ている。視線を戻して、彼は男に尋ねた。 「あなたは声を聞きましたか」 「声? 何の声だ?」 「少年のような――とても不思議な、感覚的な、あなたを呼ぶ声です、ミスター」 男は何ともいえない顔をして黙り込み、やがてこれみよがしに大きなため息をついた。 「やれやれ。ここはイカレた連中の集まりらしい。いったい俺はどうしてこんなところに来ちまったんだ」 ああ、とクレアは思った。彼はやはりちがうのだ。呼ばれて来たのではない。彼は<案内人>の声を聞かなかった。 ――何てことだ。 ひどく沈んだ気持ちになって、クレアは思わず空を仰いだ。相変わらず雪が降っている。そのとき彼ははっと目を見張った。 「……ヒュー」 見上げた先の木の上に詩人がいた。幹に頭をもたせかけ、眠っているように見える。もうずいぶんそうしていたのだろう。頭や肩には雪が積もっていた。 しかしクレアの呟きが聞こえたのか、詩人は首だけ動かして彼らを見ると、口元にかすかな笑みを浮かべて体を起こした。「やあ、クレア、マーフィ」彼は身軽に木の上から飛び降りた。 「何だ? また気違いが増えたのか?」 男がいかにも不快そうな顔をした。その言葉にはもはや何の遠慮もない。クレアはむっとして何か言いかけたが、その男の声を聞いた瞬間詩人が見せた表情の変化に言葉を失う。さっと表情から笑みを消した詩人は、一瞬わずかに眉をひそめると、次にはまったくの無表情になった。彼はぶしつけな視線でじろじろと男を眺めまわしていたが、やがて表情と同様にきわめて感情を排した平坦な、それでいてどこか軽蔑に満ちた声で言った。「異物だ。除去しなけりゃね」 「何だと! 小僧、それは俺のことじゃないだろうな?」 男が声を荒らげたが、詩人はまるで動じなかった。ゆっくり男の前まで歩いてゆくと、ごく自然な動作で両腕を突き出し、当たり前のように男の首に手をかける。 「おい!? おまえ、何を……!」 男は慌てて身を引こうとしたが、それよりも早く強い力で首をしめ上げられて、身動きがとれなくなった。苦しげなうめき声をあげる。必死にその手を振りほどこうとしても無駄だった。びくともしないばかりか、いっそう力を込めてくる。 「ヒュー!」 クレアが叫んで二人に駆け寄った。男の首から詩人の手をひきはがす。解放された男は首を押さえて激しく咳き込んだ。 「ヒュー、どうしてこんな――!」 詩人の両手をつかんでクレアが唇を噛んだが、詩人はなぜ彼が邪魔をするのかわからないという顔で驚いたようにクレアを見ていた。だって異物なんだよ、異物なんだ、と彼はくり返した。 「異物は除去しなけりゃいけないんだ。でなきゃ終わってしまうよ、この世界が終わってしまう」 それだけ言うと、詩人の瞳から急に輝きが失われて、彼はだらりと腕を下ろした。 「ヒュー」 悲しげなマーフィの呼びかけも聞こえない様子で、詩人はそのままふらふらとどこかへ行ってしまった。今日の雪はまだ止まない。 |