なかなか寝つかれなかったせいで翌朝遅くに目を覚ましたクレアは、陰欝な気分で家の扉を開け、そこに広がる光景に我が目を疑った。 雪が降っていた。世界をただ一色に染めて、なお降り止まずに雪が降っていた。 しかしそのことよりさらに彼を驚かせたのは、周りにあったはずの家々が一軒もなくなっていることだった。たしかに家があったはずの場所には、今や背の高い木々が立っている。森だ。一夜のうちに、街が森に変わってしまった。 「これはいったい……」 呆然としてクレアはふらふらと外に出る。歩を進めるたびに新雪が不思議な音で鳴った。まるで責めているようだとクレアは思う。この美しい世界を汚すことを。 彼は足を止めて、自分の家を振り返った。そして息をのむ。 家はなかった。他と同じように、森に飲み込まれて消えてしまった。 クレアはわけがわからずに首を振った。何だか叫びだしたいような気がしたが、のどまで出かかったところで思い止まり、考えた末に足を広場の方角に向ける。そこが世界の中央だ。だから広場へ行かなければならない。 「やあ、クレア君」 広場にやって来たクレアに向かい、ドクター・ステインが軽く右手を上げて呼びかけた。彼のまわりにはエレファン青年や大工の家族、マーフィなど、クレアのよく見知った顔がある。彼らばかりではない。今、広場にはこの国のほぼすべての住人が集まってきていた。静かなこの国では初めて体験する喧騒が周囲を覆っている。 「ずいぶん遅かったねえ。今君のところに行ってみようかと話してたところだったんだよ」 ステインは呑気な声で言った。ご無事でよかったですわ、とマーフィが泣きそうな顔で笑う。 クレアは真っ白な空を見上げた。 「いったい、どうしてこんなことに……」 独り言に等しい呟きに、マーフィが同じように空を見上げて答えた。「ヒューが泣いているのだわ。ヒューの代わりに、空が泣いているんです」 「ヒュー?」 クレアははっとして辺りを見回した。詩人の姿はどこにも見えない。 「ヒューは今どこに……」言いかけた彼の言葉をさえぎるように、ふっと目の前に一つの光景が浮かんだ。 大きなクッションを抱きしめて、幼い少女が泣きじゃくっていた。そのすぐそばに、母親が困り果てたように立っている。 ――いい加減に泣きやんで頂戴。ママが悪かったわ。ほら、これを買ってきたのよ。アンディよりずっと可愛いでしょう? なだめるように言いながら、茶色いくまのぬいぐるみを差し出す。少女は激しく首を振って、押しつけられたくまをつかむと思い切り壁に向かって投げつけた。 ボン、とそれは少し跳ね返って床に落ちる。少女の泣き声が大きくなった。母親は目を吊り上げて怒鳴った。 ――わかったわ! もう勝手にしなさい! 荒々しく扉を開けて出ていってしまう。一人残されて、少女はなおも泣き続けている。 しばらくして、彼女は泣き濡れた瞳を上げた。壁ぎわを見つめ、床を這うようにして移動する。 床に転がったぬいぐるみを手に取ると、少女の目から再びぶわっと涙があふれた。 ――ごめんね。ごめんね。おまえが悪いんじゃないのに。ひどいことしてごめんね。ほんとにごめんね。 少女はぬいぐるみをぎゅっと抱きしめて、少しだけ笑った。 その笑顔を見ながら、彼は思った。 ――彼女が笑ってくれてよかった。だけど、捨てられちまった奴はどうなるんだろうな? 何だこれは、と広場にいた全員が驚きのあまり呆然とした。このあまりに鮮やかな映像はどこに映っているのだろうか。まるで頭の中に直接流し込まれているようだった。あるいは真っ白な空と雪のこの世界すべてがスクリーンであるかのようだ。彼らの心までが映し出される。遠い記憶。 彼は黙って、母親の言葉を聞いていた。 母親は泣きながら、お父さんは亡くなったのよ、と言った。 ――仕事の途中に、足を踏み外したのですって。地面に叩きつけられてしまったのですって。 うそだ、と彼は叫びたかった。そんなはずがない。あの慎重で機敏な父が失敗するなんて! ――仕事って……何の仕事さ? だって今、たいした仕事はしてないって父さん言ってたじゃないか。 母親は震えている彼を抱きしめた。 ――あなたを驚かせようと思ったのよ。お父さんが作っていたのは。 そんなのってあるか、と彼は叫んだ。母親の答えに、そう叫ばずにいられなかった。 そんなのってあるか! そんなのって! ――お父さんが作っていたのは、私たちの家なのよ。 大工が目をつむって顔をそむけた。妻がそっとその手に触れる。 また映像が切り替わる。 ――私、もう治らないって知ってるの。 少女の言葉に、若い医者は笑った。 ――治るに決まってるさ。だって僕が診てるんだから。 ――いいの。もういいの。私痛いのはイヤ。だから手術はもうしないの。私、ちゃんとあきらめてるから、先生は泣かないでね。先生のこと好きだから、先生は泣かないでね。 少女は澄んだ瞳をしている。 ――でも、そのかわりにお空が泣いてくれるといいなあ。私、雨の日って大好き。雪の日も。空がいっしょに悲しんでくれるもの。 ――あんな小さな子が! 彼は叫んだ。 ――あきらめる、というんだ。僕に、泣かないでくれって……。 ――人を救いたかったんだ。それだけなんだ。 ――雨の日がきらいだ。雪の日も。雪の日は。 すべてを消してくれるなら。悲しみを。 白く、どこまでも白く。決して溶けずに。 白い雪が。 ドクター・ステインはわずかに眉を寄せた。しかし映像は止まることなく、幾度も切り替わってはいくつもの場面を映し出す。思い出したくもない過去をあきれるほど正確に。 どのくらいそれが続いたろうか。 たった一人の男が、空を見上げて立っていた。だれかに似ている、とクレアは思った。そうだ、だれかに――彼はシドに似ていた。 ――ああ、この世界に。 彼はふっと微笑んだ。 ――おまえたちのいないこの世界に、私は一人では生きてゆけないよ。私の愛する子どもたち。おまえたちなしで、ひとりきりでは……生きていたくもないのだ。こんな世界で。 それきり、ぷつっと映像が途切れる。 いつのまにか広場も消え、そこに立っていたのは数人だけだった。クレア、マーフィ、ドクター・ステインとその助手。みな詩人と特に親しくしていた者たちだった。 「涙と悲しみが雪に溶けてるんだ」 この国でクレアが一番初めに好きになったあの透き通った声で、彼は言った。「そんなものはこの世界にいらない。だから雪になって降ってたのさ、世界の果てで」 「ヒュー!」 いつからか、目の前に詩人が立っていた。彼は四人を見ると、最近ではほとんど見られなくなった明るい笑顔を浮かべた。 「何だか、ずいぶん久しぶりな気がするなあ」と彼は言った。昨日会ったばかりだというのに、クレアにも同じように感じられた。ずいぶんと久しぶりだ。これほど迷いのない彼の顔を見るのは。 「ヒュー、さっきの映像はいったい……」 「あんまり時間がないんだ」 首を傾けるようにして、詩人はクレアの言葉をさえぎった。雪は降り続けているけれど、音はなく、その声はひどく大きく響いた。 「ドクター・ステイン」 呼びかけられて、ステインは目を細める。黙ったまま続きを待った。 「向こうに戻ったら、みんなのことを頼めるかい? たぶん、元の姿に戻ってしまうと思うけど」 「ああ」ステインは大きくうなずいた。「もちろんいいとも。記念館を作って展示しよう。一般公開して維持費は賄うことにするよ」 詩人は笑った。「よろしく」と彼は言い、ついでエレファン青年に視線を移す。 「ドクターの助手。あんたくらい悩みのない人間は珍しい。おいらはあんたを見てるといつもちょっとうれしかった。画家になりたいんだってね。叶うといいな」 エレファン青年は照れたように頭をかいて、「いやあまだまだ」と言った。ドクター・ステインは少々あきれたように彼を見る。 詩人は今度はクレアに目を向ける。「クレア」と彼は澄んだ声で名を呼んだ。なぜだかクレアは泣きたくなった。 「おいら、どうして夜があるんだろうってあんたに言ったね。あれの答え、何となくわかったような気がするよ」 そこで少し言葉を切り、手のひらを差し伸べて雪を受ける。彼は静かに笑った。 「それはきっと時が流れているから。太陽は留まっていないから。そして時が流れるのは、たぶんおいらがあんたたちと出会いたかったからなんだ」 クレアは首を振った。詩人が何を言っているのかわからなかった。ただ不安だった。彼の声があまりに透き通っているので。まるで手のひらで溶けてしまう雪のように。 「あんたといっしょに暮らしてたとき、おいら楽しかったなあ。ホントだよ。だれかがそばにいるってのはいいね。ひとりよりふたりのほうがさ」 心に沁みるような微笑みを浮かべると、詩人は最後にマーフィのほうを向いた。 「マーフィ。おいらの姉さん。おいらの力を君にあげるよ。人間になって小説家と生きるがいいよ。それが最後の贈り物さ」 「ヒュー」 マーフィが悲しげに彼を見つめる。「ヒューはどうしますの? ヒューが行かないのなら、私も行きませんわ。ずっといっしょにいますわ。ひとりになんてさせませんわ」 「駄目だよ」言いながら、彼は笑う。 「君は行かなきゃいけない。そしておいらはここにいる。そう決めたんだ」 「ヒュー!」 「ひとりじゃないよ」 彼ははっきりした声で言った。 「おいらはひとりじゃない。だから君は行くんだ」 雪が、ほんの少しひどくなる。詩人は雪空を見上げて目をつぶり、両手をいっぱいに広げた。 「おいらのつくった世界。きれいな世界。大好きだったよ。みんな大好きだった。きっとこれからもずっとね」 やがて目を開けた彼は、道化師のようにおどけた口調で言った。 「さあ、みなみな様方。いよいよ楽しい時間も終わりに近づいてまいりました。まもなく扉が閉まりますので、お早くご退場なさいますよう」 それから彼は、見たこともないほど優雅な動作で一礼する。 「では最後に、お別れの詩をば」 ――空を見上げてお嬢さん いったい何をお探しか するとくるりと振り向いて 「失くしたものを探しているの」 失くしものかい? こりゃまたたいへん 一緒に探してやろうじゃないか いいえ いいえとお嬢さん きっとあなたじゃ見つけられない これまたどうしておいらじゃ不足 お嬢さん悲しげに目を伏せて 「だって、何を失くしたか思い出せないんですもの!」 ああ それは困ったたいへんだ だけど考えてもごらんよ 忘れちまうものが大切かい? いっそ忘れたことも忘れちまいな さあ お手をどうぞお嬢さん おいらが連れていってあげよう 幸せの国へ だけどひとつだけよろしいか 時は流れてゆくってこと! 「ただいま」 編集者との打ち合せから戻ったクレアは、家の中に向かって呼びかけた。すぐに中から一人の少女が姿を見せる。 「まあ、お帰りなさい。どうでした?」 マーフィは、最近少し大人びてきたようだった。鈍いクレアですら時折はっとするほど美しく見えることがある。どうも近ごろは彼女といると変に緊張してしまい、彼は自分自身のこの感情に戸惑いを覚えていたが、ただ一つだけ確かなことがある。彼女の上にも確実に時は流れているのだ。 「ああ。いいと言われた。少し手直しして出版だ」 小説家デイヴィス・クレアは、少し前に童話作家に転向した。もともと作風が一定していなかったこともあってか、この転向はおおむね好意的に受け取られた。最近では、以前は考えられもしなかった低年齢の子供たちからもいくらか手紙をもらうようになり、それが彼には何よりうれしかった。 マーフィはにっこりと笑った。 「それはよかったですわね。ああ、そうですわ。ドクター・ステインから手紙が来てたんでしたわ」 思い出したように言って、テーブルの上に置いてあった封筒を差し出す。 「ドクター・ステイン?」 懐かしい名前に、クレアは目を丸くする。 「クリスマス・パーティの招待状ですわ。もちろん行くでしょう?」 さっと手紙に目を通し、クレアは思わず顔をほころばせた。ロンドンに帰ってきてから十ヵ月ばかり。その間一度も彼らには会っていない。とても懐かしい気がした。クレアはうなずいた。 「ああ。彼らのことだからきっと元気でやっているんだろうな」 「きっとそうですわ。エレファンさんは画家になれたかしら。――あら」 ふと言葉を止めて、マーフィは窓の外に視線をやった。近くに歩いていって、さっと窓を開ける。 ちらちらと、白い雪が舞っていた。 「まあ、雪ですわ」 今年で初めての。クレアも立ち上がって雪を眺める。彼は言った。「世界の終わりの景色だ」 「でも、きれいですわ。とても」 とても、白くて。 光でもなく、闇でもない。ただ一面の白。すべてを消してなお白く降りつもる雪。 世界の果てで雪が降る。 雪が世界を覆い尽くして、やがて声が聞こえてくる。どこか遠くから。 クレアは笑って、マーフィを抱きしめた。 |
| あとがき / ここまで読んでくださった皆さま、どうもありがとうございます。ふはははは(笑ってごまかす)。何というか「意味がわからん」という箇所がいくつもありますが、笑って無視してくださると至福の喜びです。キャラクターの名前は思いつくまま適当に決めましたので本場の方からすると「? 変な名前……」になっていると思いますが、それも一つ無視ということで……。 |